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トーキングスティックボード

238a hope:2011/09/23(金) 00:22:19 ID:MNrNIsM2
 
さくらさま

書き込みありがとうございます。
さくらさまが、わたしの後に、「放つ愛」について、トークされたいと、おっしゃっていますが、あれはきっと、わたしが今朝女子会板で、
「愛いうテーマは、私だけでは重過ぎる」という発言をしたために、さくらさまも、一緒に「愛」について考えてくださろうとした、
そんな、さくらさまの優しい気持ちの現れなのではないかと思い感謝しています。

わたしも、さくらさまのトーク楽しみにしていますが、今しばらく「愛」のバトンタッチはお待ちくださいね(笑)。


本題に入ります。

>しかし、同時に、この部分は、普遍的でありますよね。それは、人間が深遠なところで繋がっていて、
それも、この愛という核心の部分が、それを繋げいる、とも言えるかもしれません。a hopeさまは、
そのところを聞きたい、確かめたいのだと思いますが、そうでしょうか。

と、さくらさまが問われている部分が、まさにわたしにとっては、「生長の家の愛」ということになります。
トキさまや、復興Gさまが教えて下さった、生長の家の愛「自他一体の自覚」です。 

わたしが、本流の先輩方に問いたいのは、「先輩方は、この愛をもって現生長の家教団や、雅宣先生を批判されているのですよね?」ということです。



>私は、人は、愛によってしか救われない、と、これは、固く信じているところがあるのですよね。
わたしも、そう思います。 愛以上に大切なものは、ないのではないかと思います。



さらに、さくらさまは、伝道ということについても触られていますが、たとえば、同じ童話を子どもに読んで聞かせるにしても、
愛情をこめて自分もその物語に感情移入しながら読んであげるのと、「めんどくさいな」と感じながらただ義務感だけで読んであげるのでは、
そのお話の内容の伝わり方は全然ちがうと思うのです。

だから、谷口雅春先生の教えをそのまま伝えるにしても、伝える人が本当に雅春先生の教えを理解しているときのみ、
本当のことが伝わるのではないかとわたしは思っています。



>親の愛を受けたら、自立し、自分の家庭をもち、子供を愛する。
それは、親から言われた一言一句を、子供に伝えることではないですよね、自分が育った家庭の規則を徹底して守ることではないですよね。
これはa hopeさまが先輩ですので、私の方が教えていただくことですけど、笑。
自分なりに悩んだり、苦しんだり、そうしながら、愛して育てていく、その時に、さらに自分がこんな目線で、いろんな愛を受けていたんだ、
と改めて思ったり・・。
そんなことを思うのですが、どうなのでしょうか・。

ここのところは、わたしは正直、そこまで考えていませんでした(笑)。
でも、そう言われると、まさしくそのとおりだと思うのです。
さくらさま、エンパスの能力を超えてますね!わたしの、潜在意識を、覗かれた気分です。(冗談ではなくて、ほんとに驚いてます。)



>雅春先生だって、愛には大変悩み多き人生を歩まれてこられていますよね、自伝を読ませていただくと。
現象界に生きていれば、個人的に、いろんな感情は持つものですよね、きっと。

実は、わたしはまだ、雅春先生の自伝であるといわれている「生命の實相19巻、20巻自傳篇」を読んでいないのです。
読むのを楽しみにしているのですが、今は、生長の家関係の掲示板を読むのが精一杯なのです(笑)



さくらさま、いつもわたしのことを理解してくださり、ありがとうございます。
いつか、生長の家で、お会いできる日が来るのでしょうか?
そんな日が来るのを、楽しみにしています。



初心者さま

お返事、お待ちしておりました。ありがとうございます。
初心者さまは「愛」については苦手なテーマだとおっしゃっていますが、わたしが、この掲示板に書き込み始めた理由、
それは、あなたさまの「愛」にお礼が言いたかったからです。
あの時(本流でわたしが先輩方に質問している時です)、初心者さまは、まるで、自分のことのようにわたしをかばってくださったではないですか!
わたしは、うれしくて、涙を流して感動していたのですよ。
あのときは、本当に初心者さまの応援がうれしかったのです。感謝しています。


さて、初心者さまの、わたしへのお返事読ませていただきました。
とてもよくわかる内容でした。
わたしのために、わかりやすく書いてくれて、ありがとうございました。

ですが、今夜はもう遅いので、また明日、お返事させていただきますね。
もうしばらくお待ちくださいね。

239さくら:2011/09/23(金) 08:16:32 ID:6tmMyXBA
a hopeさま

丁寧な返信を心から感謝いたします。
あなたこそ、私の思いを理解して下さり、心をこめて、返信をして下さいました、
そのことを、本当にありがたいと思っています。

ごめんなさい、割り込むような申し出をしてしまったようですが、
a hopeさまのテーマをじっくりされてからで、私はいつでも良いというつもりで、申し出ました。
次の立候補など、他のところに書けばよかったですね、
お気遣いなく、じっくり取り組んでください。

私は、あなたにどこかでお会いできたら、抱きしめてしまいそうです、笑。
美しい心を、本当に、抱きしめてしまいそうです。

愛の形には、色々な現れが、ありますね。
これも愛。あれも愛、そう言われれば、その方にとってはそうなのですから、無碍に否定することは、出来ないものがあります。

それでも、生長の家においての、愛、について学ぶ機会を持つことができる、というのは、これは、本当に、人生の恵み、だと思うのですよね。

まだまだ、a hopeさまのテーマを楽しませていただきますので、
よろしくお願いいたします!

240a hope:2011/09/23(金) 18:30:31 ID:MNrNIsM2

初心者さま

昨晩は、失礼いたしました。
あらためまして、初心者さまに、お返事いたします。


>a hope様は、本流の方々を敬愛しているとおっしゃっておられますが、
この感覚が、わたくしには理解しかねております。

わたしは、初心者さまのおっしゃるように、本流宣言の先輩方を敬愛しています。

その理由は、二つあります。

一つ目は、本流の先輩方が現教団や雅宣先生の間違いを指摘してくださり、わたしを救ってくださったからです。

本流宣言の掲示板がなかったら、今、ここでこうして書き込みしている自分はいなかったと思います。
掲示板では、素晴らしい出会いがたくさんありました。
わたしの書き込みに、心をこめてお返事をくれたたくさんの先輩方に、わたしは命を救われたからです。
そして、その経験がなかったら、わたしはこの掲示板で書き込みすることもなかったでしょうし、初心者さまはじめ、
この掲示板で書き込みされている、素敵な方々と出会うこともなかったからです。


二つ目は、本流宣言の先輩方が、谷口雅春先生の教えを残してくださろうと、必死に頑張ってくださっているからです。

確かに、初心者さまが、
>本流の方々がやっておられることは、人としてなしてはならないことなのですね。
他者を批判しておきながら、自分たちへの批判は、いっさい封じておられますね。
他者の批判はするが、自分たちの批判はさせない。

とおっしゃるようなことを、本流掲示板ではされています。
だから、わたしも「もうやめてください」と一度お願いにあがりました。

そして、今、『訊け』管理人さまが、本流の先輩方に、「和解の倫理の解釈が、間違っているのではないですか?」とか、指摘されています。
生長の家の教えに触れて、数年しかたっていないわたしですら、その間違いに気付きました。

それでも、批判を止められないということは、本流宣言の先輩方は、すべてわかっていらっしゃるのではないかと思うのです。
わかっていて、あえて、悪役を引き受けてくださっている、最近は、そんな気がしているんです。
だって、正義を強調するためには、悪役が必要ですよね?
初心者さまは、そういうの、よく御存じなのではないですか(笑)?

要するに、本流宣言の先輩方は、「谷口雅春先生の、教えに逆らってまでも、谷口雅春先生の教えを守ろうとされている。」んです。

だったら、わたしたちは、生長の家の、谷口雅春先生の真説をそれにぶつけていけばいいのだと思うのです。
わたしは今、本流宣言の先輩方が、わたしたちに、そう言ってくれているような気がしています。


つぎに、「自他一体の自覚」についてですが、初心者さまの解釈は、すべて現象を見ての解釈なので、色々の問題点が出てきてしまうのだと思います。

他者をコントロールするとか、自分と異なったものが許せないとか、そんなことにこだわっていたら、疑惑や、怒りや憎悪などという良からぬ感情ばかり噴き出して、
何にもいいことないじゃないですか。

わたしは、そんな人生はいやです。

わたしが思う、生長の家の「自他一体の自覚」とは、「神の子(自分)が相手も神の子であると気がつくこと。」だと思っています。
だったら、完全に相手と一体化できますよね!


でも、現象を見れば、色々問題があるのも事実なんですが、たとえばその、問題解決をするにしても、自分の気持ちの中で、「こいつ、いやな奴」とか、思うよりも、
「ああ、この人は本当は神の子なんだ!」「こういう悪いことが起きているのは、神の子がわたしに何か教えてくれようとしているからなんだ!」って、思って対応したほうが、
全然気分も楽ですし、結果もいい結果が出るのではないでしょうか?

それに、相手だってそう思われていれば、悪い気はしないでしょから、きっとそのうち本当に神の子の実相を現わしてくるのではないでしょうか?

実相がお嫌いな初心者さまなので、理解してもらえないかもしれませんが、言葉を変えれば、「プラス思考」ってことなんだと思います。

初心者さま、ご存じのようにわたしはアホなので、このように稚拙な解釈しかできませんが、わたしは「自他一体の自覚」をこのように解釈しています。

「放つ愛」については、後で、さくらさまと一緒に考えていきたいと思っています。初心者さまのご意見もまた、是非聞かせてくださいね。


さくらさま

どこかで偶然お会いしたら、お互いのエンパスの力で、必ず見つけましょうね!
そして、抱き合ってから、一杯やりに行きましょう!

241a hope:2011/09/24(土) 20:53:34 ID:MNrNIsM2

初心者さま

わたしの、「自他一体の自覚」の解釈は、どうでしょうか?
初心者さまにも、理解していただけたでしょうか?

お返事をお待ちしています。

242初心者:2011/09/25(日) 16:53:22 ID:4IaAZAME
a hope様

わたくしは、実相について語ろうとは思いません。現象だけを語り、現象のなかで苦悩したい。
そんな気持ちでいます。美食がゲテモノ食いに行きつき、女色は男色に行きつく。それと似た
ようなところなのかもしれません。

そんなわたくしが、みなさまと語りあったところで、不愉快な思いをさせるだけのようです。
去ることにいたします。この掲示板を去るにあたって、こうして最後に、a hope様にメッセージ
を書き込めることに、これがひとつの出会いであったことを感じないではおれません。

自他一体感。それは、相手のなかに自分を見るということでもよいのではないでしょうか。
a hope様に、わたくしは何を見たのでしょう。それを見るだけにとどめておく。相手にその
実現を求めない。それでよかったのだろうと思います。

このまま、静かに去ります。誰にたいしても、何も語りません。a hope様と最初に出会えて、
こうして最後にわかれを告げることができました。これがひとつの出会いであったにしても、
あまりにもできすぎているような気がいたします。

243商人:2011/09/25(日) 17:34:30 ID:7IsmmGqA
初心者さま

初心者さまもここを去られるのですか?

 お願いです。去らないで下さい。

これからもいろいろ教えてください。

商人

244かぴばら:2011/09/25(日) 18:08:42 ID:TjlpqfpM
初心者さま

今帰ってきてパソコンを開いたら「去る」の文字が・・・。私は初心者さまの言われることが高度すぎてよくわからないこともありましたが、完全同意すると処もたくさんありましたよ。

本当はっていうか実際とてもお優しい人柄が見え隠れしていて、とてもシャイな方ではないかなっと思います。

私の好きなルドルフ・シュタイナーの話ももっとお聞きしたいのに・・・。しばらくお休みしてもいいから、すぐ又戻ってきてください。秋のセンチメンタルに浸ってないで・・ねっ!

245 志恩:2011/09/25(日) 18:16:43 ID:psrFh/ZU
初心者様

あなたも旅にでるのですか。さびしいかぎりです。そういえば、スナフキンも、よく旅へ出かけていました。

私のほうが、もうそろそろ、おいとまさせていただこう。ナガイナガイ旅にでかけましょうか、と最近、思っていたところです。

もう出発とは、先き越されましたね。

あなたは、ここの校長だったのに、とても賢い人なのに、出かけちゃうなんて、さびしいです。

あなたは、右脳が人一倍発達されておられるようですから、建築企画設計士に向いているかもしれない、と思っていました。

また、気が向いたら、ここへ戻って来てくださいね。

246トキ:2011/09/25(日) 18:20:11 ID:BlE9Vn1Q
初心者様
さくら様

 今日も1日、パソコンに触れない場所におりました。
で、帰ってきて、パソコンを開いたらびっくり仰天。初心者様と
さくら様がこの掲示板から去られるとの事で、いやー、管理人に不都合
があったら、お詫びしたいので、ぜひこれからも投稿を続けていただき
たい、という気持ちです。

とにかく、初心者様はこの掲示板が生まれた時からお世話になっている
し、この掲示板がここまで定着したのは初心者様のおかげですから、感謝
感謝です。いつもご投稿を感心しながら拝見しておりました。それだけに
おられなくなるのは個人的にも寂しいです。ひょっとしたら、生長の家の
未来を変えるのではないか、と思えるほど意味の深い討論もされていたの
で、期待をしておりました。本当に寂しいです。

 さくら様も暖かい文章をいつも書いてください、掲示板の雰囲気を暖かく
して下さりました。やわらかい文章だし、暖かい人柄もうかがえて、わくわく
しながら文章を拝読しておりました。

 お二人が去られるのは、本当に寂しいです。また、管理人として多大なご
迷惑を数々かけた点は深くお詫びします。それ以上に素晴らしい投稿の数々
をして下さり、厚く御礼を申し上げます。しばらくお休みになられてから
ぜひ、こちらへお戻り下さい。心からお待ち申し上げています。

合掌 ありがとうございます

247八百比丘尼:2011/09/25(日) 19:48:40 ID:j8iOdie.

 初心者さま
止めても無駄でしょうね。
寂しゅうございます。たまには、洒落た大人の会話を楽しみに
うちの店に寄ってくださいな。
マッカランの30年もの、1杯飲んでって。
最後にこの曲を聴いてから行ってね。
http://www.youtube.com/watch?v=X3cC2Niebyw

それでは、笑ってまたお会いしましょう。
          Queen beeママ&鈴夜

248a hope:2011/09/25(日) 22:39:49 ID:MNrNIsM2

初心者さま

非常に残念です。

>自他一体感。それは、相手のなかに自分を見るということでもよいのではないでしょうか。
a hope様に、わたくしは何を見たのでしょう。それを見るだけにとどめておく。相手にその
実現を求めない。それでよかったのだろうと思います。

初心者さまは、一体わたしの中にどんなご自分を見られたのでしょうか?
そして、わたしをコントロールしようとでもしていたのですか?

初心者さまにそれができなかったのは、わたしと初心者さまがもうすでに、
一体だったからですよ。
わたしが、初心者さまの本当の姿(実相)しか見つめていなかったからです。

初心者さまは、神の子です。
だれが何と言っても、初心者さまは神の子です。

そして、神に愛され、谷口雅春先生に愛され、この掲示板のみんなに愛されているんです。

その事実に目をつぶるのも、初心者さまのご自由です。
でも、目を開けば、素晴らしい世界が待っているのに、本当に残念です。

また、気が向いたら、いつでも声をかけてくださいね。
わたしは、初心者さまのことを、心から愛しています。

249a hope:2011/09/26(月) 12:41:41 ID:MNrNIsM2

気を取り直して、発言を続けさせていただきます。

わたしは、最初にテーマとして、「愛」「伝道」「真の生長の家の教え」取り上げたいと言いました。
「愛」については、本当は「放つ愛」などについてなどにも、みなさんにお伺いしたいところですが、
しかし、それは、また、違うスレッドでも、話しあえるので、次のテーマ「伝道」に移らせていただきたいと思います。


今朝、「本流宣言」の掲示板へ行き、「靖国見真会」参加者の立てられた、「恥ずかしい限りの“ネガティブキャンペーン”」 というスレッドで内で、
パイプさまという方のとても興味深い提案を拝見しました。

勝手ですが、ここにはりつけさせていただきます。


龍様へ(その3) NEW (4678)

日時:2011年09月26日 (月) 03時57分
名前:パイプ

 僕は、筋論としての明治憲法復元改正にもちろん賛成です。
しかし現実問題としては、(本来の)生長の家や谷口雅春先生のみ教えに詳しくない人達に、最初から自主憲法制定を訴えても、残念ながら拒否反応の方が強い。
だから、まずは、谷口雅春先生のみ教えを広め、次の段階として諸悪の根源としての現憲法の、明治憲法復元改正という形による改正を訴えるべきだと思います。 
日野原先生自体は、真摯なキリスト者としての非暴力主義の延長線上に、9条を守るお考えだと思います。
それはそれで構いません。問題は、左翼陣営が、そのような純粋な日野原先生を利用しているということなのです。
でも僕達も、いい意味でもう少しずる賢くなる必要があるのではないでしょうか。
つまり、最初から自主憲法制定という考えとは見解が異なるので呼ばない、あるいは関わらないというのではなく、
谷口雅春先生のみ教えを広めるために有用な方々は、自主憲法の是非に関係なく、学ぶ会や本流復活の運動に関わっていただくべきではないか、
と思うのですが如何でしょうか。

そうしたら、

このスレッドはここまで、とさせていただきます。 NEW (4679)

日時:2011年09月26日 (月) 09時54分
名前:管理人

(内容省略)


というように、管理人さまのストップがかかっていました。

わたしは、大変お恥ずかしいのですが、学ぶ会さまが、「自主憲法制定」を訴えているなどということを、知りませんでした。


>しかし現実問題としては、(本来の)生長の家や谷口雅春先生のみ教えに詳しくない人達に、
最初から自主憲法制定を訴えても、残念ながら拒否反応の方が強い。<


とパイプさんがおっしゃっているように、拒否反応どころか、意味が全然わかりません。
これが、「愛国」とつながるわけですか?



ここで、次のテーマ「伝道」に関しての質問をさせていただきます。


質問3、「生長の家の教え」の、何をどのように伝道していけば、谷口雅春先生の御心にかない、本当に人を救えるのでしょうか?


これについては、すでに、復興Gさまからは、お返事をいただいています。

でも、わたしは、他の、みなさまの意見を聞かせていただきたいのです。

また、学ぶ会さまの、「自主憲法制定」や「愛国」についても、言及していただけると、大変助かります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

250トキ:2011/09/26(月) 19:39:08 ID:W4PkIrQA
 伝道についてですね。もちろん、生長の家の信仰を伝えるのですが、これが難しいです。
つまり、生長の家の教義を説明するのではなく、生長の家の生き方、考え方に共鳴しても
らい、納得してもらう必要があるからです。
 そもそも、なぜ、伝道をするか、という点から考える必要があります。
それは、生長の家という組織の拡大ではなく、自分の教団内部の地位や権勢の拡大でも
なく、相手の人に本当に幸せになって欲しい、という願いから伝える事が動機でないと
続かないと思います。ここが間違うと、変な方向へ暴走する危険があるのです。
 
 これに関連しますが、一部のカルト教団では、詐欺のような手段で伝道するケースが
多いと聞きます。これは一見、正しいように思えますが、間違いである場合が多いです。
 また、相手への敬意、これは相手も神の子であるから、礼拝の対象である、という
認識から出発するのですが、それが欠如していると、手段を問わない方向へと走り勝ち
であります。生長の家が、伝道に際して、教団名を堂々と名乗ることを義務付けている
のは、詐欺的な手段が長続きしない、という点もありますが、何よりも相手への敬意を
失ってはいけない、という視点があると思います。

 伝道という言葉は「道」と「伝える」という意味はあると思います。
ところで、日本では、茶道、華道、柔道など、技能に「道」をつける場合が多いです。
その例にならうのなら、「伝道」の「道」は、それ自体、ある種の精神性を持つべき
かと勝手に考えています。

 これを要約すると、伝道する相手も、自分も「神の子」であり、尊い存在であることを
認識する必要があります。その上で、相手への感謝と愛と敬意を失わない態度と心構え
で、相手の方も「私は神の子なんだ!」と気がつくお手伝いをさせていただく、という
姿勢が必要かと考えています。

251a hope:2011/09/26(月) 20:16:14 ID:MNrNIsM2

トキさま

お返事ありがとうございます。

>それは、生長の家という組織の拡大ではなく、自分の教団内部の地位や権勢の拡大でも
なく、相手の人に本当に幸せになって欲しい、という願いから伝える事が動機でないと
続かないと思います。<

わたしも、本当にそう思います。
「相手の人に本当に幸せになって欲しい、という願い」とは「愛」ですよね!

ところで、

>これに関連しますが、一部のカルト教団では、詐欺のような手段で伝道するケースが
多いと聞きます。これは一見、正しいように思えますが、間違いである場合が多いです。<

具体的には、どんな手段なんでしょうか?
教えていただけますでしょうか?

252トキ:2011/09/26(月) 20:36:37 ID:W4PkIrQA
>>251

a hope様

 ご質問ありがとうございました。

 まず、名前を隠すのが一番多いです。ビデオセミナーだという触れ込みで通行人を
勧誘し、最初は名前を伏せておき、洗脳状態になってから、初めて具体的な名前、例えば
統一教会などの正体を明かします。オウム真理教は、ヨガのサークルを各地に作っていまし
た。ヨガを習いに来た人に、オウムの教義を教え込み、信徒にしていました。
 最近では、日蓮宗系統のカルトや親鸞聖人の名前を使ったカルトが、大学でダミー
サークルを作り、知らないで入部してきた学生を勧誘していました。こういう例では、学業
や仕事を放棄して、行方不明になるケースが続出し、社会問題化しました。

 また、オウム真理教は、過去に「マハーポーシャ」というパソコンの会社を設立して
いました。秋葉原等の電気街にも出品し、安い(信徒が無料で作っているので、人件費
が浮くから)から、結構、売れていました。この購入者のサポート名簿を勝手に流用して
オウムの勧誘をしていた、という報道も見たことがあります。

 他に、カルトがよく使うのが、他の宗教団体の信徒名簿を入手し、勧誘する、という
手段です。オウム真理教など、他の教団のイベントがあると、会場の近くで
ビラを配る、教団の施設の近くにポスターを貼る(生長の家の教化部もやられ
たことがあります)など、あの手、この手で勧誘すると聞きます。

 また、色仕掛け、恐喝なども聞いたことがあります。「同級生の女の子から
○価学会に入ったら、いいことをしてあげる、といわれたので入信したのに、何
もしてくれかなった。詐欺だ!」と激怒した人にもあったことがあります。
(笑)

 まあ、あまり長く書いても面白い内容ではないので、このあたりで。

合掌 ありがとうございます

253トキ:2011/09/26(月) 21:50:00 ID:W4PkIrQA
 余談ですが、愛国掲示板に参考になる投稿がありました。

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=415415&mode=res&log=326

(1227) ≪生長の家よ、ただの、お人よしであるなかれ!!≫ 投稿者:  宗教評論家 


≪生長の家よ、ただの、お人よしであるなかれ!!≫

  左翼と、統一協会のやりかた。。[ある事例]

統一協会が、「左翼」に負けじと、
世界●●●●●●●●●の総裁が亡くなられたときに、
    (世界最大の○○○○団体)

後継者を指名したというワープロ書面と、弁護士が
なぜか、家族を排除して、「逝去」に立ち会った・・。

大波乱。当時、ありえないと思われていた、
韓国系二世の●●●●氏を指名。

全国の支部長は、大パニック。

その後、イトマン事件で逮捕された許詠中
と、●●●●とのつながり、
総本部の前のビルが統一協会に買収されていたこと、
巨額の援助金が統一協会から出ている事。

前総裁から、「ある宗教団体が100億円で(昭和50年当時)で、うちを買いたいと言ってきているんだが・・」という言葉を聞いたという証言も出てきた・・。

その後、韓国勢力が大きくからんでいた事実が
「文芸春秋で暴露」され、世間は「あっ」と言いました。

今、世界●●●●●●●●●は、
10以上の団体に分裂しています。

ひとつの時代が終わった・・。


ちなみに、統一協会は今でも、
年に数100億を韓国に送金していそうだ。

世界最大。あの有名な「●●高麗ニンジン茶」
や、「●●●コ―ラ」
も、統一協会のブランド名である。。

統一協会は、日本に「仏教系の宗教団体」も有している。


2011年09月25日 (日) 07時24分

************************************

(1228) 「天地正教」のことですね・・・。 投稿者:(ご本人様の安全上、省略させていただきました)





私は学生時代香川大学でしたが、
統一協会は、四国のお遍路さんを狙って、国道沿いに
接待所を設けていました。。。

あと、全国の国立大学から歩いて5分以内の所に
拠点を作っているんですよね・・。す、すごすぎる・・。

(以下、省略)

254a hope:2011/09/27(火) 00:29:25 ID:MNrNIsM2

トキさま

いろいろカルト教団の伝道手段について、いろいろ教えて下さりありがとうございました。
名前を隠すというのは、本当に悪質ですね。

わたしが、新興宗教に良いイメージがなかったのは、
きっとトキさまの教えてくださったような、悪い伝道手段をつかって、
洗脳していくイメージがあったからだったんだと思います。


自主憲法制定については、
「生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える  2」
のほうで、丁寧にお返事くださって、ありがとうございます。

色々、勉強になります。

わたしは、まだ、谷口雅春先生の教えの、ほんの一部しかしりません。
でも、それが、間違いなく素晴らしい教えであることは、確実にわかっています。
自分のこれからの一生をかけて、お勉強していきたいと思っています。

これからも、ご指導よろしくお願いいたします。


みなさま、あらためて質問させていただきます。

質問3、「生長の家の教え」の、何をどのように伝道していけば、谷口雅春先生の御心にかない、本当に人を救えるのでしょうか?


どうぞ、よろしくお願いいたします。

255a hope:2011/09/27(火) 22:03:34 ID:MNrNIsM2

「信仰/体験版」に、うのはなさまが、
171〜176に 「新春伝道講話 伝道こそ信仰の生命 楠本加美野 先生」
を、書き込みしてくださいました。

今、プリントアウトして、読んでします。
生長の家の伝道について、自分の考えをまとめてみたいと思っています。

わたしは、生長の家の教えに触れてはまだ数年ですが、以前から「どうしたら人を救うことができるのか?」
ということには、とても興味がありました。(興味という言葉が適切かどうかわかりませんが...)

わたしには、守らなくてはいけない、愛する家族たくさんがいるので、
自分の生活を犠牲にしてまで、人を救うことはできません。

でも、自分のできることを、無理なくやっていきたいとは思っています。


この「伝道」は、本当に、難しいテーマなので、なかなか考えがまとまりませんが、
途中で逃げ出したくはないので、わたしなりに最後までがんばってみたいと思います。

すみませんが、もう少しお待ちください。


それから、まだまだ、

質問3、「生長の家の教え」の、何をどのように伝道していけば、谷口雅春先生の御心にかない、本当に人を救えるのでしょうか?


へのお返事お待ちしておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

256うのはな:2011/09/30(金) 10:17:39 ID:iM0b0bt6

> わたしには、守らなくてはいけない、愛する家族たくさんいるので、
 自分の生活を犠牲にしてまで、人を救うことはできません。

 そりゃあそうだ!!
 自分の娘が「職場の男性が頼りない」と憂いている隣で、バカな愛国青年
 や選挙にも行かない男を雅春先生を慕う方はみな同志だ、わたし、雅春原理主義者で
 いくもんね!といきまいている主婦がどうかしてるのであって、まともな
 母親というのは、そう考えるのが普通ですよ。
 でも、伝道って、なにも生長の家の教えに精通している人や活動に命を
 かけている人ばかりができるものじゃないから、難しく考えないで、
 自分のできることを、無理なくやっていきたい、、というその考え方で
 充分だと思いますよ。

257復興G:2011/09/30(金) 13:28:17 ID:yhDBe2kY

>>254 :a hopeさま。
>質問3、「生長の家の教え」の、何をどのように伝道していけば、谷口雅春先生の御心にかない、本当に人を救えるのでしょうか?<

 引用文です。
   *******
 ライファーはデーリーにこう言った。
「そんなに人を救おう救おうと力むものではないよ。静かに坐して君が救い得る相手が得られます様にと祈るんだよ。他の方法で君は君の救おうという相手のところへ闖入する様なやり方はやめなければいかん。すべて救いのことは神の手にまかせるのだ。神にまかせるのだ。そうすると神が、その適当な時と適当な場所とを定め給うのだ。そして又、神は君の口に必要に応じた適当な言葉を与えたまうだろう。まず『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ」
とライファーは言った。
 ライファーに言わせれば、伝道の仕事は必須不可欠のものである。併しデーリーの最初の頃のやり方は敬虔なる宗教改革者とは似て非なるものであった。彼はむしろ自分が他を救い得る特権があるなどとは考うべきではなかったのである。それよりも彼は、自分が『愛』を行じさせて頂くために神から与えられた『愛の対象』であると見るべきであり、その『愛』を行ずる事によって誰が救われるのかと言えば、自分が救われるのである。この態度になってこそ霊的プライドというものがなくなり、敬虔な、神聖な、『わしが』というような傲りの心がなくなるのである。自分の力というものは、説教する事によってよりも、如何に自分があるかという事によって効果を現わすものなのである。伝道には歴史的キリストを無視すべきではないが、それよりも大切なのは、自分に内在する神秘的キリストを内部から呼び出して来るべきであるのである。
(谷口雅春先生著『愛は刑よりも強し』より。原文は歴史的仮名遣い)
   *******

 ──上記のデーリーというのは、かつて全米を震撼させた凶悪ギャングの首謀者として投獄された、スター・デーリーという極悪非道の囚人でした。二度も破獄を企てたため、地下牢に入れられて死の宙づりの拷問を受け、人事不省に陥ったときに、(以下、上掲書より)

   *******
『しかし剛胆不敵な彼は死んでも屈服しないと頑張っているうちに人事不省に陥ったのである。……それからどうなったか彼は覚えていない。気がついて見ると、枕元にキリストが立っているのである。「彼は私の方へ近づいて来た。彼の唇は動いている。然し言葉はきこえない。彼は私の側に来た。そして私を見下した。そして深く私の眼に見入ったのである。それはまるで私の魂深く貫きとおるような慈愛の眼であった。自分は未だ嘗て人間の眼で、彼の眼に輝いているが如きそんな深い愛を見たことがなかった。愛の虜となってわけもなく、まったく其処にひざまづいてしまった私をはじめて私は見出した。私はこの夢の中の或る神秘的な感覚によって、私が「実在」の世界の中に浸されていることを知ったのである。永遠に、久遠に、私の生命に力を真えているアルモノを私は見たのである」(「リリーズ」46頁)とデーリーは書いている。』
 どんな外的な物質的な拷問も制裁も改心せしめることが出来なかったデーリーの剛胆きわまる太々しき罪人根性を、ただ夢にあらわれたキリストの慈愛深い眼が、その眼の光が、愛が結実してあらわれた其の眼の光が、デーリーを改心せしめたのである。デーリーの眼の前にあらわれたキリストの姿はやがて幻のように消えて行ったが、その姿が次第次第にある文字としてあらわれて来たのである。それは『愛』という文字であった。やがてその文字も消えてしまった。そしてデーリーは不思議に澄み切った、何とも言えない不思議な心境に一時代を過ごして来たような気持で其処に横たわっていた。……彼は気がついて見ると、地下牢から釈放されている自分を発見したのである。
    宗教的光燿後のデーリー
 スター・デーリーが宗教的光燿を魂の内に感じて炬火のような熱情をもって牢獄生活の友達を顧みた時、彼はこの悦びをそれらの人に頒ちたいという願いが、沸々とたぎりたつように感じられてくるのであった……
   *******

 それでデーリーは誰彼の見さかいもなく伝道を始めた時、今度は囚人たちから「裏切り者」として憎まれ、排斥されるようになる。その時、老人ライファーから諭された言葉が、最初に掲げさせていただいた、
「そんなに人を救おう救おうと力むものではないよ……」
という言葉だったのです。

 とても考えさせられる言葉ですね。

258役行者:2011/09/30(金) 17:31:42 ID:OSVPfqi.

 >復興Gさま
 
 なんてコトの的を得た a hopeさまへのご回答でしょう。

◆何を

>まず 『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ 。

>大切なのは、自分に内在する神秘的 キリストを内部から呼び出して来るべきである のである。


>イエスは私の側に来た。そして私を見下した。 そして深く私の眼に見入ったのである。それは まるで私の魂深く貫きとおるような慈愛の眼で あった。自分は未だ嘗て人間の眼で、彼の眼に 輝いているが如きそんな深い愛を見たことがな かった。愛の虜となったわけもなく、まったく 其処にひざまづいてしまった私をはじめて私は 見出した。私はこの夢の中の或る神秘的な感覚 によって、私が「実在」の世界の中に浸されて いることを知ったのである。永遠に、久遠に 私の生命に力を真えているアルモノを私は見た のである」・・・キリストの慈愛深い眼が、その眼の光が、愛が結 実してあらわれた其の眼の光が、デーリーを改 心せしめたのである。デーリーの眼の前にあら われたキリストの姿はやがて幻のように消えて 行ったが、その姿が次第次第にある文字として あらわれて来たのである。それは『愛』という文字であった。<

 実相・・・それは久遠の愛
 生長の家の教えの根本。



◆どのように

>神が、その適当な時と適当な場所とを定 め給うのだ。そして又、神は君の口に必要に応 じた適当な言葉を与えたまうだろう。


>それでデーリーは誰彼の見さかいもなく伝道 を始めた時、今度は囚人たちから「裏切り者 として憎まれ、排斥されるようになる。その 時、老人ライファーから諭された言葉が、最初 に掲げさせていただいた そんなに人を救おう救おうと力むものではな いよ…… という言葉だったのです とても考えさせられる言葉ですね。<


 この世に愛ある世界が実現しますように、神よ、我等をお使いください。

 合掌

259復興G:2011/09/30(金) 20:49:48 ID:yhDBe2kY

>>258 :役行者様。

きっちり整理してくださり、まことにありがとうございます。

では、もう少し追加させていただきます。

   *******
 デーリーは彼ら囚人達に直接話しかけてよくしてやろうという考えを放棄した。彼ら囚人はデーリー自身の自己改善のために──「あの見苦しく見える極悪者の中にも善にして尊い神性がある」ということを静かに拝み出す自己の力を養成するための自己改善のために──彼らが自分の敵として自分の眼の前にあらわれているのだと考えるようになったのである。かくて、デーリーの囚人達を善導したいというような高慢な心は彼の生活を導く主動力としては消えてしまった。かくて自分自身の魂をみがくために与えられた手段として、其処にあらわれて下さっているのだと受けることが、デーリーの生活活動を導くことになったのである。
 かくして彼はすべての敵の姿を自分の心の画廊に陳列して、それに心のイメージで修正の補筆を加えることにしたのである。即ち彼らと自分との関係を愛の関係において、真実なる、高貴な友情の関係に於いて、現にあると心に描き、その状態に於ける姿が彼の真の姿であると、観ようとしたのである。これは『生長の家』でいうところの『実相を観よ』というのと同じである。デーリーはそれを「この実践は人生に於ける『高き悦楽のゲーム』highly fascinating game)となった」と書いている。それ以来、驚異すべき事実が続々として起った。今までデーリーを避けていた囚人が突然予期もしないのに親しみ出して来た。そんな奇蹟がデーリーの展けかかっていた人格に鉄の信念を加えるようになったのである。
 愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で眺めやり、これが彼の実相であるとそれを心でいたわり育ててやることであったのである。デーリーはかかる愛の実践が、ハッキリと敵の陣営にあった人々に此のような奇蹟を演ずる事実を見た。そして彼らを隔てていた障壁が霞の様に消えてしまい、新しい、より高貴なる基礎の上に昔あった友情が再建せられる事実を見た。それは彼にとって最も神聖な、幽玄な、彼が今まで発見し得ずにいた愛の神秘力についての最も美しい事実であったのである。それは一々の場合において、一々の問題に周到に意識的に応用して実践し得る愛の奇蹟であった。彼は実験と経験とによって愛の焔が、どんな復活しがたい魂にも到達し、その石のような堅い殼をも熔融し、到底見込がないと捨てられていた極悪非道のものをも転回せしめる不思議な力があることを知ったのである。ここにこそどんな強靭なキリストの敵、人類の敵にさえも神の与えたまう恩寵があるのである。かかる神の愛の力が彼にも与えられて、彼を通して人々に頒ち得るとは何という悦楽であろうとデーリーは知ったのである。
 (谷口雅春先生著『愛は刑よりも強し』より)
   *******

ありがとうございます。

260役行者:2011/10/01(土) 00:27:29 ID:jd2upWXI

 >復興Gさま


>愛は欠点を見てそれを矯正することではな く、そのいたい傷に触れることではなかったの である。愛はその人の傷をやさしく包んでその 人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっ と愛の心で眺めやり、これが彼の実相であると それを心でいたわり育ててやることであったの である。デーリーはかかる愛の実践が、ハッキ リと敵の陣営にあった人々に此のような奇蹟を 演ずる事実を見た。そして彼らを隔てていた障 壁が霞の様に消えてしまい、新しい、より高貴 なる基礎の上に昔あった友情が再建せられる事 実を見た。それは彼にとって最も神聖な、幽玄 な、彼が今まで発見し得ずにいた愛の神秘力に ついての最も美しい事実であったのである。<

 伝道とは、道を伝えると書きます。
 言い方を変えると、
 道が伝わる。真理が伝わる。愛が伝わる。
 伝えるには、作為があります。強制であり、力みがあります。

 伝わる。には、傷をやさしく包むイメージがあり、老子の言葉の無為自然が、ピッタリときます。
 久遠の愛が無為自然につたわる伝道!

 復興Gさま!ありがとうございました。

 合掌

261a hope:2011/10/01(土) 00:44:40 ID:MNrNIsM2

うのはなさま、復興Gさま、役行者 さま

お返事ありがとうございます!


ですが、先ほど、「訊け」ブログに行って、雅春先生や榎本先生の講話の動画を拝見し、
ちょっと衝撃を受けてきました。

今夜は、頭がいっぱいなので、また、明日じっくり読ませていただきますね。

おやすみなさい。

262a hope:2011/10/01(土) 23:52:53 ID:MNrNIsM2

うのはなさま

> でも、伝道って、なにも生長の家の教えに精通している人や活動に命を
 かけている人ばかりができるものじゃないから、難しく考えないで、
 自分のできることを、無理なくやっていきたい、というその考え方で
 充分だと思いますよ。<

優しい、お言葉、ありがとうございます。
わたし、今すごく幸せなんです。
きのう、『訊け』ブログで、雅春先生の「久遠の今」の講話や、榎本先生の講話聴いていたら、
なんか、「喜べ」「喜べ」「神のために喜べ」って言われているようで、
今日一日中、訳も分からず、Happy でした!

伝道についても、だんだん考えがまとまってきましたよ!

263a hope:2011/10/02(日) 00:01:48 ID:MNrNIsM2

復興Gさま、

素晴らしいお話をありがとうございます。
デーリー(極悪非道の囚人)のこのお話は、初めて聞きました。
とても感動的な、でも、考えさせられるお話ですね。

>どんな外的な物質的な拷問も制裁も改心せしめることが出来なかったデーリーの剛胆きわまる太々しき罪人根性を、
ただ夢にあらわれたキリストの慈愛深い眼が、その眼の光が、愛が結実してあらわれた其の眼の光が、デーリーを改心せしめたのである。<

>デーリーの眼の前にあらわれたキリストの姿はやがて幻のように消えて行ったが、その姿が次第次第にある文字としてあらわれて来たのである。
それは『愛』という文字であった。やがてその文字も消えてしまった。<

やっぱり、『愛』ですよね!

でも、

>スター・デーリーが宗教的光燿を魂の内に感じて炬火のような熱情をもって牢獄生活の友達を顧みた時、
彼はこの悦びをそれらの人に頒ちたいという願いが、沸々とたぎりたつように感じられてくるのであった……<

というような思いから、デーリーは、牢獄生活の囚人たちに伝道を始めたけれど、
結局は、「裏切り者」として憎まれ、排斥されるようになってしまったのですね。

なぜ、だったのでしょうか?

わたしはデーリーが体験したことは、とても言葉で表現できるようなことではなかったからだと思いました。
それは、本当に神を体験した者しか理解できない貴重な体験だった。
だからこそ、デーリーは自分こそ神より選ばれた他を救うべき特権がある者だと勘違いし、
そして、見さかいもなく伝道しはじめてしまった。
だから、デーリーの体験を理解できない囚人たちは、拒絶する以外なかったのだと思います。

つづく

264a hope:2011/10/02(日) 00:11:15 ID:MNrNIsM2

つづき

でもそこで、

>「そんなに人を救おう救おうと力むものではないよ……」<

と、デーリーは、ライファーから諭されて、囚人たちを改心させようとする気持ちをすて、ひたすら、
自己改善のために、自分自身の魂を磨くための手段として、囚人たちの実相を観るようにしたのですよね!
そして、デーリーはそれを、『高き悦楽のゲーム』highly fascinating gameと呼んでいたのですね。

そしたら、今までデーリーのことを避けていた、囚人たちが、予期せず、親しみ出してきたんですよね!

>愛は欠点を見てそれを矯正することではなく、そのいたい傷に触れることではなかったのである。
愛はその人の傷をやさしく包んでその人の欠点の奥にある円満完全なる実相を、じっと愛の心で眺めやり、
これが彼の実相であるとそれを心でいたわり育ててやることであったのである。<

ここのところは、本当に素敵な文章だと思います。
何度も読みたくなります。
ただ、「相手の実相を観て祈る」というのでは、どんなことか実感しにくいですが、
このような素敵な言葉で表現されていたら、とても分かりやすいのではないかと思いました。

>デーリーはかかる愛の実践が、ハッキリと敵の陣営にあった人々に此のような奇蹟を演ずる事実を見た<

復興Gさまが、一番最初にあげてくださった引用文の後半部分なんですが、

>それよりも彼は、自分が『愛』を行じさせて頂くために神から与えられた『愛の対象』であると見るべきであり、
その『愛』を行ずる事によって誰が救われるのかと言えば、自分が救われるのである。
この態度になってこそ霊的プライドというものがなくなり、敬虔な、神聖な、『わしが』というような傲りの心がなくなるのである。<

とありますが、そうすると「愛を行ずる」とは、相手の完全円満なる実相を観ることで、
自己改善をし、自分自身の魂を磨くことということになりますよね?

つづく

265a hope:2011/10/02(日) 00:22:46 ID:MNrNIsM2

つづき

そして、

>自分の力というものは、説教する事によってよりも、如何に自分があるかという事によって効果を現わすものなのである。
伝道には歴史的キリストを無視すべきではないが、それよりも大切なのは、自分に内在する神秘的キリストを内部から呼び出して来るべきであるのである。<

とありますが、
ここのところは、役行者さまが、

>伝道とは、道を伝えると書きます。
 言い方を変えると、
 道が伝わる。真理が伝わる。愛が伝わる。
 伝えるには、作為があります。強制であり、力みがあります。

 伝わる。には、傷をやさしく包むイメージがあり、老子の言葉の無為自然が、ピッタリときます。
 久遠の愛が無為自然につたわる伝道!<
と最後に教えてくださってますが、

つまり、伝道とは、この場合、相手の実相を観ることで、自己改善をし、自分を磨き、自分の内なる神を呼び出すことによって自然におこる、
愛の奇跡、ということになるのでしょうか?


とても素敵な文章なのに、わたしがこのような形で理解しようとするのは、
ちょっと気が引けましたが、でも、お勉強だと思ってやらせていただきました。

ご指導お願いいたします。

266役行者:2011/10/02(日) 12:52:56 ID:gZGy03g2

>a hope さま

 いそがしくしている復興Gさまのご指導が、いまだのようですが、感想を述べさせていただきます。
 人に愛を行じると、神より愛されると説かれてます。神の愛に包まれた生活って、理想ですね。
 
>伝道とは、この場合、相手の実相を観 ることで、自己改善をし、自分を磨き、自分の 内なる神を呼び出すことによって自然におこ る 愛の奇跡、ということになるのでしょうか? <


 わたしはそのように思ってます。なんの作為もない愛って、その人の魂を進化させ、きっと、ささやかな神からの微笑みがプレゼントなんでしょうね。

267a hope:2011/10/02(日) 22:15:36 ID:MNrNIsM2

役行者さま

温かいお返事をありがとうございます。
そして、わたしの考えに同意していただき本当にうれしいです。

わたしは、神想観が大好きなのですが、最近は「如意宝珠観」が特に気に行っています。

だって、そこに出てくる竜宮城はまるで、わたしのイメージする「生長の家」そのもなんです。

『この大調和の実相の大海原に宮柱太しく立ち、甍高く聳えたり、
ここ竜宮城なり、綿津見の神の宮なり、塩椎の神の宮なり、
一切の宝周く満ち、一切の調度尽く七宝をもて荘厳せり。』

『住む人悉く身健やかに、心美しく、
相形美わしく和顔愛語讃嘆に満たされたり。』

この掲示板にいる人は、みんな優しくて、愛情にあふれていて、とても温かいです。
本流の先輩方も、同じです。

わたしは、如意宝珠観をしているとき、
「生長の家」の教えを愛している人達は、みんなわたしの家族なんだな〜と感じています。

わたしには、まだまだ勉強することが山積してます。

でも、今の時点でわたしができる伝道は「相手の実相を観て、自分を磨くこと」。

そして毎日、神想観をして神さまに包まれて、
神さまから微笑みのプレゼントをもらえるように頑張りたいです!



トキさま

実はわたしは、伝道についてもっと細かい内容のことを、
ここにまとめようかと思っていました。

でも、今、わたしは、もう一つのテーマ「真の生長家の教え」も含め、
それはわたしの仕事ではないような気がしています。

この半月間、トーキングステックを握らせていただき、生まれて初めて、
こんなに真剣に「愛」について考えました。

そして、みなさんのお力を借りて、自分なりに、納得がいく答えを見つけることができ、
自分自身がとても成長できたような気がしています。

ここで、トーキングステックをお返しいたいと思います。


みなさま、約半月間もの長い間、お付き合い下さりありがとうございました。

特に、わたしをここに推薦してくださった、うのはなさま、復興Gさま、
最初はあまりのプレッシャーにお二人を、少々恨めしく思ったりもしましたが(笑)、
今は、心から感謝しています。

本当に、ありがとうございました。

268復興G:2011/10/02(日) 22:55:45 ID:yhDBe2kY

>a hope さま
>役行者様

>262
 きのう、『訊け』ブログで、雅春先生の「久遠の今」の講話や、榎本先生の講話聴いていたら、なんか、「喜べ」「喜べ」「神のために喜べ」って言われているようで、今日一日中、訳も分からず、Happy でした!

 最高! よかったですね。

 私は、今日は朝から一日茨城教区の講習会受講のため、メイン会場であるつくば市の国際会議場へ行ってきました。(県西の古河市と県北の十王町にもサブ会場が設けられていました)
 すばらしい神の愛に満ちた雰囲気の講習会で、なんだか訳も分からず感動してしまいました。
 総裁先生のご講話もいつになく──などといっては失礼ですが、力強く話され、体験談もすばらしかったし、教区の幹部・信徒の皆さんが一所懸命に無我の愛を実践し準備してこられたことが感じられました。朝はつくば駅から会場まで徒歩約20分、高架のところもありますが歩行者専用の大きな道が通じています。その道は少し紅葉がかった緑の街路樹のトンネルの下に敷石が敷き詰められている、かなり長い道を歩いて行くのですが、途中の要所要所にぴったり、必要と思われるところに生長の家の旗を持った係の人がにこやかな笑顔で出迎え、案内に立っていてくださる。往年の愛とよろこびに満ちた生長の家が甦ってきたような、うれしい気持ちになりました。
 一部の教区で見られたような、午後になると受講者が半減してしまうというようなこともなく、最後までほとんど変わらないような感じでした。

 夜は、あるお祝い事の食事会をして、只今帰ってまいりました。

 そうしてこのボードを開き、今、a hopeさま、役行者様のうれしい言葉を拝見して、またうれしい気持ちを確かめています。

 スター・デーリーは、ライファーのことを評して
 「彼自身が伝道の言葉なのである。彼は何を知っているかの故に大勢の人々を救い得るのではなく、彼は如何にあるかによって多勢の人々を救い得るのである」と言っています。私もそうありたいと思います。
 「光が行く」「喜びが行く」という愛行、伝道に日々励みたい!

269「訊け」管理人:2011/10/03(月) 07:47:17 ID:D0Kb5yw.
>a hope さま

 動画の評判が上々です。雅春先生や榎本先生も喜んでおられることでしょう。
ということで新らしい動画をアップ致しました。ぜひご高覧ください。

●「質問に答えて」榎本恵吾先生御講話
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65594274.html

>伝統さま

 また本流掲示板の「榎本恵吾記念館」スレ、上記を投稿されて、上位掲載
してくいやんせ(笑)もう、不調和な話題ばかりでヘキヘキしてますが、貴殿
ご投稿文章だけは、拝読しております。ホントいつも、勉強させて頂いております。

270さくら:2011/10/03(月) 07:58:30 ID:T/77sMGw
a hopeさま
復興Gさま
役行者さま

おはようございます。
いろいろ気付きを与えていただき、ありがとうございます。
割り込んですみません、想いついたこと、つらつら書くことを
お許しくださいませ。


a hopeさま

あなたの純粋な姿勢に、いつも感動をもらっています、ありがとうございます。
ぽつぽつと感じることで、失礼します。

新約聖書の「コリント人への手紙 第一」の13章に、「愛の章」と呼ばれる一節があります。

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、私は、やかましい鐘や騒がしいにょうはちと同じである。たといまた、わたしに預言する力があり、ありとあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、一切は無益である。

愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。

このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちもっとも大いなるものは、愛である。」

やたら、love、loveと、連呼されるこの章を初めて読んだ時、私もグッと来てしまい、その後も、何かの折に触れて自分の実感としても感じるようになり、時々思い返す言葉の一つになりました。
(・・ひとつ屋根の下、ってドラマの、「そこに愛はあるのか〜」、ってセリフをなんとなく思い出しました。・・俗な話ですみません、)


生長の家の素晴らしいと思うことの一つ、
人間はすでに救われ済みである、という真実を説いてくださっていること、
人間は、救えるのか、救われるのか、ではなく、
すでに救われずみ、という教えに、私は初めて触れた時、とてつもない、深い愛を感じました。
伝道の基本的な心の姿勢も、そのようなことを、私自身は思っていたな、と思います。
人を救おう、とか、人を救えるのか、ではなくて、
すでに救われずみの命に、私は神の子としてどのように愛を与えるのか、私ならどのようにあなたを同じ、神の子だと、心から思っているよ、と伝えてあげられるのか・・
言葉にすると、そのような思いのようです。

愛を与えられれば人は心を開くし、信頼もできる。信頼すれば、話も聞きたくなるし、その人が言っているなら、信じられることが大きい。
a hopeさまが、生長の家の教えで感動したことや、実感したことなど、普段実行されていることなど、そのままの心で素直に、御縁ある方にお話すれば、きっとa hopeさまのそのまま輝く姿を見て、周りの方の心に伝わるものがあるのではないかと、そんな風にも考えます。
・・そう、御縁ってありますよね、自分が救う人を選ぶわけではないですしね。

最近の自分のことだと、ある友達に生長の家だと話していましたが、宗教に別に興味がない子いました。だから、私も特別話をしませんでしたが、その友達はもともと神経が敏感で、すぐ人の悪い雰囲気を受けやすかったりしていて、ある時、人間関係に疲れ悩んでいました。
悩みを聞いたり考え方を変えることなど話していましたが、なんとなくふと、その子になら、生長の家の先祖供養のことを話してみよう、という気になって教えると、とても興味を持ってくれました。本を上げたり話をしていくうちに、自分で実行してくれるようになり、自分の気持ちが明るくなったことを話してくれるようになって、うれしかったです。生長の家の本も読んで興味を持って話してくれるようになりました。それまで、自分が先祖供養のことを伝えようとは思ってなかったので、その子とのご縁があって、導いて頂いたんだな、と感じます。
(カルトの信徒さんであっても、力まず、やんわりやんわり、ご縁でお伝えできればよいですものね、笑。)

271さくら:2011/10/03(月) 07:59:02 ID:T/77sMGw
また、聖書に、「いと小さき者のひとりに為したるは、すなわち我のためになしたるなり」というイエスの言葉がありますが、愛は、本当にだいそれたことばかりではないということも学びます。

ある時、私はボランティアをしていて、その作業にひどく没頭したことがありました。愛の問題についても分からないことが多く、悩みもあった時期ですが、その時、全部忘れて無我夢中になって、無心になってたんですね。
ふと気がつくと、周りの人が、「ありがとう」とか、私がしたとは思わない人も「たすかった〜」とか言ってるのを、見ました。
そしたら、その人たちが、大変愛おしい感覚
になって包み込みたいような、私の心の中では、世界がポンと広がって、すべてが輝いて美しく見えるような・・そんな感覚があったのですね。私の方が限りない感謝の思いに満たされていました。
神様の愛は、自分がしてやった、というような主張もなく、さりげなく、でもただ喜びのために全てを与え、全てに行き届いていて、矛盾もなく平等で、それに本当に大きすぎて普段気がつかないほどだったんだな、とその時思ったのもおぼえています。

オスカーワイルドは、耽美派の芸術家で、放蕩の限りを尽くして牢獄に入るのですが、
その牢獄の中で、ある老人に、なんとはなしに与えた小さな愛の行いによって、自分の中の「キリスト意識」に出会い、自分が求めていた本当の美とは、このキリスト意識にあったことを悟り、敬虔なクリスチャンに生まれ変わるのですね。
それで生まれたのが「幸福の王子」なんですが、オスカーワイルドらしいシニカルな風刺も効いた、素敵な愛の物語ですね。
(昔読んだときは、王子よりこのつばめの方に感情移入していました。今もかな・・?)
本当に些細だけれど、私にとっては、大変愛おしい自分の経験から、そのことを思い出していました。

これについて、お世話になった講師に話すと、トルストイの「愛あるところに神あり」という話を、話してくれました。これは、「靴屋のマルティン」という題名でも知られている、美しい話ですね。雑な解説は、以下です。
息子を亡くして、神にも絶望した靴屋のマルティンが、神から「往来を見ていなさい、私が明日、会いに行く」というような言葉を聞いて、待っていると、その日、貧しい人や困っている人が、どうしても気になってマルティンは思わず知れず助けています。
それで、一日の最後に、神と出会ったかと自問して、マルティンが気づくのは、その貧しく困っている人の姿こそ、神の姿で、自分の心にキリストがいたということ、だったようです。(雑ですみません、本当は美しい物語、もしまだであれば、本でどうぞ。)

そんな私のちいさな経験から、この美しい物語をお話し下さって心を見つめてくださった講師の先生の、これまた美しい心を、私は有り難いな〜と思いました。
だからこそ私には、心の温かくなる良い思い出として残ることになりました。

すでに神の子である者が、すでに救われている神の子に愛を与える。生長の家の愛行でもそんなことを思っていたので、それに通じるものがあると思いました。
それは大それた行いや言葉でなくても、自分の普段の思いが通じるものがあればいいと思っています。
a hopeさまの純粋な信仰への思いや、愛の深さは、必ず、ご家族や周りの方に、神の愛を知らせることになり、良い影響をたくさんお与えになると、思います。


またまた手前勝手なことを、つらつら書きました。
読んで下さり、ありがとうございます。
それでは、また。合掌。

272さくら:2011/10/03(月) 23:27:06 ID:T/77sMGw
復興G様

茨城教区の講習会は、聞いたところでは、受講者が去年より、300名〜くらい
増えたみたいですね。

やはり運営のみなさまの雰囲気も、素晴らしかったのですね。

素晴らしい…ありがとうございます。拝

273a hope:2011/10/04(火) 00:09:42 ID:MNrNIsM2
復興Gさま

昨日は、生長の家の講習会に行っていらしたんですね。
>すばらしい神の愛に満ちた雰囲気の講習会で、なんだか訳も分からず感動してしまいました。<

わたしは、講習会というのには一度も行ったことがありませんが、
復興Gさまがそのように感動するのなら、本当にすばらしい講習会だったのでしょうね。

>一部の教区で見られたような、午後になると受講者が半減してしまうというようなこともなく、最後までほとんど変わらないような感じでした。<

それを聞いて、なぜかわたしは、ホッとしてしまいました(笑)。
きっと参加された方々も、同じように感動されたのだと思います。
さくらさまが、受講者も去年より増えたとおっしゃってますね。
本当によかったですね。

今回の、わたしのトーキングでは、復興Gさまからはたくさんのことを教えていただきました。
わたしは生長の家の教えが大好きですが、教団もやめて、一人で勉強しています。
でも、独学というのは、モチベーションを維持するのが難しいですし、
自分が正しい理解をしているかも確認できません。

今回、この掲示板で『愛』と『伝道』について、みなさまからいろいろ意見をうかがいながら、
勉強できたことは、わたしにとってはたくさんの学びと気付きがあり、大切な心の宝となりました。

本当にこのようなことが、インターネットでできてしまうということが、いまだに信じられません。

>スター・デーリーは、ライファーのことを評して
 「彼自身が伝道の言葉なのである。彼は何を知っているかの故に大勢の人々を救い得るのではなく、
彼は如何にあるかによって多勢の人々を救い得るのである」と言っています。私もそうありたいと思います。
 「光が行く」「喜びが行く」という愛行、伝道に日々励みたい!<

伝道とは、「自分自身が光となって、喜びとなって、まわりによい影響を与えて行くこと」とも、表現できますね!

この掲示板は、生長の家とわたしをつなげる大切な場所です。

これからも、たくさんのことを勉強させていただくつもりですので、どうぞよろしくお願いいたします。

274a hope:2011/10/04(火) 00:13:20 ID:MNrNIsM2

「訊け」管理人さま

前にも言いましたが、わたしは「訊け」ブログの大ファンで、少し不思議な方ですが、
あなたさまのことは心から尊敬させていただいております。

今回、雅春先生や、榎本恵吾先生の動画を紹介していただき、
わたしはそれを拝見していて、大きな気づきがありました。
いくら感謝しても足りないくらいです。

こちらでのあなたさまの活躍も楽しみにしています。
これかも、どうぞ、よろしくお願いいたします。

275a hope:2011/10/04(火) 00:21:48 ID:MNrNIsM2

さくらさま

新約聖書の「コリント人への手紙 第一」の13章に、「愛の章」の一節 素晴らしいですね。

>愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、苛立たない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真実を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない。<

わたしは、今まで一度も読んだことのない聖書を一冊持っていたので、さっそく開いて見てみました。
言い回しは少し違いますが、同じ内容のことが書いてあり、なぜか、とても感動しています。

きっと、さくらさまにこのような形で教えていただかなかったら、
これからも一度も開くことのなかった聖書かも知れません。
そう思うと、さくらさまへの感謝の気持ちがあふれてきます。

>愛を与えられれば人は心を開くし、信頼もできる。信頼すれば、話も聞きたくなるし、その人が言っているなら、信じられることが大きい。<
ライファーもデーリーに
>まず『愛』を第一に、その次には『信頼』だよ<
と言っていますよね。
>ある時、私はボランティアをしていて、その作業にひどく没頭したことがありました。愛の問題についても分からないことが多く、悩みもあった時期ですが、その時、全部忘れて無我夢中になって、無心になってたんですね。
ふと気がつくと、周りの人が、「ありがとう」とか、私がしたとは思わない人も「たすかった〜」とか言ってるのを、見ました。
そしたら、その人たちが、大変愛おしい感覚
になって包み込みたいような、私の心の中では、世界がポンと広がって、すべてが輝いて美しく見えるような・・そんな感覚があったのですね。私の方が限りない感謝の思いに満たされていました。
神様の愛は、自分がしてやった、というような主張もなく、さりげなく、でもただ喜びのために全てを与え、全てに行き届いていて、矛盾もなく平等で、それに本当に大きすぎて普段気がつかないほどだったんだな、とその時思ったのもおぼえています。<

ここのところ、すごくよくわかります。

わたしも、以前ボランティアで、あることをしていたことがありますが、
「ありがとう。」「ほんとに楽しかった。」とか「元気になりました。」といわれるたびに、
自分が、ありがたくて、うれしくて、元気になっていましたから...
させていただけることに感謝の気持ちがわいてくるんですよね。

本当に、さくらさまと話していると共感することが多くて、キリがないですね!

この続きは、また今度、女子会板でさせていただきますね。

276a hope:2011/10/04(火) 00:41:48 ID:MNrNIsM2

トキさま

今回のトーキングステックでは、トキさまにもたくさんのことを教えていただき、
大変勉強になりました。

わたしは、トキさまは優しくて、頼りがいのあるとても素敵な方だと思い、
いつも尊敬させていただいております。

トキさまのおかげで、わたしはここでこうしてお勉強させていただけるのです。

本当に、この掲示板は、素晴らしいです!

トーキングステックはお返しいたしますが、女子会板などで、
これからも、思うことを素直に書き込みさせていただきますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

277さくら:2011/10/04(火) 06:21:27 ID:T/77sMGw
愛と共感の女神 a hopeさま

いつも、ありがとうございます!

>この続きは、また今度、女子会板でさせていただきますね。

私も女子版で、また好き勝手語りたい…
ここに、女子版作って下さったこと、トキ様に感謝してます。合掌。

278トキ:2011/10/05(水) 11:39:00 ID:cjNjb78g
>>276

 素晴らしいご文章、ありがとうございました。では、いったん、トークキングストックを受け取ります。
a hope様へ御質問など、ある方はご投稿をこちらへお願いします。なければ、次の方を募集します。

279トキ:2011/10/05(水) 22:33:01 ID:cjNjb78g
 えー、どうでしょうか? どなたか御質問などはありませんでしょうか?
では、次の方を募集したいと思います。

 自薦他薦を問いません。皆様、宜しくお願いします。

281さくら:2011/10/15(土) 07:33:49 ID:T/77sMGw
トキ様

おはようございます。
いつもお世話になっています。

こちら、今だ空いてますね。

どなたか表れるまででも、地味にお借りしようかと、お邪魔してみました。

宗教の教えと組織運動における展開について、漠然とした疑問点がありますが、
正直言うと、自分の考えはまとまってないです。
でもこれも勉強しながらということで、とりあえず、大きな胸をお借りする気持ちで、お邪魔してみました。

今までの生長の家の運動の歴史については、トキ様のご文章などを読ませて頂いて、大まかな概要の把握はしているつもりですが、
細かな運動の是非を判断する、ということではありません。

ただ、生長の家の教えの展開としての運動は、何を実現してきたのか、これから何を実現しようとしているのか・・漠然としてますし、根本的な部分ですけれど、疑問が湧きます。実際運動の先輩がたくさんいらっしゃいますし、色々書いてあることも私なりに読ませていたいるのですが、考えをまとめる意味ということで、ここをちょっとお借りしたいと思いました。

ぼちぼちしか書けないと思いますし、色々知識不足なので助けて頂くことも多くなると思いますし、

もし許可を頂ければ、
よろしくお願いいたします。

さくら 拝

282トキ:2011/10/15(土) 09:32:02 ID:sGbCE82o
>>281

さくら 様

 本当ですか! もちろん、大歓迎です。ぜひ、お願いしたいです。

管理人 敬白

283志恩:2011/10/15(土) 12:45:10 ID:psrFh/ZU
スナフキン君もそうですが、さくらちゃん、戻って来てくれて、ほんとによかった。!
難しい言葉と言葉とのキャッチボールも出来る賢い女性。頼りにしてます。

男性軍は、いうまでもないけれど、
ママ、さくらちゃん、うのはなさん、a hopeさんの女性軍も、賢い。
若手の皆様のお話伺えて、勉強になります。

284さくら:2011/10/15(土) 13:59:13 ID:Jwt1IgIQ
トキ様

許可頂きありがとうございます。
トキ様には、お世話になるつもりでいます…すみません、よろしくお願いいたしますmm


ありがとうございます、
伊勢谷 志恩さま、…あ、間違えてすみません、
志恩さま。

ちょっとずつ、ですが、どうぞ、色々教えて下さい、お世話になります。

285a hope:2011/10/16(日) 05:44:31 ID:MNrNIsM2

さくらさま

トーキングスティックを持たれたのですね!

「宗教の教えと組織運動における展開について」

とても良いテーマだと思います。

わたしがそうでしたが、みなさんのご意見をうかがいながら、
さくらさまのペースでお話されたら自然に考えがまとまってくると思います。


さくらさまのトーキング楽しみです。
わたしもいっしょに考えさせていただきますね!

286さくら:2011/10/17(月) 09:54:26 ID:T/77sMGw
A hopeさま

愛と共感の女神a hopeさまのお言葉、心強いです。
理解が半端なので、皆さまのお力が必要です、
ともに、学ばせて頂ければ、うれしいです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。

287さくら:2011/10/17(月) 10:01:29 ID:T/77sMGw
合掌。
さくらと申します。生長の家の今の組織の、末端信者です。
以前はお役も拝命していて、一途な活動をしようと思っていたこともありました。
正直、今は、今の教えというより、組織自体にいろいろ疑問がありそのようなか関わりはやめております。
そういう立場で、こちらの場所をお借りすることにいたしました。お願いします。

今回、生長の家の教えが、組織を展開して何を実現しようとしているか、実際どのようなことが実現されていったかということを、今の方針の展開も含めて確認させて頂きたいように思いました。

漠然とした疑問だったのですが、初心者さまが今回、対話を通して導こうとしている考案にも繋がるような気がして、組織として果たして実現可能なこととは何かを、整理したい気持ちになりました。
それにしても、経験とか知識不足なゆえに疑問だけは大きくなっている状況ですので、色々まとまりがなくて、その点は、お許しください。
それで思いつくまま書いてしまいますが、少しづつお相手してくれる方でもあれば、見えてくるものがあれば良いと思っている次第です。


さて、生長の家の組織は、「地上天国実現のための実際運動を起こす」ことが出発点であると思いますが。「地上天国実現」ということがどういうことかといえば、七つの光明宣言に示されている「正しき人生観」「正しき生活法」「正しき教育」により、人生苦を克服することによってある、とあります。これは、あらゆる分野において個人体験談があり、実現性が証明されているところと思います。

初心者さまが、「救い」の現象、について、命題を与えておられましたが、切り込んだ視点だと、興味深かったです。
生長の家の奇跡と呼ばれるような体験は、言葉に縛られて生きるしかない人間の意識の中の出来事でしかないのか、それともやはり、不完全な現象を否定した時「実相」が現れたのか(「実相」が現れるとは何か、このことも考慮の余地を感じるようになりました。)それは、救いの霊波をうけた霊的な癒しとして現れるのか、
また、他の点では今の生長の家で、体験が出ないとか奇跡が起きないとか言われるのはなぜなのか、それが雅宣総裁や今の教えの責任なのか、・・とか。

しかし、本当のところは、救いがあった後何をするのか、が、実際の問題だと思います。
それを、組織運動に参加する、ということに繋げているようなところがありますが、実際のところ、このことを疑問に思っているものがあります。
理想的な意味では、素晴らしい教えに救われ実践する人を増やしていくことが「地上天国」を実現させること、になると思いますが、それは、組織の運動に参加して人数を増やすことにつながるのか、ここが、正直疑問に思っています。
一つには、この疑問についてまだはっきりしてないですが、何か意見があれば、お願いしたいと思っています。


あと、生長の家の本部は、実相世界にある、と言われておられ、雅春先生のみ教えは、霊界からのインスピレーションを源にして、与えて頂いていると教えていただいています。
その雅春先生の霊的インスピレーションの源である「大宇宙そのものの生長の家」と、現象に現れた「宗教法人生長の家」は全くの別物であり、仮の姿の、影にすぎない、書かれています。この仮の姿の影は、生長の家の生き方をしている方に運営されていれば、「実相」の姿が表れていると思いますが、結局今の組織は、そのことに失敗しているのでしょうか。総裁=副総裁=み教えの秩序も崩れているのでしょうか。組織の現実の粗い目の中で、色々問題はあるとは思いますし、現象の世界の出来事と言われそうですが、今の組織を批難する方は、結局み教えの展開として表れた今の組織が失敗しているということを示しているのでしょうか。
ただ、批難することを聞いていても、表面的なことしか、見えてこないのが、正直なところです。
組織において、何を実現したとき、成功とするのか。
またしても、漠然としていますが、この点が疑問です。

288さくら:2011/10/17(月) 10:02:39 ID:T/77sMGw
今回、「自然状態への回帰」への道筋として義春さまが示して下さったている、ご自身の経験による直観的把握や、以前からの天皇に対する考慮に、深く共感するものを感じております。
以前わたしも、ある山岳信仰の山頂の神社に参拝した折に、経験したことのないような畏敬の念に打たれて、心が深く沈黙したことがありました。神聖なものに向き合った時の、の圧倒的なおそれのような原始的といえる感覚は、自我が自然に溶け込むような気がします。
この時、畏敬の念というのは人間の信仰心の原点であり、神に対する感情の一つの基準、となる様に思っておりました。
トキ様のご友人の滝行に関しての義春さまが答えていた、自然に対する敬意、大変重要なポイントと思います。
そういえば、私は、アルピニストの野口さんが大好きですが、同じようなことを言っていました。山で遭難したり、極限状態の登山の過程で発狂するような方などをたくさん見てこられましたが、やはり、何処かに慢心する心があったり、自然に対する敬意を忘れてしまえば、そのようなことが起こりやすいと言っていました。自然との向き合い方を考えさせられます。
イワクラ、アミニズム信仰、古代神道、太陽信仰、天照大神、伊勢神宮、天皇信仰・・そのような信仰の繋がりを学びたかったので、義春さまの経験などを含めて、共感できるものがあります。
ですから、自然状態を通してはじめて、天皇国実相顕現に迫るという道筋を考えていくことに、大変関心を持っている次第です。

それで、このことは、信仰の問題ではありますが、活動の展開として、どのようにありうるでしょうか。信仰的な祈りや行事は理解ができます。
しかし、組織として何を実現しようとするのか、このことにまだ、疑問があります。
天皇国実相顕現、といいますが、その理念を多くの方に理解し広めていくというのは、大切なことであると思いますし、そのような理解こそ、日本を支えていくことだと思っています。
しかし、それに関して、生長の家が行ってきた活動は正しい方向だったのでしょうか。それを、「復活」することが正しい方向なのでしょうか、まだ疑問があります。
これについても意見があれば、よろしくお願いいたします。


本当は、本部の先生や、今の教えを理解し活動していてる方がいれば、具体的な活動の意義など、改めて納得できるように示していただき、どのようなことを実現されようとしているのか、ここでもご指導いただきたいですし、

復活派の方は、主張されている内容で、具体的には何を実現しようとしているのか、正直分からないので、一信徒の疑問に答えていただけたら、有り難いとも思っています。
(それで、ここと違って、社会、に対して、真剣な掲示板の様ですけど、信徒の不信感さえぬぐえないのはなぜなのでしょうか。社会に対して真剣、とは、対話もせずに自分の正義や知識を主張続けることなのでしょうか。普通に仕事をして真理を学び恋をしたり家族や人や生活を愛したりすることは、社会に対して真剣じゃないというのでしょうか。ここに書きこむ人間が真剣に生きてないとでもいうのでしょうか。だから相手にも出来ないのでしょうか。)

取り合えす、ポイントがまだ、漠然としてしか書けなくて申し訳ないのですが、
一応書きこみさせていただきました。
何か反応があれば、だんだんはっきり浮き上がるものがあるかな、と希望を持つことにします。

さくら、拝。

289義春:2011/10/17(月) 13:43:14 ID:SjZg29/2
>>288
さくら様
昼休みなので、思い付いたままに書かせて頂きたく存じます。

本流復活掲示板を眺めていますと、彼等が仰る【復活】とは、もし復活すれば、考えの異なる他者を排斥する様に感じます。

私も確かに、復活を望みますが、その復活は率直に申しまして、違うと感じております。

本流復活掲示板の言わんとする復活は、言うなれば幕末で言えば【攘夷】なのだと感じます。
それはこのような理由によります。少しでも考えの異なる人たちを本流復活掲示板では、排斥してきました。
それは外国を受け入れるのを武を以て、打ち払おうとした考え方に近い気がします。
しかしながら、この【攘夷】は、元々日本の考え方ではありません。

朱子の説いた儒学に強く影響された漢心です。

それと生長の家が行なってきた活動がイコールで結びつくかと言えば、私個人は分からないというのが率直な気持ちです。

ですから私の言わんとする復活は、八百万の神々が仏教を受け入れた様に、他者を取り入れ、共存・共生するものです。
それだから、自然と共にあり、天皇陛下を中心に、全てがつながった共同体意識の事を指します。

又、今までの生長の家が行なってきたのは、時代相応に迫られたものだと私は感じており、それは間違ってなかったと存じます。
その先輩方のご活躍あればこそ、今があり、その今という時代相応に迫られた活動が要求されていると私は感じております。

290初心者:2011/10/17(月) 13:49:29 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>理想的な意味では、素晴らしい教えに救われ実践する人を増やしていくことが「地上天国」を実現させること、になると思いますが、それは、組織の運動に参加して人数を増やすことにつながるのか、ここが、正直疑問に思っています。
一つには、この疑問についてまだはっきりしてないですが、何か意見があれば、お願いしたいと思っています。

わたくしのつたない体験では、組織活動には、数を追うという展開があっただけのような気がしております。具体的には、組織活動とは、行事の参加者を増やす、受講券を売りさばく、というものであったような気がいたします。

問題は、そうやって人を増やしたときに何がおこるかということでありますね。たとえば青年会時代、わたくしは教化部にいりびたりでありましたので、教化部がどんなところであるかは、よく存じているつもりでありました。そしてひとつの想像をしてみました。

それは、世界中がこの教化部のような雰囲気につつまれたときに、世界ははたして光明化されるのか、という想像でありました。教化部のなかの雰囲気。それはわたくしにとりまして、好ましいと感じられるものもありましたが、そうでないと感じられるものも少なくはありませんでした。

人の陰口をたたく人がいたようです。人を人ともおもわずに、横柄にいばりくさっている人もいました。よくない行いをする人もいたようです。ほんとうかどうかは知りませんが、女子青年にみだらな働きかけをしたという人の話も聞きました。陰気な人もいたような気がします。精神的に健全でない人もいました。

教化部内のこうした雰囲気が世界中にひろまったとき、はたして世界は救われるのか。わたくしには、とてもそのような楽観的な気分にひたすることはできませんでした。それでも教団は、組織活動をつづけて、人を集めようとします。集めて何をするつもりなのか。それがまったくわからないまま、ただ活動をつづけていただけのような気がしております。

活動をつづけてきたことで、日本や世界は、いくらかでも変わったということがいえるのでありましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれでも、世の中がなにも変わっていないとすれば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。

291義春:2011/10/17(月) 13:50:14 ID:SjZg29/2
追伸
本流復活掲示板が生長の家の御教えを守っていえば、それはないなぁ…と思ってます。
それだから、それに立脚すれば、生長の家が行なってきた活動と本流復活掲示板はイコールではないだろうと推測はしております。

ただ、私が若すぎて、その時代を見てないので、確信は持てません。

どなたかが、その点を書いて頂ければ有り難く存じます。

292うのはな:2011/10/17(月) 23:25:54 ID:iM0b0bt6

>>291 
本流復活掲示板が生長の家の御教えを守っていえば、それはないなぁ・・と思ってます

一体何をどうしろといわれるんでしょうか。。
そんなことだから、本流で工作員だなんだかんだといわれるはめになるんじゃないですか。

生長の家といっても俗世間のミニチュア版みたいなところがあり、不正もあれば批判もあり、
これが生長の家の教えを実行しているようにも思えません、といわれても、いつもいつも
完全円満な心境でいられるはずがありません。

おたがいのサイト内容や運営を高い所から批評しあうみたいなことは、やっても仕方ないじゃないですか。

293さくら:2011/10/17(月) 23:46:28 ID:T/77sMGw
義春さま

いつもながら、ご多用の中駆けつけて?下さり、そのご愛念を本当に有り難いと思っています。
義春さまの言葉の中に、
「・・私は非難したくないのです。(中略)過去を裁きたくないというのが、私の率直な思いなのです。」という言葉がありましたが、私はこの言葉に、大変共感しています。
私は、過去の運動の是非を判断するような立場でもないし、その是非を判断をしたいとかいうのでもなく、
ただ、本当に生長の家の組織が何をしようとしているのか、疑問に思っているだけなのです。

「又、今までの生長の家が行なってきたのは、時代相応に迫られたものだと私は感じており、それは間違ってなかったと存じます。
その先輩方のご活躍あればこそ、今があり、その今という時代相応に迫られた活動が要求されていると私は感じております。」

このことも、その通りだと思います。
雅春先生も、その時々の時勢に対応したご見解を示されておられたと理解しています。
例えば、大東亜戦争の評価も、開戦当時は、
「大東亜戦争に吾等矛をとりて起つは、この宇宙最始源の大生命の大神の御意志」とし、
「宇宙大生命の神聖なる聖意の実相顕現に献身する戦いであるのである。だからこそ聖戦云い得るのである。」(「生長の家」誌)
としていましたが、
日本が敗戦した時の心情の変化を記されています。
「(前略)僕は今の日本の戦は、陛下の御意志ではないと思う。随ってそれは皇軍と云うには相応しくない。」として、大東亜戦争の現実的な悲惨さ、侵略行為や殺戮行為を否定されておられました。
そのことから「この戦争は、神の聖戦ではない」というご発言がありました。そして本来神は争いをつくられないとの立場から、どんな戦争も聖戦であり得ない、とされました。

その後、国家問題に対する発言から、公職追放となりますが、
それが解かれると、再び大東亜戦争について、「皇軍」や「聖戦」ではなかったことは否定されず、「アジア、アフリカ諸民族の独立を達成させる、良い結果をもたらせた」との評価されるご発言をしています。
これは共産主義勢力による、思想的状況から、日本民族の理想や誇りを守るためであったと思われます。
ご発言の変化を表面的にとらえて非難された方もいたようですが
終始一貫、日本や天皇への忠に即した御意志があったことは、理解されます。
天皇国日本の理念を失うことなく、時代に応じたご発言の変化があったということが分かります。
こうしたこともそうですが、人が発する言葉、その時々の発言を一つずつ切り取って、その是非を見ようとしても、必ず、大きな偏りがあると思っています。

雅宣総裁のご発言をひとつひとつ切り取って判断し非難したり、雅春先生のご発言と比較したりしていても、
あまり意味を感じません。むしろ、そのようなことに過剰反応すれば、逆効果だと思っておりますし、
そのことだけで「いまのおしえ」を、判断したりするのは、やはり、偏っているのではないかとも思っています。

義春さまが仰るように、「今という時代相応に迫られた活動」を、
生長の家として、一つになって考えていかなくてはならないのでは、と思っておりますが、
なんだか、今の方針は、理解が得られないままのようですし、分裂や不満を抱えている状況の様ですね。

>ですから私の言わんとする復活は、八百万の神々が仏教を受け入れた様に、他者を取り入れ、共存・共生するものです。
それだから、自然と共にあり、天皇陛下を中心に、全てがつながった共同体意識の事を指します。

義春さまのこのような方向性は、素晴らしいです。
(それにしても、つくづく。義春さまは本当に20代後半の青年ですか?失礼ながら、、)

疑問なのは、これは組織の運動として、実現されうるのでしょうか。
その理念をどう組織の運動に、繋げられるのでしょうか。

294さくら:2011/10/17(月) 23:49:56 ID:T/77sMGw
初心者さまへ

組織を長く離れておられるのに、生長の家のことを真摯に考えてくださる姿勢を、いつも感謝しております。また戻ってきて下って、ありがとうございます。
今回も、経験を通した見解を述べて下さり、書き込み大変嬉しいです。

また、他の板で(もはや、部室ではない)、生長の家の教えに鋭い哲学的メス?を入れてくださることは、多方面からの気付きをもたらし、今の状況に、新たな展開を示して下さることだと思っております。

組織の現実には、信仰に基づく集まり、といっても、いろいろ問題が発生しますね。
それは生長の家ではよく、現象のせかいだから、とたしなめられることかもしれませんが、実際、現象の中で生きているのだから、現象のことを今大切にしないでいつ大切にするんだい、と思うこともありましたし、お役をしていると、正直、本音と建前に分裂するような気持にもなることもありました。
生長の家の接する方々には大変お世話になり、人柄も好きですし、尊敬している方が多いのは本当のことです。でも、組織の現実には正直疑問を感じていました。

>活動をつづけてきたことで、日本や世界は、いくらかでも変わったということがいえるのでありましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれでも、世の中がなにも変わっていないとすれば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。

組織活動が、日本や世界を変えるという考え方、これは、唯物的な考え方ではないかと思います。

信仰的な生き方をする方が増え、それぞれの生活の中で生かしていけば、社会が良い方向へいくという考えはあると思いますが、それは個人個人の実践の問題で、組織の数が増え、組織の方針に従うことではないのでは、と思うことがあります。

組織の目的が、信仰の目的と同じように考えられることにも、違和感があります。
数を集めることや行事に参加したり役職に就くことが信仰の証であるようなこと、とか、
また、トキ様がその団体の中での、中には、役職に付いている方が勘違いされて横暴な態度を取ることなどや、中心帰一が組織のゴタゴタを納める「手段」に使われてきたというような現実も書かれていました。
それも、組織を守るため、組織上の立場を守るために、疑問を挟みにくい、実際疑問など挟めない「教えの解釈」が、手段化される場合もあるような気がしました。
後は、組織の維持のために、個人の信仰を妥協するようなことも行われているような気がするのですが、どうでしょうか。

理念や理想は分かるのですが、実際組織がしようとしていることを、信徒が納得して活動しているのか、疑問に思うところがあります・。

295義春:2011/10/18(火) 00:57:01 ID:SjZg29/2
>>293
さくら様
現実的にですか…まぁ…残念ながら、私自身、活動から離れて数年になります。
それゆえに現実的にどう結びつけるかは、今少し沈思黙考する必要があります。感覚的に思い出すには時間がかかりますから…。

296役行者:2011/10/18(火) 07:20:12 ID:oD7wFPHE

 >さくら様

 >活動をつづけてきたことで、日本や世界は、い くらかでも変わったということがいえるのであ りましょうか。個人的には、影響を受けられた方も少なくはないでありましょう。しかしそれ でも、世の中がなにも変わっていないとすれ ば、組織とはなんなのか、活動とはなんであるのかが問われるべきであるとおもいます。<


 さくら様、初心者さまのこの文章が云わんとしていることは、まず、道、真理があり、後から組織がついて来るものである、ということと存じます。
 組織が先に立ってしまうから、数を追ったり、いろいろな思惑が交錯してしまうのではないでしょうか?
 まず、この組織活動は、どれだけ、人類、森羅万象あらゆるものに役立つことができるか?と、そのビジョンを明確にすることから、はじめるべきではないかと存じております。
 その後、そのグランドデザインの道筋とどこから具現化していったらよいか!との優先順位を決めて行くことが大切かと存じます。

297さくら:2011/10/18(火) 08:33:43 ID:DWMbXER2
役行者さま

役行者さまには、いつも端的に核心をつくご指摘で理解の助けを頂き、ありがとうございます。
生長の家の行く末に、新しい視点で望まれることに、力を頂いています、頼もしい限りです。

>まず、この組織活動は、どれだけ、人類、森羅万象あらゆるものに役立つことができるか?と、そのビジョンを明確にすることから、はじめるべきではないかと存じております。

その通りだと思います。
そして、そのビジョンがまずあってこそ、生長の家の組織は、出発したのではないのですか?
今、なぜ、このビジョンを見失った状況なのでしょうか。
組織に入った信徒は、そのビジョンを信じて運動をしてきたことと思います。
しかし、そのビジョンによって、何が実現されてきて、実現されうるのか、見失っている状況ではないか、と思いました。


だからこそ、役行者さまたちも、新たなビジョンを考察されていることを、理解しております。
そして、それが、実現可能にする道を対話を通して導かれようとされておられるのだと思います。

今の組織は、今まで活動されてきた方に理解されず分裂もしながら、運営されているような状況で、今も現在進行形で進められています。

本部の方針に振り回されて迷うのは、そのビジョンを信じて活動する信徒です。

新たなビジョンを模索しながら、
同時に、生長の家は、本来何を実現してきたのか、今の組織が何を実現しようとしているのか、整理したいとも思っているところです。

298初心者:2011/10/18(火) 08:58:02 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>組織活動が、日本や世界を変えるという考え方、これは、唯物的な考え方ではないかと思います。

わたくしは、「唯物的」というご指摘に反論しようとはおもいません。生長の家の体験談にしても、病気が治ったとか、経済的に豊かになったとかというのであれば、これはあきらかに唯物的な発想であり、モノを指標に幸福の尺度をはかるということは、多かれ少なかれ、誰でもやっていることであると考えるからであります。

わたくしがいいたいことは、ひとつだけであります。生長の家の活動は、終始一貫、想像的世界にひきこもっていた。こういうことであります。たとえば『理想世界誌』の百万運動。この運動は、あきらかに想像的世界の出来事でありました。

百万部を達成すれば、世の中は変わる。これが根本的な発想であったようにおもいます。想像的世界の特徴は、欲望が中心にあるということです。簡略に申せば、欲望をかなえる世界が、想像的世界であります。

百万運動の背景には、世の中を変えたいという願望があったはずです。願望をかなえるために百万部を達成する。こうした想像的な発想のもとに運動が開始されたと、わたくしは、このように理解しております。

想像的世界というのは、あくまでも個人的世界でありますから、世の中を変える力とはなり得ません。世の中を変えるためには、象徴的世界に切り込む必要がある、とこのように考えます。

たとえばですね、発展途上国において、国民ひとりあたりのGDPを、日本円に換算して百万円にする、という計画が発表されたとします。そうすると、この「百万円」という数字は象徴的な力を持つことになるのでありますね。国民の多くが、この数字に魅力を感じ、影響されます。

「理想世界誌百万部達成」という目標をかかげたとしても、これが、世の中にたいしてどれほどの象徴的な能力を持っていたかというと、残念ながら、それは皆無であるとしかいいようがなかったとおもいます。ほとんどの人たちにとって、「百万部」は意味のない数字であったということでありますね。

わたくしは、「人類光明化」という目標をかかげる以上は、世の中を変えていかなければならないと考えます。なぜなら、人類が光明化されるには、真理が、多くの人々を魅了する象徴化能力を持つ必要があると考えるからであります。そして、象徴化能力を持った真理は、世の中を変える力があると、このように考えるからでもあります。

生長の家が人類に影響をあたえようとするなら、象徴化能力を持った真理が必要になりますね。象徴化能力を持った真理とは、「大文字の他者」になりうる真理ということであります。現時点では、雅春先生の教えは「小文字の他者」でしかないですね。百万運動は、「小文字の他者」によって引き起こされた運動であったということであります。

299初心者:2011/10/18(火) 09:40:02 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

さらにつけくわえます。雅春先生がなにをなさろうとしておられたかというと、それは、世の中を支配する「大文字の他者」を崩壊させることであったのでありますね。

世の中支配する「大文字の他者」とは、「物質はある」とする信念や、「病気はある」とする信念を背後で支えている象徴的な存在ということになります。「大文字の他者」の多くは言葉によってつくられていますから、これを言葉によって批判し崩壊させることは、十分に可能なのであります。

少なくとも、教団内部では、世の中にたいして支配的であった「大文字の他者」は崩壊したようでもあります。まがりなりにも、「現象はない」との信念が、多くの方々によって信じられ、共有されるようになったはずであります。

しかし、それはまた「大文字の他者」の不在を意味することにもなります。「大文字の他者」とは、世の中をつくりあげ、まとめあげている象徴的なパワーでありますね。そうしたパワーが崩壊したとき、「大文字の他者」によってささえられていた世界もまた同時に崩壊することになりますね。

世界の崩壊をふせぐには、「大文字の他者」にかわる「他者」が必要となります。その「他者」こそが、「他者の他者」と呼ばれる、現実界の不気味な存在者なのですね。

「他者の他者」は、一般的には、陰謀説となってあらわれます。義春さんが取り組んでおられた、ロスチャイルドやロックフェラー、あるいはフリーメーソンやイルミナティーなどを首謀者とする陰謀説の背景には、「大文字の他者」になりかわって、世の中を背後からあやつる「他者の他者」を必要とする、現代人の事情がかくされているように感じます。

総裁先生もまた、熱心な信徒の方々にとっては、「他者の他者」であるのかもしれませんね。こまった問題です。「大文字の他者」崩壊後の世界をどう生きるか。これが、生長の家にあたえられたひとつの課題であるような気がいたします。

300トキ:2011/10/18(火) 12:05:27 ID:JcVuc8xU
 おはようございます。最近、体験したある事件から、少し思った事を書きます。

 ニュースを見ていると、何か変な事件がよく報道されます。 
 個人的にも、教団活動をしていて、いわゆる「変な人」が世間に増えたのは実感します。
引きこもりとか、ニートとか、登校拒否とか、対人関係をうまく作れない人と関わる事が多いと思います。
 特に、今の中高年は、いわゆるバブル時代を経験しているので、その頃の甘い夢から脱却できない人間が
いたり、更には、そういう人達の子供が青年になる時期になっているので、社会に適応できないで、困っている
人は本当に増えていると思います。

 今は経済状態が悪いので、雇用主も社会も、そういう人の面倒を見る余裕がなくなってきている、と
感じます。で、そういう人達が駆け込む先の一つが「宗教」になってきています。教団の末端会員の私でも、
そういう「困った人達」を相手にする事がすごく増えています。これは想像ですが、どこの宗教団体でも、こう
いう人達の相談は増えていると思います。同時に、宗教団体自体が困っているとも思います。社会に適合できな
い人というのは、幼少時に基本的なしつけができていない人もいます。学力がすごく低い人もいます。谷口雅春先生
が「病気を治すのは簡単だが、性格を治すのは大変だ」と言われていましたが、それは本当の事だと思います。
 
 こういう人達への対応を嫌う人は多いです。正直、五体満足で健康なくせに生活保護を受けている人を見ると、
納得はできません。生長の家の信徒の中には、重度の生涯を持ちながらも仕事をして税金を払っている人も多い
ので、不条理だな、とも思います。しかも、こういう人達を指導できる講師も減っているし、会員の中にも露骨に
関わりを嫌がる人います。ある意味、それは当然かもしれません。

 こういう「変な人」のお世話は何年もかかります。一人の人を治すのに、5年、10年と関わるケースも多い
です。しかも、そういう人が社会復帰をしても、教団の公式の評価は何もありません。講習会の受講券を友人知人
にばらまいてとりあえず受講者を100人作ったほうが、教団の公式の評価が高く、地方褒賞の対象にもなります。
 別に、人間からの評価を当てにしてお世話をする訳ではないのですが、これもどうかと考えてしまいます。

301さくら:2011/10/18(火) 16:16:46 ID:DWMbXER2
季節の変わり目、皆さん、体調は、いかがですか?
夏の疲れ、特に、胃腸の疲れも出る時期ですので、優しいものを、お召し上がり下さい。

初心者さま
トキさま
ありがとうございます。
今、時間ないので、あまり書き込みできませんので、
また、後で、読みます。

トーキングボードは、理解と共感のボードのようですが、
結構、気力を使いますね。
初心者さまなんて、援護射撃、なんて書いてるし、
生長の家の掲示板で、宗教組織への疑問を投げかけるなんて、ちょっと孤独な旅に出た気分です。
こんなこと考えてたら、人付き合いも、悪くなりそ。

ではまた、よろしくお願いします。

さくら  拝。

302トキ:2011/10/18(火) 16:31:36 ID:JcVuc8xU
>>301

 もともとは、この掲示板は本流掲示板を放逐された「一白鳩会員」の縁者である私が勝手にでっちあげた
のが発端でした。ですから、趣旨も最初は、生長の家教団と本流復活派との問題がメインでした。が、いつ
までも、その話題に固執する必要があるか、どうかとも考えています。その話題を論じるのが悪い、という
意味ではないです。が、もっと大きくて、広い話題、例えば、初心者様が論じておられる問題でありますと
か、信仰や組織活動の根本に関する議論が自由になされるべき時期に至ったのではないか、と勝手に考えて
おります。
 個人の救済でありますとか、逆に、日本や世界の話題、あるいは生長の家は今後、どうあるべきか、という
大きな話まで、各人が自己の意見を開陳する場に発展すべきかと感じております。これは、ここの投稿者様が
みなさん、高い意識と知性の持ち主であり、そういう議論ができる場だからだと思っています。(ちなみに、
管理人の場合は、知性の「知」にヤマイダレがつきますが(笑))

 その意味で、さくらさんの意見は、初心者様のご意見と共に、今後のこの掲示板で本当に必要とされる議論
だと思います。

 益々のご活躍をお祈りする次第であります。

合掌 ありがとうございます

303義春:2011/10/18(火) 20:40:35 ID:SjZg29/2
>>299
初心者さま
『物質はない』…生長の家があればこそ、真理が世界に広まったと存じます。
しかし、その真理ですら【真理】という大文字の他者になってしまっている
今の現状に対して慄然たる想いであります。

304初心者:2011/10/18(火) 21:03:03 ID:4IaAZAME
義春さん

義春さんのいわれるとおりかもしれません。組織活動で人類を光明化する
というのは、むしろ弊害が大きすぎて、逆効果であるのかもしれませんね。
キリスト教がそうでしたものね。

人類光明化ができるとすれば、それは個人レベルで、ということになるので
しょうね。わたくしの考えが間違っておりました。さくらちゃんがいっておられる
ように、組織活動で人類を救うというのは、たしかに「唯物的発想」であった
ような気がします。さくらちゃん、ごめんね。

反省して、沈思黙考いたします。

305さくら:2011/10/18(火) 23:17:47 ID:T/77sMGw
初心者さま

みなさんで、沈思黙考されたら、ますます、わたしは、孤独な旅になりますので、
対話をしてほしいと、思っています。

宗教組織運動は、世界を変えることはできないし、また、本気で変える気もない。
こう思っておりましたが、初心者さまの説明は納得できるものがあります。

そのことが、教えの限界にある、というご指摘は、生長の家にとっては、脅威ですね。

(そういえば「僕たちは世界を変えることができない」という映画のタイトル、よいですね。)

「大文字の他者」が崩壊した後、「他者の他者」の存在を必要としなければならないことは、現代の実感だと思います。

(・・面倒くさいのですが、私にはこれは、宗教組織を操る何か、ということになるのでしょうか。
だから、このことにテーマを見つけようとしてしまうのかもしれません。
・・仕方ないので、しばらく、この「他者の他者」に引っかかることに致します。
自分の「他者の他者」って、他の人には、都市伝説、みたいなものですか。
それに引っかからないような人たちに、「あの人って、パラノイヤ、だよね、」とかって、噂されるかもしれません・・。
だから私は、いまだにここで「カルトあがりの元女スパイ」にそんなこと言われたくない、なんて言われてしまうのかしら、笑。)


総裁を「他者の他者」とすることで、象徴界の崩壊を回避しようとしている、
こういう状態がいまの生長の家の問題になっていることでしょうか。

今までの「大文字の他者」が崩壊した後の、「大文字の他者になりうる真理」、とは、
初心者さまは、自然への回帰にあるのではないか、と思われていますか。

それで、私は、ここにあるとして、生長の家も含めてですが、既存の宗教組織の活動形態ではありえない、組織型宗教では、この真理を実現できない、と思っているのですが、どうでしょうか。

もし、生長の家が、本気で取り組むとしたら、今の組織の構造を解体させるか、あるいは、全く違った形態として存続させるか・・その形は分かりませんが、明らかに今のままではありえないと、正直、思ってしまいます。



企業などは、社会の欲望のニーズを満たして、利益を得る。簡単にいえばこういう公式が。
宗教組織は、人々に「救い」(欲望?)をもたらし、「利益」といえるなら、簡単なのですが、何を得ているのか、はっきりしません。「目的」を果たしてくれる人材?
実際は、組織の維持のために、利益は必要です。

組織は外部環境の変化によって、その機能と構造を変化させなければ維持できませんが、
教義に縛られていれば、その変化がうまくできません。
今の教えの生長の家は、「時代に即した変化」をしていると言っていますが、これに対する不満や非難、人が離れていく状態は、この変化は明らかに間違っているからですか。


宗教組織は、教えや構造に矛盾を抱えていても、信仰の対象となる神秘性や、ある人物のカリスマ性を盾として、維持している一面があれば、ちょっと厄介なところもあるとも、思います。
こういうところは、その是非を証明もできないし、それを言われれば、内部の信徒は従うしかないような構図があったります。


>人や社会のお役に立てる活動。それは、組織のため、というより、世のため人のための活動ということでもありますよね。そうした方向性から組織活動の見直しの必要性を感じますね。

現在、組織に関わる人で、振り回される方や迷ってる方があまりに多いと思うので、
組織のあり方や、方向性についてもなにか語って下さる方がいると、大変ありがたいと思っています。

眠くて、パラパラした文章で、まとまりなく、すみません。
では、また、よろしくお願いいたします。

306さくら:2011/10/18(火) 23:26:20 ID:T/77sMGw
302
トキ様

そんなトキさまのお言葉にしばし甘えて、ボードをお借りいたします。

トキ様は、組織の酸いも甘いも経験されておられると思いますので、
色々勉強になります。
わたしは組織の今までの歴史や実績を、非難や否定するつもりではありません、

ただ、宗教組織の現実や限界、矛盾、などがあれば、それを直視したいですし、
新しい改革ができれば、そのような方向で
対話をしていきたいと思っている次第です。

また、よろしくお願いいたします。

307義春:2011/10/19(水) 00:00:26 ID:iu5Ar./Q
>>304
初心者さま
 確かに中世ローマ・カトリックはそうでしたね。
歴史を学ぶものにとり、キリスト教へのトラウマすら起させるくらいのものですね。

 しかしながら、組織が無ければ良いものではなく、
組織があるからこそ、個人の人類光明化ができる面があります。
少なくとも、私はそのお陰で10代から、そのような事が出来ました。
それは私の人生において、生きる原動力にもなっております。

 ただ、今の現状を活動の枠組みの外から拝見しておりますと、
組織の為の組織活動と化している面は否めません。
ですので、如何に個人が動きやすい環境にするのかが問われている様に
私は感じております。

308初心者:2011/10/19(水) 07:18:52 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

けっきょく問題となるのは、生長の家はこれまでなになそうとしてきたのか、ということでありますね。これがどうにもはっきりしないまま、組織活動が展開されてきた、といった印象はいなめない気がいたします。

雅春先生は、ひとつには、「現象はない」という真理を大文字の他者化する、ということを念頭に、真理の布教をすすめておられたようにおもいます。簡略にいえば、生長の家が目指すべき方向性とは、「現象はない」とするものの見方を人類共通の認識にする、ということであったはずでありますね。

ここで、義春さんから「真理の大文字の他者化」の問題が提出されました。ここにいたって、真理の大文字の他者化とはなんであるのかが、問われる事態となってきたのであります。

わたくしは、今おきている問題をシンプルにとらえることができていたはずなのですが、こへきて、事態は複雑な様相を呈してきたのであります。真理は大文字の他者化してはならない。これがもしかすると、人類光明化を実現するための基本法則である可能性が出てきたのでありますね。

本流の方々が、真理を大文字の他者化してしまった人々であると考えてみましょう。すると、真理の大文字の他者化が、地球規模で実現されたあかつきには、人類は、本流のような方々ばかりで占められることになるのでありますね。ああいう人たちが、巷にあふれて、誰もかれもが、かたくなにおのれの正しさを主張する。そんな世界に成り果ててしまうのでありますね。これがはたして人類光明化といえるのかどうか。答えは考えてみるまでもないことでありますね。

こうしてみると、人類光明化のために、生長の家は、真理を大文字の他者化してはならない、これが基本法則であるような気がしてきますね。真実は、はたしてどうなのでありましょうね。

ところで、真理を大文字の他者化しなかった場合、これはこれで、大きな問題が生ずることになります。真理は、「現象はある」とする大文字の他者を崩壊させます。しかし、真理は大文字の他者とはなり得ない。すると、大文字の他者不在の世の中が訪れるということでありますね。なんどもいっておりますが、世界は大文字の他者によって支えられているのであります。大文字の他者が不在となれば、そうした欠如をうめあせるための、べつの他者が必要となります。それが、現実界の「他者の他者」でありますね。

「他者の他者」は、崩壊した大文字の他者になりかわって、世界を背後から支配し、あるいは支えることができます。実相とは、いうまでもなく「他者の他者」でありますね。大文字の他者不在の状況で、人々は、「他者の他者」である実相を必要とするのであります。本流の方々は、「他者の他者」としての実相を手にすることに失敗しています。ですから、真理を大文字の他者化するよりほかはなかった、ということなのであります。

309さくら:2011/10/19(水) 09:15:19 ID:BWdc.Y1U
「真理を大文字の他者化」するって、今までの宗教組織が陥っていた、問題とも言えますか。
宗教の問題としては、
現代が直面する、今まで象徴界を支えていた大文字の他者の崩壊で、代わりの大文字の他者となり得たのが「宗教の教え」だったという一面です。


>ああいう人たちが、巷にあふれて、誰もかれもが、かたくなにおのれの正しさを主張する。そんな世界に成り果ててしまうのでありますね。これがはたして人類光明化といえるのかどうか。

「おのれの正しさ」を主張することで「地上天国」を目指しているとしても、それがとても実現するとは思えませんね、、

こんな形は「宗教」を一番楽にできる方法なのかな、なんて思うこともあります。
また、大文字の他者化した真理に縛られるのは、信徒には簡単だったりする、気がします。

>実相とは、いうまでもなく「他者の他者」でありますね。大文字の他者不在の状況で、人々は、「他者の他者」である実相を必要とするのであります。

初心者さまは、この実相への飛躍を懸念されていて、自然状態への経由、を示唆しておりました。
この自然状態においての、大文字の他者とは、ひとつの共同体意識のようなものなのでしょうか。

310初心者:2011/10/19(水) 10:41:30 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>「真理を大文字の他者化」するって、今までの宗教組織が陥っていた、問題とも言えますか。

真理の大文字の他者化がなんであるのか、じつはまだ、はっきりとはいたしません。ただ、感覚的には、真理の大文字の他者化には問題がある、という気がしてならないのでありますね。大文字の他者には、それによって無自覚に支配され、言いなりにされてしまうというニュアンスがありますからね。

宗教組織が、真理を大文字の他者化させたとすれば、組織じたいが、真理によって支配され、真理の命ずるままに動くようになるという懸念が出てきますね。こうした活動が対規模に展開されるようになれば、それが戦争や紛争、あるいは異教徒の大虐殺にもつながってくるわけですから、やはり、真理の大文字の他者化は危険といわざるを得ない気がいたします。

ただ生長の家の組織活動ということでいえば、それが数を追う運動であったことをおもえば、真理の大文字の他者化のもとになされていた活動ではなかった、ということがいえるのではないでしょうか。百万運動は、真理の小文字の他者化のもとになされていた運動であったはずでありますね。この意味では、百万運動は、逆に評価されるべきではないかという気がしてまいりました。あれはあれでよかったのだと、このように考えてもよさそうな気がしてきましたね。

>初心者さまは、この実相への飛躍を懸念されていて、自然状態への経由、を示唆しておりました。
この自然状態においての、大文字の他者とは、ひとつの共同体意識のようなものなのでしょうか。

自然状態とは、言葉以前の世界であると考えているのでありますよ。大文字の他者、あるいは、大文字の他者によって支配された象徴的世界は、ラカンのいう「ダナオイの贈り物」、つまりは、人類が言葉を受け取ったことからはじまったとされておりますね。ダナオイの贈り物を受け取る以前の世界、これが自然状態とすれば、この世界には、大文字の他者は存在しないということになるはずでありますね。

共同体意識とは、個人意識の集合体とはまったく異なった意識状態であるはずであります。大文字の他者によって支配された個人意識をいくら寄せ集めたとしても、共同体意識があらわれてくることはない、ということでありますね。もし仮に、共同体意識とはどのような状態であったのかが想像できれば、そのことから、実相世界への回路がひらけてくるのではないか、という気がいたします。個人意識からは、それをどのように工夫しようとも、実相世界への回路がひらくことはないという気がいたします。

311初心者:2011/10/19(水) 11:00:43 ID:4IaAZAME
百万運動の失敗は、運動の目的が誰にもわかっていなかった、というのが原因であったようにおもいます。百万運動の目的はなんであったのか。いまにしておもえば、それは個人意識の変容、メタモルフォーゼにおくべきであったとおもいますね。そうしておけば、百万運動は評価され、それなりの成果をあげることができたのではないかという気がします。

百万運動とは、ようするに、組織ではなく、個人にかんする運動であったということでありますね。もしもあの運動によって、個人意識の変容を成し遂げた方がおられたとすれば、そのことにおいては成功であったということです。ただ残念なことに、これを評価する尺度がどこにもなかった。そのために、すべては失敗であったと片付けられてしまうことになった。これが百万運動の真相のような気がいたします。

312さくら:2011/10/19(水) 11:58:49 ID:/WTCPp5I
>300
トキ様。
お返事前後して、申し訳ありません。


>こういう「変な人」のお世話は何年もかかります。一人の人を治すのに、5年、10年と関わるケースも多いです。しかも、そういう人が社会復帰をしても、教団の公式の評価は何もありません。講習会の受講券を友人知人にばらまいてとりあえず受講者を100人作ったほうが、教団の公式の評価が高く、地方褒賞の対象にもなります。
 別に、人間からの評価を当てにしてお世話をする訳ではないのですが、これもどうかと考えてしまいます。 

組織の維持や組織内の立場の維持が優先になってくると、
どうしても、信仰の姿勢を妥協するような場面が出てくるようで、
そのようなことを見ると、やはり信徒には、不信感に繋がりますね。
やはり、組織の体質としては、こういう場面が出てくると思いますが、
宗教だと余計に、真理に照らして、自分も葛藤が強くなったり、または人を「真理で裁く」ということが、多かれ少なかれ、
そんなことが多くなりがちだなのでは、と思います。

以前、マザーテレサのドキュメンタリー映画を見たことがあります。
ある救護団体の方が、けが人の救済のため戦場に向かおうとするマザーテレサに、
「マザーテレサ、あなたのやり方は効率的でない、
せっかくの善意なんだから、もっと組織化してチームにすれば、多くの人が救えるのに。」と言うと、
マザーテレサは少し眉をひそめて、
「…効率?
そんなこと考えたことはない。わたしは困っている人が目の前にいれば一人を助け、また余裕があればもう一人を助けたいだけなのです」
と言われ、サリーと草履だけで、戦場に向かって行く、
という場面がありました。
わたしは長く、マザーテレサのこの言葉と場面が、心に残っています。


トキ様のように、宗教団体の中で、深くご自分の経験を見つめてこられた方が、
宗教組織の限界や矛盾など、なかなか内部では話しづらい現状を話してくださるとありがたいと思います。
そうした体制が、問題を大きくしていたりする原因があるかもしれませんし、信徒の不満や葛藤などの種になってるかもしれません。

その様なことでも、みなさま、書き込みお願いいたします。



初心者さま。
またゆっくり読みます〜、感謝。

313さくら:2011/10/19(水) 13:06:28 ID:/WTCPp5I
>310
初心者さまへ

詳細な解説、ありがとうございます、理解の整理になりました。
とりあえず、書き込みます。

>真理の大文字の他者化は危険といわざるを得ない気がいたします。

大文字の他者化が、特に宗教(生長の家のことというのではなく、宗教組織一般のことです。)において問題、と思うのは、
宗教が、霊的なことや、特定の人物のカリスマ性などが深く絡んでくることもあるから、とも考えています。

また、宗教運動の目的が、はっきり、「欲望」に基づくもの、と認識されないところも(目的は、地上天国実現のためなどとする)問題であるように、思えることもあります。

>共同体意識とは、個人意識の集合体とはまったく異なった意識状態であるはずであります。大文字の他者によって支配された個人意識をいくら寄せ集めたとしても、共同体意識があらわれてくることはない、ということでありますね。もし仮に、共同体意識とはどのような状態であったのかが想像できれば、そのことから、実相世界への回路がひらけてくるのではないか、という気がいたします。個人意識からは、それをどのように工夫しようとも、実相世界への回路がひらくことはないという気がいたします。 

なるほど、言葉以前の、世界ですね。

人間の、本来の霊性が取り戻される、状態とも言えそうですね。

このような状態は、当然、既存の宗教組織の存在意義は、失われていく、と考えられるのですが、違いますか。

しかし、一気にその状態へ移行することはないので、
その過程での、今の組織のあり方の変容を考えていく必要があるのではないでしょうか。

わたしは実は、「今の教え」による組織の方向性をそれぼど関心を持って、把握しようとしてなかったから、はっきりいえないのですが、
「今の教え」による組織のあり方をこの過程として考えた時、
あながち、全く外れている、とは言えないのではないか、と思う所がありますが、いかがでしょうか。

そんな視点で見直してみてもよいかも。

もし、こんな方向からも、今の教え賛成派の方や、詳しい方いたら、お助け下さい。

314役行者:2011/10/19(水) 14:09:29 ID:MjvkuLno

>さくら様

あの〜お助けにはならないと思いますが、大雑把に申し上げさせていただきます。

 共同体意識の状態に環境を整えると云うことは、田中角栄がした日本列島改造
論より遙かに大事業でしょう。
 ですから、もちろん過渡期的な時期を必要とすると思うのです。

 まず、共同体意識の状態とは、どんな状態であるか?ですが、たぶん、縄文時
代のような、ピラミット文明開花のときで、内面を観る生活が主流とされていた
時でしょう。また、古事記に書かれているような、そのような時代でしょう。
ただ、すべて昔の生活に戻すということではないと思います。温故知新ですね。

 このような遠大な夢を実現するのですから、一長一短にはいかないと思われま
す。
 そこで過渡的な時期を必要とするのですが、まず、この組織活動は、どのよう
な方向に向かい、どのようなビジョンをもつのか!をいままで以上に、明確にす
ることから、はじめるべきではないかと存じております。
 明確化されたビジョンに向かって、その工程表の道筋と、どこから具現化して
ゆくのか!との優先順位を決めて行くことが大切かと存じます。
つまり、目的に向かっての全体像と、過渡期的な時期に何を具現化してゆくか?
道筋を明らかにしてゆくことかと存じます。

 拙い内容ですが、参考にしてください。

315さくら:2011/10/19(水) 14:46:43 ID:/WTCPp5I
役行者さま

早速の援護、ありがとうございます〜
今、時間ないので、一言だけ。ですが。

>たぶん、縄文時代のような、ピラミット文明開花のときで、内面を観る生活が主流とされていた
時でしょう。また、古事記に書かれているような、そのような時代でしょう。
ただ、すべて昔の生活に戻すということではないと思います。

わたしは、自然状態への移行を、生活様式を変えることなどのような、
表面的な変化とは、考えては、いません。
組織の過渡期というのも、表面的な方針のことを、想い描いては、いません。
今の置かれた環境での、意識(と言えるかわかりませんが,)や実践だと
思っているのですよ。
ビジョンがはっきり、してから、と言われますが、
同時進行で、今の組織や、また周りの環境で、意識や行動をかえていきたいと思ってますし、
それが、気づいた人から、出来るとも、思っています。

意志だけははっきり、してますが、
具体的に書けなくて、すみません。

とりあえず、一言ですが、またよろしくお願いします。

316役行者:2011/10/19(水) 14:55:22 ID:MjvkuLno

 >さくら様

 了解しました。
 私も、できる限り、協力します。

317初心者:2011/10/19(水) 16:43:44 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

>また、宗教運動の目的が、はっきり、「欲望」に基づくもの、と認識されないところも(目的は、地上天国実現のためなどとする)問題であるように、思えることもあります

宗教の根底に欲望の実現があるのは、事実でありますね。生長の家では、一般的に、欲望が実現したときに、「実相があらわれた」といい、欲望の実現がさまたげられているときに、「これは現象だ」とか「それは迷いだ」とかの言い方がなされているような気がいたします。

健康でありたいとか、経済的に豊かでありたいとか、結婚相手を見つけたいとか、これはすべて欲望でありますよね。信仰とは、欲望の実現のためにあるといってもよいものですが、一方では、欲望を捨て去ることが、信仰の場で要求されたりもいたします。信仰によって欲望を実現していながら、欲望を実現したわけではないと考える。こうしたダブルバインド状態のなかで、個人や組織の在り方が次第にゆがめられていくという現実がたしかにある、ということがいえそうでありますね。 

>なるほど、言葉以前の、世界ですね。
人間の、本来の霊性が取り戻される、状態とも言えそうですね。
このような状態は、当然、既存の宗教組織の存在意義は、失われていく、と考えられるのですが、違いますか。

ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。この意味では、既存の宗教の存在意義は、自然状態への回帰とともに、失われていくことになると考えられるはずでありますね。

>しかし、一気にその状態へ移行することはないので、
その過程での、今の組織のあり方の変容を考えていく必要があるのではないでしょうか。
わたしは実は、「今の教え」による組織の方向性をそれぼど関心を持って、把握しようとしてなかったから、はっきりいえないのですが、
「今の教え」による組織のあり方をこの過程として考えた時、
あながち、全く外れている、とは言えないのではないか、と思う所がありますが、いかがでしょうか。

わたくしは以前から、教団の今のありようは、変容のための過渡期であるという言い方をしているはずであります。過渡期においては、なにごともそうですが、不都合な出来事がつぎからつぎと起こってくるものでありますね。それを見て、人は非難や批判の集中砲火をあびせつづけることになるのですが、これは、過渡期においては、いつの時代にも起きてくる、ありがちな現象なのでありますね。

生長の家は変容の時期をむかえていると、個人的には考えております。言葉の世界に閉じ込められた個人意識に救済はない。これが、変容を必要と考える理由であります。現教団の方向性は、ほとんど自覚はされてはいない内的な衝動に促されて、自然状態へと変容する方向へ向かっているような気がいたします。今はその過渡期であるということであります。

318役行者:2011/10/19(水) 19:06:23 ID:SpeD3iDc

 >初心者さま

 地球規模における過渡期を一部論じますと、縄文時代から弥生時代、グウーンと、とんで、真実から切り離された形骸化された言葉の行き交う世界!
 そして、これから輝かしき未来の到来!いまはその過渡期。その未来は、輝かしき縄文時代よりも、悲しみ、寂しさ、絶望をとおり越したことによる、さらに輝く栄光の時代!、と全身全霊で期待しております。

 いま、その過渡的な時代において、生長の家が誕生して、地球の未来に貢献しようとしている!
 その一大事業に関わることができる。
 ホント、生長の家に戻ってきて良かったです。心から、ありがとうござます。  

 少し夢に酔ってますので、その辺は織り込んでおいてください。

319トキ:2011/10/19(水) 19:53:17 ID:6z/E1qmQ
>317

初心者様

 仏教的には、この世界を「欲界」というらしいです。ところで、欲望についてですが、青年会時代に他の宗教の活動家と議論をしていたら、
「宗教の目的は、欲望の浄化だ」という言い方をしていました。うまい言い方だな、と感心したのを覚えています。

 谷口雅春先生も、灰吹きたまるほど醜くなる、という言葉を引用して、欲望というもののあり方を指導されたのを本で読んだ記憶があります。
つまり、欲望というものがあるから、社会が動くのだが、それが過ぎるとおかしくなる、と書かれていたと思います。そう言えば、経営学の
本に「欲望の五段階説」というのがあり、最初は利己的な欲望が動機であっても、次第に高い次元の願いが動機になる、という話がありました。

 例えば、お金や地位が欲しい、というのも「欲望」ですが、「世の中を良くしたい」「困っている人を助けて挙げたい」「生長の家を広め
たい」というのも欲望です。人間である以上、欲望から解放される事はないとは思いますが、その欲望の内容を高い方向へと変化させることは
可能だということでしょう。つまり、最初は、成功をしたい、とか、病気を治したい、という動機ですが、最後は、天皇陛下のため、世界平和
のため、というレベルになるのでしょう。この辺りは、法華経の火車のたとえに似ていると思います。

 個人的には、磯村得弥先生の事を思い出します。磯村先生は、若い頃は実業家で、生長の家の信仰により事業を大成功させて裕福な生活を
されました。が、晩年は生長の家本部講師になり、個人指導の人生を送られました。

 とは言え、生長の家信徒といえども、社会人ですから、世間的な欲望を否定するのは難しいです。このあたりのバランスは難しいと感じて
おります。

合掌 ありがとうございます

320さくら:2011/10/19(水) 21:49:02 ID:T/77sMGw
>317
初心者さまへ

粗い乱暴な問いかけに、わたしのレベルに合わせたパズルのピースの様に、お答えいただいて、ありがとうございます。色々納得してます。

宗教において、欲望をなくしたい、悟りたい、浄化したい、などの「欲望」もありますね。
一部の世界の宗教的な行事や祈り、苦行も、結局、ある「欲望」を果たすための形になってしまった気がします。

トキ様の文章引用。
>例えば、お金や地位が欲しい、というのも「欲望」ですが、「世の中を良くしたい」「困っている人を助けて挙げたい」「生長の家を広めたい」というのも欲望です。人間である以上、欲望から解放される事はないとは思いますが、その欲望の内容を高い方向へと変化させることは可能だということでしょう。つまり、最初は、成功をしたい、とか、病気を治したい、という動機ですが、最後は、天皇陛下のため、世界平和のため、というレベルになるのでしょう。この辺りは、法華経の火車のたとえに似ていると思います。



本来の信仰の原点は、神に対する、感謝と畏敬の念から出発して、その恐れ多いものに対しての敬いの儀式だけだったのではないのでしょうか。

お釈迦さまも、(雅春先生も、)結局、苦行は、全て無駄だったと、そのままの心、無為自然の心境となって、悟りを開かれたののだと思います。

いつも、乱暴な、言い方ですけど、組織の体質は、この「欲望」を絶えず喚起するような気がします。だから、ある形の宗教にかかわれば、結局「欲望」からは、逃れられないのではないかと、そんなことも考えます。


>ブッダやキリストは、ジュリアン・ジェインズの二分心の仮説によれば、左右の脳が脳梁でむすばれたことで、高度な言語能力を獲得した人類が、自然状態をはなれ、文化状態へとひきこもったことによって生じた不具合を矯正するために登場したということになっていますね。この意味では、既存の宗教の存在意義は、自然状態への回帰とともに、失われていくことになると考えられるはずでありますね。

宗教組織の求心力が落ちているのは、ある一面からすると、良い兆候なのではないかとも思えます。社会的な原因は様々、あると思いますが、人の意識の中にも、時代の変化が流れているので、新しい形を、無意識にでも望んでいるのかもしれません。

>生長の家は変容の時期をむかえていると、個人的には考えております。言葉の世界に閉じ込められた個人意識に救済はない。これが、変容を必要と考える理由であります。現教団の方向性は、ほとんど自覚はされてはいない内的な衝動に促されて、自然状態へと変容する方向へ向かっているような気がいたします。今はその過渡期であるということであります。

そのような流れが、見えてくると良いですね。

過渡期?と思われる、今の生長の家の方向で、全く個人的に、おおざっぱに、良い流れだと思ったこと。
原理主義発言は問題になりましたが、雅宣先生は、宗教による、いわゆるシニフィアンの暴走を非常に懸念され、この方向を防ごうとされたこと。
奇跡的な体験などについての言及をされず、ご本人の言葉や文章も神聖化されなかったこと。
自然に向き合うことで、自然への恐れ、を取り戻そうとされていること。
右脳的活動の推奨。
炭素ゼロ運動により、移動を少なくして、地域の小規模体制が強くなると考えられること。
数にこだわらない運動をしていくこと。

インターネットの活用なんですが、これは、組織のしがらみとか利害関係を超えて交流するのに、よい働きをしていると思います。
同じ志をもって繋がった有志が、社会への働きかけをしたり、(たとえばボランティアを募ったり)するようになってます。
今までの組織のような形にこだわらず、ネットの繋がりで場所や立場を超えて、ある意味ゆるい共同体のようなものができるのではないでしょうか。
自分の得意分野を生かして、そこで社会の働きかけや、人の役に立てたりする。
よい志をもっている、(特に生長の家の信仰をもつ仲間などは)そんなつながりが、出来るのではないかとも思います。

321さくら:2011/10/19(水) 21:55:35 ID:T/77sMGw
スレッド3>1396のトキ様

トキさま、出張されて、水臭いじゃありませんか〜
どうぞボードに書いてくださいな、笑。
(しかも、さくら宛に。)

>内村鑑三の「余はいかにしてキリスト教徒となりしか」を読むと、アメリカと基督教の悪口が、これでもか、これでもか、と書いてあります。最初にアメリカに上陸して、友人がスリにあった話から始まり、最後は「これなら、異教徒のほうがマシだ」とすら書いています。そして、宗教が組織を持つ事の弊害を悟り、その中で、無教会派という立場になるのです。

これ、読むしかないですね、内村鑑三ほどの方が書いた宗教組織の悪口、読みたいです、笑。

>この問題への正解はわかりません。しかし、かってのように、一部の指導者のみが決定する体制ではなく、広く信徒の声が反映するような運営の体制が必要とされる時代になったと思います。

上にも書きましたが、ある面では、良い流れなのかもしれないですね。
新しい変革をなそうとする過渡期。わたしは、希望を持ちたい、と思っております。

322初心者:2011/10/19(水) 22:03:05 ID:4IaAZAME
役行者様

べつの板で何度か書きましたが、文化的状態へのひきこもりは、脳の構造に由来すると、わたくしは考えております。その構造とは、左脳と右脳の直結ということだけでなく、左脳の能力が飛躍的に向上したという点をあげることができるとおもいます。

自我の担い手であり、個人意識の担い手であるのが左脳でありますね。そこでひとつのアイデアが浮かんでまいります。それは、左脳の機能を低下させることができれば、自然状態に回帰できるというアイデアであります。

禅問答は左脳の機能を低下させるためのひとつの手段であると、わたくしは考えております。すでにこちらの掲示板でも書きましたように、わたくしはかつて、雅春先生の『無門関解釈』を読んだことで、左脳の機能が極端に低下するという事態に陥ったことがあります。自分がどこにいるのか、自分が誰なのか、それさえもわからなくなるという、そんな状態に、長期にわたって陥ったのであります。

むろんそれは、常時というのではなく、ときとしてそんな状態に陥るということでありました。さらに、意図的に左脳の機能を低下させるということもできていたようにおもいます。

左脳の機能を低下させると、たとえようもない幸福感につつまれることになります。脳内麻薬が大量に分泌されている。そんなような状態であります。しかも、必要なアイデアが、ひとりでに天から天下ってくるようにもなります。なにかのアイデアを欲するときには、意図的に左脳の機能を低下させます。すると、どこからともなく、最適ともいえるアイデアがあらわれてまいります。さらにはですね、あらゆるものごとを自分は知っているという感覚に満たされることにもなります。宇宙のすみずみにいたるまで、自分はなにもかも知っている。そんな感覚に満たされることになるのでありますね。

こうした状況が、おそらくは自然状態に近い状況であろうと考えます。しかし、これには問題があります。すでに述べたように、クルマを運転している最中に、通いなれた道であるにもかかわらず、どこを走っているのかがわからなくなる。突如として、途方もない幸福感につつまれて、自分がどこの誰であるのかさえもわからなくなる。こうした事態に、たびたび見舞われるようになったのでありますね。

これではですね、近代社会を生きていくのは困難でありますね。それでわたくしは、もとの状態にもどることにいたしました。完全にもどるのに5年かかりました。それでもなんとかもどることができました。自然状態への回帰。これは可能であるとおもいますが、近代社会を生きていくには、はなはだしく不都合な状態でもあります。さて、どうしたものでありましょうね。

323トキ:2011/10/19(水) 22:10:08 ID:6z/E1qmQ
>>321

さくら様

 いやー、失礼をしました。流れを止めるような気がしたので、あちらへ書きました。
スリにあった話は有名ですね。アメリカは基督教の國だから、理想の國だろうと考えていたら、
友人がスリにあい、それを見たアメリカ人女性から「アメリカにはスリが多いから気をつけろ」
と言われて、仰天する話です。それで、基督教の國、アメリカへの幻想が第1日目から打ち砕かれる
という話です。
 私も生長の家青年会に入って、生長の家青年会の会員に変な人がいるのを見て、仰天をした記憶が
あります。彼の気持ちはわかりますね。(笑)

 内村鑑三は、お金がないので、日曜日に教会に行って、異教徒だった自分が基督教に回心
する体験をします。するとお金がもらえるのです。これが、彼にとっては屈辱だったみたいで、
「自分は動物園のサイと同じような見せ物だった」と書いているのです。あちこちの教会に
行って、それをしてみたみたいです。こういう体験をしているうちに、段々と基督教が嫌に
なり、悩みだすのです。

 彼は、最後、人間は神の子である、と気がつくのですが、そこで、神ではない、と注釈が
つくのです。ただ、まだ、神様と人間に隔たりがあるような印象を持ちました。

 大事な事は、信仰生活の中で矛盾があったら、それに正面から立ち向かい、答えを見つける
事かと勝手に考えております。

324さくら:2011/10/19(水) 22:38:27 ID:T/77sMGw
>322
横から入って、つぶやきます。

初心者さまの個人的体験も非常に興味深いですね、
左脳の機能を意図的に低下させる、まあ、初心者さまなら、普通にやりそうです、笑。
普通の暮らしができない、のは、たとえ幸福状態、といっても、やっかいなことでしたね。


わたし自身は、当たり前のことができる、ということに、悟りの本質があると、感じています。単純すぎるけれど、ぐるっと回って、結局ここだということに、いたりました。
ふつふつとした感謝の心に満たされた幸福感。ここにある、という実感。
今生きること、を離れたところに、悟りがあるとは、思えなくなりました。

自然状態への回避の状態と、近代社会を生きることは、矛盾なく出来る道があるのではないか、と思いますが、どうでしょうか。

325役行者:2011/10/20(木) 09:43:43 ID:oS3yKmtw
>初心者さま

>>322

>近代社会を生きていくのは困 難でありますね。それでわたくしは、もとの状 態にもどることにいたしました。完全にもどる のに5年かかりました。それでもなんとかもど ることができました。自然状態への回帰。これ は可能であるとおもいますが、近代社会を生き ていくには、はなはだしく不都合な状態でもあ ります。さて、どうしたものでありましょう ね<

 分かるような気が致します。懐かしいことですが、こちらの板の誕生まもない頃から、初心者さまと訊けさんと三つ巴で、宇宙論から哲学にいたるまで、さまざまなテーマについて語ってきました。その経験を踏まえ、これから憶測で話しますが、初心者さまはもともと右脳が特に発達しておられたのではないかと・・・恣意的なのか、無意識なのか、人生の途中から左悩を駆使されるようになった。無門感解釈に触れ、その閉ざされていた右脳が活性化され、本人にとっては居心地がよいのですが、カルチャーショックからしばらく生活に支障をきたしてしまった。
 そして、戻すのに5年もの歳月をようしてしまった。
 やはり、普通のお方ではございません(^_^;
 おおいなるモノにより、経験させられている!そんな気がします。
 人生前半は縄文的世界、それから弥生は結構はやく通り越して、近代的知性にいたった!無門感解釈に触れたとき、その縄文的世界が再現されたが、あまりにも生活に支障をきたすので、縄文的感覚を記憶に留めながら、もとの状態に戻すよりほかなかった。
 考察してみますと、初心者さまの人生史と地球史の軌跡が合致するのです。
 
 これから未来のことに話を展開します。
 初心者さまが述べられたよう、右脳が活性化された状態で、近代社会を生活してゆくことは不都合なことが多いのではないでしょうか。

 ならばどのように折り合いを付けていけば良いのか?
 禅問答ですよo(^-^)oワクワク
しかし、さくら様も投げかけておりましたよう、難しいです。
 これは皆様の考えを伺いたいです!


 最後に、これはなんの史実に裏付けされてない勝手な憶測から述べましたので、その点、ご了承のほどお願い申し上げます。

326八百比丘尼:2011/10/20(木) 14:07:46 ID:j8iOdie.

場違いな話になるかもしれませんが、お許しを。
清超先生のご著書に『人生はドラマである』という御本があります。
この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを自作自演するのだ。と
書かれております。
私は考えます。
さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通りに演じているのだろうか?と。
私は、他人の目から見た幸福を演じているだけではないのだろうか。

親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して、良い夫、妻を演じ、
良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、また良い隣人を演じ続けて
いるのではないだろうか。
「良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっしゃる幸福なご家庭」
と言われること。
そういう舞台の上で私は演じ続けている。
本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく笑っている。
そうして、神さまが幕を降ろされる時までひたすら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける。
まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世界。
いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に、
「ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと
一緒になりたいな。」と言うのでしょうか。

楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨てて、私は何とつぶやくのでしょう。
お客さまに喜んでいただけて良かった。と心から言うのでしょうか?

シュレーディンガーの猫のたとえではありませんが、
生と死を半々に持った猫が顔を出すような気がしてなりません。
でも、結局は自分から望んでその舞台に立ったのは、私なのでしょうね。


  
         −−鈴夜 楽屋こぼれ話ーー

《 人は悪口に 「人三化七」なんていうが、
  ほんとうのことをいうと、比丘尼には悪いが 「人無化十」といって
  人間のほうに籍が遠いんだよ。

  世間をだまして生きていたって、いいじゃないか。
                     妖怪だもの・・・・・。》

327役行者:2011/10/20(木) 22:25:52 ID:n/FIBW6E
 合掌

 形骸化された言葉が織り成す世界というのは、どうしても建前と本音の二重構造の仕組みになってしまいますね。

 ですから、本心を隠す生き方が展開されてしまう。
 心の拠り所は、夜の世界に求めたり、既成宗教に求めたり、となるのだと思います。果たして、そこが安らぎかと云うと、決してそうともいえない!
 その挙げ句、このような近代という複雑怪奇な世の中が築かれてしまったのでしょう。


 >清超先生のご著書に『人生はドラマである』と いう御本があります。 この中に、人生ドラマは自分で作った筋書きを 自作自演するのだ。と 書かれております 。私は考えます。 さて、この人生ドラマは自分が望んで、その通 りに演じているのだろうか?と 私は、他人の目から見た幸福を演じているだけ ではないのだろうか? 親の喜ぶ相手、世間も認める相手と結婚して 良い夫、妻を演じ 良い父親、母親を演じ、また良い息子、娘、ま た良い隣人を演じ続けて いるのではないだろうか 。良いご家族で、何不自由なく暮らしていらっ しゃる幸福なご家庭 と言われること。 そういう舞台の上で私は演じ続けている 。本当の心は、仮面の下に隠していつも愛想よく 笑っている。 そうして、神さまが幕を降ろされる時までひた すら観客達が喜ぶ台詞を言い続ける 。まるで仮面舞踏会で踊り続けているような世 界。 いよいよ千秋楽の日、幕の降りる寸前に ありがとう、いい人生だった。今度生まれ変わっても、またあなたと 一緒になりたいな。」と言うのでしょうか? 楽屋に戻り、ドーランを落とし衣装を脱ぎ捨て て、私は何とつぶやくのでしょう。 お客さまに喜んでいただけて良かった。と心か ら言うのでしょうか? シュレーディンガーの猫のたとえではありませ んが 生と死を半々に持った猫が顔を出すような気が してなりません。 でも、結局は自分から望んでその舞台に立った のは、私なのでしょうね<


 最終的には、一人で生まれ、一人で死んで逝くのですから、自己責任なんでしょう!
 形骸化された言葉が織り成すこの世界にて、自分の描いた筋書きは、ほとんど建前の世界を演じているだけ。儚いといえば、儚いことです。楽屋に戻って、独りになったとき、淋しさがヒトシオ襲ってくるのでしょうね。

 ならばこの一生、本当の自分のドラマを演じたいものです。

 きっと、縄文時代というのは、建て前などなくても、人々が平和に楽しく、和気藹々と暮らせたのでしょうね。

 いつの頃から、この世は作意策略の跋扈する世界になってしまったのでしょうか。

 あの平安から鎌倉に時代が移ろうとしているとき、天下に名高い悲劇がありました。

 情を内に秘め理性の兜を着た兄・源頼朝と、情の弟・源義経の戦です。詳しくは義春さんに任せて、簡潔に書きます。
 武家社会が確立され、平和がもたらされる寸前のときでした。兄と弟の天下分け目の戦いが勃発してしまったのです。
 鎌倉にて兄頼朝は妻政子の北条一族に跋扈され、孤独のなか日々の暮らしを営んでおりました。
 遠く奥州藤原で和気藹々と暮らしている弟を想いながら・・・
  
 弟義経は純粋でした。仲間を大切にし、義と情をもって生きてました。縄文時代なら通用するのでしょうが、時は平安時代末期、策略渦巻く世界です。純粋さだけでは通用しませんでした。ある意味、それが悲劇をもたらしたと云っても過言ではありません。

 乗ってしまうのです。座布団のうえに・・・そして、甘い言葉の裏に隠された陰謀、策略を理解できず、兄と弟が和解しようとする寸前にいつも、嵌められ、その壁はますます高いものとなってしまったのです。二人の心に反して・・・

 そして、とうとう、お二方とも、まわりの囃しに頷くしかない状況に追い込まれてゆくのです。

 歴史に学べと先達によく云われます。なのになのに、学びきれず、同じ過ちを犯してしまうのが人間なのでしょうね。
 このような悲劇は、現代に至るまで、数限りなく繰り返えされてきました!

 そして今、このような魑魅魍魎の跋扈する形骸化された言葉の織りなす世界から、真理燦然と輝く世界に変わろうとする過渡期。

 我々はどのような人生ドラマを自作自演すれば良いのでしょうか?

328義春:2011/10/21(金) 00:55:17 ID:iu5Ar./Q
役行者様
 話を振られたので、書かせて頂きます。
何か歩く歴史辞典と化しているのは気のせいでしょうか?

 頼朝と義経ですね。
確かに頼朝と云う人は元来情が大変深い人です。
吾妻鏡でも最初は感極まって泣いてばかりです。
それから、毎日、父・義朝の供養に称名を1000回、又義朝と共に討たれた、
郎党の為に100回の称名を上げるくらいの情厚き方でした。

 しかし、頼朝は坂東に流されて、武士達の暮らしに触れ、彼等の為に生きる事を
決意します。そのために情を抑えないといけませんでした。
そして、理性の人になったのです。

 それだから、鎌倉政権の基盤になった縁戚の北条氏の顔色を常に伺う日々でした。
あるとき北条時政と仲たがいをして、時政が伊豆に帰った時は、物凄く狼狽するほどでした。

 それでも、義経と富士川の合戦で対面した時は、元来の性格を出し、
大変厚い歓迎をしました。それが、義と情の人・義経の生きる原動力になったかと
推察いたします。そして、義経はその情の赴くまま、平家を滅ぼします。

 しかし、平家討伐を成し遂げて、心に隙が出来ました。
その心の隙に後白河法皇が頼朝との仲を裂く為に近付いてきます。
そう、頼朝と義経の仲が良ければ、困るのは…大天狗・後白河法皇なのです。
天才的な政治家である頼朝と、天才的な戦術家の義経が組めば、できぬ事はありませんからね。

 だから、後白河法皇はこんな手を使ってきました。
京都生まれであった義経にすれば、後白河法皇は正に雲上の人、
それを熟知している後白河法皇は、事あるごとに義経に優しく接します。
優しくされる事で、義経は有頂天になってしまいました。

 そして、こう囁くのです。
「兄の頼朝は汝を認めておらぬな、可哀想にのぉ…余が位を授けて進ぜようぞ」
…と。

 義と情の人ではあったけれど、政治的な知恵が無かった義経は、
まんまと嵌められてしまいます。

 そして、義経は後白河法皇の担ぐ神輿に乗ってしまいます。
そういえば、平家討伐の綸旨は中々出さなかったのに、
頼朝討伐の綸旨は直ぐに出しましたね。
おそらく、後白河法皇の中では、坂東と京という分裂状態を作り出して、
その上で京側が勝利する事で、自分の天下にしたかったのでしょう。

 こうして、頼朝は坂東を守る為に義経を討たねばならなくなりました。
全ては義経の政治的な知恵の無さで…。
その義経の為に多くの武士が粛清に遭い、殺されています。

 そうして、義経も結局は奥州藤原氏の当主、泰衡に裏切られて衣川で殺されます。
…果たして、こんな結末で良かったのでしょうか?
私には悲劇としか言いようがありません。
全ては兄弟が真に通じ合っていれば…良かったのに…と。

 そして、歴史は往々にして繰り返すといいます。
まぁ…私はそんな歴史を見たくありませんね!
…そんな策略に乗せられてしまうなんて悲劇ですから。

329さくら:2011/10/21(金) 02:13:30 ID:T/77sMGw
合掌、スティックボードファンの皆さま(だれ?)、
現在スティック保持者、さくらです、

比丘尼さま、
役行者さま、
義春さま
いつもながら哲学的な考察から壮大な歴史の流れが展開されて、おりますね。

比丘尼おねえさま
劇団希望のさくらも、仮面なら、幾つも隠し持っておりますよ、
(そんな話じゃないですか・・。)


さて、私が、宗教組織の矛盾を感じていたことを、初心者さま始め、みなさまとの問答を通して、自分の気持ちとしては、少し整理ができたところがあります。
(上記、「さくら問答集」参照)
文化的状態へのひきこもりから、自然状態への移行の過渡期として現在の生長の家組織も、位置づけることとして、
では、今の方針の方向性はどのようなものかを見直して、可能性を、考えていきたいとおもっているのですが・・。
これは、どうでしょうか。

思い付きでも、どなたでも、自由なアイディアを話しあえれば理想なのですが、
どうなるか、分かりません。



リアルな仲間内でも、今生長の家を信仰するものとして、外部に提供できるものや、発信していける方法、その可能性の、具体化が大切であるとも考えています。

その中の一つなんですが、他の縁のある人の繋がり(とくに311以降意識の変化があった方も多く、方向性を同じくする方が増えているようです)を持つことや、個人の技能や個性を生かして(仕事や得意なこと)役に立つことなどを大切にして、有志が集まり、組織を超えて活動していくことなど、があります。

(その中でも話していますが、今までの組織で活動する時のお役の責任、などのように、あまり重い考えではなく、自分の楽しんで出来る、ある意味、軽さを大切にして、まず長くつづけられることも大切にしたいということもあります。
茶道のお稽古で、重いものは軽いように、軽いものは重いように扱う、ってありますが、
これは様々な物事扱うにも、応用できそうです。
僕たちは世界を変えることができない、というスタンスでしょうか。
立派な理念、ばかりが先立って、それをたいそうに実現しようとすると、身体が堅くなったり、重くなって、動けてないってことがあるので、だから、それはなしにしよう、ということです。)

自然状態への移行は、現代の私たちの無意識で求めているもの、
もしかしたら世界全体が、その方向へと流れているのではないか、ということも感じるところがあります。
やはり過渡期なので、問題は様々浮上していますが。

ですから、まず「自然状態」の理念、ありき。というだけでなく、
いま。現代社会の問題から与えられる気づきや、置かれた環境の中で、
出来ることを探していく、
これが本来の正しい流れに沿っているなら、
自然状態への道、となっていくのでとも考えるのですが、
いかがでしょうか?

330初心者:2011/10/21(金) 10:51:47 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

「僕たちは世界を変えることができない」。たしかにそうなのです。わたしたちは、世界を変えることができないのです。

主体と構造の一元論。これの意味がわかりますか。主体とは、個人意識。構造とは、世の中を、背後から、人知れず支配する強固な仕組み、とこのように考えればよいでありましょう。

主体と構造の一元論とは、主体はすでに構造のいちぶとなっており、その働きのすべてが構造のなかに取り込まれてしまっている、ということでありますね。この意味で、主体の働きは、そのすべてが構造の働きとして説明されてしまいます。

「世界を変える」とは、世界の構造を変えるということでありますね。誰が変えるのかといえば、主体である個人意識が変える、ということになります。しかし、すでに個人意識が構造に取り込まれてしまっているとすれば、個人意識が世界を変えようとする試みは、それ自体が構造の働きとみなされてしまうのでありますね。つまりは、構造が構造を変えようとしていると、このように見なされてしまうのであります。

構造が構造を変えることはできない。主体が構造を変えられるとすれば、それは、主体と構造を異なった存在とみなす二元論が必要となりますね。しかし、現代では、主体と構造を一体の存在とみなす、主体と構造の一元論が、圧倒的な支配力をにぎっているのでありますね。

ビクニねえさんは、「舞台の上で私は演じ続けている」と書いてらっしゃいますが、これは、「私」が存在するという二元論的な見方でありますね。事実はこれとは異なっているとおもわれます。「舞台の上で私は演じさせられている」。これが一元論的な見方ということになりますね。仮面の下にかくすべき「本当の心」。そんなものはどこにもない。あるのは構造のみ。これが、主体と構造の一元論であります。

僕たちは世界を変えることができない。なぜなら、「僕たち」とは、それ自体が「構造の効果」として説明されてしまう、見せかけの存在だからであります。僕たちにできること。それは、構造であることにとりあえずは抵抗してみせるという、むなしい身振りだけなのでありますね。

331トキ:2011/10/21(金) 14:22:17 ID:/gHI5BnI
トーキングスティクで書くべきではないかもしれませんが、ご招待をいただいたので、とりあえずはここへ書きます。

 組織運動で気になっていたのが、専従職員という存在です。もちろん、本部講師になって、管理職になる人もいますが、
大半の職員は、事務職として教区で走り回ったり、道場でパソコンを叩く、という生活を送ります。今回は本部講師には
目をつぶり、この一般職員の事を考えてみます。

 一般信徒が一番、接するのが、この一般職員ですが、いろいろと話を聞くと、考える事が多いです。
最初に断っておきますが、職員の大半は、薄給にもかかわらず、献身的に頑張っており、頭が下がります。
 しかし、問題点がない訳ではないです。少し箇条書きにしてみます。

 身分が不安定という話はたまに聞きます。(もちろん、昔に比べたらずっと待遇はよくなったのですが。)あと、
部内でのセクハラ、パワハラの話を聞かない訳ではないです。上司が変な人で、問題のある言動をしても、部下は
泣き寝入り、というケースも聞いた事があります。逆に、管理職の人が部下に何気なく言った冗談を本部に密告され、
降格になった人もいるので、このあたりは少しちぐはぐな感じがします。

 給与で気になるのは、教区職員と本部職員との差です。同じような仕事をしているのに、この差は何だ? と
感じる事があります。また、教区職員でも、大きな教区の職員と小さな教区の職員では給与にすごい差があり
ます。一生懸命働いている人と、怠けている人でも、あまり給与の差がないので、納得できない、という話も
聞きます。

 職員への研修体制が、まだ不十分だと感じます。特に教区の場合、採用したら、研修なしですぐにその日から
仕事につくケースが大半です。社会経験のある人なら問題はないですが、あまり社会経験のない人がすぐに勤務
につくと、やはり信徒さんから苦情が来る場合はあります。言いにくい事ですが、信徒さんに横柄な態度をとる
職員はいます。一般論として、企業が社員への研修にお金も時間も使っている事に比べると、生長の家教団はこの
点はこれからだと感じます。

 職員の採用で、こんな話を聞いた事があります。教区の場合、職員の採用には教区五者の承認が必要になります。
たまに教区五者からの推薦で職員の採用試験に来る場合があるが、職員としての資質に欠ける人が推薦された時には
対応に困る、と教区の事務局長が話しておりました。

 職員の場合、労働基準法が適用されますが、活動家は奉仕なので、法律の適応外です。すると、職員が定時で帰り、
活動家が深夜までがんばる、という光景が見られます。この点は、活動家としては、少し納得ができない話です。

 こういう問題点の他に、もっといろんな問題点があると思います。やはり、話し合いを開始して、職員さんも信徒
さんも、互いに納得できるような勤務体制を作る事が大事かと思いますね。

 以上、とりとめもない話ですが、御許し下さい。

合掌 ありがとうございます

332さくら訂正:2011/10/21(金) 14:25:30 ID:ffRoNxFc
初心者さま

少し寝不足ぎみでして…どうも個人的感情に走っていまして、失礼で、粗い表現がありましたら、お許しください。

初心者さま、私は、正直表面的なことばかり突いて非難しあったりするのは、もううんざりするんですよ。
限界を感じて新しい道を模索しようとしているのに、誰がこう言った言わない、そんなことばかりに、立ち止まってたりすると、正直、シラっとします。
なぜ、真髄が流れていることを、そんなにも、信頼しないのでしょうか?なぜ、そんなに恐れているのでしょうか。

自分の思うような姿が、人や物事に現れたら、この世の成功ですか?
世の中を理想の世界に変えようとする、変われば、成功ですか?

本当は、この世で経験している、それ自体が成功、とは、言えませんか?

「見せかけの存在」の「むなしい身振り」結構じゃないですか、
自分の本体は、それを楽しむために、ここへ来たのではないのですか?

初心者さまは、生長の家では、決して教えて下さらなかった面での、世の中の構造や、心理や
哲学的真理を語って下さいます。ある意味、「生長の家」が、目をつぶって来た大切な視点がたくさんあります。
それを以前「生長の家」でないもの、と表現がなされていたこと、ありませんでしたか?生長の家は大宇宙の真理と雅春先生は、いわれたのに、違う視点での指摘をそのようにいう事に違和感がありました。
自分を守るため不都合なものから目を逸らすのは、いつも簡単ですね。

今日はどうか分かりませんが、…また、出直して参ります。
初心者さま、よろしくお願いいたします。

さくら  拝。

333初心者:2011/10/21(金) 15:45:45 ID:4IaAZAME
さくらちゃんへ

文化的状態とは個人意識の時代であるはずですから、個人意識をどうするか、ということが、ひとつの課題として出てまいりますね。「個人意識はない」といって片付けることもできますが、だからといってどうなるものでもありませんね。現代人の魂がかかえる問題とは、個人意識の時代をどう生きるか、という問題でもあるはずです。この点をふまえて、今は、個人の信仰のあり方、組織としての活動のあり方を考えるべき時代であるという気がいたします。

共同体をはなれた個人はいかに生きるべきか。これを問題にしたのが、ヘーゲルの『精神現象学』であったといわれています。この意味で、ヘーゲルに学ぶことは少なくないとおもいます。ヘーゲル自身は、神の絶対観念の展開としての現象世界を想定していたはずですが、コジェーヴの解釈によれば、これが、「他者の欲望を生きる個人」が、「主と奴の相剋の弁証法」をとおして自由を獲得し、歴史を終焉へとみちびく過程として描かれることになるのでありますね。

ヘーゲルのみならず、多くの先人たちが、個人意識の問題で思い悩み、格闘してきたはずであります。ですが、生長の家では、これを「ない」のひと言で片づけてきたのでありますね。「ない」といってみたところで、個人意識の問題が解決されるわけではありません。欲望を持ちながら欲望はないと否定することで生じるダブルバインド状態に代表されるような矛盾が、いたるところで噴出し、蓄積されてきたはずであります。本流掲示板の方々の、あの断末魔の叫びともいえる抵抗は、蓄積された矛盾をなにがなんでも認めようとしない人々の、最後のあがきであるともいえそうですね。

ここへきて、教団内部の若い人々のあいだで、古い因習にとらわれずに、個人意識の時代を積極的に生きてみようとするような、新しい動きが出てきているようにも感じます。「見せかけの存在のむなしい身振り、結構じゃないですか」といえる人たちが、生長の家にもようやくあらわれてはじめたのでありますね。

本流の方々というのは、「見せかけの存在のむなしい身振り」を否定することで信仰的態度を保ってきた人たちばかりでありますね。こういう人たちは、「構造化された意識」を否定するよりほかに、信仰の道を確立する術を持たない人たちでもあるのですね。これにたいして、若い人たちというのは、理念だけでは世の中のあり方を説明できないと知り、知るために「構造化された意識を、むしろ積極的に生きてみようじゃないか」とおもえる人たちであり、「たとえ構造化された意識どうしの関係であったとしても、新しいなにかが発見できる」と信じることのできる人たちでもあるということですね。

生長の家が転換期にあるのはたしかでありましょう。転換期とは、いつの時代にあっても、抵抗勢力が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時期でもあります。抵抗勢力は、やがてその意に反し、「消え行く媒介者」として、大いなる役割を果たすことになるでありましょう。若い人たちの活躍が、転換期においては、ことさらに重要になってまいります。古い因習にとらわれずに活動できる環境が、現教団において徐々にととのいつつあるのを感じます。

334さくら:2011/10/21(金) 15:47:28 ID:ffRoNxFc
トキ様

書き込み、感謝いたします。
ありがとうございます。

知り合いが、生長の家の仲間とボランティアチームを作り他の団体のボランティアなどに参加していたところ、非常にチームワークや雰囲気がいいと、いつも評判だったようです。やはり行事の経験がやくに立ったのと、生長の家の実践が光っていたみたいです。
そのチームには、他のボランティア団体の経験者がいてコーディネートなどのノウハウがあったのも、スムーズにいったみたいです。

生長の家の信仰を持って、社会や外部のノウハウ、教育研修や経験をしっかり取り入れて組織が整っていけば、素晴らしいですね。

内部だけで通用することなどの問題や、奉仕で成り立っていることなどで起こる問題点など、ただの不満に終わらせず明らかにして、他の組織のいい点を取り入れて変わっていくとよいとですよね。

やっぱり、変わる過程では、旧い体制との摩擦はある程度あるのでしょうね。
変わる過程では、色々ありますよね。

335さくら:2011/10/21(金) 15:49:31 ID:ffRoNxFc
18行目 よいとですよね→よいですね。

(ため息)

336頑張れ:2011/10/21(金) 16:40:09 ID:2tqnPiu.
    ,. ‐''三ヾ´彡シ,=`丶、
     /'".:=≡ミ_≧_尨彡三:ヽ、
    //.:;:彡:f'"´‐------ ``'r=:l
    /〃彡_彡′,.=、 ̄ ̄ ,.=、 |ミ:〉
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337トキ:2011/10/21(金) 17:16:18 ID:/gHI5BnI
>>334

さくら様

 教団外のボランティアをすると、生長の家以外の人とも話をします。ボランティアの相手方が創価学会の人で
あったり、共産党の活動者の方という事例も実際にありました。共産党などは、党規約2条というのがあり、
日本共産党部内の話題を外部の人間と話してはいけない、という拘束があるので、あまりお話はできません
でした。ただ、肩書きとかにこだわらずに一生懸命していると、仲良くなります。すると、立場は違うけど、
いい人なんだな、という感じがして、やたらと喧嘩をするような気持ちは薄れてきます。また、彼らにしたら
「ファシスト」「仏敵」の生長の家の人も、同じ人間なんだ、という事がわかり、戦意を喪失するみたいです。

 まあ、こういう事を書くから、本流掲示板からは、攻撃を受けるのでしょうが。

 ただ、生長の家という組織の中でいる限りは、組織内の常識とか価値観がそのまま通るかもしれませんが、
組織の外に出たら、生長の家の常識とか価値観とかは通用しません。あくまでも、1個人であります。すると
1個人として勝負をするしかありません。その時に、頼りになるのは、自分の見識とか人格、そして信仰なん
です。組織外に出て、誰かと話をすると、相手も馬鹿ではないですから、こちらの人間性などは見抜かれます。
私などは、いい加減な人間ですから、世間からは信用はされませんが、他の優秀な人を見ていると、社会の一線
で頑張っている人がたくさん生長の家にもいて、そういう人の信仰は、浮ついていない、しっかりしたものだと
いう事がよく分かります。

 そもそも、生長の家という組織というものが、何のためにあるかと言えば、生長の家という運動のためにあり
ます。生長の家という運動が何のためにあるかと言えば、生長の家という信仰のためにあります。生長の家という
信仰が何のためにあるか、というと、人間の幸福と国家の安泰、世界の平和のためにあります。だとすれば、
講習会の受講券を購入するとか、聖使命会員を増やすのは、「手段」であり、「目的」ではないはずです。それ
が、今では、「手段」と「目的」が逆転していると思えます。このあたりの倒錯が、生長の家という組織の問題点
であるのかもしれません。

 だとすれば、組織も運動も、あくまでも「手段」である事を考え、本当の目的は何であるか? という原点に
戻って、組織や運動のあり方を考え直す必要はあるような気がします。

 と、柄にもなく、真面目な事をもうしました。

合掌 ありがとうございます


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