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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2617
:
アクエリアン
:2015/07/11(土) 10:38:21 ID:bXmMWTIs
>>2615
解説もなにも、広岡氏論文を素直に読めば学べるところが多くあると思いますが。
「 かやうにして戦後の一時期、雅春先生は「聖戦」を否定し、「皇軍」を否定されるやうになった。冒頭に引用した「大東亜戦争が真に聖戦であったとか、神がはじめた戦争であったとか本当に正しい戦争であったとかいうことは生長の家の教には書いてないのであります」の一文を収めた『我ら日本人として』は昭和三十三年二月初版刊行、右『秘められたる神示』は昭和三十六年十一月初版刊行であるから、終戦直前から少なくともこの頃までの雅春先生は、さういふお考へであつたと見なさねばならない。
けれども、よく考へてみると「迷ひの軍隊」として現象に現れた日本軍は、実相界の秩序たる「皇軍」と同じではないと神示は指摘しているだけで、「聖戦」については何も語つてゐない。「現象」の顕れとしての日本車が「皇軍」の理想に相応しくなかつたからといって、「実相」としての「聖戦」の理想までが否定される謂れはない。
それかあらぬか、昭和四十二年三月初版刊行の前掲『日本を築くもの』になると、以前とは余程趣が異なってくる。ここでの雅春先生は、「現象」としての「日本軍の腐敗」に囚はれて「聖戦」を全否定する立場から、「聖戦の理想」を再び肯定せんとする立場に移行しつつあることが、明らかに認められるのである。
冒頭に紹介した『碧巌録解釈』は、かうした思想営為の後に辿り着いた、雅春先生の思想的総決算の書なのである。既に見た通り、そこでは「聖戦」を肯定された戦時中の御文章を一語も削ることなく、更に次のやうに書き加へられたのであった。
「摂理としてあらはれた地上天国実現の聖戦が、彼の大東亜戦争であった」
(『碧巌録解釈』前篇、二一一頁)。 」
結局のところ、「生長の家法統継承者」を自認されている現総裁に問われていることは、雅春先生の思想的総決算の書『碧巌録解釈』の大東亜戦争評価、
「摂理としてあらはれた地上天国実現の聖戦が、彼の大東亜戦争であった」
という評価を受け入れることができるのか、できないのか、
それに違和感を感じるのであれば、「生長の家法統継承者」の地位は、他のふさわしい方に譲るべきではないでしょうか。
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