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トーキングスティックボード

268復興G:2011/10/02(日) 22:55:45 ID:yhDBe2kY

>a hope さま
>役行者様

>262
 きのう、『訊け』ブログで、雅春先生の「久遠の今」の講話や、榎本先生の講話聴いていたら、なんか、「喜べ」「喜べ」「神のために喜べ」って言われているようで、今日一日中、訳も分からず、Happy でした!

 最高! よかったですね。

 私は、今日は朝から一日茨城教区の講習会受講のため、メイン会場であるつくば市の国際会議場へ行ってきました。(県西の古河市と県北の十王町にもサブ会場が設けられていました)
 すばらしい神の愛に満ちた雰囲気の講習会で、なんだか訳も分からず感動してしまいました。
 総裁先生のご講話もいつになく──などといっては失礼ですが、力強く話され、体験談もすばらしかったし、教区の幹部・信徒の皆さんが一所懸命に無我の愛を実践し準備してこられたことが感じられました。朝はつくば駅から会場まで徒歩約20分、高架のところもありますが歩行者専用の大きな道が通じています。その道は少し紅葉がかった緑の街路樹のトンネルの下に敷石が敷き詰められている、かなり長い道を歩いて行くのですが、途中の要所要所にぴったり、必要と思われるところに生長の家の旗を持った係の人がにこやかな笑顔で出迎え、案内に立っていてくださる。往年の愛とよろこびに満ちた生長の家が甦ってきたような、うれしい気持ちになりました。
 一部の教区で見られたような、午後になると受講者が半減してしまうというようなこともなく、最後までほとんど変わらないような感じでした。

 夜は、あるお祝い事の食事会をして、只今帰ってまいりました。

 そうしてこのボードを開き、今、a hopeさま、役行者様のうれしい言葉を拝見して、またうれしい気持ちを確かめています。

 スター・デーリーは、ライファーのことを評して
 「彼自身が伝道の言葉なのである。彼は何を知っているかの故に大勢の人々を救い得るのではなく、彼は如何にあるかによって多勢の人々を救い得るのである」と言っています。私もそうありたいと思います。
 「光が行く」「喜びが行く」という愛行、伝道に日々励みたい!

269「訊け」管理人:2011/10/03(月) 07:47:17 ID:D0Kb5yw.
>a hope さま

 動画の評判が上々です。雅春先生や榎本先生も喜んでおられることでしょう。
ということで新らしい動画をアップ致しました。ぜひご高覧ください。

●「質問に答えて」榎本恵吾先生御講話
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65594274.html

>伝統さま

 また本流掲示板の「榎本恵吾記念館」スレ、上記を投稿されて、上位掲載
してくいやんせ(笑)もう、不調和な話題ばかりでヘキヘキしてますが、貴殿
ご投稿文章だけは、拝読しております。ホントいつも、勉強させて頂いております。

270さくら:2011/10/03(月) 07:58:30 ID:T/77sMGw
a hopeさま
復興Gさま
役行者さま

おはようございます。
いろいろ気付きを与えていただき、ありがとうございます。
割り込んですみません、想いついたこと、つらつら書くことを
お許しくださいませ。


a hopeさま

あなたの純粋な姿勢に、いつも感動をもらっています、ありがとうございます。
ぽつぽつと感じることで、失礼します。

新約聖書の「コリント人への手紙 第一」の13章に、「愛の章」と呼ばれる一節があります。

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、私は、やかましい鐘や騒がしいにょうはちと同じである。たといまた、わたしに預言する力があり、ありとあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちもっとも大いなるものは、愛である。」

やたら、love、loveと、連呼されるこの章を初めて読んだ時、私もグッと来てしまい、その後も、何かの折に触れて自分の実感としても感じるようになり、時々思い返す言葉の一つになりました。
(・・ひとつ屋根の下、ってドラマの、「そこに愛はあるのか〜」、ってセリフをなんとなく思い出しました。・・俗な話ですみません、)


生長の家の素晴らしいと思うことの一つ、
人間はすでに救われ済みである、という真実を説いてくださっていること、
人間は、救えるのか、救われるのか、ではなく、
すでに救われずみ、という教えに、私は初めて触れた時、とてつもない、深い愛を感じました。
伝道の基本的な心の姿勢も、そのようなことを、私自身は思っていたな、と思います。
人を救おう、とか、人を救えるのか、ではなくて、
すでに救われずみの命に、私は神の子としてどのように愛を与えるのか、私ならどのようにあなたを同じ、神の子だと、心から思っているよ、と伝えてあげられるのか・・
言葉にすると、そのような思いのようです。

愛を与えられれば人は心を開くし、信頼もできる。信頼すれば、話も聞きたくなるし、その人が言っているなら、信じられることが大きい。
a hopeさまが、生長の家の教えで感動したことや、実感したことなど、普段実行されていることなど、そのままの心で素直に、御縁ある方にお話すれば、きっとa hopeさまのそのまま輝く姿を見て、周りの方の心に伝わるものがあるのではないかと、そんな風にも考えます。
・・そう、御縁ってありますよね、自分が救う人を選ぶわけではないですしね。

最近の自分のことだと、ある友達に生長の家だと話していましたが、宗教に別に興味がない子いました。だから、私も特別話をしませんでしたが、その友達はもともと神経が敏感で、すぐ人の悪い雰囲気を受けやすかったりしていて、ある時、人間関係に疲れ悩んでいました。
悩みを聞いたり考え方を変えることなど話していましたが、なんとなくふと、その子になら、生長の家の先祖供養のことを話してみよう、という気になって教えると、とても興味を持ってくれました。本を上げたり話をしていくうちに、自分で実行してくれるようになり、自分の気持ちが明るくなったことを話してくれるようになって、うれしかったです。生長の家の本も読んで興味を持って話してくれるようになりました。それまで、自分が先祖供養のことを伝えようとは思ってなかったので、その子とのご縁があって、導いて頂いたんだな、と感じます。
(カルトの信徒さんであっても、力まず、やんわりやんわり、ご縁でお伝えできればよいですものね、笑。)

271さくら:2011/10/03(月) 07:59:02 ID:T/77sMGw
また、聖書に、「いと小さき者のひとりに為したるは、すなわち我のためになしたるなり」というイエスの言葉がありますが、愛は、本当にだいそれたことばかりではないということも学びます。

ある時、私はボランティアをしていて、その作業にひどく没頭したことがありました。愛の問題についても分からないことが多く、悩みもあった時期ですが、その時、全部忘れて無我夢中になって、無心になってたんですね。
ふと気がつくと、周りの人が、「ありがとう」とか、私がしたとは思わない人も「たすかった〜」とか言ってるのを、見ました。
そしたら、その人たちが、大変愛おしい感覚
になって包み込みたいような、私の心の中では、世界がポンと広がって、すべてが輝いて美しく見えるような・・そんな感覚があったのですね。私の方が限りない感謝の思いに満たされていました。
神様の愛は、自分がしてやった、というような主張もなく、さりげなく、でもただ喜びのために全てを与え、全てに行き届いていて、矛盾もなく平等で、それに本当に大きすぎて普段気がつかないほどだったんだな、とその時思ったのもおぼえています。

オスカーワイルドは、耽美派の芸術家で、放蕩の限りを尽くして牢獄に入るのですが、
その牢獄の中で、ある老人に、なんとはなしに与えた小さな愛の行いによって、自分の中の「キリスト意識」に出会い、自分が求めていた本当の美とは、このキリスト意識にあったことを悟り、敬虔なクリスチャンに生まれ変わるのですね。
それで生まれたのが「幸福の王子」なんですが、オスカーワイルドらしいシニカルな風刺も効いた、素敵な愛の物語ですね。
(昔読んだときは、王子よりこのつばめの方に感情移入していました。今もかな・・?)
本当に些細だけれど、私にとっては、大変愛おしい自分の経験から、そのことを思い出していました。

これについて、お世話になった講師に話すと、トルストイの「愛あるところに神あり」という話を、話してくれました。これは、「靴屋のマルティン」という題名でも知られている、美しい話ですね。雑な解説は、以下です。
息子を亡くして、神にも絶望した靴屋のマルティンが、神から「往来を見ていなさい、私が明日、会いに行く」というような言葉を聞いて、待っていると、その日、貧しい人や困っている人が、どうしても気になってマルティンは思わず知れず助けています。
それで、一日の最後に、神と出会ったかと自問して、マルティンが気づくのは、その貧しく困っている人の姿こそ、神の姿で、自分の心にキリストがいたということ、だったようです。(雑ですみません、本当は美しい物語、もしまだであれば、本でどうぞ。)

そんな私のちいさな経験から、この美しい物語をお話し下さって心を見つめてくださった講師の先生の、これまた美しい心を、私は有り難いな〜と思いました。
だからこそ私には、心の温かくなる良い思い出として残ることになりました。

すでに神の子である者が、すでに救われている神の子に愛を与える。生長の家の愛行でもそんなことを思っていたので、それに通じるものがあると思いました。
それは大それた行いや言葉でなくても、自分の普段の思いが通じるものがあればいいと思っています。
a hopeさまの純粋な信仰への思いや、愛の深さは、必ず、ご家族や周りの方に、神の愛を知らせることになり、良い影響をたくさんお与えになると、思います。


またまた手前勝手なことを、つらつら書きました。
読んで下さり、ありがとうございます。
それでは、また。合掌。

272さくら:2011/10/03(月) 23:27:06 ID:T/77sMGw
復興G様

茨城教区の講習会は、聞いたところでは、受講者が去年より、300名〜くらい
増えたみたいですね。

やはり運営のみなさまの雰囲気も、素晴らしかったのですね。

素晴らしい…ありがとうございます。拝

273a hope:2011/10/04(火) 00:09:42 ID:MNrNIsM2
復興Gさま

昨日は、生長の家の講習会に行っていらしたんですね。
>すばらしい神の愛に満ちた雰囲気の講習会で、なんだか訳も分からず感動してしまいました。<

わたしは、講習会というのには一度も行ったことがありませんが、
復興Gさまがそのように感動するのなら、本当にすばらしい講習会だったのでしょうね。

>一部の教区で見られたような、午後になると受講者が半減してしまうというようなこともなく、最後までほとんど変わらないような感じでした。<

それを聞いて、なぜかわたしは、ホッとしてしまいました(笑)。
きっと参加された方々も、同じように感動されたのだと思います。
さくらさまが、受講者も去年より増えたとおっしゃってますね。
本当によかったですね。

今回の、わたしのトーキングでは、復興Gさまからはたくさんのことを教えていただきました。
わたしは生長の家の教えが大好きですが、教団もやめて、一人で勉強しています。
でも、独学というのは、モチベーションを維持するのが難しいですし、
自分が正しい理解をしているかも確認できません。

今回、この掲示板で『愛』と『伝道』について、みなさまからいろいろ意見をうかがいながら、
勉強できたことは、わたしにとってはたくさんの学びと気付きがあり、大切な心の宝となりました。

本当にこのようなことが、インターネットでできてしまうということが、いまだに信じられません。

>スター・デーリーは、ライファーのことを評して
 「彼自身が伝道の言葉なのである。彼は何を知っているかの故に大勢の人々を救い得るのではなく、
彼は如何にあるかによって多勢の人々を救い得るのである」と言っています。私もそうありたいと思います。
 「光が行く」「喜びが行く」という愛行、伝道に日々励みたい!<

伝道とは、「自分自身が光となって、喜びとなって、まわりによい影響を与えて行くこと」とも、表現できますね!

この掲示板は、生長の家とわたしをつなげる大切な場所です。

これからも、たくさんのことを勉強させていただくつもりですので、どうぞよろしくお願いいたします。

274a hope:2011/10/04(火) 00:13:20 ID:MNrNIsM2

「訊け」管理人さま

前にも言いましたが、わたしは「訊け」ブログの大ファンで、少し不思議な方ですが、
あなたさまのことは心から尊敬させていただいております。

今回、雅春先生や、榎本恵吾先生の動画を紹介していただき、
わたしはそれを拝見していて、大きな気づきがありました。
いくら感謝しても足りないくらいです。

こちらでのあなたさまの活躍も楽しみにしています。
これかも、どうぞ、よろしくお願いいたします。

275a hope:2011/10/04(火) 00:21:48 ID:MNrNIsM2

さくらさま

新約聖書の「コリント人への手紙 第一」の13章に、「愛の章」の一節 素晴らしいですね。

>愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。<

わたしは、今まで一度も読んだことのない聖書を一冊持っていたので、さっそく開いて見てみました。
言い回しは少し違いますが、同じ内容のことが書いてあり、なぜか、とても感動しています。

きっと、さくらさまにこのような形で教えていただかなかったら、
これからも一度も開くことのなかった聖書かも知れません。
そう思うと、さくらさまへの感謝の気持ちがあふれてきます。

>愛を与えられれば人は心を開くし、信頼もできる。信頼すれば、話も聞きたくなるし、その人が言っているなら、信じられることが大きい。<
ライファーもデーリーに
>まず『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ<
と言っていますよね。
>ある時、私はボランティアをしていて、その作業にひどく没頭したことがありました。愛の問題についても分からないことが多く、悩みもあった時期ですが、その時、全部忘れて無我夢中になって、無心になってたんですね。
ふと気がつくと、周りの人が、「ありがとう」とか、私がしたとは思わない人も「たすかった〜」とか言ってるのを、見ました。
そしたら、その人たちが、大変愛おしい感覚
になって包み込みたいような、私の心の中では、世界がポンと広がって、すべてが輝いて美しく見えるような・・そんな感覚があったのですね。私の方が限りない感謝の思いに満たされていました。
神様の愛は、自分がしてやった、というような主張もなく、さりげなく、でもただ喜びのために全てを与え、全てに行き届いていて、矛盾もなく平等で、それに本当に大きすぎて普段気がつかないほどだったんだな、とその時思ったのもおぼえています。<

ここのところ、すごくよくわかります。

わたしも、以前ボランティアで、あることをしていたことがありますが、
「ありがとう。」「ほんとに楽しかった。」とか「元気になりました。」といわれるたびに、
自分が、ありがたくて、うれしくて、元気になっていましたから...
させていただけることに感謝の気持ちがわいてくるんですよね。

本当に、さくらさまと話していると共感することが多くて、キリがないですね!

この続きは、また今度、女子会板でさせていただきますね。

276a hope:2011/10/04(火) 00:41:48 ID:MNrNIsM2

トキさま

今回のトーキングステックでは、トキさまにもたくさんのことを教えていただき、
大変勉強になりました。

わたしは、トキさまは優しくて、頼りがいのあるとても素敵な方だと思い、
いつも尊敬させていただいております。

トキさまのおかげで、わたしはここでこうしてお勉強させていただけるのです。

本当に、この掲示板は、素晴らしいです!

トーキングステックはお返しいたしますが、女子会板などで、
これからも、思うことを素直に書き込みさせていただきますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

277さくら:2011/10/04(火) 06:21:27 ID:T/77sMGw
愛と共感の女神 a hopeさま

いつも、ありがとうございます!

>この続きは、また今度、女子会板でさせていただきますね。

私も女子版で、また好き勝手語りたい…
ここに、女子版作って下さったこと、トキ様に感謝してます。合掌。

278トキ:2011/10/05(水) 11:39:00 ID:cjNjb78g
>>276

 素晴らしいご文章、ありがとうございました。では、いったん、トークキングストックを受け取ります。
a hope様へ御質問など、ある方はご投稿をこちらへお願いします。なければ、次の方を募集します。

279トキ:2011/10/05(水) 22:33:01 ID:cjNjb78g
 えー、どうでしょうか? どなたか御質問などはありませんでしょうか?
では、次の方を募集したいと思います。

 自薦他薦を問いません。皆様、宜しくお願いします。

281さくら:2011/10/15(土) 07:33:49 ID:T/77sMGw
トキ様

おはようございます。
いつもお世話になっています。

こちら、今だ空いてますね。

どなたか表れるまででも、地味にお借りしようかと、お邪魔してみました。

宗教の教えと組織運動における展開について、漠然とした疑問点がありますが、
正直言うと、自分の考えはまとまってないです。
でもこれも勉強しながらということで、とりあえず、大きな胸をお借りする気持ちで、お邪魔してみました。

今までの生長の家の運動の歴史については、トキ様のご文章などを読ませて頂いて、大まかな概要の把握はしているつもりですが、
細かな運動の是非を判断する、ということではありません。

ただ、生長の家の教えの展開としての運動は、何を実現してきたのか、これから何を実現しようとしているのか・・漠然としてますし、根本的な部分ですけれど、疑問が湧きます。実際運動の先輩がたくさんいらっしゃいますし、色々書いてあることも私なりに読ませていたいるのですが、考えをまとめる意味ということで、ここをちょっとお借りしたいと思いました。

ぼちぼちしか書けないと思いますし、色々知識不足なので助けて頂くことも多くなると思いますし、

もし許可を頂ければ、
よろしくお願いいたします。

さくら 拝

282トキ:2011/10/15(土) 09:32:02 ID:sGbCE82o
>>281

さくら 様

 本当ですか! もちろん、大歓迎です。ぜひ、お願いしたいです。

管理人 敬白

283志恩:2011/10/15(土) 12:45:10 ID:psrFh/ZU
スナフキン君もそうですが、さくらちゃん、戻って来てくれて、ほんとによかった。!
難しい言葉と言葉とのキャッチボールも出来る賢い女性。頼りにしてます。

男性軍は、いうまでもないけれど、
ママ、さくらちゃん、うのはなさん、a hopeさんの女性軍も、賢い。
若手の皆様のお話伺えて、勉強になります。

284さくら:2011/10/15(土) 13:59:13 ID:Jwt1IgIQ
トキ様

許可頂きありがとうございます。
トキ様には、お世話になるつもりでいます…すみません、よろしくお願いいたしますmm


ありがとうございます、
伊勢谷 志恩さま、…あ、間違えてすみません、
志恩さま。

ちょっとずつ、ですが、どうぞ、色々教えて下さい、お世話になります。

285a hope:2011/10/16(日) 05:44:31 ID:MNrNIsM2

さくらさま

トーキングスティックを持たれたのですね!

「宗教の教えと組織運動における展開について」

とても良いテーマだと思います。

わたしがそうでしたが、みなさんのご意見をうかがいながら、
さくらさまのペースでお話されたら自然に考えがまとまってくると思います。


さくらさまのトーキング楽しみです。
わたしもいっしょに考えさせていただきますね!

286さくら:2011/10/17(月) 09:54:26 ID:T/77sMGw
A hopeさま

愛と共感の女神a hopeさまのお言葉、心強いです。
理解が半端なので、皆さまのお力が必要です、
ともに、学ばせて頂ければ、うれしいです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

287さくら:2011/10/17(月) 10:01:29 ID:T/77sMGw
合掌。
さくらと申します。生長の家の今の組織の、末端信者です。
以前はお役も拝命していて、一途な活動をしようと思っていたこともありました。
正直、今は、今の教えというより、組織自体にいろいろ疑問がありそのようなか関わりはやめております。
そういう立場で、こちらの場所をお借りすることにいたしました。お願いします。

今回、生長の家の教えが、組織を展開して何を実現しようとしているか、実際どのようなことが実現されていったかということを、今の方針の展開も含めて確認させて頂きたいように思いました。

漠然とした疑問だったのですが、初心者さまが今回、対話を通して導こうとしている考案にも繋がるような気がして、組織として果たして実現可能なこととは何かを、整理したい気持ちになりました。
それにしても、経験とか知識不足なゆえに疑問だけは大きくなっている状況ですので、色々まとまりがなくて、その点は、お許しください。
それで思いつくまま書いてしまいますが、少しづつお相手してくれる方でもあれば、見えてくるものがあれば良いと思っている次第です。


さて、生長の家の組織は、「地上天国実現のための実際運動を起こす」ことが出発点であると思いますが。「地上天国実現」ということがどういうことかといえば、七つの光明宣言に示されている「正しき人生観」「正しき生活法」「正しき教育」により、人生苦を克服することによってある、とあります。これは、あらゆる分野において個人体験談があり、実現性が証明されているところと思います。

初心者さまが、「救い」の現象、について、命題を与えておられましたが、切り込んだ視点だと、興味深かったです。
生長の家の奇跡と呼ばれるような体験は、言葉に縛られて生きるしかない人間の意識の中の出来事でしかないのか、それともやはり、不完全な現象を否定した時「実相」が現れたのか(「実相」が現れるとは何か、このことも考慮の余地を感じるようになりました。)それは、救いの霊波をうけた霊的な癒しとして現れるのか、
また、他の点では今の生長の家で、体験が出ないとか奇跡が起きないとか言われるのはなぜなのか、それが雅宣総裁や今の教えの責任なのか、・・とか。

しかし、本当のところは、救いがあった後何をするのか、が、実際の問題だと思います。
それを、組織運動に参加する、ということに繋げているようなところがありますが、実際のところ、このことを疑問に思っているものがあります。
理想的な意味では、素晴らしい教えに救われ実践する人を増やしていくことが「地上天国」を実現させること、になると思いますが、それは、組織の運動に参加して人数を増やすことにつながるのか、ここが、正直疑問に思っています。
一つには、この疑問についてまだはっきりしてないですが、何か意見があれば、お願いしたいと思っています。


あと、生長の家の本部は、実相世界にある、と言われておられ、雅春先生のみ教えは、霊界からのインスピレーションを源にして、与えて頂いていると教えていただいています。
その雅春先生の霊的インスピレーションの源である「大宇宙そのものの生長の家」と、現象に現れた「宗教法人生長の家」は全くの別物であり、仮の姿の、影にすぎない、書かれています。この仮の姿の影は、生長の家の生き方をしている方に運営されていれば、「実相」の姿が表れていると思いますが、結局今の組織は、そのことに失敗しているのでしょうか。総裁=副総裁=み教えの秩序も崩れているのでしょうか。組織の現実の粗い目の中で、色々問題はあるとは思いますし、現象の世界の出来事と言われそうですが、今の組織を批難する方は、結局み教えの展開として表れた今の組織が失敗しているということを示しているのでしょうか。
ただ、批難することを聞いていても、表面的なことしか、見えてこないのが、正直なところです。
組織において、何を実現したとき、成功とするのか。
またしても、漠然としていますが、この点が疑問です。

288さくら:2011/10/17(月) 10:02:39 ID:T/77sMGw
今回、「自然状態への回帰」への道筋として義春さまが示して下さったている、ご自身の経験による直観的把握や、以前からの天皇に対する考慮に、深く共感するものを感じております。
以前わたしも、ある山岳信仰の山頂の神社に参拝した折に、経験したことのないような畏敬の念に打たれて、心が深く沈黙したことがありました。神聖なものに向き合った時の、の圧倒的なおそれのような原始的といえる感覚は、自我が自然に溶け込むような気がします。
この時、畏敬の念というのは人間の信仰心の原点であり、神に対する感情の一つの基準、となる様に思っておりました。
トキ様のご友人の滝行に関しての義春さまが答えていた、自然に対する敬意、大変重要なポイントと思います。
そういえば、私は、アルピニストの野口さんが大好きですが、同じようなことを言っていました。山で遭難したり、極限状態の登山の過程で発狂するような方などをたくさん見てこられましたが、やはり、何処かに慢心する心があったり、自然に対する敬意を忘れてしまえば、そのようなことが起こりやすいと言っていました。自然との向き合い方を考えさせられます。
イワクラ、アミニズム信仰、古代神道、太陽信仰、天照大神、伊勢神宮、天皇信仰・・そのような信仰の繋がりを学びたかったので、義春さまの経験などを含めて、共感できるものがあります。
ですから、自然状態を通してはじめて、天皇国実相顕現に迫るという道筋を考えていくことに、大変関心を持っている次第です。

それで、このことは、信仰の問題ではありますが、活動の展開として、どのようにありうるでしょうか。信仰的な祈りや行事は理解ができます。
しかし、組織として何を実現しようとするのか、このことにまだ、疑問があります。
天皇国実相顕現、といいますが、その理念を多くの方に理解し広めていくというのは、大切なことであると思いますし、そのような理解こそ、日本を支えていくことだと思っています。
しかし、それに関して、生長の家が行ってきた活動は正しい方向だったのでしょうか。それを、「復活」することが正しい方向なのでしょうか、まだ疑問があります。
これについても意見があれば、よろしくお願いいたします。


本当は、本部の先生や、今の教えを理解し活動していてる方がいれば、具体的な活動の意義など、改めて納得できるように示していただき、どのようなことを実現されようとしているのか、ここでもご指導いただきたいですし、

復活派の方は、主張されている内容で、具体的には何を実現しようとしているのか、正直分からないので、一信徒の疑問に答えていただけたら、有り難いとも思っています。
(それで、ここと違って、社会、に対して、真剣な掲示板の様ですけど、信徒の不信感さえぬぐえないのはなぜなのでしょうか。社会に対して真剣、とは、対話もせずに自分の正義や知識を主張続けることなのでしょうか。普通に仕事をして真理を学び恋をしたり家族や人や生活を愛したりすることは、社会に対して真剣じゃないというのでしょうか。ここに書きこむ人間が真剣に生きてないとでもいうのでしょうか。だから相手にも出来ないのでしょうか。)

取り合えす、ポイントがまだ、漠然としてしか書けなくて申し訳ないのですが、
一応書きこみさせていただきました。
何か反応があれば、だんだんはっきり浮き上がるものがあるかな、と希望を持つことにします。

さくら、拝。

289義春:2011/10/17(月) 13:43:14 ID:SjZg29/2
>>288
さくら様
昼休みなので、思い付いたままに書かせて頂きたく存じます。

本流復活掲示板を眺めていますと、彼等が仰る【復活】とは、もし復活すれば、考えの異なる他者を排斥する様に感じます。

私も確かに、復活を望みますが、その復活は率直に申しまして、違うと感じております。

本流復活掲示板の言わんとする復活は、言うなれば幕末で言えば【攘夷】なのだと感じます。
それはこのような理由によります。少しでも考えの異なる人たちを本流復活掲示板では、排斥してきました。
それは外国を受け入れるのを武を以て、打ち払おうとした考え方に近い気がします。
しかしながら、この【攘夷】は、元々日本の考え方ではありません。

朱子の説いた儒学に強く影響された漢心です。

それと生長の家が行なってきた活動がイコールで結びつくかと言えば、私個人は分からないというのが率直な気持ちです。

ですから私の言わんとする復活は、八百万の神々が仏教を受け入れた様に、他者を取り入れ、共存・共生するものです。
それだから、自然と共にあり、天皇陛下を中心に、全てがつながった共同体意識の事を指します。

又、今までの生長の家が行なってきたのは、時代相応に迫られたものだと私は感じており、それは間違ってなかったと存じます。
その先輩方のご活躍あればこそ、今があり、その今という時代相応に迫られた活動が要求されていると私は感じております。

290初心者:2011/10/17(月) 13:49:29 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>理想的な意味では、素晴らしい教えに救われ実践する人を増やしていくことが「地上天国」を実現させること、になると思いますが、それは、組織の運動に参加して人数を増やすことにつながるのか、ここが、正直疑問に思っています。
一つには、この疑問についてまだはっきりしてないですが、何か意見があれば、お願いしたいと思っています。

わたくしのつたない体験では、組織活動には、数を追うという展開があっただけのような気がしております。具体的には、組織活動とは、行事の参加者を増やす、受講券を売りさばく、というものであったような気がいたします。

問題は、そうやって人を増やしたときに何がおこるかということでありますね。たとえば青年会時代、わたくしは教化部にいりびたりでありましたので、教化部がどんなところであるかは、よく存じているつもりでありました。そしてひとつの想像をしてみました。

それは、世界中がこの教化部のような雰囲気につつまれたときに、世界ははたして光明化されるのか、という想像でありました。教化部のなかの雰囲気。それはわたくしにとりまして、好ましいと感じられるものもありましたが、そうでないと感じられるものも少なくはありませんでした。

人の陰口をたたく人がいたようです。人を人ともおもわずに、横柄にいばりくさっている人もいました。よくない行いをする人もいたようです。ほんとうかどうかは知りませんが、女子青年にみだらな働きかけをしたという人の話も聞きました。陰気な人もいたような気がします。精神的に健全でない人もいました。

教化部内のこうした雰囲気が世界中にひろまったとき、はたして世界は救われるのか。わたくしには、とてもそのような楽観的な気分にひたすることはできませんでした。それでも教団は、組織活動をつづけて、人を集めようとします。集めて何をするつもりなのか。それがまったくわからないまま、ただ活動をつづけていただけのような気がしております。

活動をつづけてきたことで、日本や世界は、いくらかでも変わったということがいえるのでありましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれでも、世の中がなにも変わっていないとすれば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。

291義春:2011/10/17(月) 13:50:14 ID:SjZg29/2
追伸
本流復活掲示板が生長の家の御教えを守っていえば、それはないなぁ…と思ってます。
それだから、それに立脚すれば、生長の家が行なってきた活動と本流復活掲示板はイコールではないだろうと推測はしております。

ただ、私が若すぎて、その時代を見てないので、確信は持てません。

どなたかが、その点を書いて頂ければ有り難く存じます。

292うのはな:2011/10/17(月) 23:25:54 ID:iM0b0bt6

>>291 
本流復活掲示板が生長の家の御教えを守っていえば、それはないなぁ・・と思ってます

一体何をどうしろといわれるんでしょうか。。
そんなことだから、本流で工作員だなんだかんだといわれるはめになるんじゃないですか。

生長の家といっても俗世間のミニチュア版みたいなところがあり、不正もあれば批判もあり、
これが生長の家の教えを実行しているようにも思えません、といわれても、いつもいつも
完全円満な心境でいられるはずがありません。

おたがいのサイト内容や運営を高い所から批評しあうみたいなことは、やっても仕方ないじゃないですか。

293さくら:2011/10/17(月) 23:46:28 ID:T/77sMGw
義春さま

いつもながら、ご多用の中駆けつけて?下さり、そのご愛念を本当に有り難いと思っています。
義春さまの言葉の中に、
「・・私は非難したくないのです。(中略)過去を裁きたくないというのが、私の率直な思いなのです。」という言葉がありましたが、私はこの言葉に、大変共感しています。
私は、過去の運動の是非を判断するような立場でもないし、その是非を判断をしたいとかいうのでもなく、
ただ、本当に生長の家の組織が何をしようとしているのか、疑問に思っているだけなのです。

「又、今までの生長の家が行なってきたのは、時代相応に迫られたものだと私は感じており、それは間違ってなかったと存じます。
その先輩方のご活躍あればこそ、今があり、その今という時代相応に迫られた活動が要求されていると私は感じております。」

このことも、その通りだと思います。
雅春先生も、その時々の時勢に対応したご見解を示されておられたと理解しています。
例えば、大東亜戦争の評価も、開戦当時は、
「大東亜戦争に吾等矛をとりて起つは、この宇宙最始源の大生命の大神の御意志」とし、
「宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦いであるのである。だからこそ聖戦云い得るのである。」(「生長の家」誌)
としていましたが、
日本が敗戦した時の心情の変化を記されています。
「(前略)僕は今の日本の戦は、陛下の御意志ではないと思う。随ってそれは皇軍と云うには相応しくない。」として、大東亜戦争の現実的な悲惨さ、侵略行為や殺戮行為を否定されておられました。
そのことから「この戦争は、神の聖戦ではない」というご発言がありました。そして本来神は争いをつくられないとの立場から、どんな戦争も聖戦であり得ない、とされました。

その後、国家問題に対する発言から、公職追放となりますが、
それが解かれると、再び大東亜戦争について、「皇軍」や「聖戦」ではなかったことは否定されず、「アジア、アフリカ諸民族の独立を達成させる、良い結果をもたらせた」との評価されるご発言をしています。
これは共産主義勢力による、思想的状況から、日本民族の理想や誇りを守るためであったと思われます。
ご発言の変化を表面的にとらえて非難された方もいたようですが
終始一貫、日本や天皇への忠に即した御意志があったことは、理解されます。
天皇国日本の理念を失うことなく、時代に応じたご発言の変化があったということが分かります。
こうしたこともそうですが、人が発する言葉、その時々の発言を一つずつ切り取って、その是非を見ようとしても、必ず、大きな偏りがあると思っています。

雅宣総裁のご発言をひとつひとつ切り取って判断し非難したり、雅春先生のご発言と比較したりしていても、
あまり意味を感じません。むしろ、そのようなことに過剰反応すれば、逆効果だと思っておりますし、
そのことだけで「いまのおしえ」を、判断したりするのは、やはり、偏っているのではないかとも思っています。

義春さまが仰るように、「今という時代相応に迫られた活動」を、
生長の家として、一つになって考えていかなくてはならないのでは、と思っておりますが、
なんだか、今の方針は、理解が得られないままのようですし、分裂や不満を抱えている状況の様ですね。

>ですから私の言わんとする復活は、八百万の神々が仏教を受け入れた様に、他者を取り入れ、共存・共生するものです。
それだから、自然と共にあり、天皇陛下を中心に、全てがつながった共同体意識の事を指します。

義春さまのこのような方向性は、素晴らしいです。
(それにしても、つくづく。義春さまは本当に20代後半の青年ですか?失礼ながら、、)

疑問なのは、これは組織の運動として、実現されうるのでしょうか。
その理念をどう組織の運動に、繋げられるのでしょうか。

294さくら:2011/10/17(月) 23:49:56 ID:T/77sMGw
初心者さまへ

組織を長く離れておられるのに、生長の家のことを真摯に考えてくださる姿勢を、いつも感謝しております。また戻ってきて下って、ありがとうございます。
今回も、経験を通した見解を述べて下さり、書き込み大変嬉しいです。

また、他の板で(もはや、部室ではない)、生長の家の教えに鋭い哲学的メス?を入れてくださることは、多方面からの気付きをもたらし、今の状況に、新たな展開を示して下さることだと思っております。

組織の現実には、信仰に基づく集まり、といっても、いろいろ問題が発生しますね。
それは生長の家ではよく、現象のせかいだから、とたしなめられることかもしれませんが、実際、現象の中で生きているのだから、現象のことを今大切にしないでいつ大切にするんだい、と思うこともありましたし、お役をしていると、正直、本音と建前に分裂するような気持にもなることもありました。
生長の家の接する方々には大変お世話になり、人柄も好きですし、尊敬している方が多いのは本当のことです。でも、組織の現実には正直疑問を感じていました。

>活動をつづけてきたことで、日本や世界は、いくらかでも変わったということがいえるのでありましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれでも、世の中がなにも変わっていないとすれば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。

組織活動が、日本や世界を変えるという考え方、これは、唯物的な考え方ではないかと思います。

信仰的な生き方をする方が増え、それぞれの生活の中で生かしていけば、社会が良い方向へいくという考えはあると思いますが、それは個人個人の実践の問題で、組織の数が増え、組織の方針に従うことではないのでは、と思うことがあります。

組織の目的が、信仰の目的と同じように考えられることにも、違和感があります。
数を集めることや行事に参加したり役職に就くことが信仰の証であるようなこと、とか、
また、トキ様がその団体の中での、中には、役職に付いている方が勘違いされて横暴な態度を取ることなどや、中心帰一が組織のゴタゴタを納める「手段」に使われてきたというような現実も書かれていました。
それも、組織を守るため、組織上の立場を守るために、疑問を挟みにくい、実際疑問など挟めない「教えの解釈」が、手段化される場合もあるような気がしました。
後は、組織の維持のために、個人の信仰を妥協するようなことも行われているような気がするのですが、どうでしょうか。

理念や理想は分かるのですが、実際組織がしようとしていることを、信徒が納得して活動しているのか、疑問に思うところがあります・。

295義春:2011/10/18(火) 00:57:01 ID:SjZg29/2
>>293
さくら様
現実的にですか…まぁ…残念ながら、私自身、活動から離れて数年になります。
それゆえに現実的にどう結びつけるかは、今少し沈思黙考する必要があります。感覚的に思い出すには時間がかかりますから…。

296役行者:2011/10/18(火) 07:20:12 ID:oD7wFPHE

 >さくら様

 >活動をつづけてきたことで、日本や世界は、い くらかでも変わったということがいえるのであ りましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれ でも、世の中がなにも変わっていないとすれ ば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。<


 さくら様、初心者さまのこの文章が云わんとしていることは、まず、道、真理があり、後から組織がついて来るものである、ということと存じます。
 組織が先に立ってしまうから、数を追ったり、いろいろな思惑が交錯してしまうのではないでしょうか?
 まず、この組織活動は、どれだけ、人類、森羅万象あらゆるものに役立つことができるか?と、そのビジョンを明確にすることから、はじめるべきではないかと存じております。
 その後、そのグランドデザインの道筋とどこから具現化していったらよいか!との優先順位を決めて行くことが大切かと存じます。

297さくら:2011/10/18(火) 08:33:43 ID:DWMbXER2
役行者さま

役行者さまには、いつも端的に核心をつくご指摘で理解の助けを頂き、ありがとうございます。
生長の家の行く末に、新しい視点で望まれることに、力を頂いています、頼もしい限りです。

>まず、この組織活動は、どれだけ、人類、森羅万象あらゆるものに役立つことができるか?と、そのビジョンを明確にすることから、はじめるべきではないかと存じております。

その通りだと思います。
そして、そのビジョンがまずあってこそ、生長の家の組織は、出発したのではないのですか?
今、なぜ、このビジョンを見失った状況なのでしょうか。
組織に入った信徒は、そのビジョンを信じて運動をしてきたことと思います。
しかし、そのビジョンによって、何が実現されてきて、実現されうるのか、見失っている状況ではないか、と思いました。


だからこそ、役行者さまたちも、新たなビジョンを考察されていることを、理解しております。
そして、それが、実現可能にする道を対話を通して導かれようとされておられるのだと思います。

今の組織は、今まで活動されてきた方に理解されず分裂もしながら、運営されているような状況で、今も現在進行形で進められています。

本部の方針に振り回されて迷うのは、そのビジョンを信じて活動する信徒です。

新たなビジョンを模索しながら、
同時に、生長の家は、本来何を実現してきたのか、今の組織が何を実現しようとしているのか、整理したいとも思っているところです。

298初心者:2011/10/18(火) 08:58:02 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>組織活動が、日本や世界を変えるという考え方、これは、唯物的な考え方ではないかと思います。

わたくしは、「唯物的」というご指摘に反論しようとはおもいません。生長の家の体験談にしても、病気が治ったとか、経済的に豊かになったとかというのであれば、これはあきらかに唯物的な発想であり、モノを指標に幸福の尺度をはかるということは、多かれ少なかれ、誰でもやっていることであると考えるからであります。

わたくしがいいたいことは、ひとつだけであります。生長の家の活動は、終始一貫、想像的世界にひきこもっていた。こういうことであります。たとえば『理想世界誌』の百万運動。この運動は、あきらかに想像的世界の出来事でありました。

百万部を達成すれば、世の中は変わる。これが根本的な発想であったようにおもいます。想像的世界の特徴は、欲望が中心にあるということです。簡略に申せば、欲望をかなえる世界が、想像的世界であります。

百万運動の背景には、世の中を変えたいという願望があったはずです。願望をかなえるために百万部を達成する。こうした想像的な発想のもとに運動が開始されたと、わたくしは、このように理解しております。

想像的世界というのは、あくまでも個人的世界でありますから、世の中を変える力とはなり得ません。世の中を変えるためには、象徴的世界に切り込む必要がある、とこのように考えます。

たとえばですね、発展途上国において、国民ひとりあたりのGDPを、日本円に換算して百万円にする、という計画が発表されたとします。そうすると、この「百万円」という数字は象徴的な力を持つことになるのでありますね。国民の多くが、この数字に魅力を感じ、影響されます。

「理想世界誌百万部達成」という目標をかかげたとしても、これが、世の中にたいしてどれほどの象徴的な能力を持っていたかというと、残念ながら、それは皆無であるとしかいいようがなかったとおもいます。ほとんどの人たちにとって、「百万部」は意味のない数字であったということでありますね。

わたくしは、「人類光明化」という目標をかかげる以上は、世の中を変えていかなければならないと考えます。なぜなら、人類が光明化されるには、真理が、多くの人々を魅了する象徴化能力を持つ必要があると考えるからであります。そして、象徴化能力を持った真理は、世の中を変える力があると、このように考えるからでもあります。

生長の家が人類に影響をあたえようとするなら、象徴化能力を持った真理が必要になりますね。象徴化能力を持った真理とは、「大文字の他者」になりうる真理ということであります。現時点では、雅春先生の教えは「小文字の他者」でしかないですね。百万運動は、「小文字の他者」によって引き起こされた運動であったということであります。

299初心者:2011/10/18(火) 09:40:02 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

さらにつけくわえます。雅春先生がなにをなさろうとしておられたかというと、それは、世の中を支配する「大文字の他者」を崩壊させることであったのでありますね。

世の中支配する「大文字の他者」とは、「物質はある」とする信念や、「病気はある」とする信念を背後で支えている象徴的な存在ということになります。「大文字の他者」の多くは言葉によってつくられていますから、これを言葉によって批判し崩壊させることは、十分に可能なのであります。

少なくとも、教団内部では、世の中にたいして支配的であった「大文字の他者」は崩壊したようでもあります。まがりなりにも、「現象はない」との信念が、多くの方々によって信じられ、共有されるようになったはずであります。

しかし、それはまた「大文字の他者」の不在を意味することにもなります。「大文字の他者」とは、世の中をつくりあげ、まとめあげている象徴的なパワーでありますね。そうしたパワーが崩壊したとき、「大文字の他者」によってささえられていた世界もまた同時に崩壊することになりますね。

世界の崩壊をふせぐには、「大文字の他者」にかわる「他者」が必要となります。その「他者」こそが、「他者の他者」と呼ばれる、現実界の不気味な存在者なのですね。

「他者の他者」は、一般的には、陰謀説となってあらわれます。義春さんが取り組んでおられた、ロスチャイルドやロックフェラー、あるいはフリーメーソンやイルミナティーなどを首謀者とする陰謀説の背景には、「大文字の他者」になりかわって、世の中を背後からあやつる「他者の他者」を必要とする、現代人の事情がかくされているように感じます。

総裁先生もまた、熱心な信徒の方々にとっては、「他者の他者」であるのかもしれませんね。こまった問題です。「大文字の他者」崩壊後の世界をどう生きるか。これが、生長の家にあたえられたひとつの課題であるような気がいたします。

300トキ:2011/10/18(火) 12:05:27 ID:JcVuc8xU
 おはようございます。最近、体験したある事件から、少し思った事を書きます。

 ニュースを見ていると、何か変な事件がよく報道されます。 
 個人的にも、教団活動をしていて、いわゆる「変な人」が世間に増えたのは実感します。
引きこもりとか、ニートとか、登校拒否とか、対人関係をうまく作れない人と関わる事が多いと思います。
 特に、今の中高年は、いわゆるバブル時代を経験しているので、その頃の甘い夢から脱却できない人間が
いたり、更には、そういう人達の子供が青年になる時期になっているので、社会に適応できないで、困っている
人は本当に増えていると思います。

 今は経済状態が悪いので、雇用主も社会も、そういう人の面倒を見る余裕がなくなってきている、と
感じます。で、そういう人達が駆け込む先の一つが「宗教」になってきています。教団の末端会員の私でも、
そういう「困った人達」を相手にする事がすごく増えています。これは想像ですが、どこの宗教団体でも、こう
いう人達の相談は増えていると思います。同時に、宗教団体自体が困っているとも思います。社会に適合できな
い人というのは、幼少時に基本的なしつけができていない人もいます。学力がすごく低い人もいます。谷口雅春先生
が「病気を治すのは簡単だが、性格を治すのは大変だ」と言われていましたが、それは本当の事だと思います。
 
 こういう人達への対応を嫌う人は多いです。正直、五体満足で健康なくせに生活保護を受けている人を見ると、
納得はできません。生長の家の信徒の中には、重度の生涯を持ちながらも仕事をして税金を払っている人も多い
ので、不条理だな、とも思います。しかも、こういう人達を指導できる講師も減っているし、会員の中にも露骨に
関わりを嫌がる人います。ある意味、それは当然かもしれません。

 こういう「変な人」のお世話は何年もかかります。一人の人を治すのに、5年、10年と関わるケースも多い
です。しかも、そういう人が社会復帰をしても、教団の公式の評価は何もありません。講習会の受講券を友人知人
にばらまいてとりあえず受講者を100人作ったほうが、教団の公式の評価が高く、地方褒賞の対象にもなります。
 別に、人間からの評価を当てにしてお世話をする訳ではないのですが、これもどうかと考えてしまいます。

301さくら:2011/10/18(火) 16:16:46 ID:DWMbXER2
季節の変わり目、皆さん、体調は、いかがですか?
夏の疲れ、特に、胃腸の疲れも出る時期ですので、優しいものを、お召し上がり下さい。

初心者さま
トキさま
ありがとうございます。
今、時間ないので、あまり書き込みできませんので、
また、後で、読みます。

トーキングボードは、理解と共感のボードのようですが、
結構、気力を使いますね。
初心者さまなんて、援護射撃、なんて書いてるし、
生長の家の掲示板で、宗教組織への疑問を投げかけるなんて、ちょっと孤独な旅に出た気分です。
こんなこと考えてたら、人付き合いも、悪くなりそ。

ではまた、よろしくお願いします。

さくら  拝。

302トキ:2011/10/18(火) 16:31:36 ID:JcVuc8xU
>>301

 もともとは、この掲示板は本流掲示板を放逐された「一白鳩会員」の縁者である私が勝手にでっちあげた
のが発端でした。ですから、趣旨も最初は、生長の家教団と本流復活派との問題がメインでした。が、いつ
までも、その話題に固執する必要があるか、どうかとも考えています。その話題を論じるのが悪い、という
意味ではないです。が、もっと大きくて、広い話題、例えば、初心者様が論じておられる問題でありますと
か、信仰や組織活動の根本に関する議論が自由になされるべき時期に至ったのではないか、と勝手に考えて
おります。
 個人の救済でありますとか、逆に、日本や世界の話題、あるいは生長の家は今後、どうあるべきか、という
大きな話まで、各人が自己の意見を開陳する場に発展すべきかと感じております。これは、ここの投稿者様が
みなさん、高い意識と知性の持ち主であり、そういう議論ができる場だからだと思っています。(ちなみに、
管理人の場合は、知性の「知」にヤマイダレがつきますが(笑))

 その意味で、さくらさんの意見は、初心者様のご意見と共に、今後のこの掲示板で本当に必要とされる議論
だと思います。

 益々のご活躍をお祈りする次第であります。

合掌 ありがとうございます

303義春:2011/10/18(火) 20:40:35 ID:SjZg29/2
>>299
初心者さま
『物質はない』…生長の家があればこそ、真理が世界に広まったと存じます。
しかし、その真理ですら【真理】という大文字の他者になってしまっている
今の現状に対して慄然たる想いであります。

304初心者:2011/10/18(火) 21:03:03 ID:4IaAZAME
義春さん

義春さんのいわれるとおりかもしれません。組織活動で人類を光明化する
というのは、むしろ弊害が大きすぎて、逆効果であるのかもしれませんね。
キリスト教がそうでしたものね。

人類光明化ができるとすれば、それは個人レベルで、ということになるので
しょうね。わたくしの考えが間違っておりました。さくらちゃんがいっておられる
ように、組織活動で人類を救うというのは、たしかに「唯物的発想」であった
ような気がします。さくらちゃん、ごめんね。

反省して、沈思黙考いたします。

305さくら:2011/10/18(火) 23:17:47 ID:T/77sMGw
初心者さま

みなさんで、沈思黙考されたら、ますます、わたしは、孤独な旅になりますので、
対話をしてほしいと、思っています。

宗教組織運動は、世界を変えることはできないし、また、本気で変える気もない。
こう思っておりましたが、初心者さまの説明は納得できるものがあります。

そのことが、教えの限界にある、というご指摘は、生長の家にとっては、脅威ですね。

(そういえば「僕たちは世界を変えることができない」という映画のタイトル、よいですね。)

「大文字の他者」が崩壊した後、「他者の他者」の存在を必要としなければならないことは、現代の実感だと思います。

(・・面倒くさいのですが、私にはこれは、宗教組織を操る何か、ということになるのでしょうか。
だから、このことにテーマを見つけようとしてしまうのかもしれません。
・・仕方ないので、しばらく、この「他者の他者」に引っかかることに致します。
自分の「他者の他者」って、他の人には、都市伝説、みたいなものですか。
それに引っかからないような人たちに、「あの人って、パラノイヤ、だよね、」とかって、噂されるかもしれません・・。
だから私は、いまだにここで「カルトあがりの元女スパイ」にそんなこと言われたくない、なんて言われてしまうのかしら、笑。)


総裁を「他者の他者」とすることで、象徴界の崩壊を回避しようとしている、
こういう状態がいまの生長の家の問題になっていることでしょうか。

今までの「大文字の他者」が崩壊した後の、「大文字の他者になりうる真理」、とは、
初心者さまは、自然への回帰にあるのではないか、と思われていますか。

それで、私は、ここにあるとして、生長の家も含めてですが、既存の宗教組織の活動形態ではありえない、組織型宗教では、この真理を実現できない、と思っているのですが、どうでしょうか。

もし、生長の家が、本気で取り組むとしたら、今の組織の構造を解体させるか、あるいは、全く違った形態として存続させるか・・その形は分かりませんが、明らかに今のままではありえないと、正直、思ってしまいます。



企業などは、社会の欲望のニーズを満たして、利益を得る。簡単にいえばこういう公式が。
宗教組織は、人々に「救い」(欲望?)をもたらし、「利益」といえるなら、簡単なのですが、何を得ているのか、はっきりしません。「目的」を果たしてくれる人材?
実際は、組織の維持のために、利益は必要です。

組織は外部環境の変化によって、その機能と構造を変化させなければ維持できませんが、
教義に縛られていれば、その変化がうまくできません。
今の教えの生長の家は、「時代に即した変化」をしていると言っていますが、これに対する不満や非難、人が離れていく状態は、この変化は明らかに間違っているからですか。


宗教組織は、教えや構造に矛盾を抱えていても、信仰の対象となる神秘性や、ある人物のカリスマ性を盾として、維持している一面があれば、ちょっと厄介なところもあるとも、思います。
こういうところは、その是非を証明もできないし、それを言われれば、内部の信徒は従うしかないような構図があったります。


>人や社会のお役に立てる活動。それは、組織のため、というより、世のため人のための活動ということでもありますよね。そうした方向性から組織活動の見直しの必要性を感じますね。

現在、組織に関わる人で、振り回される方や迷ってる方があまりに多いと思うので、
組織のあり方や、方向性についてもなにか語って下さる方がいると、大変ありがたいと思っています。

眠くて、パラパラした文章で、まとまりなく、すみません。
では、また、よろしくお願いいたします。

306さくら:2011/10/18(火) 23:26:20 ID:T/77sMGw
302
トキ様

そんなトキさまのお言葉にしばし甘えて、ボードをお借りいたします。

トキ様は、組織の酸いも甘いも経験されておられると思いますので、
色々勉強になります。
わたしは組織の今までの歴史や実績を、非難や否定するつもりではありません、

ただ、宗教組織の現実や限界、矛盾、などがあれば、それを直視したいですし、
新しい改革ができれば、そのような方向で
対話をしていきたいと思っている次第です。

また、よろしくお願いいたします。

307義春:2011/10/19(水) 00:00:26 ID:iu5Ar./Q
>>304
初心者さま
 確かに中世ローマ・カトリックはそうでしたね。
歴史を学ぶものにとり、キリスト教へのトラウマすら起させるくらいのものですね。

 しかしながら、組織が無ければ良いものではなく、
組織があるからこそ、個人の人類光明化ができる面があります。
少なくとも、私はそのお陰で10代から、そのような事が出来ました。
それは私の人生において、生きる原動力にもなっております。

 ただ、今の現状を活動の枠組みの外から拝見しておりますと、
組織の為の組織活動と化している面は否めません。
ですので、如何に個人が動きやすい環境にするのかが問われている様に
私は感じております。

308初心者:2011/10/19(水) 07:18:52 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

けっきょく問題となるのは、生長の家はこれまでなになそうとしてきたのか、ということでありますね。これがどうにもはっきりしないまま、組織活動が展開されてきた、といった印象はいなめない気がいたします。

雅春先生は、ひとつには、「現象はない」という真理を大文字の他者化する、ということを念頭に、真理の布教をすすめておられたようにおもいます。簡略にいえば、生長の家が目指すべき方向性とは、「現象はない」とするものの見方を人類共通の認識にする、ということであったはずでありますね。

ここで、義春さんから「真理の大文字の他者化」の問題が提出されました。ここにいたって、真理の大文字の他者化とはなんであるのかが、問われる事態となってきたのであります。

わたくしは、今おきている問題をシンプルにとらえることができていたはずなのですが、こへきて、事態は複雑な様相を呈してきたのであります。真理は大文字の他者化してはならない。これがもしかすると、人類光明化を実現するための基本法則である可能性が出てきたのでありますね。

本流の方々が、真理を大文字の他者化してしまった人々であると考えてみましょう。すると、真理の大文字の他者化が、地球規模で実現されたあかつきには、人類は、本流のような方々ばかりで占められることになるのでありますね。ああいう人たちが、巷にあふれて、誰もかれもが、かたくなにおのれの正しさを主張する。そんな世界に成り果ててしまうのでありますね。これがはたして人類光明化といえるのかどうか。答えは考えてみるまでもないことでありますね。

こうしてみると、人類光明化のために、生長の家は、真理を大文字の他者化してはならない、これが基本法則であるような気がしてきますね。真実は、はたしてどうなのでありましょうね。

ところで、真理を大文字の他者化しなかった場合、これはこれで、大きな問題が生ずることになります。真理は、「現象はある」とする大文字の他者を崩壊させます。しかし、真理は大文字の他者とはなり得ない。すると、大文字の他者不在の世の中が訪れるということでありますね。なんどもいっておりますが、世界は大文字の他者によって支えられているのであります。大文字の他者が不在となれば、そうした欠如をうめあせるための、べつの他者が必要となります。それが、現実界の「他者の他者」でありますね。

「他者の他者」は、崩壊した大文字の他者になりかわって、世界を背後から支配し、あるいは支えることができます。実相とは、いうまでもなく「他者の他者」でありますね。大文字の他者不在の状況で、人々は、「他者の他者」である実相を必要とするのであります。本流の方々は、「他者の他者」としての実相を手にすることに失敗しています。ですから、真理を大文字の他者化するよりほかはなかった、ということなのであります。

309さくら:2011/10/19(水) 09:15:19 ID:BWdc.Y1U
「真理を大文字の他者化」するって、今までの宗教組織が陥っていた、問題とも言えますか。
宗教の問題としては、
現代が直面する、今まで象徴界を支えていた大文字の他者の崩壊で、代わりの大文字の他者となり得たのが「宗教の教え」だったという一面です。


>ああいう人たちが、巷にあふれて、誰もかれもが、かたくなにおのれの正しさを主張する。そんな世界に成り果ててしまうのでありますね。これがはたして人類光明化といえるのかどうか。

「おのれの正しさ」を主張することで「地上天国」を目指しているとしても、それがとても実現するとは思えませんね、、

こんな形は「宗教」を一番楽にできる方法なのかな、なんて思うこともあります。
また、大文字の他者化した真理に縛られるのは、信徒には簡単だったりする、気がします。

>実相とは、いうまでもなく「他者の他者」でありますね。大文字の他者不在の状況で、人々は、「他者の他者」である実相を必要とするのであります。

初心者さまは、この実相への飛躍を懸念されていて、自然状態への経由、を示唆しておりました。
この自然状態においての、大文字の他者とは、ひとつの共同体意識のようなものなのでしょうか。

310初心者:2011/10/19(水) 10:41:30 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>「真理を大文字の他者化」するって、今までの宗教組織が陥っていた、問題とも言えますか。

真理の大文字の他者化がなんであるのか、じつはまだ、はっきりとはいたしません。ただ、感覚的には、真理の大文字の他者化には問題がある、という気がしてならないのでありますね。大文字の他者には、それによって無自覚に支配され、言いなりにされてしまうというニュアンスがありますからね。

宗教組織が、真理を大文字の他者化させたとすれば、組織じたいが、真理によって支配され、真理の命ずるままに動くようになるという懸念が出てきますね。こうした活動が対規模に展開されるようになれば、それが戦争や紛争、あるいは異教徒の大虐殺にもつながってくるわけですから、やはり、真理の大文字の他者化は危険といわざるを得ない気がいたします。

ただ生長の家の組織活動ということでいえば、それが数を追う運動であったことをおもえば、真理の大文字の他者化のもとになされていた活動ではなかった、ということがいえるのではないでしょうか。百万運動は、真理の小文字の他者化のもとになされていた運動であったはずでありますね。この意味では、百万運動は、逆に評価されるべきではないかという気がしてまいりました。あれはあれでよかったのだと、このように考えてもよさそうな気がしてきましたね。

>初心者さまは、この実相への飛躍を懸念されていて、自然状態への経由、を示唆しておりました。
この自然状態においての、大文字の他者とは、ひとつの共同体意識のようなものなのでしょうか。

自然状態とは、言葉以前の世界であると考えているのでありますよ。大文字の他者、あるいは、大文字の他者によって支配された象徴的世界は、ラカンのいう「ダナオイの贈り物」、つまりは、人類が言葉を受け取ったことからはじまったとされておりますね。ダナオイの贈り物を受け取る以前の世界、これが自然状態とすれば、この世界には、大文字の他者は存在しないということになるはずでありますね。

共同体意識とは、個人意識の集合体とはまったく異なった意識状態であるはずであります。大文字の他者によって支配された個人意識をいくら寄せ集めたとしても、共同体意識があらわれてくることはない、ということでありますね。もし仮に、共同体意識とはどのような状態であったのかが想像できれば、そのことから、実相世界への回路がひらけてくるのではないか、という気がいたします。個人意識からは、それをどのように工夫しようとも、実相世界への回路がひらくことはないという気がいたします。

311初心者:2011/10/19(水) 11:00:43 ID:4IaAZAME
百万運動の失敗は、運動の目的が誰にもわかっていなかった、というのが原因であったようにおもいます。百万運動の目的はなんであったのか。いまにしておもえば、それは個人意識の変容、メタモルフォーゼにおくべきであったとおもいますね。そうしておけば、百万運動は評価され、それなりの成果をあげることができたのではないかという気がします。

百万運動とは、ようするに、組織ではなく、個人にかんする運動であったということでありますね。もしもあの運動によって、個人意識の変容を成し遂げた方がおられたとすれば、そのことにおいては成功であったということです。ただ残念なことに、これを評価する尺度がどこにもなかった。そのために、すべては失敗であったと片付けられてしまうことになった。これが百万運動の真相のような気がいたします。

312さくら:2011/10/19(水) 11:58:49 ID:/WTCPp5I
>300
トキ様。
お返事前後して、申し訳ありません。


>こういう「変な人」のお世話は何年もかかります。一人の人を治すのに、5年、10年と関わるケースも多いです。しかも、そういう人が社会復帰をしても、教団の公式の評価は何もありません。講習会の受講券を友人知人にばらまいてとりあえず受講者を100人作ったほうが、教団の公式の評価が高く、地方褒賞の対象にもなります。
 別に、人間からの評価を当てにしてお世話をする訳ではないのですが、これもどうかと考えてしまいます。 

組織の維持や組織内の立場の維持が優先になってくると、
どうしても、信仰の姿勢を妥協するような場面が出てくるようで、
そのようなことを見ると、やはり信徒には、不信感に繋がりますね。
やはり、組織の体質としては、こういう場面が出てくると思いますが、
宗教だと余計に、真理に照らして、自分も葛藤が強くなったり、または人を「真理で裁く」ということが、多かれ少なかれ、
そんなことが多くなりがちだなのでは、と思います。

以前、マザーテレサのドキュメンタリー映画を見たことがあります。
ある救護団体の方が、けが人の救済のため戦場に向かおうとするマザーテレサに、
「マザーテレサ、あなたのやり方は効率的でない、
せっかくの善意なんだから、もっと組織化してチームにすれば、多くの人が救えるのに。」と言うと、
マザーテレサは少し眉をひそめて、
「…効率?
そんなこと考えたことはない。わたしは困っている人が目の前にいれば一人を助け、また余裕があればもう一人を助けたいだけなのです」
と言われ、サリーと草履だけで、戦場に向かって行く、
という場面がありました。
わたしは長く、マザーテレサのこの言葉と場面が、心に残っています。


トキ様のように、宗教団体の中で、深くご自分の経験を見つめてこられた方が、
宗教組織の限界や矛盾など、なかなか内部では話しづらい現状を話してくださるとありがたいと思います。
そうした体制が、問題を大きくしていたりする原因があるかもしれませんし、信徒の不満や葛藤などの種になってるかもしれません。

その様なことでも、みなさま、書き込みお願いいたします。



初心者さま。
またゆっくり読みます〜、感謝。

313さくら:2011/10/19(水) 13:06:28 ID:/WTCPp5I
>310
初心者さまへ

詳細な解説、ありがとうございます、理解の整理になりました。
とりあえず、書き込みます。

>真理の大文字の他者化は危険といわざるを得ない気がいたします。

大文字の他者化が、特に宗教(生長の家のことというのではなく、宗教組織一般のことです。)において問題、と思うのは、
宗教が、霊的なことや、特定の人物のカリスマ性などが深く絡んでくることもあるから、とも考えています。

また、宗教運動の目的が、はっきり、「欲望」に基づくもの、と認識されないところも(目的は、地上天国実現のためなどとする)問題であるように、思えることもあります。

>共同体意識とは、個人意識の集合体とはまったく異なった意識状態であるはずであります。大文字の他者によって支配された個人意識をいくら寄せ集めたとしても、共同体意識があらわれてくることはない、ということでありますね。もし仮に、共同体意識とはどのような状態であったのかが想像できれば、そのことから、実相世界への回路がひらけてくるのではないか、という気がいたします。個人意識からは、それをどのように工夫しようとも、実相世界への回路がひらくことはないという気がいたします。 

なるほど、言葉以前の、世界ですね。

人間の、本来の霊性が取り戻される、状態とも言えそうですね。

このような状態は、当然、既存の宗教組織の存在意義は、失われていく、と考えられるのですが、違いますか。

しかし、一気にその状態へ移行することはないので、
その過程での、今の組織のあり方の変容を考えていく必要があるのではないでしょうか。

わたしは実は、「今の教え」による組織の方向性をそれぼど関心を持って、把握しようとしてなかったから、はっきりいえないのですが、
「今の教え」による組織のあり方をこの過程として考えた時、
あながち、全く外れている、とは言えないのではないか、と思う所がありますが、いかがでしょうか。

そんな視点で見直してみてもよいかも。

もし、こんな方向からも、今の教え賛成派の方や、詳しい方いたら、お助け下さい。

314役行者:2011/10/19(水) 14:09:29 ID:MjvkuLno

>さくら様

あの〜お助けにはならないと思いますが、大雑把に申し上げさせていただきます。

 共同体意識の状態に環境を整えると云うことは、田中角栄がした日本列島改造
論より遙かに大事業でしょう。
 ですから、もちろん過渡期的な時期を必要とすると思うのです。

 まず、共同体意識の状態とは、どんな状態であるか?ですが、たぶん、縄文時
代のような、ピラミット文明開花のときで、内面を観る生活が主流とされていた
時でしょう。また、古事記に書かれているような、そのような時代でしょう。
ただ、すべて昔の生活に戻すということではないと思います。温故知新ですね。

 このような遠大な夢を実現するのですから、一長一短にはいかないと思われま
す。
 そこで過渡的な時期を必要とするのですが、まず、この組織活動は、どのよう
な方向に向かい、どのようなビジョンをもつのか!をいままで以上に、明確にす
ることから、はじめるべきではないかと存じております。
 明確化されたビジョンに向かって、その工程表の道筋と、どこから具現化して
ゆくのか!との優先順位を決めて行くことが大切かと存じます。
つまり、目的に向かっての全体像と、過渡期的な時期に何を具現化してゆくか?
道筋を明らかにしてゆくことかと存じます。

 拙い内容ですが、参考にしてください。

315さくら:2011/10/19(水) 14:46:43 ID:/WTCPp5I
役行者さま

早速の援護、ありがとうございます〜
今、時間ないので、一言だけ。ですが。

>たぶん、縄文時代のような、ピラミット文明開花のときで、内面を観る生活が主流とされていた
時でしょう。また、古事記に書かれているような、そのような時代でしょう。
ただ、すべて昔の生活に戻すということではないと思います。

わたしは、自然状態への移行を、生活様式を変えることなどのような、
表面的な変化とは、考えては、いません。
組織の過渡期というのも、表面的な方針のことを、想い描いては、いません。
今の置かれた環境での、意識(と言えるかわかりませんが,)や実践だと
思っているのですよ。
ビジョンがはっきり、してから、と言われますが、
同時進行で、今の組織や、また周りの環境で、意識や行動をかえていきたいと思ってますし、
それが、気づいた人から、出来るとも、思っています。

意志だけははっきり、してますが、
具体的に書けなくて、すみません。

とりあえず、一言ですが、またよろしくお願いします。

316役行者:2011/10/19(水) 14:55:22 ID:MjvkuLno

 >さくら様

 了解しました。
 私も、できる限り、協力します。

317初心者:2011/10/19(水) 16:43:44 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>また、宗教運動の目的が、はっきり、「欲望」に基づくもの、と認識されないところも(目的は、地上天国実現のためなどとする)問題であるように、思えることもあります

宗教の根底に欲望の実現があるのは、事実でありますね。生長の家では、一般的に、欲望が実現したときに、「実相があらわれた」といい、欲望の実現がさまたげられているときに、「これは現象だ」とか「それは迷いだ」とかの言い方がなされているような気がいたします。

健康でありたいとか、経済的に豊かでありたいとか、結婚相手を見つけたいとか、これはすべて欲望でありますよね。信仰とは、欲望の実現のためにあるといってもよいものですが、一方では、欲望を捨て去ることが、信仰の場で要求されたりもいたします。信仰によって欲望を実現していながら、欲望を実現したわけではないと考える。こうしたダブルバインド状態のなかで、個人や組織の在り方が次第にゆがめられていくという現実がたしかにある、ということがいえそうでありますね。 

>なるほど、言葉以前の、世界ですね。
人間の、本来の霊性が取り戻される、状態とも言えそうですね。
このような状態は、当然、既存の宗教組織の存在意義は、失われていく、と考えられるのですが、違いますか。

ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。この意味では、既存の宗教の存在意義は、自然状態への回帰とともに、失われていくことになると考えられるはずでありますね。

>しかし、一気にその状態へ移行することはないので、
その過程での、今の組織のあり方の変容を考えていく必要があるのではないでしょうか。
わたしは実は、「今の教え」による組織の方向性をそれぼど関心を持って、把握しようとしてなかったから、はっきりいえないのですが、
「今の教え」による組織のあり方をこの過程として考えた時、
あながち、全く外れている、とは言えないのではないか、と思う所がありますが、いかがでしょうか。

わたくしは以前から、教団の今のありようは、変容のための過渡期であるという言い方をしているはずであります。過渡期においては、なにごともそうですが、不都合な出来事がつぎからつぎと起こってくるものでありますね。それを見て、人は非難や批判の集中砲火をあびせつづけることになるのですが、これは、過渡期においては、いつの時代にも起きてくる、ありがちな現象なのでありますね。

生長の家は変容の時期をむかえていると、個人的には考えております。言葉の世界に閉じ込められた個人意識に救済はない。これが、変容を必要と考える理由であります。現教団の方向性は、ほとんど自覚はされてはいない内的な衝動に促されて、自然状態へと変容する方向へ向かっているような気がいたします。今はその過渡期であるということであります。

318役行者:2011/10/19(水) 19:06:23 ID:SpeD3iDc

 >初心者さま

 地球規模における過渡期を一部論じますと、縄文時代から弥生時代、グウーンと、とんで、真実から切り離された形骸化された言葉の行き交う世界!
 そして、これから輝かしき未来の到来!いまはその過渡期。その未来は、輝かしき縄文時代よりも、悲しみ、寂しさ、絶望をとおり越したことによる、さらに輝く栄光の時代!、と全身全霊で期待しております。

 いま、その過渡的な時代において、生長の家が誕生して、地球の未来に貢献しようとしている!
 その一大事業に関わることができる。
 ホント、生長の家に戻ってきて良かったです。心から、ありがとうござます。  

 少し夢に酔ってますので、その辺は織り込んでおいてください。

319トキ:2011/10/19(水) 19:53:17 ID:6z/E1qmQ
>317

初心者様

 仏教的には、この世界を「欲界」というらしいです。ところで、欲望についてですが、青年会時代に他の宗教の活動家と議論をしていたら、
「宗教の目的は、欲望の浄化だ」という言い方をしていました。うまい言い方だな、と感心したのを覚えています。

 谷口雅春先生も、灰吹きたまるほど醜くなる、という言葉を引用して、欲望というもののあり方を指導されたのを本で読んだ記憶があります。
つまり、欲望というものがあるから、社会が動くのだが、それが過ぎるとおかしくなる、と書かれていたと思います。そう言えば、経営学の
本に「欲望の五段階説」というのがあり、最初は利己的な欲望が動機であっても、次第に高い次元の願いが動機になる、という話がありました。

 例えば、お金や地位が欲しい、というのも「欲望」ですが、「世の中を良くしたい」「困っている人を助けて挙げたい」「生長の家を広め
たい」というのも欲望です。人間である以上、欲望から解放される事はないとは思いますが、その欲望の内容を高い方向へと変化させることは
可能だということでしょう。つまり、最初は、成功をしたい、とか、病気を治したい、という動機ですが、最後は、天皇陛下のため、世界平和
のため、というレベルになるのでしょう。この辺りは、法華経の火車のたとえに似ていると思います。

 個人的には、磯村得弥先生の事を思い出します。磯村先生は、若い頃は実業家で、生長の家の信仰により事業を大成功させて裕福な生活を
されました。が、晩年は生長の家本部講師になり、個人指導の人生を送られました。

 とは言え、生長の家信徒といえども、社会人ですから、世間的な欲望を否定するのは難しいです。このあたりのバランスは難しいと感じて
おります。

合掌 ありがとうございます

320さくら:2011/10/19(水) 21:49:02 ID:T/77sMGw
>317
初心者さまへ

粗い乱暴な問いかけに、わたしのレベルに合わせたパズルのピースの様に、お答えいただいて、ありがとうございます。色々納得してます。

宗教において、欲望をなくしたい、悟りたい、浄化したい、などの「欲望」もありますね。
一部の世界の宗教的な行事や祈り、苦行も、結局、ある「欲望」を果たすための形になってしまった気がします。

トキ様の文章引用。
>例えば、お金や地位が欲しい、というのも「欲望」ですが、「世の中を良くしたい」「困っている人を助けて挙げたい」「生長の家を広めたい」というのも欲望です。人間である以上、欲望から解放される事はないとは思いますが、その欲望の内容を高い方向へと変化させることは可能だということでしょう。つまり、最初は、成功をしたい、とか、病気を治したい、という動機ですが、最後は、天皇陛下のため、世界平和のため、というレベルになるのでしょう。この辺りは、法華経の火車のたとえに似ていると思います。



本来の信仰の原点は、神に対する、感謝と畏敬の念から出発して、その恐れ多いものに対しての敬いの儀式だけだったのではないのでしょうか。

お釈迦さまも、(雅春先生も、)結局、苦行は、全て無駄だったと、そのままの心、無為自然の心境となって、悟りを開かれたののだと思います。

いつも、乱暴な、言い方ですけど、組織の体質は、この「欲望」を絶えず喚起するような気がします。だから、ある形の宗教にかかわれば、結局「欲望」からは、逃れられないのではないかと、そんなことも考えます。


>ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。この意味では、既存の宗教の存在意義は、自然状態への回帰とともに、失われていくことになると考えられるはずでありますね。

宗教組織の求心力が落ちているのは、ある一面からすると、良い兆候なのではないかとも思えます。社会的な原因は様々、あると思いますが、人の意識の中にも、時代の変化が流れているので、新しい形を、無意識にでも望んでいるのかもしれません。

>生長の家は変容の時期をむかえていると、個人的には考えております。言葉の世界に閉じ込められた個人意識に救済はない。これが、変容を必要と考える理由であります。現教団の方向性は、ほとんど自覚はされてはいない内的な衝動に促されて、自然状態へと変容する方向へ向かっているような気がいたします。今はその過渡期であるということであります。

そのような流れが、見えてくると良いですね。

過渡期?と思われる、今の生長の家の方向で、全く個人的に、おおざっぱに、良い流れだと思ったこと。
原理主義発言は問題になりましたが、雅宣先生は、宗教による、いわゆるシニフィアンの暴走を非常に懸念され、この方向を防ごうとされたこと。
奇跡的な体験などについての言及をされず、ご本人の言葉や文章も神聖化されなかったこと。
自然に向き合うことで、自然への恐れ、を取り戻そうとされていること。
右脳的活動の推奨。
炭素ゼロ運動により、移動を少なくして、地域の小規模体制が強くなると考えられること。
数にこだわらない運動をしていくこと。

インターネットの活用なんですが、これは、組織のしがらみとか利害関係を超えて交流するのに、よい働きをしていると思います。
同じ志をもって繋がった有志が、社会への働きかけをしたり、(たとえばボランティアを募ったり)するようになってます。
今までの組織のような形にこだわらず、ネットの繋がりで場所や立場を超えて、ある意味ゆるい共同体のようなものができるのではないでしょうか。
自分の得意分野を生かして、そこで社会の働きかけや、人の役に立てたりする。
よい志をもっている、(特に生長の家の信仰をもつ仲間などは)そんなつながりが、出来るのではないかとも思います。

321さくら:2011/10/19(水) 21:55:35 ID:T/77sMGw
スレッド3>1396のトキ様

トキさま、出張されて、水臭いじゃありませんか〜
どうぞボードに書いてくださいな、笑。
(しかも、さくら宛に。)

>内村鑑三の「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」を読むと、アメリカと基督教の悪口が、これでもか、これでもか、と書いてあります。最初にアメリカに上陸して、友人がスリにあった話から始まり、最後は「これなら、異教徒のほうがマシだ」とすら書いています。そして、宗教が組織を持つ事の弊害を悟り、その中で、無教会派という立場になるのです。

これ、読むしかないですね、内村鑑三ほどの方が書いた宗教組織の悪口、読みたいです、笑。

>この問題への正解はわかりません。しかし、かってのように、一部の指導者のみが決定する体制ではなく、広く信徒の声が反映するような運営の体制が必要とされる時代になったと思います。

上にも書きましたが、ある面では、良い流れなのかもしれないですね。
新しい変革をなそうとする過渡期。わたしは、希望を持ちたい、と思っております。

322初心者:2011/10/19(水) 22:03:05 ID:4IaAZAME
役行者様

べつの板で何度か書きましたが、文化的状態へのひきこもりは、脳の構造に由来すると、わたくしは考えております。その構造とは、左脳と右脳の直結ということだけでなく、左脳の能力が飛躍的に向上したという点をあげることができるとおもいます。

自我の担い手であり、個人意識の担い手であるのが左脳でありますね。そこでひとつのアイデアが浮かんでまいります。それは、左脳の機能を低下させることができれば、自然状態に回帰できるというアイデアであります。

禅問答は左脳の機能を低下させるためのひとつの手段であると、わたくしは考えております。すでにこちらの掲示板でも書きましたように、わたくしはかつて、雅春先生の『無門関解釈』を読んだことで、左脳の機能が極端に低下するという事態に陥ったことがあります。自分がどこにいるのか、自分が誰なのか、それさえもわからなくなるという、そんな状態に、長期にわたって陥ったのであります。

むろんそれは、常時というのではなく、ときとしてそんな状態に陥るということでありました。さらに、意図的に左脳の機能を低下させるということもできていたようにおもいます。

左脳の機能を低下させると、たとえようもない幸福感につつまれることになります。脳内麻薬が大量に分泌されている。そんなような状態であります。しかも、必要なアイデアが、ひとりでに天から天下ってくるようにもなります。なにかのアイデアを欲するときには、意図的に左脳の機能を低下させます。すると、どこからともなく、最適ともいえるアイデアがあらわれてまいります。さらにはですね、あらゆるものごとを自分は知っているという感覚に満たされることにもなります。宇宙のすみずみにいたるまで、自分はなにもかも知っている。そんな感覚に満たされることになるのでありますね。

こうした状況が、おそらくは自然状態に近い状況であろうと考えます。しかし、これには問題があります。すでに述べたように、クルマを運転している最中に、通いなれた道であるにもかかわらず、どこを走っているのかがわからなくなる。突如として、途方もない幸福感につつまれて、自分がどこの誰であるのかさえもわからなくなる。こうした事態に、たびたび見舞われるようになったのでありますね。

これではですね、近代社会を生きていくのは困難でありますね。それでわたくしは、もとの状態にもどることにいたしました。完全にもどるのに5年かかりました。それでもなんとかもどることができました。自然状態への回帰。これは可能であるとおもいますが、近代社会を生きていくには、はなはだしく不都合な状態でもあります。さて、どうしたものでありましょうね。

323トキ:2011/10/19(水) 22:10:08 ID:6z/E1qmQ
>>321

さくら様

 いやー、失礼をしました。流れを止めるような気がしたので、あちらへ書きました。
スリにあった話は有名ですね。アメリカは基督教の國だから、理想の國だろうと考えていたら、
友人がスリにあい、それを見たアメリカ人女性から「アメリカにはスリが多いから気をつけろ」
と言われて、仰天する話です。それで、基督教の國、アメリカへの幻想が第1日目から打ち砕かれる
という話です。
 私も生長の家青年会に入って、生長の家青年会の会員に変な人がいるのを見て、仰天をした記憶が
あります。彼の気持ちはわかりますね。(笑)

 内村鑑三は、お金がないので、日曜日に教会に行って、異教徒だった自分が基督教に回心
する体験をします。するとお金がもらえるのです。これが、彼にとっては屈辱だったみたいで、
「自分は動物園のサイと同じような見せ物だった」と書いているのです。あちこちの教会に
行って、それをしてみたみたいです。こういう体験をしているうちに、段々と基督教が嫌に
なり、悩みだすのです。

 彼は、最後、人間は神の子である、と気がつくのですが、そこで、神ではない、と注釈が
つくのです。ただ、まだ、神様と人間に隔たりがあるような印象を持ちました。

 大事な事は、信仰生活の中で矛盾があったら、それに正面から立ち向かい、答えを見つける
事かと勝手に考えております。

324さくら:2011/10/19(水) 22:38:27 ID:T/77sMGw
>322
横から入って、つぶやきます。

初心者さまの個人的体験も非常に興味深いですね、
左脳の機能を意図的に低下させる、まあ、初心者さまなら、普通にやりそうです、笑。
普通の暮らしができない、のは、たとえ幸福状態、といっても、やっかいなことでしたね。


わたし自身は、当たり前のことができる、ということに、悟りの本質があると、感じています。単純すぎるけれど、ぐるっと回って、結局ここだということに、いたりました。
ふつふつとした感謝の心に満たされた幸福感。ここにある、という実感。
今生きること、を離れたところに、悟りがあるとは、思えなくなりました。

自然状態への回避の状態と、近代社会を生きることは、矛盾なく出来る道があるのではないか、と思いますが、どうでしょうか。

325役行者:2011/10/20(木) 09:43:43 ID:oS3yKmtw
>初心者さま

>>322

>近代社会を生きていくのは困 難でありますね。それでわたくしは、もとの状 態にもどることにいたしました。完全にもどる のに5年かかりました。それでもなんとかもど ることができました。自然状態への回帰。これ は可能であるとおもいますが、近代社会を生き ていくには、はなはだしく不都合な状態でもあ ります。さて、どうしたものでありましょう ね<

 分かるような気が致します。懐かしいことですが、こちらの板の誕生まもない頃から、初心者さまと訊けさんと三つ巴で、宇宙論から哲学にいたるまで、さまざまなテーマについて語ってきました。その経験を踏まえ、これから憶測で話しますが、初心者さまはもともと右脳が特に発達しておられたのではないかと・・・恣意的なのか、無意識なのか、人生の途中から左悩を駆使されるようになった。無門感解釈に触れ、その閉ざされていた右脳が活性化され、本人にとっては居心地がよいのですが、カルチャーショックからしばらく生活に支障をきたしてしまった。
 そして、戻すのに5年もの歳月をようしてしまった。
 やはり、普通のお方ではございません(^_^;
 おおいなるモノにより、経験させられている!そんな気がします。
 人生前半は縄文的世界、それから弥生は結構はやく通り越して、近代的知性にいたった!無門感解釈に触れたとき、その縄文的世界が再現されたが、あまりにも生活に支障をきたすので、縄文的感覚を記憶に留めながら、もとの状態に戻すよりほかなかった。
 考察してみますと、初心者さまの人生史と地球史の軌跡が合致するのです。
 
 これから未来のことに話を展開します。
 初心者さまが述べられたよう、右脳が活性化された状態で、近代社会を生活してゆくことは不都合なことが多いのではないでしょうか。

 ならばどのように折り合いを付けていけば良いのか?
 禅問答ですよo(^-^)oワクワク
しかし、さくら様も投げかけておりましたよう、難しいです。
 これは皆様の考えを伺いたいです!


 最後に、これはなんの史実に裏付けされてない勝手な憶測から述べましたので、その点、ご了承のほどお願い申し上げます。

326八百比丘尼:2011/10/20(木) 14:07:46 ID:j8iOdie.

場違いな話になるかもしれませんが、お許しを。
清超先生のご著書に『人生はドラマである』という御本があります。
この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを自作自演するのだ。と
書かれております。
私は考えます。
さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通りに演じているのだろうか?と。
私は、他人の目から見た幸福を演じているだけではないのだろうか。

親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して、良い夫、妻を演じ、
良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、また良い隣人を演じ続けて
いるのではないだろうか。
「良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっしゃる幸福なご家庭」
と言われること。
そういう舞台の上で私は演じ続けている。
本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく笑っている。
そうして、神さまが幕を降ろされる時までひたすら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける。
まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世界。
いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に、
「ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと
一緒になりたいな。」と言うのでしょうか。

楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨てて、私は何とつぶやくのでしょう。
お客さまに喜んでいただけて良かった。と心から言うのでしょうか?

シュレーディンガーの猫のたとえではありませんが、
生と死を半々に持った猫が顔を出すような気がしてなりません。
でも、結局は自分から望んでその舞台に立ったのは、私なのでしょうね。


  
         −−鈴夜 楽屋こぼれ話ーー

《 人は悪口に 「人三化七」なんていうが、
  ほんとうのことをいうと、比丘尼には悪いが 「人無化十」といって
  人間のほうに籍が遠いんだよ。

  世間をだまして生きていたって、いいじゃないか。
                     妖怪だもの・・・・・。》

327役行者:2011/10/20(木) 22:25:52 ID:n/FIBW6E
 合掌

 形骸化された言葉が織り成す世界というのは、どうしても建前と本音の二重構造の仕組みになってしまいますね。

 ですから、本心を隠す生き方が展開されてしまう。
 心の拠り所は、夜の世界に求めたり、既成宗教に求めたり、となるのだと思います。果たして、そこが安らぎかと云うと、決してそうともいえない!
 その挙げ句、このような近代という複雑怪奇な世の中が築かれてしまったのでしょう。


 >清超先生のご著書に『人生はドラマである』と いう御本があります。 この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを 自作自演するのだ。と 書かれております 。私は考えます。 さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通 りに演じているのだろうか?と 私は、他人の目から見た幸福を演じているだけ ではないのだろうか? 親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して 良い夫、妻を演じ 良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、ま た良い隣人を演じ続けて いるのではないだろうか 。良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっ しゃる幸福なご家庭 と言われること。 そういう舞台の上で私は演じ続けている 。本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく 笑っている。 そうして、神さまが幕を降ろされる時までひた すら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける 。まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世 界。 いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと 一緒になりたいな。」と言うのでしょうか? 楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨て て、私は何とつぶやくのでしょう。 お客さまに喜んでいただけて良かった。と心か ら言うのでしょうか? シュレーディンガーの猫のたとえではありませ んが 生と死を半々に持った猫が顔を出すような気が してなりません。 でも、結局は自分から望んでその舞台に立った のは、私なのでしょうね<


 最終的には、一人で生まれ、一人で死んで逝くのですから、自己責任なんでしょう!
 形骸化された言葉が織り成すこの世界にて、自分の描いた筋書きは、ほとんど建前の世界を演じているだけ。儚いといえば、儚いことです。楽屋に戻って、独りになったとき、淋しさがヒトシオ襲ってくるのでしょうね。

 ならばこの一生、本当の自分のドラマを演じたいものです。

 きっと、縄文時代というのは、建て前などなくても、人々が平和に楽しく、和気藹々と暮らせたのでしょうね。

 いつの頃から、この世は作意策略の跋扈する世界になってしまったのでしょうか。

 あの平安から鎌倉に時代が移ろうとしているとき、天下に名高い悲劇がありました。

 情を内に秘め理性の兜を着た兄・源頼朝と、情の弟・源義経の戦です。詳しくは義春さんに任せて、簡潔に書きます。
 武家社会が確立され、平和がもたらされる寸前のときでした。兄と弟の天下分け目の戦いが勃発してしまったのです。
 鎌倉にて兄頼朝は妻政子の北条一族に跋扈され、孤独のなか日々の暮らしを営んでおりました。
 遠く奥州藤原で和気藹々と暮らしている弟を想いながら・・・
  
 弟義経は純粋でした。仲間を大切にし、義と情をもって生きてました。縄文時代なら通用するのでしょうが、時は平安時代末期、策略渦巻く世界です。純粋さだけでは通用しませんでした。ある意味、それが悲劇をもたらしたと云っても過言ではありません。

 乗ってしまうのです。座布団のうえに・・・そして、甘い言葉の裏に隠された陰謀、策略を理解できず、兄と弟が和解しようとする寸前にいつも、嵌められ、その壁はますます高いものとなってしまったのです。二人の心に反して・・・

 そして、とうとう、お二方とも、まわりの囃しに頷くしかない状況に追い込まれてゆくのです。

 歴史に学べと先達によく云われます。なのになのに、学びきれず、同じ過ちを犯してしまうのが人間なのでしょうね。
 このような悲劇は、現代に至るまで、数限りなく繰り返えされてきました!

 そして今、このような魑魅魍魎の跋扈する形骸化された言葉の織りなす世界から、真理燦然と輝く世界に変わろうとする過渡期。

 我々はどのような人生ドラマを自作自演すれば良いのでしょうか?

328義春:2011/10/21(金) 00:55:17 ID:iu5Ar./Q
役行者様
 話を振られたので、書かせて頂きます。
何か歩く歴史辞典と化しているのは気のせいでしょうか?

 頼朝と義経ですね。
確かに頼朝と云う人は元来情が大変深い人です。
吾妻鏡でも最初は感極まって泣いてばかりです。
それから、毎日、父・義朝の供養に称名を1000回、又義朝と共に討たれた、
郎党の為に100回の称名を上げるくらいの情厚き方でした。

 しかし、頼朝は坂東に流されて、武士達の暮らしに触れ、彼等の為に生きる事を
決意します。そのために情を抑えないといけませんでした。
そして、理性の人になったのです。

 それだから、鎌倉政権の基盤になった縁戚の北条氏の顔色を常に伺う日々でした。
あるとき北条時政と仲たがいをして、時政が伊豆に帰った時は、物凄く狼狽するほどでした。

 それでも、義経と富士川の合戦で対面した時は、元来の性格を出し、
大変厚い歓迎をしました。それが、義と情の人・義経の生きる原動力になったかと
推察いたします。そして、義経はその情の赴くまま、平家を滅ぼします。

 しかし、平家討伐を成し遂げて、心に隙が出来ました。
その心の隙に後白河法皇が頼朝との仲を裂く為に近付いてきます。
そう、頼朝と義経の仲が良ければ、困るのは…大天狗・後白河法皇なのです。
天才的な政治家である頼朝と、天才的な戦術家の義経が組めば、できぬ事はありませんからね。

 だから、後白河法皇はこんな手を使ってきました。
京都生まれであった義経にすれば、後白河法皇は正に雲上の人、
それを熟知している後白河法皇は、事あるごとに義経に優しく接します。
優しくされる事で、義経は有頂天になってしまいました。

 そして、こう囁くのです。
「兄の頼朝は汝を認めておらぬな、可哀想にのぉ…余が位を授けて進ぜようぞ」
…と。

 義と情の人ではあったけれど、政治的な知恵が無かった義経は、
まんまと嵌められてしまいます。

 そして、義経は後白河法皇の担ぐ神輿に乗ってしまいます。
そういえば、平家討伐の綸旨は中々出さなかったのに、
頼朝討伐の綸旨は直ぐに出しましたね。
おそらく、後白河法皇の中では、坂東と京という分裂状態を作り出して、
その上で京側が勝利する事で、自分の天下にしたかったのでしょう。

 こうして、頼朝は坂東を守る為に義経を討たねばならなくなりました。
全ては義経の政治的な知恵の無さで…。
その義経の為に多くの武士が粛清に遭い、殺されています。

 そうして、義経も結局は奥州藤原氏の当主、泰衡に裏切られて衣川で殺されます。
…果たして、こんな結末で良かったのでしょうか?
私には悲劇としか言いようがありません。
全ては兄弟が真に通じ合っていれば…良かったのに…と。

 そして、歴史は往々にして繰り返すといいます。
まぁ…私はそんな歴史を見たくありませんね!
…そんな策略に乗せられてしまうなんて悲劇ですから。

329さくら:2011/10/21(金) 02:13:30 ID:T/77sMGw
合掌、スティックボードファンの皆さま(だれ?)、
現在スティック保持者、さくらです、

比丘尼さま、
役行者さま、
義春さま
いつもながら哲学的な考察から壮大な歴史の流れが展開されて、おりますね。

比丘尼おねえさま
劇団希望のさくらも、仮面なら、幾つも隠し持っておりますよ、
(そんな話じゃないですか・・。)


さて、私が、宗教組織の矛盾を感じていたことを、初心者さま始め、みなさまとの問答を通して、自分の気持ちとしては、少し整理ができたところがあります。
(上記、「さくら問答集」参照)
文化的状態へのひきこもりから、自然状態への移行の過渡期として現在の生長の家組織も、位置づけることとして、
では、今の方針の方向性はどのようなものかを見直して、可能性を、考えていきたいとおもっているのですが・・。
これは、どうでしょうか。

思い付きでも、どなたでも、自由なアイディアを話しあえれば理想なのですが、
どうなるか、分かりません。



リアルな仲間内でも、今生長の家を信仰するものとして、外部に提供できるものや、発信していける方法、その可能性の、具体化が大切であるとも考えています。

その中の一つなんですが、他の縁のある人の繋がり(とくに311以降意識の変化があった方も多く、方向性を同じくする方が増えているようです)を持つことや、個人の技能や個性を生かして(仕事や得意なこと)役に立つことなどを大切にして、有志が集まり、組織を超えて活動していくことなど、があります。

(その中でも話していますが、今までの組織で活動する時のお役の責任、などのように、あまり重い考えではなく、自分の楽しんで出来る、ある意味、軽さを大切にして、まず長くつづけられることも大切にしたいということもあります。
茶道のお稽古で、重いものは軽いように、軽いものは重いように扱う、ってありますが、
これは様々な物事扱うにも、応用できそうです。
僕たちは世界を変えることができない、というスタンスでしょうか。
立派な理念、ばかりが先立って、それをたいそうに実現しようとすると、身体が堅くなったり、重くなって、動けてないってことがあるので、だから、それはなしにしよう、ということです。)

自然状態への移行は、現代の私たちの無意識で求めているもの、
もしかしたら世界全体が、その方向へと流れているのではないか、ということも感じるところがあります。
やはり過渡期なので、問題は様々浮上していますが。

ですから、まず「自然状態」の理念、ありき。というだけでなく、
いま。現代社会の問題から与えられる気づきや、置かれた環境の中で、
出来ることを探していく、
これが本来の正しい流れに沿っているなら、
自然状態への道、となっていくのでとも考えるのですが、
いかがでしょうか?

330初心者:2011/10/21(金) 10:51:47 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

「僕たちは世界を変えることができない」。たしかにそうなのです。わたしたちは、世界を変えることができないのです。

主体と構造の一元論。これの意味がわかりますか。主体とは、個人意識。構造とは、世の中を、背後から、人知れず支配する強固な仕組み、とこのように考えればよいでありましょう。

主体と構造の一元論とは、主体はすでに構造のいちぶとなっており、その働きのすべてが構造のなかに取り込まれてしまっている、ということでありますね。この意味で、主体の働きは、そのすべてが構造の働きとして説明されてしまいます。

「世界を変える」とは、世界の構造を変えるということでありますね。誰が変えるのかといえば、主体である個人意識が変える、ということになります。しかし、すでに個人意識が構造に取り込まれてしまっているとすれば、個人意識が世界を変えようとする試みは、それ自体が構造の働きとみなされてしまうのでありますね。つまりは、構造が構造を変えようとしていると、このように見なされてしまうのであります。

構造が構造を変えることはできない。主体が構造を変えられるとすれば、それは、主体と構造を異なった存在とみなす二元論が必要となりますね。しかし、現代では、主体と構造を一体の存在とみなす、主体と構造の一元論が、圧倒的な支配力をにぎっているのでありますね。

ビクニねえさんは、「舞台の上で私は演じ続けている」と書いてらっしゃいますが、これは、「私」が存在するという二元論的な見方でありますね。事実はこれとは異なっているとおもわれます。「舞台の上で私は演じさせられている」。これが一元論的な見方ということになりますね。仮面の下にかくすべき「本当の心」。そんなものはどこにもない。あるのは構造のみ。これが、主体と構造の一元論であります。

僕たちは世界を変えることができない。なぜなら、「僕たち」とは、それ自体が「構造の効果」として説明されてしまう、見せかけの存在だからであります。僕たちにできること。それは、構造であることにとりあえずは抵抗してみせるという、むなしい身振りだけなのでありますね。

331トキ:2011/10/21(金) 14:22:17 ID:/gHI5BnI
トーキングスティクで書くべきではないかもしれませんが、ご招待をいただいたので、とりあえずはここへ書きます。

 組織運動で気になっていたのが、専従職員という存在です。もちろん、本部講師になって、管理職になる人もいますが、
大半の職員は、事務職として教区で走り回ったり、道場でパソコンを叩く、という生活を送ります。今回は本部講師には
目をつぶり、この一般職員の事を考えてみます。

 一般信徒が一番、接するのが、この一般職員ですが、いろいろと話を聞くと、考える事が多いです。
最初に断っておきますが、職員の大半は、薄給にもかかわらず、献身的に頑張っており、頭が下がります。
 しかし、問題点がない訳ではないです。少し箇条書きにしてみます。

 身分が不安定という話はたまに聞きます。(もちろん、昔に比べたらずっと待遇はよくなったのですが。)あと、
部内でのセクハラ、パワハラの話を聞かない訳ではないです。上司が変な人で、問題のある言動をしても、部下は
泣き寝入り、というケースも聞いた事があります。逆に、管理職の人が部下に何気なく言った冗談を本部に密告され、
降格になった人もいるので、このあたりは少しちぐはぐな感じがします。

 給与で気になるのは、教区職員と本部職員との差です。同じような仕事をしているのに、この差は何だ? と
感じる事があります。また、教区職員でも、大きな教区の職員と小さな教区の職員では給与にすごい差があり
ます。一生懸命働いている人と、怠けている人でも、あまり給与の差がないので、納得できない、という話も
聞きます。

 職員への研修体制が、まだ不十分だと感じます。特に教区の場合、採用したら、研修なしですぐにその日から
仕事につくケースが大半です。社会経験のある人なら問題はないですが、あまり社会経験のない人がすぐに勤務
につくと、やはり信徒さんから苦情が来る場合はあります。言いにくい事ですが、信徒さんに横柄な態度をとる
職員はいます。一般論として、企業が社員への研修にお金も時間も使っている事に比べると、生長の家教団はこの
点はこれからだと感じます。

 職員の採用で、こんな話を聞いた事があります。教区の場合、職員の採用には教区五者の承認が必要になります。
たまに教区五者からの推薦で職員の採用試験に来る場合があるが、職員としての資質に欠ける人が推薦された時には
対応に困る、と教区の事務局長が話しておりました。

 職員の場合、労働基準法が適用されますが、活動家は奉仕なので、法律の適応外です。すると、職員が定時で帰り、
活動家が深夜までがんばる、という光景が見られます。この点は、活動家としては、少し納得ができない話です。

 こういう問題点の他に、もっといろんな問題点があると思います。やはり、話し合いを開始して、職員さんも信徒
さんも、互いに納得できるような勤務体制を作る事が大事かと思いますね。

 以上、とりとめもない話ですが、御許し下さい。

合掌 ありがとうございます

332さくら訂正:2011/10/21(金) 14:25:30 ID:ffRoNxFc
初心者さま

少し寝不足ぎみでして…どうも個人的感情に走っていまして、失礼で、粗い表現がありましたら、お許しください。

初心者さま、私は、正直表面的なことばかり突いて非難しあったりするのは、もううんざりするんですよ。
限界を感じて新しい道を模索しようとしているのに、誰がこう言った言わない、そんなことばかりに、立ち止まってたりすると、正直、シラっとします。
なぜ、真髄が流れていることを、そんなにも、信頼しないのでしょうか?なぜ、そんなに恐れているのでしょうか。

自分の思うような姿が、人や物事に現れたら、この世の成功ですか?
世の中を理想の世界に変えようとする、変われば、成功ですか?

本当は、この世で経験している、それ自体が成功、とは、言えませんか?

「見せかけの存在」の「むなしい身振り」結構じゃないですか、
自分の本体は、それを楽しむために、ここへ来たのではないのですか?

初心者さまは、生長の家では、決して教えて下さらなかった面での、世の中の構造や、心理や
哲学的真理を語って下さいます。ある意味、「生長の家」が、目をつぶって来た大切な視点がたくさんあります。
それを以前「生長の家」でないもの、と表現がなされていたこと、ありませんでしたか?生長の家は大宇宙の真理と雅春先生は、いわれたのに、違う視点での指摘をそのようにいう事に違和感がありました。
自分を守るため不都合なものから目を逸らすのは、いつも簡単ですね。

今日はどうか分かりませんが、…また、出直して参ります。
初心者さま、よろしくお願いいたします。

さくら  拝。

333初心者:2011/10/21(金) 15:45:45 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

文化的状態とは個人意識の時代であるはずですから、個人意識をどうするか、ということが、ひとつの課題として出てまいりますね。「個人意識はない」といって片付けることもできますが、だからといってどうなるものでもありませんね。現代人の魂がかかえる問題とは、個人意識の時代をどう生きるか、という問題でもあるはずです。この点をふまえて、今は、個人の信仰のあり方、組織としての活動のあり方を考えるべき時代であるという気がいたします。

共同体をはなれた個人はいかに生きるべきか。これを問題にしたのが、ヘーゲルの『精神現象学』であったといわれています。この意味で、ヘーゲルに学ぶことは少なくないとおもいます。ヘーゲル自身は、神の絶対観念の展開としての現象世界を想定していたはずですが、コジェーヴの解釈によれば、これが、「他者の欲望を生きる個人」が、「主と奴の相剋の弁証法」をとおして自由を獲得し、歴史を終焉へとみちびく過程として描かれることになるのでありますね。

ヘーゲルのみならず、多くの先人たちが、個人意識の問題で思い悩み、格闘してきたはずであります。ですが、生長の家では、これを「ない」のひと言で片づけてきたのでありますね。「ない」といってみたところで、個人意識の問題が解決されるわけではありません。欲望を持ちながら欲望はないと否定することで生じるダブルバインド状態に代表されるような矛盾が、いたるところで噴出し、蓄積されてきたはずであります。本流掲示板の方々の、あの断末魔の叫びともいえる抵抗は、蓄積された矛盾をなにがなんでも認めようとしない人々の、最後のあがきであるともいえそうですね。

ここへきて、教団内部の若い人々のあいだで、古い因習にとらわれずに、個人意識の時代を積極的に生きてみようとするような、新しい動きが出てきているようにも感じます。「見せかけの存在のむなしい身振り、結構じゃないですか」といえる人たちが、生長の家にもようやくあらわれてはじめたのでありますね。

本流の方々というのは、「見せかけの存在のむなしい身振り」を否定することで信仰的態度を保ってきた人たちばかりでありますね。こういう人たちは、「構造化された意識」を否定するよりほかに、信仰の道を確立する術を持たない人たちでもあるのですね。これにたいして、若い人たちというのは、理念だけでは世の中のあり方を説明できないと知り、知るために「構造化された意識を、むしろ積極的に生きてみようじゃないか」とおもえる人たちであり、「たとえ構造化された意識どうしの関係であったとしても、新しいなにかが発見できる」と信じることのできる人たちでもあるということですね。

生長の家が転換期にあるのはたしかでありましょう。転換期とは、いつの時代にあっても、抵抗勢力が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時期でもあります。抵抗勢力は、やがてその意に反し、「消え行く媒介者」として、大いなる役割を果たすことになるでありましょう。若い人たちの活躍が、転換期においては、ことさらに重要になってまいります。古い因習にとらわれずに活動できる環境が、現教団において徐々にととのいつつあるのを感じます。

334さくら:2011/10/21(金) 15:47:28 ID:ffRoNxFc
トキ様

書き込み、感謝いたします。
ありがとうございます。

知り合いが、生長の家の仲間とボランティアチームを作り他の団体のボランティアなどに参加していたところ、非常にチームワークや雰囲気がいいと、いつも評判だったようです。やはり行事の経験がやくに立ったのと、生長の家の実践が光っていたみたいです。
そのチームには、他のボランティア団体の経験者がいてコーディネートなどのノウハウがあったのも、スムーズにいったみたいです。

生長の家の信仰を持って、社会や外部のノウハウ、教育研修や経験をしっかり取り入れて組織が整っていけば、素晴らしいですね。

内部だけで通用することなどの問題や、奉仕で成り立っていることなどで起こる問題点など、ただの不満に終わらせず明らかにして、他の組織のいい点を取り入れて変わっていくとよいとですよね。

やっぱり、変わる過程では、旧い体制との摩擦はある程度あるのでしょうね。
変わる過程では、色々ありますよね。

335さくら:2011/10/21(金) 15:49:31 ID:ffRoNxFc
18行目 よいとですよね→よいですね。

(ため息)

336頑張れ:2011/10/21(金) 16:40:09 ID:2tqnPiu.
    ,. ‐''三ヾ´彡シ,=`丶、
     /'".:=≡ミ_≧_尨彡三:ヽ、
    //.:;:彡:f'"´‐------ ``'r=:l
    /〃彡_彡′,.=、 ̄ ̄ ,.=、 |ミ:〉
   'y=、、:f´===tr==、.___,. ==、._ゞ{
   {´yヘl'′   |   /⌒l′  |`Y}
   ゙、ゝ)       `''''ツ_  _;`ー‐'゙:::::l{   あきらめたら
.    ヽ.__     ,ィnmmm、   .:::|!   そこで試合終了ですよ・・・・
  ,.ィ'´ト.´     ´`"`"`゙″ .::::;'http://goo.gl/GfvqM
イ´::ノ|::::l \         "'   :::/
::::::::::::|:::::l   ヽ、      ..::  .:::/.、
:::::: ::: |:::::ヽ    ヽ、.......::::/..:::/!\\
::::::::::: |::::::::ヽ    ``''‐--ァt''′ |!:::ヽ:::\
:::::::::::::|::::::::::::ヽ、       /i|iト、  |l:::::::ヽ:::::\
:::::::::::::|::::::::::::::/:ヽ、   ∧|i|i|i|〉. ||::::::::::ヽ:::::::\

337トキ:2011/10/21(金) 17:16:18 ID:/gHI5BnI
>>334

さくら様

 教団外のボランティアをすると、生長の家以外の人とも話をします。ボランティアの相手方が創価学会の人で
あったり、共産党の活動者の方という事例も実際にありました。共産党などは、党規約2条というのがあり、
日本共産党部内の話題を外部の人間と話してはいけない、という拘束があるので、あまりお話はできません
でした。ただ、肩書きとかにこだわらずに一生懸命していると、仲良くなります。すると、立場は違うけど、
いい人なんだな、という感じがして、やたらと喧嘩をするような気持ちは薄れてきます。また、彼らにしたら
「ファシスト」「仏敵」の生長の家の人も、同じ人間なんだ、という事がわかり、戦意を喪失するみたいです。

 まあ、こういう事を書くから、本流掲示板からは、攻撃を受けるのでしょうが。

 ただ、生長の家という組織の中でいる限りは、組織内の常識とか価値観がそのまま通るかもしれませんが、
組織の外に出たら、生長の家の常識とか価値観とかは通用しません。あくまでも、1個人であります。すると
1個人として勝負をするしかありません。その時に、頼りになるのは、自分の見識とか人格、そして信仰なん
です。組織外に出て、誰かと話をすると、相手も馬鹿ではないですから、こちらの人間性などは見抜かれます。
私などは、いい加減な人間ですから、世間からは信用はされませんが、他の優秀な人を見ていると、社会の一線
で頑張っている人がたくさん生長の家にもいて、そういう人の信仰は、浮ついていない、しっかりしたものだと
いう事がよく分かります。

 そもそも、生長の家という組織というものが、何のためにあるかと言えば、生長の家という運動のためにあり
ます。生長の家という運動が何のためにあるかと言えば、生長の家という信仰のためにあります。生長の家という
信仰が何のためにあるか、というと、人間の幸福と国家の安泰、世界の平和のためにあります。だとすれば、
講習会の受講券を購入するとか、聖使命会員を増やすのは、「手段」であり、「目的」ではないはずです。それ
が、今では、「手段」と「目的」が逆転していると思えます。このあたりの倒錯が、生長の家という組織の問題点
であるのかもしれません。

 だとすれば、組織も運動も、あくまでも「手段」である事を考え、本当の目的は何であるか? という原点に
戻って、組織や運動のあり方を考え直す必要はあるような気がします。

 と、柄にもなく、真面目な事をもうしました。

合掌 ありがとうございます

338義春:2011/10/21(金) 22:14:10 ID:SjZg29/2
まぁ…私からも宗教と組織について書いてみますか。(まぁ…あんまり関係ないかもしれませんが)

私には創価学会二世の友人がいます。
まぁ…あちこちでサヨクぶっ叩いたりして暴れまわっていた頃に仲間になった良い奴なんですな。

…で、その子は学会に対して、どうなのかと言うと、物凄く嫌悪感を示すのです。
それこそ、学会嫌いな私でも、そない言わなくても…と言ったりするくらいです。

それで訳をじっくり聴いていくと…考え方の強要が彼にしたら、大変、腹立たしいみたいなのですね。

彼に聴くと、学会も二世・三世になると、親の付き合いでやってるとか、色々なんだそうです。

それで、その種の事は生長の家でも見掛けたりします。

教えは良いけれど、親の姿を間近で観ていて組織には関わりたくない…そんな事を見聞きもします。

私個人も、最近は距離を置いています。
まぁ…・・・私の場合、私が滅茶苦茶過ぎて、組織に迷惑をかけているからですが(笑)

まぁ…反省はするも後悔はしますまい。これも一所懸命に生きた人生故のこと。

それから、もう一つあるなら、展望が見えないのですな。

それをやる事で何があるのか?理念や目的や、そして、それをやって、具体的にどんな結果を見せてくれるのか?

それが非常に見えにくい…眺めていて、そんな事を感じます。

もっと熱い言葉を!何を願っているのかを、魂の言葉が必要なのかもしれません。
良い媒体があるでしょう、もっと活用なさいませ。

339義春:2011/10/21(金) 22:16:30 ID:SjZg29/2
字数に引っ掛かりました。最後を書き換えます。

もっと活用したら良いなぁ、そんな事を思ったりしますなぁ…。

340義春:2011/10/21(金) 23:46:02 ID:SjZg29/2
義経に関しての書き足りない部分がありました。

まぁ…源平合戦の終盤は平家の地盤である、西国でした。

この西国の地形は、坂東と違い、広大な平野がなく、坂東武者の得意とする騎馬戦は使えません。

又、海軍がないので、海軍主体の平家には勝てないだろうという予測もされる程でした。

現に義経の異母兄の範頼は大苦戦しています。それだから、もしかすると、日本は東西分裂もあり得ました。

その中で義経は出陣します。
一ノ谷、屋島…そして、檀ノ浦と奇抜な戦術で勝利を重ねます。

確かに、奇抜な戦術でした。
一ノ谷では背面奇襲。
屋島では荒海に乗り出して本陣奇襲。
檀ノ浦では掟やぶりの漕ぎ子を攻撃。

…ですが、それだけではありません。
彼の熱意が軍全体に伝わったからだと存じます。

組織とは人あって動くもの。
組織あって動くものではありません。
今、流行りの組織論を観ると、これを勘違いしたものを見掛けますが、それは違うと想います。

確かに、言葉の暴走は厳に諌めねばなりませんが、将の想いが一人一人の兵に感染して、初めて闘える組織になるのです。

それを見極めた義経の様な熱い人が、今の世の中に必要とされている様にも感じるのですけどね…。

341義春:2011/10/21(金) 23:54:16 ID:SjZg29/2
>>340
補足
まぁ…感染というより共有ですね。どんな願いを共有するか?その先には何があるか?これって大事な気もするんですけどね。

342義春:2011/10/22(土) 00:54:52 ID:iu5Ar./Q
 やっと家に帰ってまいりました。
それで、先ほどからの私の文章を踏まえつつ、
>>333での初心者さまの御文章での個人意識について、未熟ながら
思う所を述べさせていただきたく思います。
正直なところ、纏まっていません。
ですが、書く事で、それも纏まる気も致します。

 上の安西先生も仰っているではないです。
「諦めたら、そこで試合は終了だよ」って。
悪戯か何かでしょうが、良いAAを貼って貰って、少し励みになります。


 確かに、私も色々な事に悩みます。
まぁ、私の場合は普通の人よりも悩む事は多く、正に悩める人間であります。
確かに、先輩方には色々辛らつなご意見を賜る事も多いです。

 ですが、それでも、私はこの自分の意識が仮の物と分かっていても、
これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる。

少なくとも、その人生は仮じゃない。

その中で、何か一つでも為せたり、発見できたらもうけ物だと思います。
まっ、私の場合、26で此の身体は死ぬべきところを、29まで現存させているだけでも、
十二分に愉しんでいますけどね。

 そして、人と云うのは、物質的には孤独な存在です。
大地に寝転がってみると、温かく感じるものです。
先ほど、熱さについて書きましたが、その熱で人は活きるのです。 
人間が本来のところより流れてくる願いや祈りであれば、
熱狂とか、暴走とかではなく、自然のままにあるんじゃないかと感じるのです。

 だからこそ、縄文的な意識で、思いを共有し、その中で、仮初の意識でも
個人個人の意識と云うのが個性のある特性を発揮する…そう私はかんじています。

 …だめですね、ほんと、纏まってないですわ。

343初心者:2011/10/22(土) 09:22:40 ID:4IaAZAME
義春さん

>ですが、それでも、私はこの自分の意識が仮の物と分かっていても、
これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる。
少なくとも、その人生は仮じゃない。

コジェーヴによれば、ヘーゲルは、人間存在を「否定性」としてとらえた、おそらく人類最初の哲学者となるようです。不勉強でよくはわかりませんが、カントにもそうした傾向があったような気もいたします。

「否定性」とはなにか。これもやっかいな概念ですね。ジジェクがこの言い回しを好んで使います。わたくしなりに解釈すれば、「無を自分とおもえる存在」、これが「否定性」としての人間存在の本質ではないか、という気がしています。

簡略にいえば、「無」という否定性を肯定できる、これが「否定性」の概念であるようにおもいます。現象はない。これは否定性によって世界や人間を理解しようとする態度ですね。そして、この否定性を否定する。つまりは、現象を無価値のものと考える。これが仏教的態度であり、生長の家では、無意識のうちにそうした方向へと向かってしまわざるを得ないような精神的態度、ということがいえそうでありますね。

「否定性」を肯定するとは、「無でもよいではないか」とする精神的態度であると、わたくしは考えます。「現象なし」とする否定性にたいしてさえも価値を見いだす。こうした精神的態度が「否定性」の概念にはふくまれているように感じます。

ジジェクの著書に『否定的なもののもとへの滞留』があります。ヘーゲルは、『精神現象学』の序論で、「精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を、絶対的分裂のうちに見出すときのみなのである。この否定的なもののもとへの滞留こそは、それを存在へと展開させる魔法の力なのである」と述べているようです。義春さんが、#342の投稿でいわんとされているのは、この「否定的なもののもとへの滞留」ということではないかと理解いたしました。

ところで、ここでいう「絶対的分裂」とはなんでしょうか。我田引水ともいえる解釈をすれば、「絶対的分裂」とは、自然状態との分裂であり、共同体意識とのそれであり、神や実相にたいしてさえも分裂しているという意識のありようである、と考えることができそうです。

じつはそこにはなにもない。これが絶対的分裂の状態ということになりますね。そして、そのことを知りながら、それでもあえて、その「なにもない」場所へと滞留することによってこそ存在は展開される、と考えるのが、「現象なし」の言葉で語られる否定性を肯定する生き方、つまりは、「現象なしでよいではないか」と考える生き方、ということになるのではないかと、わたくしは考えるのでありますね。

これが、義春さんがいっておられる「これを一所懸命に生きる事で、貫く事で、仮じゃなくなる」ということではないかという気がいたしますね。「現象なし」と否定してみせるのではなく、あえてこの状態にとどまることで、そこに存在を展開させる。これが、現代的な個人意識が存在する理由でもあるような気がいたします。

文化的状態とは、否定的なもののもとへと、そうと知りながらあえて滞留してみせる、ということでもあるのですね。そうなると、自然状態への回帰をどうとらえるのか、という問題が出てまいります。文化的状態へととどまりながらも自然状態を実現する。こうした、究極のダブルバインド状態ともいえる難題をどのようにして克服してゆくのか。これが現教団の、ことに若い人たちに課せられた課題であるのかもしれません。どうやら、義春さんには、答えが見えてきているようでもありますね。

ここに書いたことは、まだ結論が出たことではないので、義春さんやさくらちゃん、そしてほかの方々にも一緒に考えていただければという気がいたします。

344トキ:2011/10/22(土) 11:23:19 ID:tIAElqys
 生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  3 で、琴音さんが天理教のお金もことを書いておられるので、
少し「お金」の話をしたいと思います。

 日本共産党があと数年で消滅する、と言われています。その根拠は「赤旗」が毎月1億円の赤字を出している、という
事です。しかも、最近はその赤字が増えており、毎月2億に迫る勢いだそうです。(本流復活派の皆様、喜んで下さい!)
 共産党の参議院議員だった筆坂秀世氏によると、赤旗拡大月刊を儲けて拡大活動をしたら、逆に減った、という漫画のよう
な話もあります。(「日本共産党」新潮新書 P57)

 もともと、共産党は、機関紙の使用を戦略的に重視していたみたいです。前の共産党に指導者だった宮本顕治さんの時代
に、赤旗を拡大し、それで宣伝をすると共に、活動費にする、というビジネス パターンが成立したのも大きかったと思います。
ところが、共産主義の崩壊後、共産党は大幅な勢力の後退を始めます。その中で、赤旗も減部を続け、ついに巨額の赤字を
出すに至ります。ところが、赤旗を活動の中心にしてしまったので、今更、赤旗の日刊発行を止める訳にはいかないのです。
その上、今まで、他党の政党助成金の受け取りを散々、批判したから、政党助成金の受け取りもできない、窮地に陥って
いる訳です。

 次に創価学会に目を転じると、彼らは「財務」という名目での献金を定期的に行っているみたいです。創設当時は、
裕福な人だけを選んで、財務部員とし、彼らに寄付をさせたようですが、今では、会員の大半に「財務」を強制する
ようです。そして、その金額も、何百万、何千万という単位になっているようです。聖教新聞に至っては、一人が何部も
購読するというのが普通みたいです。何故か? そうすると「功徳がある」という説明をされているみたいです。
 おかげで、創価学会の会員には、夜逃げをする人が続出する反面、創価学会の総資産は1兆とも10兆とも
噂をされています。(創価学会とは何か? 山田 直樹 (著) 新潮社)

 さて、生長の家に目を転じると、生長の家の「ビジネスモデル」は、聖使命会員制度と講習会です。
このうち、聖使命会員は、今、急激に減少しております。講習会も教区の貴重な収入源でしたが、それも今回の
強制割当禁止で、収入源としては見込めません。内部留保がたくさんある本部は、まだ痛痒を感じないかもしれ
ませんが、教区は結構、不満を感じております。講演会も禁止、普及誌も魅力がない、となれば、中には独立を
考える教区も出て来る可能性はあります。

 実は、宗教法人法を調べたのですが、包括関係から離脱、つまり教団からの独立を画策しても、責任役員(つまり
教化部長)へ不利益な扱いをすることを明文で禁止しているのです。(宗教法人法78条 (被包括関係の廃止に係る
不利益処分の禁止等))。

 これを防ぐには、方法がいくつかあります。今の生長の家には、宗教本来の魅力はありません。絵手紙や環境
が悪いとは思いませんが、これはあくまでも「おまけ」です。それをなくして、どんな機構の改革をしても、
信徒は、運動をしようとは思いません。講習会を始め、普及誌なども、もっと信徒の意見を取り入れるべきだと
思います。(左翼運動の経験者が話しておりましたが、左翼系組織では定期的に、無記名アンケートや会員の意識調査
を実施し、部内の世論を調べているそうです。)

 もう一つは、今までとは違う、「ビジネスモデル」を構築する事です。教区が今、着目しているのが、練成会です。
これは、ある程度の収入が見込めます。講演会もある程度の条件付きで、復活してもよいと感じます。

 あと、大事なのは、本部と教区がもっと対話をする事です。お互いに、相手に不信感を感じております。これは
良くない事です。相手の良い分を謙虚に聞く姿勢が大事だと感じます。

 以上は、ざっと考えた事なので、欠点が多いと思います。御許し下さい。

合掌 ありがとうございます

345さくら:2011/10/22(土) 13:24:59 ID:.VaT7b3.
初心者さま
トキさま
義春さま

ありがとうございます。

初心者さま

初心者さまのおかげで、私の相変わらずの暴言も昇華?され、どうにか気持ちのまとまりがつきますね。
感謝の念にたえません。

>この点をふまえて、今は、個人の信仰のあり方、組織としての活動のあり方を考えるべき時代であるという気がいたします。

個人意識の時代をどう生きるか。
それを、宗教においても、掘り下げて考えていけなくては、
若い人なんて、どんどん離れるのは当然だと思います。

例えば、本流対策で、初心者さまが、天変地異と「心の法則」についての指摘をされておりました。
宗教は、真理をうたって、実は「何も語れない」ということになってはいないか、その様なことも考えます。
先日、仲間のなかでも、私たちが何を語れるか、を話しました。
経験が少ないので、まず行動を大切にすること。
学ぶこと。
正しいと思えることを、自分の言葉で伝えられること、など。
…学ぶこと、なのですが、これは、初心者さまが指摘されますように、
共同体をはなれた個人はいかに生きるべきか、いま、それを語る言葉がなくてはならない、と、思うようになりました。
ヘーゲルの『精神現象学』やジジェク『否定的なもののもとへの滞留』などを学んでいくことは、大きなヒントになりそうな気がします。こうした視点からも話が出来る、青年会、いいですね。
(義春さまも、ご自分の経験からくるセンスや歴史の深い洞察によって、自分の言葉を持って語れる素晴らしい青年です、生長の家の力になって頂きたいですね。)

>ここへきて、教団内部の若い人々のあいだで、古い因習にとらわれずに、個人意識の時代を積極的に生きてみようとするような、新しい動きが出てきているようにも感じます。「見せかけの存在のむなしい身振り、結構じゃないですか」といえる人たちが、生長の家にもようやくあらわれてはじめたのでありますね。

はい、生長の家の新しい力になると、希望を持ちたいです。色々非難されますが、意識の高い若い子は多いと思います。ただ、いまの生長の家の中で、方向を見失っている、ということがあります。

>文化的状態とは、否定的なもののもとへと、そうと知りながらあえて滞留してみせる、ということでもあるのですね。そうなると、自然状態への回帰をどうとらえるのか、という問題が出てまいります。文化的状態へととどまりながらも自然状態を実現する。こうした、究極のダブルバインド状態ともいえる難題をどのようにして克服してゆくのか。これが現教団の、ことに若い人たちに課せられた課題であるのかもしれません。

私は、これを今までのように、「理念まずありき」のような態度だけでなく、行動することや自分の学んだ言葉で考えることで、可能性が広がると感じています。
これを具体化するために、広く対話ができれば、と感じています。

とりあえず、書き込みしました。

他のコメントは、あとで読ませて頂きます。
またよろしくお願いいたします。

また、いまのおしえの方向性をまとめたいのですが、ちょっと時間ないので、またあとで。

346さくらモノローグ:2011/10/22(土) 21:36:04 ID:.VaT7b3.
もううんざり。となんども思った。

宗教団体、にかかわったことなんか。

だから、あえて、宗教団体、を選んだ。

私には、うんざりするくらい、付き合わないといけないから。

347義春:2011/10/22(土) 21:52:01 ID:iu5Ar./Q
初心者さま
 1日、この究極的ダブルバインド状態について、どうすれば良いのか考えてみました。
文化的状態、ひきこもりの状態とは文明つまり現在意識という意識レベルでの
自分のうちにとじこもることであろうかと想います。

 それで、解決策がこの【自分のうち】、【自己】という範囲かと存じます。
今の現代文明での【自己】とは他人の関係性について、非常に冷たくなっております。
それから考察すると、【自己】という範囲が非常に狭くなっているように感じます。
それだから、その【自己】という範囲を周りの人ばかりではなく、空気や水にまで広げる
…それが自然状態への回帰の第一歩になるかと存じます。

 但し、これは擬似的なものになろうかと私は仮定しております。
なぜかと申しますと、個人意識…私は個々の現在意識と訳しておりますが、
これは無力であります。絶えず、他者の大文字・文明の影響下にあるからです。
(言い回しがおかしいかもしれませんが)この文明自体が縄文的なものに変わらない
限り、個人意識も変わらない…そう感じるのです。
だから今はその過渡期にあたるかと感じております。
現代文明自体が後ほど述べるように旧約聖書の誤読であるので、神の心に叶わぬから、
行き詰まっている、その具体的なものとして東日本大地震における福島原発事故になるかと
存じます。
 
 そして、縄文的な文化とは何か?私はそれは人間と自然の調和であり、
科学技術も現代文明では、大量生産・大量消費・利便性を重視したもので
ありますが、これからは【自己の内面】の為に活かされるものになるかと
個人的に予測しております。
 
 そして、その基調に流れるのは、【人間は自然と共にあり全てとつながっている】
そうなろうかと存じます。それだから、現代文明…例えば、原発のように、
自然を汚染するなんていう考えとは根底から違ってきます。
現代文明は旧約聖書で神が治めよと示したものを【物質】と解した事から、
発生したものであると私は考えています。
恐らく原典ではその示したものは【霊】であると私は予測しております。
それだから、人間至上主義的な自然から乖離したものではなく、全体で以て、
1つであるとも予測しております。

 それが具体的に現れる1つのきっかけになるのが…
【スマートグリッド】というものではないかと私は考えています。

【スマートグリッド】とは:次世代送電網とは、電力の流れを供給側・需要側の両方から制御し、
最適化できる送電網を指します。
大まかに言えば、
1.ピークシフト(昼間電力消費の一部を夜間電力に移行させる方法)による
電力設備の有効活用と需要家の省エネ
2.再生可能エネルギーの導入
3.エコカーのインフラ整備
4.停電対策

この4点になります。
(参照:http://www.kankyo-business.jp/topix/smartgrid_01.html)

 先日、テレビで初めて知りましたが、12月に三菱重工が試験的に運用するそうです。
これは再生可能エネルギーを活かしきる技術になろうかと感じております。

 そして、生長の家でも、森のオフィスを通して、再生可能エネルギーを使います。
具体的には北杜サイト太陽光発電所になりますが、これを用いて本部の運用をしていくので、
このスマートグリッドの実用例になろうかと考察しております。
(それから、北杜市がこれを為せたのは、かの地の立地条件にあります。
北杜市は日本でも有数の日光があたる土地なのですね。
だから、大規模な太陽光発電所が作れたのです。)

  このような所から全体を以て1つとする、自然状態への回帰・縄文的な文明
が現れていくのだと私は感じております。

348さくら:2011/10/23(日) 05:57:40 ID:.VaT7b3.
トキさま
>346削除願います。

初心者さま
わたしは、しばし、沈思黙考した方が、いいかもしれません、が、
まだ、助けて頂きたいことが、たくさん、あります。
まだスティックは、持ってます、

349初心者:2011/10/23(日) 08:32:26 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

宗教団体。たしかにうんざりすることがありますね。

変われない人たちばかりが集まってます。変わろうとする人たちにとっては、
たしかにうんざりするよりほかはない人たちばかりです。でもね、現教団は
変わろうとしているような気がします。変わりたくない人たちがジャマを
はじめてます。仕方がいなことです。変われる人たちだけでやってくいしかない。
そういうことなのだろうとおもいます。

350初心者:2011/10/23(日) 08:37:54 ID:4IaAZAME
義春さん

わたくしの発想源のひとつは、心理学者のアーノルド・ミンデルです。そのミンデルに、「小さな自己」と「大きな自己」の思想があります。「小さな自己」とは、肉体にひきこもった個人意識ですね。「大きな自己」とは、個人意識が認識できる外的世界のすべてをさします。個人意識が見ているもの、それもまた、じつは自分なのだと、ミンデルは主張しています。

ここでもなんどか書きましたが、ミンデルの発想は、その多くが現代物理学の、とりわけ量子力学に負うところが少なくありません。ドリーミングは、ミンデルが好んで使う用語ですね。ドリーミングとは、大宇宙からの働きかけであり、それは量子波動方程式によって示されている、というのが、ミンデルのおもな主張であるようです。

ですから、

>それだから、その【自己】という範囲を周りの人ばかりではなく、空気や水にまで広げる
…それが自然状態への回帰の第一歩になるかと存じます。

をミンデルふうに言いかえれば、【自己】の範囲は、宇宙全体に拡大するのが自然であり、むしろそれがほんらいのあり方ということになるのでありますね。

ただ、ミンデルには限界がありますね。その限界とは、ミンデルがユング派の心理学者であり、フロイトからラカンにつらなる系列にかんしては、まったくの門外漢であることからきているようにおもいます。

フロイトからラカンにつらなる系列とは、言語を重視するという系列ですね。ミンデルには、言語を重視するという発想がありません。量子波動方程式によって示される世界とは、言語以前の世界です。言語以前の世界と、言語以後の個人意識の内的世界は、それはつまり自然状態と文化的状態と言いかえてもよいものなのですが、これら両者は、ともどもに、言語によってどうしようもないほどに分断されています。こうした認識がミンデルには欠如している、ということがいえるような気がしてならないのでありますね。

このことが、

>但し、これは擬似的なものになろうかと私は仮定しております。
なぜかと申しますと、個人意識…私は個々の現在意識と訳しておりますが、
これは無力であります。絶えず、他者の大文字・文明の影響下にあるからです。

といっておられる、義春さんの言葉によって表現せられておるのでありますね。個人意識は、現代文明によって象徴される大文字の他者の影響下におかれています。しかも、そうした影響力でさえ、個人意識と小文字の他者との想像的な結びつきによって断ち切られてしまうというのが、個人意識をめぐる、いつわらざる現実なのでありますね。

自然状態と文化的状態の極限ともいえるダブルバインド状態、これはミンデル的な手法によれば、いとも簡単に実現されてしまうことになるのですが、現実には、言語の問題が大きく立ちはだかって、その実現はなはだしく困難ということになってくるのでありますね。

こうした課題を乗り切るのに、生長の家の標準的な手法は「その気になってみせる」という、ただこのひとつだけであったはずです。その気になればなんとかなる。この一点張りで、現実の問題を乗り越えようとしてきましたが、こうした手法が、ミンデル的手法とおなじ限界をかかえこんでしまうのは、あきらかなことなのでありますよね。

問題はダナオイの贈り物、つまりは言語ですね。言語によって設定された限界をどうやって乗り切るか。これが生長の家に課せられた課題であるような気がいたします。

ただし、「スマートグリッド」という言葉で義春さんが表現しておられるように、現教団は、言語の問題に真向から取り組むのではなく、まったく異なった方向から自然状態へのアプローチを試みているようでもあります。

ダイナミックな運動がはじまってますね。これを理解できない人たちが反対しています。それでも、ダイナミックな動きはすでにはじまっています。わかっている人にはわかっている。面白い時代になったものでありますね。

351トキ:2011/10/23(日) 09:30:27 ID:gwlgYZpw
>>346

さくら様

 別に問題はないと思いますが、どうしましょう? でも、どうしても御希望なら、削除します。

管理人 敬白

352初心者:2011/10/23(日) 10:48:41 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

人類学者のグレゴリオ・ベイトソンに学習理論というのがあるそうです。手元に資料がなく、うろ覚えですが、学習にはⅠからⅣがあって、たしか、学習Ⅰが、人として生きていく上で必要な学習とすれば、学習Ⅱは、学校などで受ける教育という定義がなされていたようにおもいます。

ベイトソンは、人類には、いまだ学習Ⅳのレベルに達した人はいない、といっていたようにもおもいます。さて問題は、学習Ⅱは、ひとたびこれを習得してしまうと、このレベルから逃れることは、はなはだしく困難であるということでありますね。学習Ⅱを逃れることができた人だけが、学習Ⅲに達することができる。こんなようなことを、ベイトソンはいっていたようにおもいます。

宗教的学習は、ほんらいであれば、学習Ⅲに位置すべきものでありますが、現状をみれば、学習Ⅱのレベルにとどまっている人がほとんどであるような気がいたします。いちど習得した宗教的信念からは逃れられない。こうした人たちが学習Ⅱのレベルにとどまっている人たちなのでありますね。

こういう人たちをいくら相手にしても無駄でありますね。学習レベルⅢに到達するのは不可能な人たちなのでありますね。相手にすべきは、レベルⅢに到達可能な人々だけであるような気がいたします。レベルⅢが何であったか、具体的な内容はおぼえておりませんが、少なくとも、いちど習得した学習を手放せない人たちがレベルⅢに到達できない人々であるのは、たしかなことでありましょうね。

宗教にたいするいらだちとは、ほんらいはレベルⅢに到達すべきであるのに、レベルⅡにしがみついて離れようとしない人々にたいするいらだちでもあるような気がいたします。

353さくら:2011/10/23(日) 10:57:06 ID:.VaT7b3.
>351トキ様

いじわるですか?笑
(それとも、賛同して下さるのですか、嬉)
トキさまの公平な判断を信頼しておりますので、
では、お任せいたします、、どちらでも。
(いつもみなさま共々、お手数おかけします)

354義春:2011/10/23(日) 16:24:25 ID:SjZg29/2
>>350
初心者さま
ミンデルについて調べてみました。量子力学に易や老荘思想を取り入れいるそうですね。
個人的には昔、老荘思想と孫子によるところが多かったので、興味がわきました。

確かに、ミンデルは言葉以前の姿を提示する、それは言葉というもので世界が歪められるから、言葉によらないというスタイルだと私は感じております。

ただ、初心者さまの仰る様に、問題は、言葉により自然状態から切り離された個人意識であるので、
このミンデルのスタイルには限界がある…言葉により歪められた世界には、最善の手法ではない、そう私は感じてます。

>個人意識は、現代文明によって象徴される大文字の他者の影響下におかれています。
>しかも、そうした影響力でさえ、個人意識と小文字の他者との想像的な結びつきによって断ち切られてしまうというのが、
>個人意識をめぐる、いつわらざる現実なのでありますね。


これは私の感覚的なもので裏付けはありませんが、大文字の他者が影響力を発揮できたのはインターネットが普段の生活に活かされた2000年前後までかと感じてます。

個人の欲動が反映されやすい、インターネットは、この小文字の他者の影響下にあると言える…その様に、感じております。

そして『ダナオイの贈り物』に対して、言葉で向かうのは、恐らく、難しい…不可能と言えるかもしれません。言語を贈られたのに言語を越えられるのだろうか?そう想わえて仕方ないのです。

しかしながら、初心者さまの仰る様に…生長の家教団は、これに対して、『正を以て対し、奇を以て打つ』つまり、言葉に依存しない方法で、
又は生長の家独特な方法で自然状態への回帰を目指しているのかもしれませんね。真に面白い時代だと痛感しております。

355さくら:2011/10/23(日) 18:20:47 ID:7UF3gf.w

初心者さま、返信頂いていて、ありがとうございます。
あまり細かく書く時間がなくなってまして…
でも、たいへん理解の助けになっております。


わたしは、考えがまとまらないまま、
宗教組織の矛盾と、これからの宗教組織の可能性を考えたいと
ここへ来ました。
(ある意味、わたしには、ダブルバインド?のようなストレスも感じながら、笑)
広げすぎとか、論点が定まらない印象で、すみません。

宗教組織の矛盾を考えると、自分の実感ではありますが、感情に走りがちで、反省もあります…。
それでもたいぶ助けて頂きながら、わたしなりには見えてくるものもありました。

私もちょっと今は、書き込みができなくて、間隔が空きそうなので、とりあえず、少し、お時間を下さい。

初心者さまと義春さまのやりとりも大変、参考になってますし、
それを、自分なりにふまえながら、いまのおしえの方向についても…少し考えたいと思っています。

では、また、よろしくお願いいたします。

356トキ:2011/10/23(日) 19:52:59 ID:sUxsMp.w
>>353

さくら様

 「いじわる」ではないので、ご安心下さい。(笑)

357トキ:2011/10/24(月) 22:02:42 ID:ruwtSjEI
 「挨拶」板のsakura様の文章を拝読し、創価学会についての話題もありましたので、
少し、組織について、考えたいと思います。長い文章なので、2日に分けて
投稿します。お許し下さい。

 生長の家に限らず、発祥当時は、純粋に信仰の事だけ考えていたら良かった
のに、組織が大きくなったら信仰がお留守になる・・・・。
これは、多くの宗教法人の信徒の間で聴かれる声です。
 確かに、立教当時の少人数だと、学級会を運営するような感覚で、運動は
出来ました。しかし、人数が増えて、組織ができると「能力」という別の
要素が要求されます。組織運営がきちんとできないと、信徒さんに迷惑
がかかるからです。
 例えば、何か講演会をするとしましょう。勿論、そこで行われる講話が
魅力的である事は大事です。が、同時に、運営が正常に開催される事は、
同じ位大事な事です。例えば、マイクの調子が悪くて講演の内容がよく
聞こえなかった、弁当の数が足りなかった、案内員の口ぶりがぞんざいで
不愉快な気分だった等々というトラブルがあれば、参加者は二度とその教団の
講演会には参加しないでしょう。その意味で、組織なり、行事を正常に運営
する能力は、必須のものになっていきます。

 そして、その能力は、一般論として、活動経験の長い人ほど優れたものを
持っています。活動歴20年、30年という幹部や職員になると、将棋で言えば、
5手先、10手先を読むだけの見識があります。こういう人がいるか、いない
かで、組織運動の成果や行事の内容は全然変わってきます。ですから、
宗教法人で、いわゆる「教団官僚」というべき人達が発生するのは、ある種の
必然性があるからなのです。(つづく)

358トキ:2011/10/24(月) 22:03:21 ID:ruwtSjEI
ところが、問題は、そういう「能力」と「信仰心」とは、独立した存在なの
です。私の周囲にも、信仰的には熱心なのに、組織指導をさせたら全然ダメ、という人もいます。逆に、永年、活動をし、卓越した能力を持っているのに、
人望があまりない人もいます。(もちろん、古い活動者の人の大半は能力も信仰
も、優れたものを持つ人が多いですが。)

 ただ、こういう「能力」派とも言うべき人と、「信仰」派ともいうべき人
に関して言えば、どちらかを排斥するのも良くない、と思っています。
 職員にしろ、役職者にしろ、大人がする事なのですから、やはり責任のある
「仕事」が要求されます。すると、やはり能力は高い方が良いです。
 しかし、宗教法人という存在ですから、やはり「信仰」はそれ以上に必要
です。信仰心がない宗教は、エンジンのない自動車みたいな存在です。その
意味では、極端に「能力」を過大評価するのは危険だと感じます。

 例えば、創価学会などは、おそらく、昇進の基準が「能力」なのかと想像
しております。ですから、社会的には異常と思われる人物が創価学会の幹部に
いるのを散見します。創価学会の本などを読むと、池田大作さんご自身が
教団官僚出身というべき人ですから、信仰という建前は別にして、教団運営を
おそらくはビジネスと割り切っている部分があると思います。
(残りは、明日、投稿します。)

359トキ:2011/10/25(火) 16:22:38 ID:hvuI9opE
 新宗教だけでなく、既成宗教も含めて、巨大な教団を運営する以上、ビジネスライクな部分は必要になって
きます。組織を維持する以上、お金も必要だし、人材も必要です。また、社会的な存在である以上は、内部
統制も整備し、第三者からの評価に耐える存在でなければいけません。が、それが行き過ぎると、信仰という
部分が飛んでしまいます。このバランスが難しいです。

 そして、本来、信仰のための運動であり、組織であったのが、いつの間にか、運動や組織の維持が目的とな
り、信仰はそのための手段になってしまいます。

 これは、本末転倒だと思うのであります。つまり、発祥当時の教団と、現在のような巨大化した組織で、同じ
ような内部統制のやり方では、限界が来ると思います。その部分にも率直に目を向ける必要はあると思うので
あります。(つづく)

360トキ:2011/10/25(火) 16:59:38 ID:hvuI9opE
 では、生長の家は? と見ると、幹部や職員を見ても、信仰に徹するのではなく、活動のプロでもなく、中途半端な人が多いと
感じます。
 生長の家という組織は、よくも、悪くも、緊張感が薄いですから、職員にしろ役員にしろ、普通に外の社会で仕事をしている
人間から見たら、「そんな仕事ぶりはないだろう」と思う点はあります。仕事や活動に打ち込む姿勢には、?を感じてしまい
ますね。(これは、朝から夜まで、仕事や活動をしろ、という意味ではないです。念のため)。

 では、信仰的に優れているか、というと、それも中途半端で、どうも昔のような情熱も感じられない。職員や幹部役員の言動に?を
感じてしまうのは、信仰面でも同じです。かえって、末端の役員さんの信仰姿勢に感動を覚える事があります。

 ここで、付け加えますが、組織内の幹部や職員にも、能力的に優れた人や信仰的に尊敬できる人もいます。しかし、そういう人達に
負担が集中しているのも事実です。言い換えれば、組織内部の矛盾を、少数の人達が犠牲になることで、糊塗していると言えるのです。
(つづく)

361トキ:2011/10/25(火) 17:23:05 ID:hvuI9opE
 つまし、組織内の相当数の幹部や職員には、悪い意味での「お役所仕事」のような言動をする人がいると認めざるを得ません。

 しかし、その責任を彼らだけに押し付けるのも、違うと思うのです。中間幹部や職員は教団上層部の指導内容や言動を見ています。
中間幹部や職員の活動姿勢や勤務態度、信仰心に問題があるとたら、その相当部分は、教団上層部にも責任があると自覚してもらう
必要があると思うのです。

 もともと、生長の家は、谷口雅春先生が既成宗教の問題点をよくご存知でしたから、自由のある、それでいて緊張感のある組織でし
た。が、組織が巨大化するにつれ、階層化が始まり、ハイアラーキーな体制になりました。普通、組織が巨大化した場合、権力を統制
するために、監査体制を充実させるなど、組織の近代化をする必要があるのですが、そういう面には無関心なままでした。結果、今日
のような迷走状態が始まったのです。(つづく)

362トキ:2011/10/25(火) 17:31:44 ID:hvuI9opE
 少し余談になりますが、私個人にも経験があります。昔、ある本部幹部の人が教区に来られた事があり、用事が終わってから、お食事をご一緒したのです。

 その時、その幹部の人からは、現在の教団がかかえる問題点について的確な指摘があり、私もその内容には大いに賛同したものでした。そこで、その幹部の
人に「それを公表し、教団を改革する事が大いに必要ではないのですか?」と言いました。すると、その幹部は苦笑いをして、
「これを公表したら、私は教団にはいられません。」と即座に返答をされたのです。

 つまり、教団の中堅幹部も上層部の人も、教団が抱えている問題には認識はあると感じております。が、それが言えない「空気」が形成されていると思うの
です。この空気が感染し、上から下まで、当たらず触らずの組織指導を繰り返すようになり、いつしか部内の士気が低下し、活力が失われて行った、と思うの
です。

363トキ:2011/10/25(火) 17:44:01 ID:hvuI9opE
(つづく)

 言い換えると、組織内には問題が充満していたのに、こういう場面だけは「問題はない!」という実相世界に超入し、目をそらしていたのです。

 では、どうすれば良いでしょうか?

 一番、分かりやすいやり方は、「誰か、悪者を見つける」というやり方です。例えば、本流復活派は、谷口雅宣総裁に全部の責任があると考えて
います。(確かに、責任がないわけではないです)。反して、教団側は、学ぶ会を「異端視」しています。が、こういうやり手法は、テレビの水戸黄門
の中ぐらいしか、通用しない話だと思っています。

 同時に、これほど多様化した社会の下では、従来のように、単純な活動モデルや目標で全ての信徒を束縛するのは無理です。

 現象人間がする事ですから、問題は当然に発生します。それを認めましょう。講習会が面白くないのも、谷口雅宣先生の指導に納得できない人が多いのも、
本流復活派の言動がカビ臭いのも、百万運動は繰り返したくないのも、ごく普通の感性だと思います。今までは、それを口にするのはタブーでした。

 が、幸い、ネットという手段があります。知性と人生経験、そして信仰心があります。

 ある意見が登場した時に、それを全面否定するのでも、全面肯定するのでもなく、それをまず咀嚼し、より建設的に信仰や運動に昇華するようにする。
そのための「議論」が必要だと思います。それができる場が「ネット」だと思います。(つづく)

364トキ:2011/10/25(火) 17:50:20 ID:hvuI9opE
 今、生長の家には100万人近い信徒がいると言われています。しかし、信仰という面で考えるなら、本当は、一人、一人が信仰の主人公
であるべきです。「一即多、多即一」という言葉はあります。が、今までは、組織信仰という面に重点が置かれて来たように思います。

 組織の存在は大切ですが、これからは個人の信仰も等しく問われるべきでしょう。

 そのためにも、活動も信仰も「議論」が普通にできる生長の家こそが、求められると思う次第です。

 どうも、さくら様のトーキングスティクを奪ったみたいな形になり、申し訳ありません。
お詫び申し上げます。

合掌 ありがとうございます

365ぼるぼ:2011/10/25(火) 18:33:06 ID:M0AaoEgg

>トキさん

>>357から>>364まで、生長の家の掲示板管理人として、模範的見解であると思います。

生長の家は人類光明化運動でありますから、守備範囲は非常に広いのでありまして、今や、信徒数は70億人と見て良いのであります。

ですが、我々は日本人として生まれて来たので、当面は日本語で狭いコミュニティを持つことしかできない。ネット掲示板の参加者も日本人を対象にするしかない。なので、信徒は精々1億3000万人止まりということになる。

それでも、内容的には十分バラエティに富む。人間知では図り知れないボリュームである。

自分一人の力と日本人全体の力を比較すると、蚊と鯨ほどの差がある。

アマゾンの大家事を消すハチドリのようなものである。

それでも、一人の赤心は全体の心を掴む。宇宙真理は、一人一人の心に映ずるから。

掲示板に雅春先生の言葉をコピペする愛行は尊い。その人がその言葉の真理を感得したことを示す。また、有縁の読者はその真理を共有し、歓喜する。

この掲示板が、ますます良くなるよう祈ります。

366トキ:2011/10/25(火) 21:49:07 ID:hvuI9opE
>>365

ぼるぼ様

 ご投稿、ありがとうございました。ぼるぼ様の言われる通り、一人の力発心が、日本を変える事が
できると信じております。今後とも、宜しくお願いします。

合掌 ありがとうございます

367さくら:2011/10/26(水) 01:39:47 ID:T/77sMGw
トキさま

スティック持ったまま、しばらく、留守にしましてすみません。
(その間に、トキさま、スティックを奪ったなんて言って、またいじわるですか、笑。
トキさまの、いじわる、なら、甘んじて受けます、)

トキ様が、生長の家で体験されてきた組織の雰囲気や事情がよく伝わりました。

エホバの証人の最高中枢機関にいた幹部が書いた「良心の危機」という本があり、
信仰の崇高な志を持った活動が、組織化する過程で、やはり当初の高邁な目的からの「ずれ」や、内部の信仰の腐敗していく様子が書かれていて、
これは、カルト団体についての特殊な事情、というだけではなく、組織の、ある傾向として考えるのに、客観性や説得力もあるようです。

ある意味、組織への「依存」のようなものから、個人としての責任ある思考や行動が、甘くなっていったり、人としての良心がゆるんでくるといったことは、多かれ少なかれあると思いますし、こうした事は、大きく成長し過ぎて監査機能が、やはり充分に行き届いていない組織の傾向として大きくなる、と言えるそうですね。
あと、過去の事実や情報を開かれて話すことを、タブー視するような傾向が問題を見えなくする傾向など。

宗教組織においては、組織としての力の維持と、信仰の崇高な理想の実現といったところでの亀裂が大きくなりやすく、内部にいる者は、自分の信仰心や真理を基準とした判断と、組織の維持や組織上の立場の間で妥協することなど、普通の組織にいるより、葛藤が大きくなる面があるように思います。
また宗教は特に、教義や信仰の形によって、内部の「特殊な常識」をつくりやすい傾向もあります。

トキさまの生長の家の組織の体験の実感からも、雅春先生が築かれた初期の形から、組織が大きくなるにつれて、変わっていく様が分かりますし、
内部の信徒の中でも、感じていることだと思います。
トキさまがいうように、過去の弊害もオープンに語って、新しい方向を議論することは、本当に大切なことなのですね。

そういえば、トキさまのお話の中で、人材の教育のことがありますが、
生長の家では、一般企業の新人研修に練成など受けているところがあり、研修から帰った新人は、本当に評判が良いと聞きました。親に感謝し、日本の国の素晴らしさに目覚め、人間が神の本性をもち無限力だということなど・・生長の家の生き方で社会経験を積めば、ほんと、素晴らしい人材になりますよね・・。
生長の家の職員の方でも優秀な方は多いと思いますが、組織のゆるみ、などのようなものから、トキさまが仰られたような、様々な弊害がでてくるのでしょうか。
信仰の深化と、社会的な経験や実践力のバランスなどが、大切ですね。


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