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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

454金木犀:2012/05/27(日) 06:19:36 ID:.7TkztOk
よみがえる、楠公精神  (松浦光修先生のコラムより)

       湊川神社発行『湊川』 (平成18年12月)

 敵も味方も・・・

 延元元(建武三・一三三六)年五月二十五日、楠木正成が「七生報国」を誓って、湊川で壮絶な討死をとげたことは、ここにあらためて言うまでもない。この時、味方であった南朝方が、その死を惜しんだことは当然であるが、じつは敵であった北朝方の人々も、その死を惜しんでやまなかったのである。北朝方の史書である『梅松論』は、正成の討死を評して、こう記している。「まことに賢才武略の勇士とも、かよう者をや申すべきとて、敵も味方も、おしまぬ人ぞなかりける」。

 たとえ敵であろうと、見事な戦いぶりを示した相手に対しては、「敵ながら天晴れ」と称えるのが武士道である・・・とはいえ、この称えようは尋常ではない。ここからも、正成を直接知る当時の人々が、それこそ「敵も味方も」、どれほどその人物を高く評価していたか、ということを知ることができよう。

 しかしながら、足利氏の天下が長くつづき、干支が二周りもするころになると、むろん生前のの面影を記憶する人とてなく、正成の評価は地に堕ちてしまう。室町時代中期の東福寺の僧・大極は、その『碧山日録』に、こんなことを記している。「楠木氏は昔、天下兵馬の権を領して、幾万人もの人々を殺してきたが、その大半は無実の民衆であった。滅びた後も、その子孫は官憲にとらえられ、みな処刑されている。それも悪行を積み重ねた報いでああろう。悲しいことである」。根拠薄弱な「民衆虐殺」という濡れ衣を着せ、その「罪」を糾弾するところなど、なにやら大東亜戦争後の「反日思想」の人々髣髴とさせるものがある。


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