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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
715
:
うのはな
:2012/10/08(月) 16:45:51 ID:ZfE53iLM
『人間そのものの発見とその自覚』 谷口雅春 先生著 P103
現象に絶望して神に振り向く
谷口 絶望をつきつめて行った時に、はじめて悟りの方へ振り向くということは本当です。
それは生長の家に病人がなおして貰いに来るというのだって、やっぱりおんなじことです。
医者にかかってもなおらないし、民間療法をやってもなおらんし、どうしてもなおらんから、
絶望の極、救われたいと思って生長の家に来たりするのも、これは肉体の病気の方だけれども、
絶望感が契機となって神の方へ振り向くわけですね。
釈迦牟尼如来が悟りを開くんだって、やっぱり現実を直視して、そしてすべての人間は生まれて、
年老いて、病んで、死ななければならないという「絶望」をじっとみつめて、それを解決せんならんというので
真理の方へ振り向いて来たのです。
この絶望をつきつめて行ってはじめて本当の悟りの方へ振り向くというのは、結局こうなんですよ。
この現象界のものはみな悉く結局絶望するほかはない。現象界のものを追求してそれを掴んだと思っても、
最後までそれが幸福だとか、最後まで楽しいとかいうことは到底あり得ないことなんです。
その現実を本当につきつめて、現象というものはこれは悟りの第一歩になるわけなんです。
生長の家の教えが「現象なし」と説いているのは、現象に幸福を追求しても、結局それは不可能だという絶望の果てに、
この「現象なし」という心機一転の一喝が出て来たのですね。現象をありと見るままで、「神様がこの世界を拵えた」と
考えていると、「病気も戦争もみな神様がこしらえた」なんていうようなことになってしまう。
悪を造ったヘンテコな神様を肯定するということになるわけなんです。
結局、現象というものにことごとく絶望した時に、現象を否定し去って、自分のいのちの向き方がガラリと変わって、その時に
本当の光を仰ぐということになるのですよ。しかしその現象の悪をみつめて、ゆき詰りをじっとみつめて、向き方がかわることなしに
やっぱり同じ方向ばかりを向いとったら、いつまでも暗黒の淵をのぞいているようなものであって、そこからは光は出て来ないで、
ますます暗くなる。だからやっぱりいのち全体がくらりと一転して、光の方へ振り向くということが必要ですよ。
だから、その現象の暗黒をつきつめれば本当の光を発見出来るだろうと思って、わざとですね、酒を無理にのみ、煙草を無理にのみ、女遊びも
無理にして、というのは、その暗黒の淵の方へますます入って行って、到頭その泥沼から抜け出すことが出来なくなる。
だから暗黒が暗黒だとわかると、そこから振り向かなくちゃいかん。しかし、酒をのんだり、煙草をのんだり出来るのは、まだ本当に絶望感が出て来ないからなんでしょう。
そうしているうちに何とかなるかもしれんと思うのだね。本当に絶望する時には、きっと光の方へ振り向くということになるのですね。
だから結局、絶望感から出発して本当の神を把握する、その第一段階に至るということになるんですね。
だから無理に絶望の方ばかりをつきつめないで、出来るだけ早く光の方へ振り向いた方がかしこいし、早いですよ。
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