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「部室」板/3
1670
:
うのはな
:2012/10/19(金) 21:26:23 ID:JsVayk8A
人の心が道をつくる
道の種類には公道と私道がある。公道というのは普通に人が歩む公共の道であるが、
私道には程度の高いものと低いものの二種類があると思う。
ローマには尼寺から寺院に通じる地下道があり、私生児がその中で育てられた、という不思議な
話を聞いた。
これは私道の下等なものである。高尚な私道とは世間の人々が歩んでいる道の上にあるもので、
自己を修養した者が世間から離れて歩む道である。誰の歌であったか忘れたが、
武蔵野にあちらこちらに道あれど 我が行く道は神のまさみち
というのは、この高尚な私道を歌ったものであろう。
道というものは自然にあるものなのか。「人よく道を弘む、道人を弘むにあらず」
というように、天然自然に存在するものではないないのではないか。
道という字「辶(しんにゅう)」をつける。つまり首が走るところが道なのである。
人が踏んでいくところが道なのである。ニーチェの言葉どおり、山から山に達するもっとも近い道は
頂上と頂上を結ぶ道である。しかし人間の足は頂上から頂上に届くほど長くはないから、上ったり下ったり
迂回したりして道を作るのである。
鳥羽天皇の御製だったと思うが、
奥山のおどろがもとをふみわけて 道ある世ぞ人に知らせん
という歌がある。道は自然にできていない、自分が踏み分けて、初めて世の中に
道あることをしらせる、という意味であろう。
道は自然にできてはいない。ある起点と起点の間を人が足を入れて踏み固め、初めて道ができるのである。
さらに一歩進めていえば、道は人と共にあるものであり、各人がやっている行為が道なのである。
すなわち各々の心の内にあるものを、どこまでも踏んで行けば道になる。各々の心が至るところが道なのである。
言い換えれば、個人、周囲、社会に対し天地に対して正しいと思うことを行っていく、それが道というものであろう。
我は道であるといえば、遠近、広狭などすべてなくなって、心外無別道となるのではないか。
※ 心外無別法とはわれわれが認識するすべての現象は心から出たもので、別にそのものが実体的に存在するのではないという仏教用語
『武士道と修養』 新渡戸稲造 著
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