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「部室」板/3
1976
:
さくら
:2013/01/08(火) 10:13:29 ID:JxgOlbvQ
曽野綾子さんは、成熟した宗教観を持たれているところに共感でき、
過激に思える発言も、「覚悟」が感じられ、個人的には好感を持ちます。
だいぶまえですが、曽野綾子が、新聞のコラムか何かで「日本人の幼児化」について書いていたものがありました。
「平和は善人の間には生まれない、とあるカトリックの司祭が説教の時に語った。
しかし悪人の間には平和が可能だという。それは人間が自分の中に充分に悪の部分を認識した時だけ、謙虚にもなり、相手の心も読め、用心をし、簡単には怒らずとがめず、結果として辛うじて平和が保たれる、という図式になるからだろう。
つまり、そのような不純さの中で、初めて人間は幼児ではなく、真の大人になるのだが、日本人はそういう教育を全く行ってこなかったのである。」
生長の家では、人間の中に悪をみず「悪人」という表現しませんけど、
これはいわゆる「悪人正機」のことと同じことを言われていると思います。
親鸞の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」
の、「善人でさえ救われるんだから…」と同じような感じで、
「悪人の間には平和が可能」というのが、面白いな、と思いました。
いわゆる「自分こそ真の教えを分かっている」というような「善人」というのは、
自分の中の、いわゆる「影の部分」(悪)を理解しようとはしないので、
現象的に現れた悪と見えるものを「コントロール」することが出来ず、それを「虚説」と排除することで、自分を保とうとするのかもしれません。
いまの日本人は成熟した宗教的素養を育てるような教育がなされなくなったために、
カルトにはまる若者がいたり、新興宗教に出会って、「絶対真の教えはこれだけだ」と、舞い上がったことをいうのは、曽野綾子さんが指摘されるように未熟なことだと言わざるを得ないのかもしれません。
生長の家は、「すべての宗派の良き教えの真髄を説いたもの」ですから、本来は、他の考えを虚説と排するものでなく、他の教えの真髄に、理解を深められるものであるとおもいました。
唯神実相論というのは、人間の想定した現象の価値観を超える、智慧に満ちた教えだとおもいますので、真だの虚説だのをわけたものさえ、超えているとかんじています。
わたしも、宗教では、さまざまな失敗をしましたので、
いま、求めている人が正しく真理に出会ってほしいと、願っています。
成熟した信仰を育てることがたいせつであると、考えさせられました。
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