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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

455金木犀:2012/05/27(日) 06:20:34 ID:.7TkztOk
上のつづき

 光圀の「嗚呼」という文字

 やがて足利氏が衰え戦乱の世となり、さらに、その戦乱も落ち着くころになると、「太平記読み」と呼ばれる人々があらわれる。そして、『太平記』、あるいはその末書の普及などにより、正成の生涯は広く国民に知られることとなり、名誉の回復がはじまる。

 もっとも当初は、「智謀の名将」としてのみ、その名は高かった。「戦上手」という観点からのみ、正成は称えられていたのである。林羅山の『楠正成伝』などは、このような観点からの評価を代表するものであるが、それのみでは、真に正成を理解したことにはなるまい。その高い精神性に着目してこそ、人ははじめて、正成という人物の真価を理解できるはずだからである。

 その意味で、寛文元(一六六一)年、安藤省庵が著した『三忠伝』は、先駆的な書物であった。省庵は、正成を「臣子の師範」として称えたのである。しかし、なぜ省庵は、そういう観点から、正成を評価することができたのであろうか?おそらく省庵には、個人的に交流をつづけていた明の遺臣・朱舜水と、正成のイメージが重なって見えたにちがいない。

 舜水は、明に生まれ、清に圧迫されて滅亡しつつあった祖国を回復するため、日本、安南などを往来し、援兵を率いて戦いつづけ、ついに力つきて日本に亡命した学者である。その境遇は、吉野の朝廷のために戦いつづけて果てた正成と、どこか似ている。このような”生き方”をしてきた舜水だからこそ、正成の高い精神性を身に沁みて感じることができたのであろうし、また、そういう舜水を眼前にして、日本の学者たちも正成の高い精神性を、より深く理解することができたのであろう。歴史とは、歴史を見る一人ひとりの「器」に応じてしか、その真の姿をあらわさない・・・、私は近ごろ、つくづくそう感じている。

 省庵は舜水を師と仰ぎ、貧窮生活の中、俸禄の半分を割いて送ったりしていたのであるが、やはり一介の柳川(立花)藩士の力には限度があった。そんな時、舜水を師の礼をもって自藩に招こうという藩主があらわれた。徳川光圀である。やがて光圀は、ながく荒れ果てていた正成の墓所を整備するという大事業に乗り出すことになる。

 元禄五(一六九三)年十二月、堂々たる墓碑が、湊川の地に建てられた。碑面には、光圀の字で「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫され、碑陰には、舜水の一文が刻まれた。これが今も湊川神社の「大楠公御墓所」に立つ正成の墓碑であることは、言うまでもない。時に、正成討死の年より数えて、三百五十七年目の冬のことであった。

 ここにおいて「楠公精神」の歴史は、確かな画期を迎える。明治から昭和にかけて活躍した大ジャーナリスト・徳富蘇峰は、そのことを、こう記している。

 「この『嗚呼』という二字が、いかに意味深長を後代に与えたるかは、光圀自身といえども、恐らくはその想像のよく及ぶところではなかったであろう」(『近世日本国民史』)。なるほど、以後の日本の思想史に、この建碑事業が及ぼした影響の大きさは、いくら強調しても、しすぎることはあるまい。


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