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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

168八咫烏:2012/04/08(日) 11:28:23 ID:Uh6fUAok
役行者様

わたしが役行者様の言葉を誤解していたようです。あなたは実相の総裁先生の
主張に賛同なされているのでしょう。「手段を大切にし、言葉を本質に結びつけること」自体は
そのままの言葉の意味としては、私も賛成です。

しかし、私は、現総裁先生が、手段を大切にし、言葉を本質に結びつけておられるとは、
思いません。
私も最近本流掲示板を読み、さらに『学ぶ誌』を読むと、
九州総本山を聖地ではないと言われたという話が
話題になっていました。
聖地という言葉を否定し、さらには聖典も、必ずしも完全に真理を表すものではないと、
言葉だけでは誤解を招き、聖典を絶対視することは危険であると言われたと聞きます。
今では聖典をテキストにしようとしたりすると、
原理主義者の烙印を押されるとも聞きます。
そうして、ご自分の言葉が今の現代に合う時代性を加味した
正しい言葉であるかにおっしゃっていると聞きました。

その総裁先生の言動に役行者様は賛同されているのだと思いました。
確かに言葉が独り歩きすることは危険であり、よくないとは思います。
しかし、神、聖典、聖経という言葉が本質と離れて使われている例が思い浮かびません。
神という言葉は、あるいは不用意に、神のみ心だと、そうでもないことを押し付ける時に
使われるかも知れません。しかし、聖典聖経が、
本質を離れて使われることがあるのでしょうか。
それは、雅春先生の書かれたものは、聖典ではない、聖経ではない
と言っているのと同じではないでしょうか。
また、総裁先生がよく仰る原理主義者という言葉こそ、言葉が独り歩きして、
言葉が本質と離れた例ではないでしょうか。

そのように私は解釈したのです。総裁先生が、手段を大切になさったという例も
私はよく存じませんし、どのように大切になさったのか、例を挙げてくだされば、
あるいは納得できるかも知れません。


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