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「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板/2

1259a hope:2013/09/29(日) 10:20:53 ID:dyDQLtZQ

「悟り」の意味  島田明徳先生著 (地湧社 1992年初版発行)より

この世はすべて偽りの世界?(p39~)

仏教やヨガでは、この世(生活の場=相対界)のことを、「妄想(偽り)の世界」とか「マーヤ(幻)」と呼んでいます。
この世のことを何ゆえに「妄想」とか「マーヤ」と呼ぶのでしょう?
それは、あなたにとって真実としか思えないこの生活の場が、実は観念の世界であり、真理から見れば偽りの世界でしかないからです。

と言っても、相対界しか知らない人にとっては、このことを認めるのは抵抗があることでしょう。
しかし、この世で起こっているでき事については正しく理解しなければなりません。
「生活の場には真理がない」ということを正味知ることは、「悟り」に向かう上でどうしても必要なことなのです。

さて、「生活の場には真理がない」ということを理解するには、「事実」と『真実』の違いについて知る必要があるでしょう。
多くの人は、この「事実」と『真実』という言葉を同じような意味の言葉としてとらえています。しかし、「事実」と『真実』は大きく違います。

「事実」とは、この相対界でとらえた=認識された客観的な現象のことです。
相対界においては、あらゆるでき事はすべて客観的な現象としてとらえられます。
そして、その現象をどのように認識するかは受け取り手しだいです。
このように、「事実」とは、あくまでこの相対界に起こる客観的な現象であり、
その「現象」は常に受け取り手の観念に色づけられて、『真実』から遠ざかります。

『真実』とは、相対界におこる現象のように観念で色づけされる以前の、その現象の背後にある(原因となる)働き(法則=意図)そのものを言います。
それは、相対的なものではなく絶対的なものであるゆえ、「すべてに共通で不変」なものです。

この「事実」と『真実』の関係についても、例を用いて説明してみましょう。


ここに水の入ったコップがあります。このコップの水があることは「事実」です。このコップの水を二人の人が見ます。この二人は、コップの水という「事実」をどのように感じる(認識する)でしょう。
 見る角度が少しでも違えば、コップの水が違って感じられるのは当然です。(位置の違いを生じているのですから)。しかし、まったく同じ位置から見たとしても(客観的にはまったく同じ状態をつくっても)、一人は喉が渇いていて「旨そうな水だな」と思うでしょうし、もう一人が寒気を感じていれば「冷たそうな水だな」と思うでしょう。コップの水という「事実」を見ても、それをどう感じるかは、その受け取り手つまり主観によって決まるのです。コップの水という「事実」は厳然としてありますが、コップに入った水を見てどのように感じる(認識する)かは、身体的、心理的の状態の違いによって、たとえ同じ人であっても変わってしまいます。

 「事実」はあっても、その「事実」が客観的現象であるかぎり、その「事実」は『真実』にはなりえません。
主体である自分が客体である「事実」を認識する以上、すべてに共通で不変のものはありえないのです。
つまり、この世における神羅万象を客観的にとらえているかぎり、『真実』を知ることはできないということです。

 『真実』は「宇宙(すべて)と一体である自分」を体得して、すべての現象(「事実」)を客観的にではなく、主観的にとらえることができてはじめて認識されるのです。
すべての客観が主体と同一化することで、『真実』はその姿を顕すのです。

 この「事実」と『真実』の違いを知ることで、「生活の場」(相対界)には、「事実」はあっても『真実』はないことが理解できると思います。
(前半謹写終わり つづく)


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