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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
661
:
「訊け」管理人
:2012/09/21(金) 16:34:18 ID:???
いやー、こんにちは皆さん。「訊け」管理人です。現在、ある人から叩かれて「完全意気消沈」している最中であります。
ただしこの、意気消沈なのですがなにか、非常に清清しい感じのものなのです。希望の芽を含んだ感じの消沈とも言えるでしょうか・・・いやーこの、「貴重な気づき」を忘れないためにも、ここに一文投稿致します。公開懺悔をさせて頂きますので、お付き合いくださいますと幸いであります。
さて今回、私はある大物の先生に、事業経営の件で相談をさせて頂いたのです。その「生長の家の大物の方」と電話で、お話しをさせて頂いたのですが今回この方から、私の生き方を否定されて終ったわけであります。さてこの「大物の先生」ですが――雅春先生からもご薫陶、お受けあそばされたこの方の御名前は「宮澤潔」先生になります。
しかしながら宮澤潔先生、やはり、素晴らしい方でございました。信仰薄き部外者言葉で評すれば同先生、「やはり、只者ではない」というものに、なりましょうか。・・・以下、やり取りの内容を記します。
<本当に「神として礼拝」しているか>
まず私の現在を、記す必要がありそうです。
私は最近、教化部の「祈りの間」を使用することがあります。ここを仕事場とさせて頂く許可を、得たのです。(部外者なのに、なぜか許可が下りたのでした)そして、考えに煮詰まった際などはここへPCを持ち込み、難しい案件を処理することがあったのです。
・・・・そうしましたらやり取り冒頭、宮澤先生は、私のこの行動を評してこう仰られました。
「それは、とんでもない話です。」
と。
「〝祈りの間〟とは、神様が降りてこられる場所です。」
と。
「そのあたりから問題があるのかもしれませんね。」
と・・・・
(なおこの「そのあたり」とは「そのあたりの意識」という意味だと解します。)
<さらに頂戴した言葉>
「祈りの間にPCを持ち込んで、仕事をしてはならない」そんな言葉に対して私は、こんな反論を試みたのでありました。趣旨としては「生長の家の神様とは、そんな偏狭な方なのでしょうか」と・・・・(今考えれば「アホ過ぎる」質問です)
そうしましたら宮澤先生からのご回答は、以下のようなものでありました。
○ たしかにその通りです。そこまで偏狭な神様ではございません。
○ どうしようもない人でも救ってくださる神、それが生長の家の神様であり、それは間違いではありません。
○ ですがそれは、初期の信徒に対しての話でありましょう。
○ 雅春先生もお優しい方でございました。ですが、ある段階の信徒さんに対しては「厳しい方」でございました。
○ 「祈りの間」とは、神様が降りてきてくださる場所であります。その認識は貴方にございましたか。
○ 神に全托すべきその場所で、PCを持ち込んで仕事をされるのはいかがなものでしょうか
○ 自分の事業を全て捨てて、神と一体になるべき場所ではございませんか。
○ 貴方くらい各種聖典を読まれておられるならば、もう、そのあたりへの配慮をすべき段階ではないでしょうか。
○ 「祈りの間」という、神聖な場所に現象を持ち込んで格闘するのは、神の救いを信じないことになりはしませんか。
○ 兎も角、神へ全托すべき場所です。その意識が紙一重なのだと考えます。
○ 本物の全托では、なさそうです。
(上記言葉は宮澤先生の「語気」、そのままではありません。あくまでも受け手の私が感じたものであり、発言そのものではございません。また、先生のご発言は趣旨に於いては異なっておりません)
<さらに続けて頂戴した言葉>
「はあ(嘆息)・・・宮澤先生、ありがとうございます。」「その通りだと思う次第です」と申したところ、ありがたくも宮澤先生は、私とのやり取りを続けてくださいました。その時賜ったお言葉とは、
(趣旨)
○ 神として扱うとはまさに「神として扱うこと」を意味します。
○ その辺で貴方は、もう、紙一重なのだと思われます。
○ (祈りの間で仕事をしても)神は、罪を与えるものではありません。ですが・・・
○ 聖典だって、ゴロ寝しながら読んではならぬものです。(註:訊けはたびたび、ゴロ寝しながら拝読する)
○ 本来各種聖典とは、身を浄め衣を正しそして「これから読ませて頂きます」と合掌してのちに、拝読するものです。
○ 雅春先生は神様の言葉を翻訳くださったわけです。神様の言葉が聖典となっているのです。
○ 正装せよ、とまでは申しませんがせめて、「読ませて頂きます」と合掌されてのちに拝読するものです。
○ ひとつひとつの御文章が、神様からのお言葉なのです。
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