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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2
2275
:
トキ
:2014/07/25(金) 20:07:08 ID:cXqqwViw
「死ねば極楽へ行ける」
このコトバを私は最初に人から聴いたとき、現世否定の、後生のみを肯定
する言葉であると思えて、そう云う信仰は本当ではないと思ったりいたしました。
現世の今此処に極楽が成就しなければならない。現世の今此処に極楽があるの
である。今が、此処が手段の生活であってはならない。娑婆即寂光土と云う言葉
があるが、その寂光と云う寂寥の感じの言葉は嫌いであるが、娑婆即極楽、此処
が極楽でなければならないと思えるのでありました。
ところが、その同じ文句の「死ねば極楽へ行ける」と云う言葉を最近ある書物
で見出したときに、そうだそれに違いない。死ななければ極楽へ行けないと云う
感じがピッタリと私に来たのです。
先に私は「死ぬ」と云う言葉を「肉体の無くなること」だと解釈していたので
るけども、肉体が無くなっても、妄念執着が消えていない霊魂は「死にきってい
ない」のであって、こうした種類の人は「死んだ」と云うことは出来ないのであ
る。だから、こうした人たちは「死んでいない」のであるから極楽へ行くことは
出来ないのである。
そうすると、肉体が有れども、無くとも、そんなことに頓着なく、「死んでい
ない」人は極楽に行けない、「死ねば極楽に行ける」と云うことは真実だと、
生長の家を創める頃になってからわかった次第である。
「死ねば極楽へ行ける」と云う場合の「死ぬ」と云うのは「偽我を死に切る」
ことである。自分の欲張る心を死に切らねばならないし、自分の利己的心を死に
切らねば本当の極楽浄土は出現しないのである。
「親鸞の本心」 谷口雅春先生著、279p より謹写
*トキの感想
昭和20年代の後半、浄土真宗が教団をあげて生長の家を攻撃した時期がありました。
この時に、谷口雅春先生は神誌にこの件について浄土真宗の人達に説明をする文章を
書かれて、それが後年、「親鸞の本心」としてまとめられました。
暁烏敏さんが「嘆異抄」を紹介したため、部内で激しい論争が起きたように、谷口雅春先生
も「嘆異抄」を引用され、伝統的な浄土真宗の解釈とは違う解釈を展開されたので、こういう
議論になったみたいです。
個人的には、現代に生きる人間にとって、谷口雅春先生の解釈のほうが説得力を感じると思えます。
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