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「部室」板/3
86
:
キケテリア店長
:2012/06/19(火) 16:03:34 ID:???
うのはなさんに質問です。「日本精神って、なんですか?」
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65628098.html
争っていた者が仲よしになることほど嬉しいことはない。失われた一匹の羊が帰って来ることは亡われない九十九匹がそこにいるよりも嬉しいとイエスは言った。仲直りぐらいありがたいことはない、喜ばしいものはない。
争っていた者が仲直りをしたために、ただそれだけの簡単な出来事のために、医者で治らない病気が治った実例がたくさんある。『生命の實相』の巻頭に「汝ら天地一切のものと和解せよ」とある一句を忘れていて、病気が治らないとかこっている人はないか。
あらゆる心の持ち方が整っていても、和解ができていない人は、神の前に足りない人である。神は〝まこと〟である。〝まこと〟は円相である。〝まこと〟は〝○(まる)こと〟である。○(まる)は和解のしるしである。まんまるい、まんまるい、あのお月様のような心こそすべての病を治す心である。なんじの心の中の羊をしらべてみることが大切である。あなたを憎んで去った人はなかったか。誤解があったならば誤解を互いにほどくこと。憎んでいたならば赦すこと。恨んでいたならば恨みを解くこと。
心の思いと、物の負債とにかかわらず、借りものがあったら利息をつけて返すこと。神の前に出て、もう誰とも仲の悪い人はございません、争っている人はございません、すべての憎みと恨みとは完全に水に流しました。もう誰にも負債はありませんと、おおらかな気持で言いうるようになれない人は、まだ心に病のある人です。人の世に生活して、それほどの心になれる人は少ないにしても、それほどの心になれないかぎりわたしたちは神の前にいと小さき者である。もしわたしたちが神の前にいと小さき者であるならば、わたしたちは人を責める資格はない、人を怒る資格はない、人を恨む資格はない。わたしたちは人を赦すほかに仕方がないのである。
ただわたしたちが人を赦したときにのみ神に赦されるのである。ただ人と仲よしになったときにのみわたしたちは神と仲よしになることができるのである。仲よしになった時の愉快な心持を本当に知るものは、人と仲が悪くなれるものではない。人が人と仲よしになれないのは、幸福というものはただ「心が愉快である」ことだというかくも平明な真理に眼を閉ざしていて、幸福というものがなんら心の愉快にあるのではなく、物の多いということになると考えたり、虚栄、虚名が多いということにあると考えたりして、物と、虚栄、虚名を断じて放すまいとして傲然として構えているからである。
傲慢ということはかかる心持をいうのである。謙虚、〝へりくだり〟の心持は正直に事物をまともに見る心である。まちがっていたと気づいたら素直にあやまれる心である。放たねばならぬ物は素直に放つ心である。本来ありもせぬ栄えとか虚名とかを、〝あるか〟のごとく装おうとするから心が苦しむのである。隠しない心、正直の心は謙虚な心の一面である。無邪気につき合える人というのはこういう謙虚な心持の人である。相手が警戒心をもって近づいてきて、どうも親しくなれないのは、こちらに隔て心があるからである。隔てのない心。角のない心。仲のよい心。○(まる)い心。○(まる)はいっさいを包んでいる。隔てもなければ、角もない、実に実に仲のよい心が日の丸のこころである。
『生命の實相』38巻34頁より謹写
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