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トーキングスティックボード

138初心者:2011/09/07(水) 16:37:58 ID:4IaAZAME
「実相独在」がテーマでありますね。反・生長の家主義者のわたくしとしては、非常に
つらいテーマであります。ですが、ここは理解と共感の場であります。なにがあろうとも
理解し共感するよりほかはありません。

「実相独在」とは、ようするに、バカボンのパパでありますね。「これでいいのだ」。
難しいことはさておき、ひと言でいえば、「これでいいのだ」でありますね。

「実相独在」といわれると、実相以外には何もないのかと、反発したくなります。
実相でないものがあってもよいではないかと、このようなこと考えます。
勝手に決めつけるな。こういうことなのであります。
しかし、ここが理解と共感の場である以上、どのような決めつけも、認めないわけには
いきません。

おっしゃるとおりであります。実相は独在であります。
しかし、難しく考えることはありません。これはバカボンのパパなのです。
「これでいいのだ」。なんだ簡単なことではないですか。
「実相独在」。認めましょう。
これでいいのですね、復興G様。

139「訊け」子:2011/09/07(水) 17:52:48 ID:UodBcqiE

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65572497.html

初心者さあ、そいはルール違反でごわんど(笑)

140「訊け」管理人:2011/09/07(水) 17:59:58 ID:UodBcqiE

 パパ生誕以前の、久遠不滅なるところのバカボンのパパ。

141初心者:2011/09/07(水) 18:26:01 ID:4IaAZAME
トーキングスティックボードはさすがに厳しいでござる。
信条をまげねばならぬ。これは、いかにしても堪えがたいことでござる。

あせることはありますまい。もちっと時間をいただきたい。

142トキ:2011/09/07(水) 20:23:26 ID:4jTddN5Q
 いやー、皆様のご意見、すばらしいですよ。
もう少し復興G様のお話も聞いてみたいです。

 他の皆様も感想や質問等、どんどん投稿をして下さい。

合掌 ありがとうございます

143トキ:2011/09/07(水) 20:37:19 ID:4jTddN5Q
 あ、ちなみに批判はご遠慮願いますね。

管理人敬白

144復興G:2011/09/07(水) 20:54:57 ID:Ir7svY6w

>>138 :初心者様

コメントを下さったご愛念に、深く感謝します。
しかし、私、漫画やアニメのこと不勉強で、バカボンのパパを見てないもんですから、自信を持って
「それでいいのだ!」
と言えないことをお許しください。

しかし、考えてみれば、今回のテーマは、トーキングスティックボードのテーマとするのにふさわしいテーマだったかどうか、むつかしいテーマだったなあと思っています。
というのは、「実相独在」とは、「現象無し」つまり人間の五官、眼耳鼻舌身でだれでも認識できる五感の世界を「ない」と否定して、それを超えたものを全生命的に把握する、いわゆる「悟り」の境地にかかわるものですね。だから、通常の感覚の「理解」とは次元の違う理会というか、そんなことが求められるとすると、完全に「理解と共感」が得られたと感じられるまでやるとなれば、とても難しいということかも知れません。

で、
>あせることはありますまい。

私もあせりはしませんし、ある程度でスティックをお返しするつもりではいます。

ルールについては、あまりきびしく考えずに、皆様、楽にご感想などを発言いただいてもよろしいのではないでしょうか。もちろん、ご質問も大歓迎です。

初心者様にもせっかく愛念をもってご発言いただいたので、少しでも「理解と共感」を進めることができますように、後ほど私の体験など少し書かせていただきましょう。ちょっと風呂に入ってきます。

145義春:2011/09/07(水) 23:01:28 ID:iu5Ar./Q
参考においておきますね〜
http://www.youtube.com/watch?v=zXtpHLqbzHs&feature=related
ちなみ私の十八番なんですよねw
歌詞に突っ込みながら歌っていますww

146復興G:2011/09/08(木) 06:44:07 ID:Ir7svY6w

>>142 :トキ様
> いやー、皆様のご意見、すばらしいですよ。
> もう少し復興G様のお話も聞いてみたいです。

ありがとうございます。
では。

>138(初心者様) の
>「実相独在」とは、ようするに、バカボンのパパでありますね。「これでいいのだ」。

というご質問に一言でお答えしようとするなら、それは
そのとおり、「それでいいのだ!」ともとも言えるし、
「No」 とも言える、ということになろうかと思います。

(義春さん、<145>ありがとうございました。見させて頂きました。でも、「バカボンのパパ」とは何かをくわしく理解しようとしますと、スティックを初心者様にお渡ししなければならなくなりそうですが)

「天才バカボン」のアニメを少し見ての感想としては、面白くて、まず「それでいいのだ!」と言いたくはなります。現象界に出てくるすべてものの源は、形なき無限の形を蔵している実相世界にある。バカボンのパパの元祖は赤塚不二夫さんだけど、今はたくさんの人から派生作品バカボンも生まれてるそうですね。それぞれ、見えない無限の(夢幻の)世界からアイディアが天降って作品化され、楽しませてくれているのでしょう。実相世界は無限に楽しい喜びの世界でもありますから、「それでいいのだ!」とも言いたくなります。

しかし、限定された形の世界に出てきたものをつかんで、「それでいいのだ!」と言えば、「それだけじゃないだろう!」ということにもなろうかと思います。

禅語に「説似一物即不中」ということばがあり、「これが仏だ」「これが悟りだ」と一物を示せば即ち中(あた)らず、外れてしまっているという意味だそうです。榎本先生は、

「これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中(あた)っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
 自分が光明一元のいのちに帰ったときに、すべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。」

と、「発進宣言拝誦」の中に書かれていました。

実は、昨夜私はある方と電話で問答をしていました。その方は長年生長の家を勉強してきた方で、結婚せずにもう60歳になった方。ずっとお母さんと二人暮らしをしていたのですがお母さんが亡くなられ天涯孤独となり、ひたすら永遠の真理について究めようとされており、榎本恵吾先生の書かれたものも色々私がさしあげたので読んでおられて、ときどき電話をかけて来られ、「こういう解釈でよろしいのでしょうか」と質問をしてこられるのです。

昨夜の質問は、いくつかありましたが、その中に、こういうこともありました。

「谷口雅春先生を学ぶ会」に入っているある地方講師の方から、いつも「学ぶ会」の月刊誌を送ってこられ、入会を勧められているのだそうです。最近もそれがあった。学ぶ会では、谷口雅春先生を忠実に学び、そのお志を継いで実現しようとしている。先生は帝国憲法復元を叫ばれたからそれが正しいと学ぶ会の方は言われるけれど、そんなことは不可能ではありませんか。とか、谷口雅春先生の戦前のご文章に、「爆弾三勇士」を肯定されてるようなところがある。それって、自爆テロを肯定することになりませんか、というような質問もありました。

それに対するお答えは、まさに前記
「これが光明化運動であると一行動をとらえて示せば、即ち中(あた)っていないのである。光明の光明たるいのちは観えなくなるのである。
 自分が光明一元のいのちに帰ったときに、すべてが光明化運動なのである。しかも、その光明一元の世界とは形ではないのである。」
ということになりましょう。ですから

「爆弾三勇士」は、形から見ればまさに自爆テロの元祖でしょう。しかし、「自我を死にきって愛を行ずる無上の喜び」を知った人(谷口雅春先生)は、その無限歓喜の境地を伝えたくて、あるときには「爆弾三勇士」の心を肯定するようなご文章を書かれた。それらは皆、現象の言葉では伝えきれない実相の悟りの境地を指し示そうとされる、倶てい和尚が立てて示した指のようなものだ。「説似一物即不中」で、指を立てればよいと形だけ真似したのでは駄目なのである、ということになりましょう。

(つづきます)

147復興G:2011/09/08(木) 07:54:31 ID:Ir7svY6w
(つづきです)

また、前述の方の質問の続きですが、榎本先生は「実相独在」だけを説かれ、いわゆる横の真理「心の法則」、「現象は心の影」というのは「影だから気にしなくてよい」ということだと言われています。しかし谷口雅春先生のご文章には、必ずしもそうでないことも書かれている。たとえば『人生を支配する先祖供養』のはしがきには

「原因があれば結果を生ずる。これは宇宙の大法である。それを仏教では『因果、昧(くらま)さず』と教えているのである。悪業を重ねながら現世に於いて悪果が出て来ないからとて、人生を馬鹿にしてはならないのである」

と、脅しのような言葉も書かれているので、心が動揺しています、と言われるのです。

親鸞聖人は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」と言われたのである、だから「南無阿弥陀仏」と唱えれば悪人もみんな救われて極楽浄土へ生まれることができると説かれていて、わが家は浄土真宗ですからそれを信じて母の供養をしているのですが、それでいいんでしょうか、という質問なのでした。

私は、
「それでいいんですよ」
とお答えしました。

谷口雅春先生のお教えを否定するわけではありません。谷口雅春先生は、あの手この手の方便説法も使われて、最高の自由の境地、悟りの境地の喜びを伝えようとされている、と思います。自由自在なのです。私たちは形に引っかかっていたら自由になれないのです。

「実相独在」というのは、<144>で書きましたように、だれでも認識できる五感の世界を「ない」と否定することと表裏の関係なのですね。それは、五感の世界、現象世界を「あり」と認めていたら絶対に得られない自由と喜びが得られる真理なのだけれども(キリストも“真理は汝を自由ならしめん”と言った通り)、本当にそう思えるようになるのはとても難しいといえばむつかしい。

もちろん私にも、とても難しかったです。

でも、ふと気がついてみれば、なあんだ、このことだったのか、コロンブスの卵みたいなものだったなあ、と世界が開けるような感じで──。

「実相独在」ということが、五感の世界、現象世界をありと見ている人に、普通の頭脳知でも理解納得されるようにと、谷口雅春先生は『生命の實相』等の聖典で、これもか、これでもかとあらゆる方便智を尽くしていろいろな方面からお説きくださっています。
す。

たとえば、『新講甘露の法雨解釈』などで図解されている映写機にかけられたフィルム、光源、レンズ、スクリーン、そこに投影された映像。その映像が現象であって影に過ぎないということ。これは、私にも理屈でなるほどと納得することのできるものでした。
時間・空間というのはこのスクリーンにあたるもので、これも本来ナイものだということ。

現象界のすべてのものは時間・空間のスクリーンに投影された影だ。そのスクリーンが本来無いものならば、そこに投影された映像が本来無いのは当然です。

それで現象人間には誕生日があって、必ず終わりの時もある。しかし、実相世界というのは、時間・空間をも作り出した元のところにあり、実相人間には誕生という初めもなければ死滅という終わりもない。
実相世界は、そこから一切が現象界にも出てきた源であるから、そこはすべてが一つであって、そこには一切がある。

──というこの理屈も、ふと気がついてみれば、なるほどと思われる。

「この世に神も仏もあるものか」という人に、「その通り、この世には神も仏もない。しかし、この世は神、仏の中にある」ということもうなづけます。

まあしかし、そういった理屈は頭脳知であって、「全生命的把握」にはまだ遠い。理屈でわかったと思うだけでは、本当に一切の束縛から解放され解脱した仏(ほどけ)、「真理は汝を自由ならしめん」と言われている真理そのものと一つになった自覚にはほど遠いかも知れません。

(つづきます)

148神の子さん:2011/09/08(木) 09:40:08 ID:PDuRusEU
>復興G 様

はじめまして。
榎本先生の文章のUPありがとうございます。
久々に先生の読んでいて気持ちも新たになります。

因みに>>147で書かれた雅春先生と榎本先生の違い(?)ですが
私は、無門関の二則「百丈野狐」の話のような気がします。

「因果を超える」と言う事と「因果を晦まさず」の立場で

雅春先生は、両方を時と場合によって説かれた。
榎本先生は、因果ばかりでは人はそれに囚われるので第一原因(神)
のみを主に表現された。その違いであると思います。

大先輩の前で、両先生を評価するのは何なのですが。

149神の子さん:2011/09/08(木) 09:41:40 ID:PDuRusEU
久々の投稿でHNを入れていませんでした。
>>148は、風笠 と申すものです。

150「訊け」管理人:2011/09/08(木) 11:46:26 ID:???
>復興G閣下

 重ねてではございますが、ご解説の労誠に謝意を表明する次第であります。
さて、愚生より一点、リクエストしたきテーマ「これあり」・・・

 次回、閣下お時間のございますときに、取り上げて頂きたいのは、「同時
成道」になります。まあ、一切者の自覚と申した方が解り易いかもしれません
が・・・あっ、なお本日の弊ブログでもこのテーマ、取り上げました。

●同時成道(吉田國太郎+榎本惠吾対話付)
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586120.html#more

 ・・・まあブログに取り上げながらも愚生、やはりいまひとつこの同時成道
ですが、「うーん・・・」となってしまう次第です。まあ、理屈は解かるんで
すよ、理屈は。ですがなんか・・・御文章拝読後しばらくすると、フォワーん
と消えていってしまっているという(笑)そんな程度の理解なんです。

 ですんで閣下に於かれましてはこの難題「同時成道」・・・これについて
語って頂くことは可能でありましょうか?そんな依頼であります。善処賜りま
したら、これに優る喜びはありません。

 よろしくお願い申し上げます。

151復興G:2011/09/08(木) 12:29:48 ID:Ir7svY6w

(つづきです)

私の場合、理屈の世界でも納得するにはなかなか時間がかかりました。「1+1=2」というのは頭でわかるけれども、1+1が時には0であったり、∞(無限大)であったりするというような、頭脳知を超えた次元の真理というのは、おいそれと理解できない。それでも、白隠禅師は「大悟十八回、小悟は数知れず」と言ったとか、自分は36回悟りを開いたと言ったとか言われています。ふと悟る、わかってくるということの積み重ねで、だんだん「見えるものは本当には無くて、見えないものが実在する」というような非常識というか超常識的なことが、「ふと」の積み重ねでわかってきて、自由自在な境地がひらけてくる、ということがありました。

数年前、榎本先生が吉田國太郎先生のことを話されている講話の記録映像を何回か繰り返し見ていました。それは『生命の實相』第21巻29頁の最後の行から31頁の最初の行までのところを読み上げて、話されているのです。以下は『生命の實相』第21巻からです。

  ────────────────

 実相一元、光明一元、迷いも闇も本来存在しないという極めて明るい朗々たる人生観が生長の家の特徴なのであります。この迷いというものが無いということについて、昨日吉田国太郎さんといわれる方が生長の家の本部へ来られて、御自身の悟りについて大変良い話をされたのであります。この方は腎臓結核と睾丸結核とを患っておられて、そうして一方の腎臓を切り除ってしまって片方の腎臓も悪いとかいう話を聞きましたが、そういう状態ではもうわるいのを切り捨てるわけにもゆかないわけであります。この吉田さんが「生長の家」の信徒になって「神想観」をしておられると、その病気を治すような自働運動が起こって来ましたが、少しよくなっても、なかなか完全によくならない。それでその方が「これは自分の心に迷いがあって、それに引っかかっているからだろう」と気がつかれて、その迷いを摧破するために、『久遠の實在』を繰り返し繰り返し読んでおられた。すると、忽然として「迷いというものは何もないのだ。それはからっぽである」とわかった。たちまち病気がズンズンよくなり、よくなるにしたがって、病気を治すための自働運動もなくなったそうでありましたが、昨日その報告をなさる時に、「迷いというものは何もないのだ、からっぽであるとわかった」と、「からっぼ」という言葉をお使いになりまして、非常にその「からっぽ」という言葉がわれわれの心に「迷いの無」をいかにもハッキリと、言い表わしてくれたのであります。この方は今まで「迷い」というものがあると思って、この迷いをいかにして征服しようか。──「ここに経済難というものがある、ここに病気というものがある」──こう思っている限りにおいては、なかなか自分に対立している迷いなり、病気なり、経済難なりが実在性をもって自分の前に立っているから、それと取り組み合うことになっていた。それでどうしても、自分は神である、仏である。経済難はない、迷いもない、病気もないとこう思っても、自分の自覚が相対を離れることができないので、「迷いは無い」と一応は思ってもあるような気がしてどうしても、そいつを打ち破ることができなかった。ところが聖典を繰り返し繰り返し読んでおられるうちに「迷いというものはないものである、病気も経済難もないものである、この世界は神一元の世界である。仏一元の世界である」ということがわかったとこう言われました。(中略)
今まで、病気がある、あると思っていたのが「ああこれはからっぽの別名であった」と気がついたときに吉田さんの病気は治ったのであります。
(『生命の實相』第27巻29頁〜31頁より)

  ────────────────

榎本先生が吉田國太郎先生のことを話されているその講話の記録映像を何回か繰り返し見ていて、そしてある朝仏壇の前に座り、まず先祖に感謝の思いを捧げたときに、ふと

「ああ、自分のいのちは先祖からいただいた命だった。本来自分というものはなかったんだ、からっぽだったんだ」

と思った。そうして

「本来の“からっぽ”に還ったら、自由自在なんだ」

と気がついた。
そしたら、それだけで世界が変わりました。
自分は、どうしても本当に人を愛するということができない人間なのではないかという劣等感みたいなものがあったのが、ふっと消えたのです。
「私は光だ、愛そのものだった」
と思えたのです。

何でもない、コロンブスの卵みたいなことです。
(つづきます)

152復興G:2011/09/08(木) 13:43:24 ID:Ir7svY6w
(つづきです)

コロンブスの卵というのは

<1492年コロンブスはアメリカ大陸を発見したが、彼を妬んだ男が、「ただ航海中にたまたま見つけただけじゃないか。」という意味のことを言った。コロンブスは、一同に向かって卓上のゆで卵を取り出して、「誰かこの卵を立てることが出来ますか?」・・・みんなが、いろいろやってみたが出来ない。コロンブスは、ゆで卵をポンと殻を割って立てた。皆が、「なんだ簡単じゃないか。」といった時、コロンブスは「何事も、後から種を明かされたら簡単に見えるものがだ」といったという話>

さて、
「自分は光だ、愛そのものだ」

と思えたら、妻もまた愛だ、光だ、神だと思えたのです。
そして長年連れ添った妻が、本当にいとおしく思えました。

そうしたら、神想観や聖経読誦が楽しくてたまらなくなりました。そして、

> 復興Gさま御文章効果で、ですね、今日の神想観ですが・・・ はじめてワクワクしました(笑)いままではなんか、力みがあったんですけどね。(「訊け」管理人様)

>大調和の神示は、実は「喜びのうた」だったのですね!
そう思うと、聖教読誦の時の気持ちも全然違ってきますね!(a hopeさま)

などと言って頂けるように、変わってきたんです。

ここで、「不退転の決意」という言葉が思い浮かびます。

ふつう、「不退転の決意で」と言えば、政治家が「不退転の決意で責をまっとうします」言ったり、「固い決意」という程度の意味で使っています。
しかし、本来この「不退転」という言葉は仏教用語で、その意味はかなり違うということです。
本来の意味は──禅の悟り、「見性(けんしょう)体験」と深いかかわりがある言葉。見性とは、仏性を開き見(あらわ)すこと。この身がこのまま仏であると悟ること。
見性すると、仏道から脱落することはなくなるが、見性しないと仏道をやめてしまうことがある、といわれます。仏道から脱落するのを「退転」といい、脱落しないのを「不退転」という。それが本来の意味だということです。

見性したら心身脱落して、解放され自由になって、力みが要らなくなります。拳を突き上げて、「がんばるぞ!」と叫ぶようなのが「不退転の決意」ではないのですね。

しかし、一度見性し悟ったら、そのまま何もしなくても退転することなく悟りがつづくかというと、そうはいかない。
悟りの喜びを保つには、やはり「行」が必要です。それは、いちど飯を食ったらもう何も食べなくても生きられるかというと、生きられない。魂が生き続けるためには、行じなければならない。しかし、見性する前は苦しい行であったものが、見性するとうれしい、楽しい行に変わってしまうのです。

生長の家の「三正行」も、同じです。

神道で「不退転の決意」を示したものが、「しめ縄」です。
しめ縄は、古事記神話で、天照大御神が岩戸隠れなさった。その岩戸が開かれお再び出ましになったときに、もとへ戻られないように岩戸にしめ縄を張りわたしてしまわれたのが始まりだと言われていますね。

己を空しうして、素直にからっぽになって、すでに天照大御神は出でましてこの世は明るいのだと感謝して、明るく笑いましょう。「実相円満完全」「実相独在」にいのちをかけてまいりましょう。

(つづく)

153復興G:2011/09/08(木) 19:44:33 ID:Ir7svY6w

>>148: 風笠様
>>150 :「訊け」管理人様

ご両人様の書き込みは、まさに天の声、私を高め励ましてくださるための神の声であります。

風笠様。
あらためて『無門關解釋』第二則「百丈野狐」のところを精読させていただきました。
感動、歓喜に打ち震えております。
昔読んだことがあり、その時「すごいことだなあ」と思った記憶は甦ってきましたが、今拝読しなおしてみますと、もう、昔読んだときとは全然感銘の度が違います。

そして、風流様が今この時にこの「百丈野狐」の谷口雅春先生御解釈をすぐに思い浮かべられたということが、またすごいことだと、驚いています。「風流」というHNは、もしかしたら『無門關解釋』30頁・44頁に

「若し者裏に向つて一隻眼を著得せば、便ち前百丈贏ち得て風流五百生なることを知得せん」
(自分の実相が既に迷はず、既に輪廻せず、既に病まないものであることを知つたならば、五百生野狐に生れてゐても、菊五郎が四谷怪談のお岩をやるのと同じことで、迷つてゐるとは云ひ条、それは芝居をやつてゐるのも同じこと、五百生風流三昧をやつてゐるやうなものだ)

とあるところから採られたものでしょうか。

この無門關「百丈野狐」の公案御解釈の中には、期せずして
>150 :「訊け」管理人様のご要望──「同時成道」ということを理解するヒントもちゃんと出ているのですね。これはまさに人間業ではないような気がします。

それで、この無門關「百丈野狐」の公案とその御解釈をわかりやすく咀嚼して、「訊け」管理人様のご要望にもお応えしたいと思います。少しお待ちください。

(つづく)

154復興G:2011/09/09(金) 04:08:29 ID:Ir7svY6w

(つづき)

『無門關』第二則「百丈野狐」の公案とその谷口雅春先生御解釈を、できるだけやさしく、子ども向けの童話のように飜訳してみます。

       ○

昔むかし、中国の洪州というところに、大雄山という山があり、高さが百丈(300メートル)もあるようなすごい大きな岩が重なってそびえ立っていましたので、「百丈山」とも呼ばれていました。その百丈山に禅寺が建てられ、壊海(えかい)大智禅師という有名なお坊さんがいて、「百丈和尚」ともよばれていました。悟りが深く教化の力がすばらしいというので、いつも雲のようにたくさん雲水(うんすい)といわれる修行僧たちが集まってきて坐憚をし、和尚の説法を聴いて修行をしていました。
その多勢の中に、毎日坐って説法を聴いている一人の老人がいました。和尚の説法が終わりみんなが立ち去るとその老人も立ち去るのでしたが、ある日、みんなが解散してしまってもその老人ひとりじっと百丈和尚の前に坐っていて、出ていかないのです。そこで百丈和尚はふしぎに思い、「一体、お前さんは誰か」と問いかけます。するとその老人は「ハイ、私は人間ではありません。ずうっと昔、迦葉仏(かしょうぶつ)の時代、この寺の住職でしたが、ある時、一人の修行者が質問しました。「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と。
「因果の法則」というのは、皆さん、「花咲かじじい」のお話を知っているでしょう。正直爺さんには次々と大判小判などの宝が続々と出てきて、最後には殿様から特別なご褒美まで与えられます。いじわる爺さんは、形では同じことをしても、ゴミがらくたばかり出てきて、最後には牢屋に入れられてしまいます。よい心でよいことをすればよい結果が出て来、悪い心で悪いことをすればわるい結果が出てくる。殺した者は殺される。「原因があればその結果が出てくる」のです。「因」はタネです。豆の種子ををまき、水をやり、肥料を施すと、芽が出て、やがて実がつく、これが「果」です。「よい種をまいたらよい実ができる」というこの宇宙の法則のことを「因果の法則」というのです。
ところが、悟りをひらいた人はその「因果の法則」をこえてしまう、とも言われています。
それで、先ほどの老人──昔、この寺の住職だったけれども今は人間ではないという──は、実は百丈和尚を鏡に写した分身なので、この老人を「前百丈」と呼ぶことにします。
前百丈は、昔修行僧から「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と質問を受けたときに、「因果に落ちません――因果の制約を受けません」と答えました。その答えがまちがっていたので、五百回もの生まれ変わりの間、野狐(やこ=人間でないものに変身したすがた)の身におとされました。なにとぞ、憐れと思って正しい答えを教えてください」とお願いします。「修行に修行を重ね悟りを開いた人は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と、前の質問をくりかえすのです。
 それに対して百丈和尚は、即座に、「因果昧(くら)まさず――因果の法則をごまかすことはできない」と答えます。
 老人(前百丈)はその言葉ですぐにパッと悟りをひらいて、「野狐」の身から「人間」にもどります。

この話は、前百丈の「悟りを開いた人は因果に落ちません」という答えが間違っていたから野狐の身におちた。「因果くらまさず」という答えが正しかったから、その言葉でパッと悟りをひらいて、「野狐」から「人間」にもどった。悟りをひらいた者でも、「原因・結果の法則」の制約、縛りを受ける、という意味に解釈されるけれども、実はもっと深い意味があるのです。
だいたい、「一体、お前さんは誰か」ときかれたときに、「ハイ、私は人間ではありません」と答えたことがまちがっているのです。老人は実は百丈和尚自身を鏡に写した分身なので、「私はあなたです」と答えればよかったのです。百丈和尚は悟りをひらいているので、ふつうにいわれる「因果の法則」をこえています。というのは、ふつう「因」というのは「中間因」(途中で出てきた原因)であって、大もとの因、「第一原因」は、神の心、仏の心なのです。途中で出てきた原因、「中間因」は、本来ナイものです。悟りをひらいた人にとって、「因果くらまさず」というのは、その「根本因」「第一原因」をくらまさない、「完全円満な神の心、仏の心」が根本の因だということをくらまさないで、はっきりと自覚するということなのです。今百丈はその悟りの心で「因果くらまさず」と言ったので、前百丈(老人)はパッと悟って、野狐から人間に戻ることができたのです。

(つづく)

155「訊け」管理人:2011/09/09(金) 04:22:07 ID:???

> 復 興 G 閣 下 !

 早朝よりなにやら、ただならぬ動きが・・・・
 これまた今回のテーマ、

 名 文 の 予 感 ア リ ア リ

 であります。

156八百比丘尼:2011/09/09(金) 09:35:57 ID:j8iOdie.

   −−鈴夜より質問状ーー

 復興Gさま
ボクも、野猫から人間にもどれるのでしょうか。
うちのオニババも、妖怪から真人間になれるのでしょうか。

どうして私たちが、このようなあさましい姿になってしまったのかは、
いつかちゃんと、お話しいたします。
                  合掌。

157神の子さん:2011/09/09(金) 09:58:39 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

風笠さまの おっしゃっていた、無門関の二則「百丈野狐」の話ですが、
復興Gさまが、子ども向けの童話のようにお話してくださったので、
わたしにもよくわかりました。

本当に、これからのお話が楽しみです! ワクワクしてます!

158a hope:2011/09/09(金) 10:14:59 ID:MNrNIsM2
 すみません。

↑神の子 a hope です。

159復興G:2011/09/09(金) 11:07:58 ID:Ir7svY6w

>>155 :「訊け」管理人殿
> 早朝よりなにやら、ただならぬ動きが・・・・
> これまた今回のテーマ、
> 名 文 の 予 感 ア リ ア リ

なんて言われると、

ウーン、がんばらなくっちゃ!
なんて、構えてしまうじゃないですか。

構えたら、負けですね。

「構える」ってことは、相手は自分と相対した向こう側にいると思うから構えるんですね。

構えたら、必ずどこかにスキが出来るから、負けちゃうんです。

相手はいない。自分ばかりだ。聞いてくれる人(読んでくれる人)も、みんな自分だ。自分が、自分の分身に話をするんだ。相手は自分なんだ。なんてうれしい、楽しいことなんだろう!

――と思えるようになったとき、私は初めて、「オレは話が最大の苦手だ」と思ってた劣等感から解放されました。今じゃあ、話をしに行くのが楽しみになって・・・・。

ああ、皆さんは私なんですね。

そういうわけで――

「百丈野狐」の話も、百丈和尚と一老人の話になっているけど、老人は百丈自身の心中の人物、心の影なのだ、というのが谷口雅春先生の御解釈です。老人は「前百丈(ぜんひゃくじょう)」。説法している百丈大智禅師「今百丈(こんひゃくじょう)」の心の影、旧我である。前百丈は「私は人間ではありません(非人なり)」 “real man” でない、変化身(へんげしん)つまり野狐だと言う。それが
「修行に修行を重ね悟りを開いた人(原文:大修行底の人)は、因果(いんが)の法則の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?」と問う。

谷口雅春先生は、
<<(「大修行底の人」というのは)人間的工夫をこらし、修行を尽くして其の極に達せば、つひに神に到達し得ると信じて大修行して或る境地に達した人が大修行底の人である。それは余程の境地に達してゐても、修行修行と云つてゐる間は自力の境を脱してゐない。自力の境を脱してゐない限りに於て、自力は旧我であるから、旧我を磨き磨きする事によつては、つひに新我に到達することは出来ない。それは瓦を磨いて珠となすことが出来ないのと同様である。また自力は仮我であるから、仮我を捨てない限り真我を発見することは出来ない。>>

<<前百丈が五百生野狐身に堕して、その野狐身を脱することが出米なかつたのは、「不落因果(因果に落ちず)」と答へたためではない。瓦を磨いて宝石になるかと云ふにも等しい愚問に対して、大修行がどうの斯うのと問題にしてゐるところにある。そんな悟の程度では「不昧因果(因果くらまさず)」と答へたところが矢張り野狐身に堕するであらう。答は渾心の悟から出て来なければならない。>>

<<不落と云っても不昧と云っても、悟った人なら、どちらを答へて見ても正しいが、悟らぬ人なら、どちらを答へて見ても間違だ。
「不昧因果」と唯口の頭(さき)だけで云つても、それは口頭禅であって、決して五百生野狐身を脱し得る筈はないのである。・・・・前百丈は旧我として偽我として、又今百丈は新我即ち実在我として相対してゐる。偽我の立場に於て、不落因果と云つても不昧因果と云つても、その「因」なるものは、中間因であり、妄想因であるから、「因果に落ちず」でも、「因果を昧まさず」でも妄想を弄ぶことになるから、妄想は妄想を生んで五百生(ごひゃくしょう)野狐身、変化身、無常身を脱することが出来ないのである。ところが、実在我としての自覚に立つ者が、「因果を昧さず」と云ふときの因は中間因ではなく、「本来因」であり、「実相因」である。「実相」に於て吾々が本来佛性であり神性であることが根本因である。この根本因を昧すことがなかったならば、「不昧因果」こそ野狐身を摧破する一大鉄槌となるべきである。
だから裏山の巌の下へ行くと、野狐身が死んで了つてゐたのである。その死んでゐる野狐の姿は今百丈の「迷ひの我」であり、「旧我」であり、「変化身」であつた。さればこそ懐かしいものの一つであり、僧を葬る儀式に則つて葬つたのである。>>

――いや、私も谷口雅春先生から「野狐身を摧破する一大鉄槌」を受けている気持ちです。
(つづく)

160「訊け」管理人:2011/09/09(金) 12:34:16 ID:???

 なんか、余計なプレッシャーを与えてしまい恐縮です(笑)しかし・・・
復興G閣下ならば「構えて」ても圧勝でありましょう(笑)相手はなにせ、
イタリア陸軍程度の脅威しかありませんし(笑)

 しかし本当に、おもしろい(興味深い)です。可能ならばこれらの御文章、
あの本流掲示板に行って貼り付けてきたいくらいですが(笑)

161復興G:2011/09/09(金) 13:21:41 ID:Ir7svY6w

>>156 :八百比丘尼様
>−−鈴夜より質問状ーー
ボクも、野猫から人間にもどれるのでしょうか。
うちのオニババも、妖怪から真人間になれるのでしょうか。

それは、むつかしいでしょうね。(笑)

というのは、無門關の第1則「趙州狗子」で、
「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」
という問いに対して、趙州和尚は
「無」と答えていますからね。

でも、お釈迦さんは悟りを開いて
「山川草木国土悉皆成仏」と、無機物すら悉く皆成仏している、と言われているところから見ると、もと人間だったものなら、みんなすでに仏のいのちが成りひびいているというのが実相なんでしょう。

私も今から「趙州狗子」の公案を真剣に拝読しなおして、勉強します。それから、ご質問に対して、私なりのお答えを、出させて頂きます。お待ちください。

162風笠:2011/09/09(金) 15:58:57 ID:NzDbkRGE
>>153 復興Gさま

お褒め頂きありがとうございます。
素晴らしくわかりやすい表現は流石です。
日頃見落としていた部分の再発見にもなります。

ところで実は手元には「生命の實相」しかなかったりします。
所有する大方の書籍類は今の住居に置いていないので、本を直
ぐに開けて引用などは出来ない状態です。
ですので、すべてカンで書いております。(汗)
あとHNは、風流にしようかと思った事もありますが、すこしふ
ざけて笠にしました。(あまり深い意味は問わないで下さい。)


>>161
つ 正法眼蔵 光明の巻

>「狗子に仏性ありや無しや」
『ある』『無し』を超えた両方超越の「無」ではないかと。

私があまり書き込むと話がずれていきそうなので、この辺で。

163復興G:2011/09/09(金) 21:41:54 ID:Ir7svY6w

>>162 :風笠様

風流様でなく風笠様でした。まちがえてごめんなさい。
風笠とは、風流よりも風流な、いい感じですね。

そして、
>「狗子に仏性ありや無しや」
『ある』『無し』を超えた両方超越の「無」ではないかと。

いや、まさにその通りでした。
お手許にテキストがないまま、カンで急所をずばりおっしゃっているのは、すごいと思います。

私は『無門關解釋』を一所懸命こまかく読んで、やっとポイントはそこだ! と思ったところです。ピタリです。


>>156 :八百比丘尼様

「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」
という問いに対して、趙州(じょうしゅう)和尚が「無」と答えている、無門關の第1則「趙州狗子」を、一所懸命読みました。
(谷口雅春先生の『無門關解釋』を通してですが)

面白かったです。
勉強の機会を与えてくださったことに、感謝します。

結論から言えば、そのままでよろしいのではございませんか。野猫も、妖怪も、たのしいのではございませんか。
何も、どじょうが金魚の真似をすることはないし、野猫は野猫、妖怪は妖怪で、皆さんを楽しませてくださっていますから、そのままがよろしいかと思いますよ。真人間になんかなられたら、みんながさびしがりますよ。

しかし、せっかく『無門關解釋』の第1則「趙州狗子」を、一所懸命拝読して勉強させていただきましたので、それについてはまた後ほどに書かせて頂きます。
ありがとうございます。

あ、それから「訊け」管理人様のご要望にもまだお答えできていませんでしたね。もう、ある程度のヒントはあったかも知れませんが。「同時成道」ですね。それは、私が悟ればすべてが悟る、ということだと、頭でわかるだけでなく、全生命で、『無門關』第1則「趙州狗子」の言葉でいえば、「熱鉄丸を呑了するが如く」 自知する、というのが宿題でありますね。困難な課題には違いありませんが、挑戦しましょう。しばらくのご猶予を。

164「訊け」管理人:2011/09/10(土) 08:51:31 ID:UodBcqiE
>復興G閣下

(以下は本日の「神想観後の気づき」であります。なお、貴ご提示テーマと
は余り関係はありませんので、返信の労を特に求めるものではありません)

<〝ごわす〟とは〝御・和す〟ではないか?>

 薩摩言葉の「ごわす」ですが、これは「御・和す」なのではないか?これ
がそもそもの語源なのではないか?そのような気づきが忽然と湧いた今朝で
ありました。先人たちは「ごわす」と締めることですべての会話を「神化」
していたのではなかろうか・・・

「行くでごわす」とは、肉体人間の我が、A地点からB地点へ移動することで
は〝ない〟のではなかろうか。実相の吾へ帰一し−−「御・和す」行為、久
遠の今の地点から、単なる移動行為すらも神化せしめていたのではなかろう
か。たとえば、ここにあるお茶はこれ、単なるH2Oなる物質なのではない。
これは妻が、夫の喉の渇きを癒さんとして献してくれた愛念なのである。
 薩摩の先人たちは全ての行為を「ごわす」と締めることにより、全ての行
為を「久遠の今」から高覧し得ていたのではなかったか。あの、先人たちの
尋常ならざる熱誠はこれ、薩摩言葉「ごわす」に拠るところの奇蹟であり作
品群であったかもしれぬ・・・

165「訊け」管理人:2011/09/10(土) 08:56:02 ID:UodBcqiE
<上記駄文主張根拠>

http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586636.html#more

 それは、もう一つ別の言葉で云ふと、支那の『中庸』と云ふ書物に書いて
ある、「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ」と書いてある、その中でありま
す。天之御中主神の御中であります。一切の時間と一切の空間とが未だ發せ
ぎるところの御中の中心であります。これは未發の中と云はれてゐるところ
のものである。「喜怒哀樂未だ發せざるを中と云ふ。發して節に當る。これ
を〝和〟と云ふ」とありますがその中から一切のものが現はれて、時と人と
處に應じてピタリッと急處に當つて有數にすべてのものが、ピシリ、ピシリ
と出來て行くのが、其れが〝和〟、即ち和解の〝和〟なんであります。


(「久遠の今」レコード1より)

166「訊け」管理人:2011/09/10(土) 11:32:16 ID:???
●完全な者を相手になぜ、運動をするのか
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65586965.html#more

 現在の運動の問題点を、「一切者の自覚」(同時成道)の観点から眺めた
お話です。筆者はもちろん、榎本惠吾先生。
 諸賢に於かれましてはぜひ、ご高覧賜りますようお願い申し上げる次第
であります。

167復興G:2011/09/10(土) 14:23:05 ID:Ir7svY6w

>>164 :「訊け」管理人殿
><〝ごわす〟とは〝御・和す〟ではないか?>
 薩摩言葉の「ごわす」ですが、これは「御・和す」なのではないか? 先人たちは「ごわす」と締めることですべての会話を「神化」していたのではなかろうか・・・
「行くでごわす」とは、肉体人間の我が、A地点からB地点へ移動することでは〝ない〟。・・・・実相の吾へ帰一し−−「御・和す」行為、久遠の今の地点から、単なる移動行為すらも神化せしめていたのではなかろうか。
 薩摩の先人たちは全ての行為を「ごわす」と締めることにより、全ての行為を「久遠の今」から高覧し得ていたのではなかったか。あの、先人たちの尋常ならざる熱誠はこれ、薩摩言葉「ごわす」に拠るところの奇蹟であり作品群であったかもしれぬ・・・

――まことにまことにすばらしいことでごわすな。
感動しちょりもうす。

さらば、おいは<163>で

<せっかく『無門關解釋』の第1則「趙州狗子」を、一所懸命拝読して勉強させていただきましたので、それについてはまた後ほどに書かせて頂きます>

と書き申したなれど、そいはしばしお預けにして、貴殿の

>>150
>取り上げて頂きたいのは、「同時成道」になります。まあ、一切者の自覚と申した方が解り易いかもしれません
・・・まあブログに取り上げながらも愚生、やはりいまひとつこの同時成道ですが、「うーん・・・」となってしまう次第です。まあ、理屈は解かるんですよ、理屈は。ですがなんか・・・御文章拝読後しばらくすると、フォワーんと消えていってしまっているという(笑)そんな程度の理解なんです。この難題「同時成道」・・・これについて語って頂くことは可能でありましょうか?

これを忘れぬよう再掲載させて頂き申そう。
(中途半端な鹿児島弁“もどき”になってしもうたことをお許しあれ)

       ○

さて、<150>で話題にされた「同時成道」は、以下の吉田國太郎・榎本恵吾両師の言からでした。
───────────────
 吉田――人間は藭の子であり、自づから絶對者なのである。自分の生活に於いて自分以外は無いのである。吾が生くるが全てであり、彼とみゆるも我なのである。外界は内界の投影であり、心の見る通りに現はれるのである。(『常楽への道』343頁)

 榎本―― ・・・・自己とは斯くの如きものである。自己と全宇宙との開係も又、斯くの如きものである。自己の中に全宇宙があるのであり、全宇宙をあらしめてゐるのが自己である。故に、自己の解決は全宇宙の解決であり、自己の悟りは全宇宙の悟りであり、自己の救いは全宇宙の救ひであり、自己の成佛は全宇宙の成佛であり、すべてにおいて自己と全宇宙の現成は同時であり同一である。吾々は今生きてゐる自分の生活が地上天國實現のために必要な生活なのであるが今のそのままだけでは充分ではないといふやうな生活には満足することは出来ない。すべて宇宙との関係において必要且つ充分なる生活の連續を欲するのである。自己の中に全宇宙があり、全宇宙と自己とは一つであると云ふ事實を生きることによつてのみ自己の欲つして生活することが全宇宙の救ひとの開係において必要且つ充分なる生活を生きることが出来るのではないだらうか。故に、全宇宙を救ふには自己が先づ悟ることが全宇宙を救ふための必要且つ充分なることである。くりかえしになるが、この意味は自分が悟れば、それが原因となつて除々にその救ひが廣まつて行つて、ある時間の後に、全宇宙に及ぶと云ふことではない。自己と全宇宙とは同時であり、同一であるから、自己が悟れば全宇宙が悟り、自己が救はれれば全宇宙が同時に救はれるのである。同時成道である。
(貴殿ブログより)
───────────────

――これを頭で理会するだけでなく、全生命で、『無門關』第1則「趙州狗子」の言葉でいえば、「熱鉄丸を呑了(どんりょう)するが如く」 自知するには――という公案でありますね。

こりゃ、ひょっとすると生涯を賭けて解くべき公案やも知れぬと思われます。

(つづく)

168復興G:2011/09/10(土) 14:36:18 ID:Ir7svY6w

<165>の誤字訂正お願い。

×發せぎる → 發せざる
×有數に → 有効に

169復興G:2011/09/10(土) 19:40:01 ID:Ir7svY6w

さて、156八百比丘尼様・鈴夜様のご質問がきっかけで勉強させていただきました、
『無門關解釋』の第1則「趙州狗子」ついて。
――「実相独在」の信を固めるのにとても役に立つと申しますか、うれしくなるご文章と出会いましたので、ご披露させて頂きますが、その前に――。

前にご紹介しました第2則「百丈野狐」の補遺です。

<自分の実相が既に迷わず、既に輪廻せず、既に病まないものであることを知ったならば、五百生(ごひゃくしょう=五百回生まれかわる間)野狐に生れていても、菊五郎が四谷怪談のお岩をやるのと同じことで、迷っているとは言いながら、それは芝居をやっているのも同じこと、五百生風流三昧(ふうりゅうざんまい)をやっているようなものだ>

と谷口雅春先生のご解説にありますので、八百比丘尼様、鈴夜様、どうぞ安心して妖怪でも野猫でも演じて楽しませてくださいませ。

さて、ここから(第1則「趙州狗子」)の範例:

<< >> は「無門關」原文
< > は谷口雅春先生ご解説

です。(ご解説の原文は歴史的仮名遣ひですが、現代かなづかいにして引用させていただきます)

*************

<<趙州(じょうしゅう)和尚、因(ちな)みに僧問ふ、狗子(くし)に還つて佛性ありや也(また)無(なし)や。州云(いわ)く、「無」。>>

という「公案」がまず最初に出てまいります。

<或る僧が「狗子(いぬころ)に佛性があるか無いか」と趙州和尚に問うたところが、趙州和尚は「無」と答えたというのである。その趙州和尚は何故「無」と答えたのか考えて見よというのが第一則の公案である。>

これに対して、無門慧開(えかい)和尚は、まず

<<參禅は須(すべか)らく祖師の関を透(とお)るべし>>

と一喝しています。

これは、「まず祖師の関を透るべし」と言われたら、私たちにとって祖師は谷口雅春先生ですから、「谷口雅春先生に聴き、学びなさい」という意味に受け取れそうですが、谷口雅春先生のご解説は、ちょっと違いました。

<祖師というのは先輩の僧侶だと思っている人もあるらしいが、先輩の僧侶ではない。……師につくことが「祖師の関を透る」ことであるならば、禅門の万僧悉く悟っているべき筈であるが、衣鉢を伝えられると称する悟りの境に達した者は、極く僅かな数に過ぎない。「祖師の関」とは「真理の関所」である。真理こそ唯一の祖師であって、そのほかの「祖師」は悉く偽の祖師に過ぎない。>

とおっしゃられているのです。だから無門和尚の評には
<<佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、生死岸頭(しょうじがんとう)において大自在を得(う)>>
というような言葉も出てくるのである、と。

かと思えば、
<そこで「祖に逢うては祖を殺す」と言って真理を無みし、師恩を無みし、旧師の悪口を言って、「自分」のみ鼻高々として自己吹聴する者があるならば、彼はまだ祖師を殺していない──自分を「祖師」としているのであって、祖師の殺し方が足りないのである。「自分を祖師とすること」さえも殺さなければならない。>

と、また鉄槌が下ります。

<「狗子に佛性ありや?」は、やがて又、「人に祖師ありや?」の公案にも通ずる。「僧問う──人に祖師ありや? 州云わく、無」と書き直してもよいであろう。これは祖師だけを否定したのではない。師なんてないものだ! こう否定して鼻高々となったとき、いつの間にか自分が「師」になっている。人もない、祖師もない、祖師もないという者もない。どこまでも否定はその極の極まで進まなくてはならない。……ギリギリの所まで達すれば否定するに否定し得ない究極実在に達する。そうしてただ真理のみあることが解る。光明一元である。そう判って見れば、万物祖師ならざるはない。そのまま、師を師とし、感謝の心湧き出で、報恩の行おのずから調うのである。>

(つづく)

170「訊け」管理人:2011/09/10(土) 21:21:01 ID:snP.vX5s
>>168

 閣下に恥をかかせてしまいもした。すんもはんでした!

追伸

 「熱鉄丸を呑了(どんりょう)するが如く」

 すごい表現ですよねホント(爆笑)いやーまさに、そんな理解が
欲しい!!!

171復興G:2011/09/10(土) 21:26:48 ID:Ir7svY6w
(つづき)

「現象無し」「実相独在」が生長の家の御教えの神髄である。われわれは「無」の門関を通過しなければならない。ところで、「無門関」はこう教えています。

<<如何なるか是れ祖師の関、只者(この)一箇の無の字、乃(すなわ)ち宗門の一関なり。遂に之(これ)を目(なづ)けて禅宗無門関と曰(い)ふ。>>

<<透得過(とうとくか)する者は但(た)だ親しく趙州に見(まみ)ゆるのみにあらず。便(すなわ)ち歴代の祖師と手を把(と)つて共に行き眉毛(びもう)厮(あい)結んで、同一眼(げん)に見、同一耳(じ)に聞すべし。豈(あ)に慶快ならざらんや。>>

──谷口雅春先生
<祖師の置いた関所とは「無」の関門である。そこで吾々は関所であるから、関所に引っかかっているものでは駄目である。「無」は真理に到る関門であつて、真理そのものではない。「無」を通過して来なければ、「実」に到ることは出来ない。「無」を透得過(とうとくか)したとき「実」の世界、真理の世界に於て、趙州和尚に相見えるのみならず、歴代の祖師と互いに手をとり、眉と眉と相結ぶほど親しく、一心同体になつて、真理を把握することが出来る、何と楽しい慶ばしいことではないか。>

<そこで「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」という某僧の問いに対して趙州は「無」と応えたのは、肉体は無い、物質はない、迷っている心が悟って仏になるような、狗子の皮袋の中に入り込んでワンワン言っているようなそんな仏性もないと答えたのである。狗子の中に仏性が入り込んで生きているというような「仏性」というものもないという時、そんな二元論は否定されてしまったのである。全体を否定したとき、全体が生きて来たのである。>

<そこで完全に真仏が肯定されて来、狗子は狗子そのままで正法現前であることが判ったのである。狗子と仏性を分けたり、「有る」と「無い」との相対的有無にちょっとでも捉われたりしたならば本当の生命を失ってしまうというのである。「狗子仏性の公案は全体を提(ひっさ)げて真理を宣命しなければならぬ。少しでも相対の見に立ったら千仞の奈落に堕(お)ちて身を喪(うしな)ひ命を失うぞ」というのが、

<<狗子仏性、全提正令(ぜんていしょうれい)、纔(わず)かも有無に渉(わた)らば、喪身失命(そうしんしつみょう)せん>>

という「頌(じゅ)」の意味である。全否定を通過しての全肯定の世界である。180度回転を通過しての360度回転の世界である。そのままこの世界が肯定されて、自由自在、関羽将軍の大刀を奪取して無明の首を刎(は)ねる働きの出来る世界である。>

──だいたい以上が『無門關』の第1則「趙州狗子」の御解釈のポイントになろうかと思うのでありますが、ここには先人が、そして谷口雅春先生が私たちに下された「頂門の一針」(頭の上に針を刺すように、人の急所を押さえて戒めること。痛切な戒め)とも受けとるべき事が示されているのではないでしょうか。

榎本恵吾先生は、
<禅宗に問答があります。『無門関』など、千五百年も昔に発せられた質問であり、生命が唱いあげた比類のない美しいテーマであります。それですから後代の人々が、いのちをぶっつけてこの公案に取り組んで来ているのであります。取り組んでも取り組んでもつきない、いつも新しいすがたをもって、後代の人々から新鮮ないのちの喜びを発露させるのであります。「美しい」とは「素直」ということであり、それは永遠に古くならないのであります。ますます新しい姿で私たちに迫ってくるのであります。それは大自然のごとくであり、それは青空のようであり、大海原のようであり、また一輪の野の花のごとき偉大さとやさしさがそこにあるのであります。問題自体が感動を与えるということがあるのであります。>

と、『研修のヒント』に書かれていました。

  *************

さて、この1週間のあいだ、トキ様はじめ皆々様のご愛念ご声援をいただいて、トーキングスティックを持たせて頂き、だいたい存分に私の思いを書かせて頂きました。皆様には十分とは行かないまでも、ある程度ご理解、共感をいただけたのかなあと勝手に思っておりますが、いかがでしょうか。
初心者様、いかがでしょうか。

トキ様からスティックを奪い取ってしゃべらせていただいたような感じですので、そろそろスティックをお返ししてもよろしいかなと思っておりますが、皆様、ご質問とか何かありましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます。

172八百比丘尼:2011/09/10(土) 23:41:43 ID:j8iOdie.

 復興Gさま
ありがとうございます。素晴らしいお話、大変勉強になりました。
私は、もう憶えていないほど遠い昔より、何度も生まれ変わって参りました。
遥か昔に、一番信じるべき方の心を疑い、その苦しさから楽な道に逃げた
報いにて、このような姿で生き続けております。
そろそろ元の時代に戻ろうかと思っていましたが、
こちらもなかなかおもしろい世界。
もうしばらくは、鈴夜と共に遊ばせていただきましょう。
私の身の上話は、そのうち女子会にてお話しいたしましょうか。

鈴夜は、復興Gさまのお言葉に大喜びして、
こともあろうに劇団四季の『キャッツ』のオーディションに出かけましたが、
浅利慶太先生に放り出されました。
これで、あかり姫との共演は夢と消えました。

何ですか、今度は長靴を買ってくれと申しておりますが、
『長靴をはいた猫』にでもなるつもりでしょうか。


   −−鈴夜 かくし芸大会に出るーー

《 残念だったなぁ『キャッツ』絶対受かると思ったのに。
  浅利慶太センセイ、チョ〜こえェ〜。
  あ、そうだ。帰りに伊勢で、貝新の「アサリの志ぐれ煮」
  買って来いっていわれてたんだ。

  ん〜? 隣の店で「赤福」買ってんのは、
  ハル・ヨシリータじゃねえの。

  帰ったら、新しい長靴はいて、手拭いかぶって、ザル持って、
  鼻に五円玉つけて・・・・・
  商売もんのドジョウすくいに行こう。

  ちなみに、ドジョウ内閣を救う気はありません。》

173復興G:2011/09/11(日) 06:25:28 ID:Ir7svY6w

>172 :八百比丘尼さま、鈴夜さま。
ありがとうございます。

鈴夜ちゃん、
>劇団四季の『キャッツ』のオーディションに出かけましたが、浅利慶太先生に放り出されました。
これで、あかり姫との共演は夢と消えました。

それは、チョ〜 ざんねんだったねえ。

でも、かわりに貝新の「アサリの志ぐれ煮」買って帰って、新しい長靴はいて、手拭いかぶって、ザル持って、・・・・「ドジョウすくい」・・・・大いに楽しんで見てますよ。

お伊勢参りに行ってきたとは、すばらしいねえ。
お伊勢様は、日本人の魂のふるさとだからねえ。

それで、大事な忘れもの(実は、ないしょ<内証>にしていたもの。「内証」っていうのは、もとは禅の用語で、仏の悟りの境涯、心内の悟りを意味し、「自内証」ともいう)がありましたので、最後になりましたが、内証の秘密を発表させて頂きます。それは、谷口雅春先生が『無門關解釋』の「はしがき」に書かれていることです。

  ───────────────

   は し が き

 この書は太平洋戦争中に書きおろしたものである。
(中略)真理は戦前も戦中も戦後も変るものではない。今も私は天皇信仰を持ちつづけてゐるのである。……
戦中に書いた″はしがき″には次のやうな事が書いてある。真に興味があるから読んでほしい。

 「天皇への帰一の道すなはち忠なり。忠は天皇より出でて天皇に帰るなり。天皇は一なり。ハジメなり。一切のもの天皇より流れ出で天皇に帰るなり。わが『忠』、わたくしの『忠』、我輩の『忠』などと云ひて、『我』を鼻に掛ける『忠』はニセモノなり。私なきが『忠』なり。

 「天皇は天照大御神と一体なり。天照大御神は天之御中主神と一体なり。斯くして天皇はすべての渾てにまします。『忠』の本源は天之御中主神の『御中』の理念より発して再び天之御中主神に復帰するなり。天皇を仰ぎ、天皇に帰一し、私なきが『忠』なり。わが『忠』と誇るとき、もうそれは『忠』にあらず、『我』となるなり。

 「すべての宗教は、天皇に帰一するための前提として存在の意義があるなり。すべての宗教が、『我』を捨つるを説き、『無我』を説き、富を捨つるを説き、『無所有』を説くは、『この世は何にも無いものだから諦めよ』と云ふ意味に非ず。すべてのものは、天皇の一元より発現することを教へたるなり。すべての森羅萬象天皇の大御いのちの顕現ならざるはなきなり。天皇を説かず、仰がず、『無』のみを説く宗教は準備時代の宗教に過ぎず。

 「わたくしの『生命』を愛護すること勿れ。『生命』が尊きは天皇の大御いのちの流れであり、岐れであるが故に尊きなり。寸時も、『天皇のみたまのふゆ』なることを忘るべからず。『天皇のみたまのふゆ』なることを忘れるとき、人は悪逆無道の迷妄の徒となるなり。

 「すべて宗教は天皇より発するなり。大日如来も、釈迦牟尼佛も、イエスキリストも、天皇より発する也。ただ一つの光源より七色の虹が発する如きなり。各宗の本尊のみを礼拝して、天皇を礼拝せざるは、虹のみを礼拝して、太陽を知らざる徒なり。すべてのもの太陽にて生くるが如く、すべてのもの、天皇の大御いのちにて生くるなり。

 「生長の家が、一宗一派を樹てざるは、宗派と云ひて党を樹て、閥に籠りて、相争ふことが『忠』に非ることを知る故なり。

 「宗はオホモトなり。天皇なり。すべての教も則も範も矩も規も法も、悉くスメラミコトより発するなり。宗教が宗派と云ふものに立ち籠りて、宗祖と云ふ一人の國民に過ぎざる人間を尊崇するは邪道なり。されば我は夙に喇叭に過ぎずと云ひたるなり。すべての宗祖は喇叭に過ぎざるなり。宇宙の大教祖は、天皇にてあらせられるなり。ミチとノリとは悉く、スメラミコトより出づればなり。

 派閥や党派で到る處に争ひが見られる現代に、この戦中に書いた序文は頂門の一針のやうな気がするのである。みんな野郎自大、「わしが」「わしが」で争ってゐて、その争ひが終熄しないのは、無我になって宇宙の中心真理に帰一しないからである。

 私は無私絶対愛の宇宙の中心真理の人格的表現を抽象概念ではなく具体的に生ける人格として天皇に於て見出さんとするものである。それが真実であることは終戦時の天皇の絶対無私の愛の行蹟がこの世界を戦火の地獄から救ひ出した事実によつてテスティファイせられてゐるのである。兎も角この本を読んで私の考へが間違つてゐるか正しいか沈思黙考して頂きたい。

   昭和三十九年十一月一日
            谷 口 雅 春 識

174復興G:2011/09/11(日) 06:26:15 ID:Ir7svY6w

さて、a hopeさま。

あなた様は、「生長の家本流復活掲示板」の方まで行って、このボードのことを宣伝してくださいましたね。

そして、こちらの「女子会板」<118>で

>破邪顕正さまがおっしゃる通り、わたしはもうどんな批判的文章も、体が受け付けないようになってしまったのですよ(笑)。
それが、現教団批判であれ、本流批判であれです。
もはや、a hope は愛と真理の世界でしか生きていけません(笑)

とお書きになっています。

すばらしいです。
私は、貴女の前に、ただただ平伏礼拝あるのみです。
ありがとうございます。

175トキ:2011/09/11(日) 10:07:11 ID:xEVYjD4.
>>171

復興G様、ありがとうございます。

復興G様へのご質問やご感想がありましたら、どんどんお寄せ下さい。

合掌 ありがとうございます

176復興G:2011/09/12(月) 14:21:47 ID:Ir7svY6w

さて、<56>で八百比丘尼さまが

   −−鈴夜より質問状ーー
>ボクも、野猫から人間にもどれるのでしょうか。
うちのオニババも、妖怪から真人間になれるのでしょうか。どうして私たちが、このようなあさましい姿になってしまったのか……<

とご質問をくださった問題は、八百比丘尼様たちだけの問題として、私は偉そうに書いてまいりましたが、実はこれは私自身の問題であったと、気がつきました。五百生野狐を演じていたのは、自分ではなかったか? と。

それで、もう少し書かせて頂きます。

『無門關』の第1則「趙州狗子」に

<<・・・・生死岸頭(しょうじ がんとう)において大自在を得、六道四生(ろくどう ししょう)の中(うち)に向つて遊戯三昧(ゆげざんまい)ならん。>>

という語があり、それは、(「無」の門関を透過すれば)生死の岸頭(生死のさかい)にいても自由自在、少しも畏れることはない、ということである。
六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの境涯。
四生とは胎生、卵生、湿生、化生の四つの生まれ方。
とまでは谷口雅春先生のご解説にありましたが、その「四生」の意味がもう一つ具体的にわからなかったので、ここは引用していませんでした。

が、「四生」の意味をくわしく勉強してみますと、

(1)胎生(たいしょう)というのは、哺乳動物のように母親の胎内で育てられて、形あるものとして生まれてくるもの。
(2)卵生(らんしょう)というのは、卵として生まれ、それを親鳥が温めて孵化し、はじめて形あるものとして出てくるもの。
(3)湿生(しっしょう)とは、しめり気のある所に生まれてくるもの。例えばカビとか植物など。
(4)化生(けしょう)とは、妖怪、お化けのように突然出てくるもの。

と、生まれ方をこのように四つに分けた。そして生まれ方によってまた生きている状態もきまるわけで、胎生・卵生は動物、湿生は植物、化生は変化(へんげ)となる。

ということなのでした。(仏教教義解説のサイトより)

そして、谷口雅春先生のご解説は──

<むづかしいことは何もない。難かしいと思つてゐたのは「無」の関門を通らずに引掛つてゐたからである。「無」にさへ引掛らなかつたら、生死の岸頭(生死のさかい)に於ても自由自在、少しも恐れる事はない。六道のうち地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上のどの世界へ行かうが、四生のうち胎生、卵生、湿生、化生のどの生れやうをしようが、もう引掛ることがないから遊戯三昧(ゆげざんまい)に化して了ふのである。此の境地に達したならば、もう本当に自由自在「驀然(まくぜん)として打発(だはつ)せば天を驚かし地を動ぜん」で、関羽将軍の大刀を奪ひ得て敵陣に躍り入るが如く、佛も、祖師も、衆生も悉く、その自由自在の働きで粉砕されて了ふのである。>

──とお教え頂いており、これはまさに、八百比丘尼さま、鈴夜さまのご質問への答えそのものではないか、とちょっと思ったのです。が──

「それはちがうぞ。それは、お前自身のことだ!」
「五百生野狐を演じていたのは、お前自身だ!」

という、内なる声が聞こえたような気がしたのであります。

野狐を演じていながら、そのことに気がつきもせず、
「祖に逢うては祖を殺し」と言いながら「自分」のみ鼻高々と自分を「祖師」として、祖師の殺し方が足りなかったのは、お前ではなかったか! 
という痛烈な一喝を受けたように思ったのであります。

ごめんなさい。・・・・・
と私は、その声にただただひれ伏すしかないのであります。

177復興G:2011/09/12(月) 14:58:31 ID:Ir7svY6w

<<箇の熱鉄丸(ねってつがん)を呑了(どんりょう)するが如くに相似て、吐けども又吐き出さず。>>
<<従前の悪知悪覚を蕩尽(とうじん)し、久々(きゅうきゅう)に純熟して自然(じねん)に内外打成一片(ないげだじょういっぺん)ならば、唖子(おし)の夢を得るが如く只自知することを許す。>>

という語が、やはり『無門關』第1則「趙州狗子」の中にあります。

谷口雅春先生のご解説──
<冷暖自知せよ! 絶体絶命、熱鉄の灼熱せる団子が咽喉につまつたやうに吐けども吐くことが出来ない。最初は無いと感じてゐたが、その無を感ずる感覚器官さへも焼けて了つて熱いも冷たいも無い、ただそこに熱鉄だけがある。のがれる道はない──その儘受ける──その心境になると、従前の悪知覚がなくなつて、苦しい熱鉄の団子を呑まされたと思つてゐた苦しい感覚がなくなる。そして<<久々に純熟して自然に内外打成一片>>となる。受ける自分(内界)と与へる外界とが渾然熟して一体となる。一体となるとき、そのままそこが極楽であることが、喋らないでも唖子(おし)が夢を見て自得するが如く自得するやうになるのである。忠義とは苦しいもの、孝行とは面倒くさいもの、夫婦相和は退屈なものと思つてゐたのが、忠孝とは愉しいもの、孝行とは悦ばしいもの、夫婦相和は楽なものであると其のまま素直に行へるやうになるのである。病気なら病気が癒える。>
と。

──この「熱鉄丸を呑了する」ということは、「死んでしまう」ということ。
いっぺん死んでしまわなくてはだめだ、ということだと思いました。「自我を死にきるべし」ですね。

「自分」というものはなかった! と思ったら、
「すべてが自分だった!」
となる。
そしたら、神想観をして「われ今五官の世界を去って実相の世界に入る」というとき、「われ」は「全てのもの」となり、「全てのもの今五官の世界を去って実相の世界に入る」となる。「同時成道」である。

──今朝、神想観のとき、そういう思いになりました。

178a hope:2011/09/12(月) 15:51:43 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

わたしは、まだ全部読み終わってないんですが、「不退転の決意」ということについて、
わたしなりに感じたことがあるので聞いてください。

拙い例えで、恥ずかしいのですが、わたしは子どもをたくさん産んだので、
なかなか体型が昔のように戻らないんです。

それで、何年も前から、早朝ウォーキングをしているのですが、始めたばかりのころは、
とにかく、体重を減らしたい、健康になりたい、という思いだけで、必死に歩いていたんです。

だから、全然楽しくなかったし、子どもが具合が悪くなって、ウォーキングに行けなかったりすると、
行けないと日が続くと、もうウォーキングに行く気が全く失せてしまい、長続きしませんでした。

ですが、ある日、朝日がとてもきれいな日があって、今日はウォーキングに行きたい!
って心から思ったんです。

そしたら、朝の空気がとてもすがすがしくて、道端に咲いている小さな花とか、
遠くの山の緑とか、すれ違う人の笑顔とかが とにかくすべて美しく見えたんです。

その時、わたしの生きている世界は素晴らしいんだ!と感じました。

その日から、ウォーキングはわたしにとって、楽しみになったんです。
行ける日もあるし、行けない日もあるんですが、それでも、ずっと続いています。


わたしにとっての、神想観も同じようでした。

最初は、30分も正坐しているのはとても辛く感じました。
でも、そういう風にやらなければ、なんの効果もないんだから、やらなければいけないんだ!
という気持ちのほうが強くて、我慢してやっていました。

そして、途中、子どもに邪魔されるとイライラしたりして、でも、そんな風にがんばってやっていても、
何にもいいことがありませんでした。

でも、今は、全然違います。
神さまに包まれるのが、心地よいのです。

時間も、その日により、10分間の時もあれば、1時間近くする時もあります。
でも、全然気にならなくなりました!

だって、楽しいですから!

「不退転の決意」というのは、そういうことなのではないかと、感じました。

反応が、遅くて、申し訳ありませんが、a hope は、忙しい主婦なので許して下さい(笑)

復興Gさまが、書き込みを続けてくれていて、とてもうれしいです!
がんばってついていきますので、見捨てないでくださいね。

179復興G:2011/09/12(月) 15:57:09 ID:Ir7svY6w

「全てのもの、今五官の世界を去って実相の世界に入る。<五官の世界>は、無いのである。今ここ実相世界、神の無限の智慧、愛、生命、供給、喜び、調和のみ光の大海原に在し、神の無限の智慧、愛、生命、供給、喜び、調和に満たされているのである。ありがとうございます。ありがとうございます。」

命をかけてこの「実相独在」に徹し、全てを礼拝するのみであります。

  *************

もし「現象あり」とすれば、「谷口雅春先生を尊敬する」と言っても、先生のご業績が素晴らしいからだというなら、逆に言えば、「それだけのことしかお出来にならなかったのか」ということにもなります。三代目様に正しく真理を嗣がせることすら出来なかったのか、と。そして、「いつになったら日本の実相顕現はできるのか」「まだだめだ、まだだめだ」ということが永遠に続くのではないでしょうか。

すでに
「住吉大神宇宙を浄め終わりて天照大御神出でましぬ」
であります。

「現象あり」とすれば、現総裁は野狐を演じていらっしゃるかも知れない、その総裁を擁護するものもみんな野狐かも知れない。では、その総裁の退陣を求めて戦っていらっしゃる「本流」の方々は、野狐ではないのか。

──お前はどうか、と言われれば、「ハイ、私は野狐の最たる者です」と言わざるを得ません。

みんな実は野狐を演じている、というのが現象のすがたかも知れません。

しかし、苟くも生長の家の御教えに触れ、谷口雅春先生の御教えに生きようとする者が、たとえ今、五百生野狐を演じ、争っているように見えていようとも、それは「無」である。

<自分の実相が既に迷わず、既に輪廻せず、既に病まないものであることを知ったならば、五百生(ごひゃくしょう=五百回生まれかわる間)野狐に生れていても、菊五郎が四谷怪談のお岩をやるのと同じことで、迷っているとは言いながら、それは芝居をやっているのも同じこと、五百生風流三昧(ふうりゅうざんまい)をやっているようなものだ>

<そこで「狗子(くし=いぬころ)に仏性ありや無しや」という某僧の問いに対して趙州は「無」と応えたのは、肉体は無い、物質はない、迷っている心が悟って仏になるような、狗子の皮袋の中に入り込んでワンワン言っているようなそんな仏性もないと答えたのである。狗子の中に仏性が入り込んで生きているというような「仏性」というものもないという時、そんな二元論は否定されてしまったのである。全体を否定したとき、全体が生きて来たのである。>

<そこで完全に真仏が肯定されて来、狗子は狗子そのままで正法現前であることが判ったのである。狗子と仏性を分けたり、「有る」と「無い」との相対的有無にちょっとでも捉われたりしたならば本当の生命を失ってしまうというのである。「狗子仏性の公案は全体を提(ひっさ)げて真理を宣命しなければならぬ。少しでも相対の見に立ったら千仞の奈落に堕(お)ちて身を喪(うしな)ひ命を失うぞ」というのが、
<<狗子仏性、全提正令(ぜんていしょうれい)、纔(わず)かも有無に渉(わた)らば、喪身失命(そうしんしつみょう)せん>>
という「頌(じゅ)」の意味である。全否定を通過しての全肯定の世界である。180度回転を通過しての360度回転の世界である。そのままこの世界が肯定されて、自由自在、関羽将軍の大刀を奪取して無明の首を刎(は)ねる働きの出来る世界である。>

この谷口雅春先生の御教え、「実相独在」の真理に徹し、<歴代の祖師と手を把(と)つて共に行き眉毛(びもう)厮(あい)結んで、同一眼(げん)に見、同一耳(じ)に聞すべし。豈(あ)に慶快ならざらんや>という喜びのみの、遊戯三昧(ゆげざんまい)の生き方をしてまいりませんか。

180復興G:2011/09/12(月) 16:15:11 ID:Ir7svY6w

>>178 :a hopeさま。
> 朝の空気がとてもすがすがしくて、道端に咲いている小さな花とか、遠くの山の緑とか、すれ違う人の笑顔とかが とにかくすべて美しく見えたんです。
その時、わたしの生きている世界は素晴らしいんだ!と感じました。
その日から、ウォーキングはわたしにとって、楽しみになったんです。
わたしにとっての、神想観も同じようでした。
神さまに包まれるのが、心地よいのです。
だって、楽しいですから!<

──最高ですね。うらやましいぐらい。

>反応が、遅くて、申し訳ありませんが、a hope は、忙しい主婦なので許して下さい(笑)

よろこんで、楽しんで、ゆっくりとまいりましょう。

181フク子:2011/09/13(火) 05:03:14 ID:Ir7svY6w

「女子会板」の方に、

  ○

134 :フク子:2011/09/12(月) 22:12:38 ID:Ir7svY6w

>>130 :八百比丘尼さま。
> 今夜は、中秋の名月。
> 皆さまの所でも、美しいお月様が見えますように。
> 今夜の神想観は、浄円月観。

今、私のところからも、一点の曇りもない夜空に、まん丸く清く美しいお月様が見えています。

私も大好きな、浄円月観の神想観をしました。

「神の無限の愛、すべての人々に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。すべての人々に浄円月の雰囲気ただよう。皆様の雰囲気は、やわらかくあたたかく浄く美わし・・・・」

と念じさせていただきました。
そして、谷口雅春先生は、
「たといお月様が欠けて三日月のように見えるときも、実はお月様はまん○で欠けてはいない。それは地球の影が写って欠けて見えるだけである。
お月様に雲がかかっているように見えるときも、それは地球に雲がかかっているだけであって、月には水蒸気がないから雲がかかることはないのである」
とお教えくださっていることを思い出しました。

   ○

・・・・と書きましたのは、わたくしの変化身でございます。

上記、谷口雅春先生の御教えは、もちろん、
「まんまるいお月様」は實相のお月様。
欠けて見えたり、曇って見えるのは現象のお月様。
のたとえであることは、言わずもがなでございます。

そんな理屈は、女子会板の雰囲気をこわすような気がして書きませんでしたが、昨夜の美しい中秋の名月は、谷口雅春先生とともに、天も「實相独在」の真理を讃えて現れてくださったかと、感無量でありました。

182復興G:2011/09/13(火) 05:06:29 ID:Ir7svY6w

↑「フク子」は、復興Gでございます。

183a hope:2011/09/13(火) 13:08:10 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

昨晩のお月さまは本当に、美しかったですね。
わたしは、夕食前に夜のウォーキングに行ってきました!

わたしの住む所は、震災後、節電が実行されているため、
余計にお月さまの明かりが目に染みました。


復興Gさまは、>159の中の、「訊け」管理人さまへのお返事で、

>構えたら、負けですね。
>「構える」ってことは、相手は自分と相対した向こう側にいると思うから構えるんですね。
>構えたら、必ずどこかにスキが出来るから、負けちゃうんです。

とおっしゃっていますね。
なんか、「坂本龍馬みたいでかっこいいな」と、思いました。

184復興G:2011/09/13(火) 21:22:38 ID:Ir7svY6w

>>183 :a hope様

>昨晩のお月さまは本当に、美しかったですね。
わたしは、夕食前に夜のウォーキングに行ってきました!<

私が見たのはかなり夜が更けて10時ごろだったので、すでにお月さまはかなり高いところにあり、あまり大きくは見えませんでしたが、本当に、美しくかがやいていましたね。夕食前なら、低いところにあって、もっと大きく見えたことと思います。そのときに夜のウォーキングをされたとは──きっと、「あのお月さまと私はひとつ、私はお月さまだ」というような気持ちになられたのではないかと、察しています。よかったですね。

>わたしの住む所は、震災後、節電が実行されているため、余計にお月さまの明かりが目に染みました。<

震災後、「節電で家中を暗くしたら、前よりもずっとお月様がきれいに見えた」という話は、ほかの方からも聞いたことがあります。何があっても、よくなることがあるのですね。

>復興Gさまは、>159の中の、「訊け」管理人さまへのお返事で、
>構えたら、負けですね。
>「構える」ってことは、相手は自分と相対した向こう側にいると思うから構えるんですね。
>構えたら、必ずどこかにスキが出来るから、負けちゃうんです。
とおっしゃっていますね。なんか、「坂本龍馬みたいでかっこいいな」と、思いました。<

えっ?
坂本龍馬、ですか。そんなこと言われたのは、a hopeさまからが初めてです。
「構えたらスキが出来る」というのは、谷口雅春先生のお教えなんですが・・・・私がもう50年ぐらい若かったら・・・・なんて考えちゃいますよ。

185復興G:2011/09/13(火) 22:41:53 ID:Ir7svY6w

さて、私は約1週間のあいだではありましたが、「実相独在」について、引用文も随分多くなりましたが、勉強させて頂き、考えさせて頂いたことを発表させて頂きました。
自分の考えというより、何者かが導いて教えてくれたことにように思われますが・・・・。

榎本恵吾先生は、
「生長の家とは何か。それは、自分のいのちのことである。」
そして、「生長の家にいのちをかける」とは、「実相独在にいのちをかける」ということである、と言われた。
それは、「自分はなかった。今、全てが自分であり、全てが神だった」ということであり、ただ喜んですべてを礼拝し祝福して生きることなのだと、私は自覚いたしました。
ただただ静かな深い感謝のうちに、喜んで愛を行じさせていただきたいと、決意しています。

皆様には、すでに深いところでご理解と共感をいただいたものと、私は満足しております。天にも共感をいただいたかと。
それで、そろそろトキ様にトーキングスティックをお返ししようと思いますが、よろしいでしょうか。

186トキ:2011/09/13(火) 22:48:12 ID:JGTh/CoE
>>185

復興G様

 素晴らしいご指導をありがとうございました。

 では、一度、トーキングスティクを受け取る事にさせていただきます。ただ、復興G様の
ご指導は素晴らしいものですから、カーテンコールも多いと思います。続きは
「「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板 」でお願いする事にしようかと
思いますが、どうでしょうか?

 ご異議のない場合は、次の方を募集したいと思います。

合掌 ありがとうございます

187復興G:2011/09/14(水) 05:14:48 ID:Ir7svY6w

>>186 :トキ様
ありがとうございます。

私は、トキ様がスティックを持ってご発言の途中で、無理にスティックを奪い取ったような気がしていましたので、スティックを早くお返ししなければ……と思っていました。まだトキ様のご発言が3回程度で、「途中中断」だったと思います。ですから、私がスティックをお返しすれば、当然スティッカーはトキさんになるものと思っていましたが、ちがいますか?

それから、私は184で

>皆様には、すでに深いところでご理解と共感をいただいたものと、私は満足しております。

と書きましたけれども、たとえば初心者様にも十分理解と共感をいただけたとは思っておりません。
正直言えば、一人であまり長くスティックを持たせて頂いてもいけないかな、この「実相独在」というテーマは、前にも申しましたように、(144)
<「実相独在」とは、「現象無し」つまり人間の五官、眼耳鼻舌身でだれでも認識できる五感の世界を「ない」と否定して、それを超えたものを全生命的に把握する、いわゆる「悟り」の境地にかかわるものですね。だから、通常の感覚の「理解」とは次元の違う理会というか、そんなことが求められるとすると、完全に「理解と共感」が得られたと感じられるまでやるとなれば、とても難しいということかも知れません。>

ですから、皆様に徹底してこのテーマを理解し、共感していただくためには、延々といつまでも書き続けなければならないかも知れない。

このボードのずっと前の方、>>57 で、初心者様は

>わたくしは、神や天とつながるよりも、人とつながることのほうが、はるかに難しいと感じます。神や天は、こちらが心を開きさえすれば、かならず受け入れてくださるはずですね。でも、人は違いますね。・・・・

と書かれていました。私は、その「人とつながる」ことが全く不十分です。自己中で、正直いえば、孤独という思いも残っています。ですが・・・・

たとえば「現象無し」ということでも、ある程度は物理学からも説明できることかも知れないけれども、それは真理の周辺のことであって、真髄ではない。本当にその真髄をつかむには、「実証」「実体験」が必要なのかなあ、と思います。

ですから、<続きは「「今の教え」と「本流復活」を考える・信仰/体験板」で・・・・>とトキ様がお書き下さったのは、ピタリのご助言だと思います。そうさせていただければありがたく思います。

188トキ:2011/09/14(水) 10:13:52 ID:39Q2Y2jk
>>187

復興G様、素晴らしいご投稿、ありがとうございました。心から感謝申し上げます。

さて、次の「トーキングスティク」を持ちたい方は、遠慮なく立候補して下さい。
自薦、他薦を問いません。

復興G様のような高いレベルの内容は求められません。自分の気持ちや感情を
素直に書いて下されば結構です。

 ちなみに、私は管理人ですから、いつでも書けます。だから、小生の事は無視して
下さい。

以上、宜しくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます

189復興G:2011/09/14(水) 11:34:31 ID:Ir7svY6w

>>188

ありがとうございました。
では、私はこれから約5日間休暇をいただきまして、19日頃から、「信仰/体験板」の方で、また「実相独在」のテーマに関することを、今度は先師のご文章の引用や理屈ではなく体験を主にして、楽しく書かせて頂きたく思います。(しばらく、ほかの公私にわたる用事がありますので)

よろしくお願い申し上げます。
合掌 ありがとうございます。

190トキ:2011/09/14(水) 17:43:27 ID:39Q2Y2jk
 えーと、では、次の「トーキングスティク」を希望される方を募集します。

「a hope」様、どうでしょうか? 書いてみませんか?

191a hope:2011/09/14(水) 22:04:03 ID:MNrNIsM2
あら、ここにわたしの名前が...気付いてよかったです。

トキさま

今までも、ずっとそうでしたが、わたしが、本流宣言の先輩方にお応えいただきたいのは、
たった一つのことですし、今までも何度も質問させていただいてきたことなのです。

トーキングボードで、お話するような内容ではないので遠慮しておきますね。

それよりも、わたしは復興Gさまのお話の内容を、まだ、すべて理解できてないので、
そちらの勉強に時間を使わせていただきます。

そして、自分の考えや思いがまとまりましたら、もしかしたら、トーキングスティックボードに、
挑戦させていただくかも知れません。

その時は、よろしくお願いいたします。

192復興G:2011/09/15(木) 07:14:20 ID:Ir7svY6w

私は、a hopeさまの速やかなご登場を期待します。

a hope様は、「自分の考えや思いがまとまりましたら」とおっしゃっていますが、書き始めましたら、書いているうちに自然にまとまっていく、というのが私の体験からの実感です。私が書き始めたとき、何も考えはまとまっていませんでしたが、書いているうちに、なにものかが私にのりうつって書かせてくれ、自分で自分の書いたものに感動している、というようなことでしたから・・・・。

a hope様は、“忙しい主婦なので”とおっしゃってましたから、推薦をご遠慮していましたが、多分、時間というのはなんとかなるものだと思いますよ。ぜひご登場を、お待ちしています。

193a hope:2011/09/15(木) 23:06:36 ID:MNrNIsM2

うのはなさまや、復興Gさまに推薦していただいているのですが、
わたしにしては、珍しく、気乗りがしないのです。

というのは、この、トーキングスティックの方法なんですが、

①トーキングスティックを握っている人だけが発言できる。
②そのトーキングスティックを持っている限り、理解されたと納得できるまで一人で話すことができる。
③他者は主張することも異論を唱えることも反対や賛成することもできない。
④彼らにできることは、発言者を理解し、理解したことを説明しようと努めることだけである。
⑤発言者が理解されたと認識できるように、傍聴者は発言者の主張の趣旨を正しく説明する必要がある。
(以上、『訊け』さまブログから引用させていただきました。)

ですよね。

わたし的に、なんで気乗りがしないのかと考えてみたんですが、
だってこの板では、最初から、わたしの発言が、理解され共感されるってわかっちゃってるんですよ。


わたしは、みなさんのように博識ではないので、自分のなかにそんなに言いたいことが詰まっているわけではないのです。
それに、まだ、生長の家の教えに触れて、数年しかたっていないし、生命の實相だって、半分も読み終わってません。

それなのに、この板で話せと言われるのは、話すべき知識が十分ないのに、
公衆の面前で一人で演説しろ!といわれるくらいのプレッシャーなんです(笑)。

でも、わたしがここでそれに挑戦することで、
これからの「生長の家」になにかしら、明るい兆しが見えてくるのであれば、
そんな、自我を殺してでも、挑戦してみようかと思います。

復興Gさまのいうように、書いてるうちに何かが、のりうつってくるかも知れませんしね(笑)


トキさま

トキさまは、本当に後回しでいいのですか?
わたしは、トキさまの後でも、全然構わないです。
と、いうよりそのほうが、助かるんですが...(笑)

194うのはな:2011/09/16(金) 10:04:02 ID:iM0b0bt6
>193

トキさんは理事長の仕事やサイト運営やいろいろと忙しいからダメダメ

 a hope さま、トビトビでもいいから
落ち着いたときスティックもってくださいよ。
ホントニ書きながら考えがまとまると思います。

195トキ:2011/09/16(金) 10:04:48 ID:njwnsdfY
>>193

a hope 様

 いやー、どうも勝手にご指名をして、申し訳ありませんでした。
 
 小生がトーキングスティクを持ったのは、まあ、ある種の責任感からですので、
どちかと言えば、他の方が書いて下さる方が良いと思います。それに、小生は
いつでも書く事ができますから、気にされないで下さい。一般信徒だった方から
の視点というのは、とても大事だと思います。

合掌 ありがとうございます

196a hope:2011/09/16(金) 14:44:59 ID:MNrNIsM2

うのはなさま 

重ねてのご推薦ありがとうございます。
うのさまに、そうまで言われては、やらないわけにはいかないですね。


ときさま

テーマなんですが、女子会板で、うのさまと話しあっていた、
「愛」「伝道」「真の生長の家の教え」というテーマを、
を取り上げたいんですが、これ、どう考えても、わたしが一人で演説するのは無理です(笑)

だって、女子会板でわたしは

それでは、真の生長の家の教えとは、何なんでしょうか?
わたしは、何をどのように伝道すれば、本当に人を救えるのでしょうか?

だって、雅春先生は、「人間はみな神の子」だと言っているではないですか。
生長の家の愛は実相を見て、「赦す愛」だと言っているではないですか。


と、先輩方に問いかけているんですから...
それは、すべての生長の家の先輩方に答えていただきたいことなんです。


本流宣言の掲示板でわたしは、先輩方に生長の家の愛と本流の運動の関係について、
3回形を変えて質問させていただきました。

でも、どの先輩方からも、わたしの求めるお返事はいただけなかったのです。
だから、わたしは、本当にわからないのです。

ですから、わたしの場合は、トーキングスティックボードのやり方からは、
少し外れてしまうかもしれませんが、わたしへの理解、共感よりも、
みなさんのご意見を是非聞かせていただきたいのです。

そのご意見を聞いてからではないと、わたしが話し出すことは不可能です。

そんな形でもいいでしょうか?

197a hope:2011/09/16(金) 14:53:48 ID:MNrNIsM2
訂正

うのさま→うのはなさま

です。お昼寝の後だったので、ボケてました(笑)
省略してしまってごめんなさい。

198トキ:2011/09/16(金) 15:07:30 ID:njwnsdfY
 了解しました。では、まず、他の皆様から、a hope様からの問いかけに
ご返答お願いします。

 例えば、義春様、どうでしょうか?

199a hope:2011/09/16(金) 15:13:32 ID:MNrNIsM2

トキさま

ありがとうございます。
でも、ちょっと待ってください。

いっぺんにたくさんの質問に答えていただいたら、わたしは混乱します。

質問に関しては、今夜改めてさせていただくので、もう少し待ってください。

よろしくお願いいたします。

200トキ:2011/09/16(金) 15:59:31 ID:njwnsdfY
>>199

a hope 様


 了解しました。どうも、失礼をしました。もし、よかったら、一度、他の方も
当たってみましょうか? その方がここに書いているうちに、他の板でa hope様
が他の方々と納得のいくまで問答をし、ある程度、考えを整理してもらい、
それから「トーキングスティク板」でa hope様がまとめてもらう方法もあります。

201トキ:2011/09/16(金) 16:05:26 ID:njwnsdfY
 途中で失礼をしました。もちろん、a hope様のやりやすい方を選んで下さい。

合掌 ありがとうございます

202神の子さん:2011/09/16(金) 16:57:15 ID:MNrNIsM2

トキさま

わたしは、どの板でもいいですが、
でも、どこで質問すれば、一人でも多くの先輩方に答えていただけるのしょうか?

もう、すでに、一度、女子会板から、呼びかけてみたのですが、
うのはなさまだけからしか、お返事をいただけていないものですから...
他の板で、お答え下さっている方がいたら、ごめんなさい。
教えてくださいね。

ここなら、わたしが納得いくまで、みなさんのお答えを待てそうだと思ったのです。
そして、自分の主張もちゃんと聞いていただけそうだとも思ったのです。

ですから、トキさまやみなさまさえよろしかったら、こちらの板で、
やらしていただきたいです。

203a hope:2011/09/16(金) 16:57:47 ID:MNrNIsM2
↑ a hope です。

204トキ:2011/09/16(金) 17:24:30 ID:njwnsdfY
>>202

 了解しました。では、この板でお願いいたします。
皆様、ご協力をお願い申し上げます!

205a hope:2011/09/16(金) 21:44:06 ID:MNrNIsM2
トキさま
わたしのわがままを聞いていただきありがとうございます。
それでは、感謝の気持ちを込めて、トーキングスティックを握らせていただきます。合掌。


まず、最初に「愛」について、みなさんに質問させていただきます。

これについては、以前、女子会板で、うのはなさまに質問したことと同じ質問をさせていただきたいと思います。
どうして、わたしがその質問を、うのはなさまにしたのかは、すみませんが、
女子会板の、>123 >124 をご覧になってください。

質問1、雅春先生は、雅宣先生を愛しておられないんでしょうか?
    お孫さんとしてではなくて、一人の神の子として、愛しておられないんでしょうか?
 
みなさまの、お返事をお待ちしています。
本流宣言の先輩方にもぜひお応えいただきたいです。

わたしは、雅春先生の愛=生長の家の愛 だと思っているので、
できれば、その愛がどのような愛なのか、具体的に説明していただけるとありがたいです。


どうぞ、よろしくお願いいたします。

206トキ:2011/09/16(金) 22:45:01 ID:njwnsdfY
 私は直接、谷口雅春先生から親しくご指導を受けた経験はありません。

 しかし、戦前、生長の家の揺籃期に、谷口雅春先生から親しくご指導を受けた
直弟子の先生方から谷口雅春先生のお人柄はよく聞かされました。

 平成の信徒の中には、谷口雅春先生を石部金吉というか、堅苦しい人のように
勘違いをする人もいます。しかし、実際には、明るく、朗らかで、人間味の溢れた
方だったと聞いております。ですから、講演の後に、信徒が谷口雅春先生を囲んで
冗談を言い合ったり、和気藹々と話をするのが日常だったみたいです。
 反面、教えには厳しく、妥協を許さない人だったとも聞いております。

 例えば、地方にご巡杖にいかれる場合でも、電車の中では、御付きの方と楽しく
会話をされますし、それほど窮屈な態度を取られません。が、会場に入ると、お
付きの方にも厳しい態度を取られたようです。谷口雅春先生は細かい点にも気が
つく方なので、信徒へも細かい心遣いをされます。ですから、職員にも同様に
行き届いた態度を要求されたみたいです。普段は温和な先生ですが、怒られると
たいへん怖かった、とも聞いています。

 ただ、戦後になり、超ご多忙になると、地方にご巡杖に行かれた時でも、休憩時間
にご公務やご執筆をされるので、そういう姿を信徒は見る機会がなくなったようです。

 この極端な差は、やはりどちらも「愛」の発現であると思います。
生長の家では、「愛」とは「自他一体の自覚である」と説きます。しかし、同時に
「智慧のない愛は、愛ではない」と説き、「峻厳な愛」という発想もします。

 個人としての、谷口雅春先生は、家族を愛し、隣人を愛し、信徒を愛する人でした。
が、生長の家の指導者としては、ある場面では、教えを護る為に、一見すると厳しい
態度を取られる方でした。それは、公務という場面では、いい加減な事をすると、
多くの人に迷惑をかけるので、きびしい態度を取る事が必要だったからです。ですから
信徒には優しい谷口雅春先生でしたが、本部の職員が間違いをした時には容赦なくお叱り
になられたようです。が、それでも、その人を放逐するようなマネはなかったとも聞いて
います。現象として、弟子が間違いをした時には厳しかったとしても、基本的には
神の子として拝み愛する気持ちは忘れた事はないかと拝察しております。

 なお、生長の家の講師でありながら、野心を起こして別派を建てたり、間違った
言動をする人は何人もおられました。再三注意しても言動が改まらない場合は、
信徒に迷惑をかけないために破門されました。
 戦前、既にそのような人がいました。が、それを信徒に公告する「明窓浄机」の
谷口雅春先生の御文章は悲しみに満ちていました。

 生長の家に限りませんが、仏教でも、「智慧と愛の十字」と言います。
誰かが間違いをした時は、「智慧」という観点から、厳しい態度を取る事は必要
ですが、同時に「愛」も大切です。(河田亮太郎先生の「ほとばしる生命」をお持ち
の方は、谷口雅春先生と河田先生の会話をご覧下さい。)
 そして、谷口雅春先生は、どんな相手でも「愛」を忘れた時はなかったと思います。

質問1、雅春先生は、雅宣先生を愛しておられないんでしょうか?
    お孫さんとしてではなくて、一人の神の子として、愛しておられないんでしょうか?

というご質問については、以上から忖度してくだされば、幸いです。

合掌 ありがとうございます

207a hope:2011/09/16(金) 23:50:03 ID:MNrNIsM2

トキさま

さっそくのお返事ありがとうございました。
トキさまの文章を読んでいると、雅春先生のお人柄がとてもよく伝わってきます。
そして、生長の家の教えを学びながらも、「野心を起こして別派を建てたり、間違った
言動をする人は何人もおられた」、という事実には少々驚かされました。
そして、そのことを雅春先生は、とても悲しまれていたようですね。
わたしは、雅春先生に不可能はないのだと思っていました。
雅春先生が祈れば、すべてが解決するものだと思っていたので、
そこのところは、少し意外でした。

ところで、生長の家の愛についても丁寧にお応えいただいているのですが、
これについては、他の方々の意見をもっとうかがってみたいです。

よろしくお願いします。

208復興G:2011/09/17(土) 21:57:51 ID:yhDBe2kY

>>205 :a hope様

質問1、雅春先生は、雅宣先生を愛しておられないんでしょうか?
 お孫さんとしてではなくて、一人の神の子として、愛しておられないんでしょうか?

──2日間、所用で旅に出かけていて、お答えが遅くなりました。お答えします。(明日もまた出かけます)

 谷口雅春先生は、晩年に(昭和55年2月29日)、「全国代表者会議」の御結語で、「皆さんが谷口雅春である」とお話になったことを思い出します。

  ──────────────
 こんなに大勢生長の家の代表者が集まっていらっしやる。そしてみんな若々しい、元気溌溂たる姿で真理の伝道の抱負をお話しになるのを承りまして、私は「若さというものはいいなあ、私もあんなに若くなりたいなあ」と思ったんです。そう思ったけれども実は、その私というのは皆さんの生命の中に、みんなに私はいるのであって、皆さんが谷口雅春である、というのを感じたのであります(拍手)。そうすると「私もまだ若いなあ」と思うんです(拍手)。僕の跡継ぎの副総裁先生、還暦を少し前に経験したというので、僕からみればまだ元気溌溂たるものでありますけれども、僕の歩く姿はよぼよぼとしていて、自分ながら愛想がつきる感じがするのであります。けれども、この自分ながら愛想のつきる肉体は私ではない、ということを感じるんです。皆さんが私である。真理を元気溌溂と伝道していらっしやる皆さんが谷口雅春で……(後略)
  ──────────────

 とお話になった。これは、『生長の火をかざして』という谷口雅春先生追悼のグラフにも載っているお言葉ですが、私はその場にいて直接お聞きしました。たいへんな感銘をうけました。

 谷口雅春先生は、「自分というものはない。皆さんが自分である」と、お感じになっているんです。
 一信徒のことですらそうなのです。
 いわんや、御自身の後継者となられるお孫様においておや、であります。

「神は愛なり」とは、「神は全てを御自身として見給う」ということだと、お教え頂いています。谷口雅春先生は、まさにすべてを御自身として見給うているのです。
 そのような愛をもって、今も雅春先生は雅宣総裁を見守ってい給うと私は信じます。

209復興G:2011/09/18(日) 04:37:28 ID:yhDBe2kY
(208のつづきです)

谷口雅春先生は、総裁谷口雅宣先生はもちろんのことですが、総裁だけではない。すべての信徒、いやすべての人類、生類、山川草木国土すべて、みんな自分であると見給うている、というのが本当でしょう。

では、それなのになぜ、総裁派(擁護派)と追放派と対立し、争っているのか? という疑問が生じるかも知れませんね。

それ(対立)は、「無い」のです。

「実相独在」ということは、神しかない、調和しかないということです。

たとい現象界から見たお月さんが三日月に見えたり雲にかくれて見えなかったりするときも、ほんもののお月さんはまん円であるように、すでに円満完全大調和しかないのです。「宇宙(くに)静かなり」なのであります。

擁護派もなければ追放派もない。大調和の神以外は「無」である、ということなのです。

ですから、前に書きました、昭和55年(1980年)「生長の家全国代表者会議」での谷口雅春先生御結語のつづきには、次のようにおっしゃったいます(グラフ『生長の火をかざして』より)。

  ──────────────
……生長の家の一大宣言──“現象なし”“実相独在”“真理のみ独在する”という、この大思想に人類の大部分が置き換ってしまうことによって初めて人類は、一九九九年に亡びる筈が、亡びないで助かる。まだ十九年間ある。その間に皆さんがこの真理をずーっと広めて行くことだ。それが本当の救世主、皆さんが救世主なんだ。僕一人が叫んでみても仕方がない。皆さんが谷口雅春で、皆さんが救世主で、そして人類を滅亡から救う役割をもっておられるのが皆さんである。
 「自分が真理の伝道の旗頭として、神様から選ばれているところの素晴しい役割をもっているんだ。そういう使命を戴いているんだ。全世界にこの生長の家の“現象なし”“実相のみある”という、この大真理を宣伝して行くんだ。自分は神から選ばれた天使である。人類の滅亡を救うために生長の家の教え、真理を聴くことが出米たんだ」
 という大使命を、それを改めて自覚し直して、尚一層勇気と明智、そして無限の愛とをもって、人類を救って戴くことを希望しまして最後の結語と致します。
  ──────────────

 上記、「一九九九年に亡びる筈が、亡びないで助かる。まだ十九年間ある」って、何? と思われるでしょう。
それは、その頃『ノストラダムスの大予言』という後藤勉さんとかいう人の書いた本がベストセラーになって、話題になっていた。それによると、1999年に神の最後の審判として天変地変が起こって人類が滅亡するという。そんなことを生長の家では信じないが、方便説法として、谷口雅春先生は上記のように説かれたのです。

自分の心が「現象あり」と見て動揺していると、池に波が立てば水面に映ったお月さんは動揺してちりぢりに砕けて見えるかも知れないけど、本当はそんなものは無いのです。完全円満大調和しかないのです。

 私はそれだけを観て、感謝し、よろこんで、
「住吉大神宇宙を浄め終わりて天照大御神顕(あ)れましぬ。天照らす祖神(みおや)の神の大調和(みすまる)の生命射照らし宇宙(くに)静かなり」
と唱え、念じてまいります。

210復興G:2011/09/18(日) 07:40:20 ID:yhDBe2kY
 今日は午前中、『真理』の勉強会をします。(午後からは旅に出ます)
 『真理』の勉強会のテキストは第10巻第6章なのですが、その最後のところにこうありました。

  ──────────────
  「悪」の存在は幻に過ぎない
 すべての人間は神の子であるから、悪人も悪行も、決して実在するのではない。彼が悪を犯したと見えるならば、彼が悪いのではない。それは人類意識の迷妄によって、謂わば人類意識から幻術をかけられて、幻術によって無い「悪」をあるかの如く見せられているに過ぎないのである。「彼が悪と見える」ことは「非実在である、幻である」として否定せよ。やがて必ず彼は実相の完全な姿をあらわす。必ず必ず、何処にも「悪」は実在しないこと、「病い」は存在しないこと、「罪人」は実在しないことを心の中に強調せよ。光明思想の生活とは斯くの如きものである。もしあなたが「悪」をみとめ、「罪人」をみとめ、「病い」をみとめるならば、あなたは、少くとも其時だけは、光明思想のレヴェルから墜落したのである。やがて凡ての悪が終る除夜の鐘が鳴るであろう。その鐘の音と共に一切の悪があると云う迷妄を追放せよ。人を憎むと云う煩悩を追放せよ。(『新版真理』第10巻162ページ)
  ──────────────

 今の私たちのために書かれているように感じました。
 ありがとうございます。

211a hope:2011/09/18(日) 14:40:23 ID:MNrNIsM2

復興Gさま

お返事をありがとうございます。

わたしは、復興Gさまを尊敬させていただいているので、
復興Gさまのおっしゃることには、すべてうなずきたくなる衝動に駆られます。


ですが、今わたしがそれをしてしまっては、何にもなりませんよね(笑)

わたしは、一人でも多くのみなさまの意見を聞きたいのです。

わたしの質問は、「雅春先生は、雅宣先生を愛しているか、いないか」というとても、
シンプルな質問です。

YES かNOだけの、お答えで十分ですから、ひとりでも多くの方にお答えいただきたいです。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

212a hope:2011/09/20(火) 18:47:57 ID:MNrNIsM2
みなさまからのお返事をいくら待っても、いただけないので(笑)、話を進めたいと思います。
あらためて、トキさま、そして復興Gさまお返事をありがとうございました。
それから、女子会板で、かびばらさまや初心者さま、さくらさまなどからもとても貴重なご意見をいただきました。
ありがとうございました。

みなさまのお返事を読ませていただいて、わたしはますます、「雅春先生は雅宣先生を愛していらっしゃる!」という確信を深めることができました。
(ですが、今、ここでは、ここにお返事をくださった方のご意見だけを、取り上げて考えさせていただきますね。)
トキさまのおっしゃる、生長の家の愛の定義(?)『「愛」とは「自他一体の自覚である」』ということと、
復興Gさまが、おっしゃっている、「皆さんが谷口雅春である」というのは、同じことのような気がしました。

生長の家の愛が、「自他一体の愛の自覚」であり、わたしたちみなが、「谷口雅春先生である」ならば、
生長の家の教えを愛する者ならだれでも、雅宣先生を愛しているはずですよね。
だって、雅春先生がそう、おっしゃっているんですから。

それでも、「愛せない」のは、その方が、谷口雅春先生を愛していないか、
もしくは谷口先生がおっしゃっていることを、全然理解されていないか、どちらかということになりますよね。

それに、自分がどんなに、ひどい仕打ちを受けたとしても、それを乗り越えて相手を赦し、相手を愛するのが、
生長の家の教えなんだと、わたしは理解しています。

次に、トキさまのおっしゃっている、「智慧のない愛は、愛ではない」と、「峻厳な愛」なんですが、
>、ある場面では、教えを護る為に、一見すると厳しい態度を取られる方でした。それは、公務という場面では、
いい加減な事をすると、多くの人に迷惑をかけるので、きびしい態度を取る事が必要だったからです。
>ですから信徒には優しい谷口雅春先生でしたが、本部の職員が間違いをした時には容赦なくお叱りになられたようです。
が、それでも、その人を放逐するようなマネはなかったとも聞いています。
現象として、弟子が間違いをした時には厳しかったとしても、基本的には神の子として拝み愛する気持ちは忘れた事はないかと拝察しております。

これのことではないかと思いました。
雅春先生は、『多くの人に迷惑がかかるようなときには容赦なく叱られた、』でも、その人を、『放逐するようなマネはなかった』んですよね。

復興Gさまのお話は、その後、「実相独在」や、「大調和」、「悪」の存在と続いていますが、わたしは、ここで、もう一度、お話を女子会板での、
うのはなさまとの対話に戻させて、いただき、あらためて、質問させていただきます。

質問2、もし、雅春先生が、本流で雅春先生の教えを守ろうとがんばっている先輩方を愛しておられるのと同じくらい、雅宣先生のことも愛しておられたら、
それでも、先輩方は愛なき批判を続けられますか?

この、掲示板は、本流宣言の先輩方も、見ていただけていると確信しています。
ぜひ、ご意見を聞かせてください。破邪顕正さま、蒼穹さま、コスモスさま、葵新吾さま、山ちゃん1952さま、光の泉さま、オズの魔法使いさま、その他、
わたしの今までの失礼な質問やお願いに心をこめて答えてくださった、たくさんのわたしの尊敬する先輩方、どうか、お返事をください。


また、女子会板では、良子さま(義春さま?)が

>うのはな様の仰る様に、愛の逆が否定ではないと思います。愛の逆は無視ですよ。
今の青少年のいじめはシカト(=無視)らしいですが、なんとも寂しいものです。
私の子供の頃は殴られたりでしたから、今と比べると温かいものでした…。
と、いうご意見を下さっています。

ぜひ、ここで、良子さまのご意見も聞かせていただきたいです。
わたしは、本流宣言の先輩方が、「生長の家の愛」を忘れることなく、雅宣先生をご批判されていると信じています。

どうぞ、よろしくお願いいたします。

213a hope:2011/09/20(火) 19:10:09 ID:MNrNIsM2

すみません。
訂正です。

上から11行目、「自他一体の愛の自覚」→「「自他一体の自覚」

よろしくお願いします。

214神の子さん:2011/09/20(火) 19:39:04 ID:???
裁判に愛が無いという根拠は何でしょうか。

愛するゆえに気がついて欲しいという愛もあるかもしれませんよ。

215a hope:2011/09/20(火) 19:49:18 ID:MNrNIsM2
神の子さま

お返事ありがとうございます。

生長の家の教えとは、裁判で裁かれるようなものなのでしょうか?

愛するゆえに気がついて欲しいという愛もあると思いますが、そ
れと裁判と何か関係あるのですか?

すみません、もう少し、詳しく説明してください。

216神の子さん:2011/09/20(火) 20:18:11 ID:gWnzZ.Zk
質問2は、いわゆる本流復活派の方々へ向けられた質問だと思います。
が、私も少し考えてもよいかと感じております。

 少し前に後藤清一さんが松下幸之助から叱られた話を別のスレッドに書きました
が、叱る場合でも、どこかに相手への思いやりとか愛情とかがないと、索漠とした
世界になってしまいます。これ、私もついつい忘れがちなんですね。

 ただ、組織の幹部とか職員とかの立場になると、一般の信徒さんよりも本部と関る
ことが多くなります。また、みんな、たいへんな状況の下で運動をしているので、
本部がいい加減な指導をすると、率直に言って、憤激もします。特に、谷口雅宣先生
の指導には納得ができない人は多いですし、みんな運動には真剣に取り組んでいるので
この状態に憤りを感じるのは、普通のことです。
 しかし、本流復活の運動とは、正しい生長の家の信仰に戻ることだと思っています。
その視点で言うのなら、生長の家の視点から、解決に向けて努力することが大事だと
思っています。

 私は、「和解」というのが、正しい答えだと思っています。ですから、総裁も
本流復活派の先輩方も、尊敬し、愛しております。その視点から、発言や批判を
することが大事だと考えています。

 以上、ご参考まで。

217神の子さん:2011/09/20(火) 20:18:50 ID:gWnzZ.Zk
>>216

失礼をしました。トキです。

218神の子さん:2011/09/20(火) 21:15:04 ID:???
a hope さん、突然書き込んでしまって申し訳ありません。

教えを裁く裁判所などありません。

裁判所は「行為」について法に照らして正しいかどうかを判断する場所です。
特に今回の場合は、著作権に対する双方の考え方の相違が争点であって教えの
内容や布教のあり方を争っているわけではありません。そんなことは裁判所は
無関係ですから。
 ですから「生長の家」が裁判されているのではなく、それを運営する行為者の
判断が(著作権に関して)正しいかどうかと云うことです。

 教団内でどんなに偉い人でも、法の元ではただの人です。団体も同じです。
教団内の論理が法律に照らして正しいかどうかは、トラブルがあったときには
当然第三者をたてて和解するか、争うかを判断し解決します。今回は争うことになり
残念なことですが、裁判の判決は出直して考え直す良いチャンスですので
裁判=悪いこと  ではありません。
 これをきっかけに良い方向に向かうことを願うのも、愛の表現と云うことです。

 和解をするという事は最善とも思われますが、双方の考えが違っていれば
「妥協」によって表向きの和解となりますが、争いのタネは残ります。
長い目で見れば、裁判所に判断をゆだねて、その結果によってそこから和解の
道を探すほうが良いこともあるのかもしれません。
 それから・・・これが本題だと思いますが
「雅春先生は雅宣さんを愛しておられたか」ということは当然イエスです。
ただし、行為ではなく本質を愛されていると思います。
「雅春先生は雅宣さんも愛しておられるし本部も社会事業団も宮澤さんも貴康さんも
みんな愛されています」この原点に気がついて本当の和解が出来る日を信じましょう。

 わたしはその第一歩は「雅宣さんが雅春先生を愛しきれるか」だと思っています。
これが出来れば、すべては解決するとまで思っています。

219神の子さん:2011/09/20(火) 21:28:36 ID:???
ことばを補足しますね。

雅宣さんが雅春先生を愛しきれるか・・・ということですが
「雅春先生の御いのちが我がいのちに流れいり一体となって正しき道を進む」
というご自覚が出来るかどうかです。
「わたしと雅春先生は違うのです」など決して放言してはいけないのです。

220a hope:2011/09/20(火) 22:52:17 ID:MNrNIsM2

神の子さま

詳しい説明、
ありがとうございます。

>特に今回の場合は、著作権に対する双方の考え方の相違が争点であって教えの
内容や布教のあり方を争っているわけではありません。そんなことは裁判所は
無関係ですから。
ですから「生長の家」が裁判されているのではなく、それを運営する行為者の
判断が(著作権に関して)正しいかどうかと云うことです。

神の子さまは、11月30日の裁判のことをおっしゃっていたのですね。
わたしは、そのことに関しては、あまり詳しく知らないので、なんともいえないのですが、

神の子さまが、おっしゃるように、

>裁判の判決は出直して考え直す良いチャンスですので
裁判=悪いこと  ではありません。
これをきっかけに良い方向に向かうことを願うのも、愛の表現と云うことです。

裁判の結果が、教団も、本流もいいほうに向かうのであれば、それはそれでいいことだと思います。


>「雅春先生は雅宣さんを愛しておられたか」ということは当然イエスです。
ただし、行為ではなく本質を愛されていると思います。
「雅春先生は雅宣さんも愛しておられるし本部も社会事業団も宮澤さんも貴康さんも
みんな愛されています」この原点に気がついて本当の和解が出来る日を信じましょう

このように、はっきりとお返事をいただくと、わたしは、とてもうれしいです!

神の子さまは、本流の先輩なのでしょうか...
だとしたら、もっと嬉しいです。

ありがとうございました。

221a hope:2011/09/20(火) 23:10:07 ID:MNrNIsM2

トキさま

今回、トキさまが、生長の家の愛について、詳しくご説明してくれたおかげで、
わたしは、自分のなかで考えをまとめることができました。
本当にありがとうございました。


教団に残ると決意された、トキさまのお立場がどれだけ大変なのもか何となくわかります。

でも、

>本部がいい加減な指導をすると、率直に言って、憤激もします。

とか、

>特に、谷口雅宣先生の指導には納得ができない人は多いですし、みんな運動には真剣に取り組んでいるので
この状態に憤りを感じるのは、普通のことです。

とか、

生長の家の教えに触れて、まだ数年の新入生のわたしに、そのような愚痴をこぼされると、
ますます、教団離れしてしまいますよ(笑)

でも、

>私は、「和解」というのが、正しい答えだと思っています。ですから、総裁も
本流復活派の先輩方も、尊敬し、愛しております。その視点から、発言や批判を
することが大事だと考えています。

という、トキさまの言葉をきいて、さすが、トキさまだと、あらためて尊敬させていただきました。

これからも、よろしくお願いいたします。

222義春:2011/09/21(水) 01:01:33 ID:iu5Ar./Q
a hope様
 遅くなりましたが、お答えしますね。
・・・一つ、私の話をいたします。
色々誤解や批判や非難は覚悟の上でお話いたします。
まぁ…もう、そういったものに慣れてしまってもいるのですが…。

 私は去年の今頃、癌に倒れ、手術をすることになりました。
生きるか死ぬか…まぁ…私は一度死した身で、こう生かされているから、
特に寿命自体を気にすることも無いのですが、さすがに周りの人達のことを
考えるとそうもいかなくて、腹を切る覚悟を決めました。

 それで、父親に病状を報せた手紙を送ったのです。
最初の癌の時に酷い仕打ちを受けたとは言え、お父さんには変わりないです。
だからと…思って。

 やはり何も返事は無かったですね。
分かっていたとは言え、悲しかったです。
今も書きながら涙が出てきますね…ほんと、もう分かっているのに…。
たぶん、父の中では、私という存在が無いのかもしれません…。
シカトされる事こそが愛が無いといったのは…そんな事を思ってのことです。

 ですが、私はそれを恨みには思いません。
そして、今でも戸惑いはありますが、やっぱり父の事は恨めない。
恨めないのですよ。恨めたら、、どれだけ楽か分かりません。
だから、あの苦しさや悲しみは…全て、我が責、そう思っております。
それだから、親父の事を、自分なりに感謝し、何も出来なくても、
平穏に長生きして幸せであるように、先祖に祈っています。
たぶん、親父の事を愛する気持ちがあるんだろうと思います…たぶん。

 翻って雅春先生が雅宣先生を愛されていたかとなると…
自分の経験からすれば、勿論、愛されていると思います。
ただ、私は当事者ではありませんので愛し方はどうかは存じ上げません…。
でも、トキ様や神の子様の仰る様に、雅春先生は皆を愛されていたと思います。
その雅春先生の愛された方々が争うのは、自分の人生がオーバーラップして
本当に辛い気持ちであります。

 だから、素朴に和解していただけたらなぁ…と思うのです。
なんか見苦しい話をお聞かせして、申し訳ありません。
これが、私の思う事なのです。

223a hope:2011/09/21(水) 09:53:17 ID:MNrNIsM2

義春さま

直接、義春さまとお話をするのは、これが初めてなのかもしれませんね。

わたしは、今まで、あなたさまの体験談を色々お聞きしてきて、わたしがあなたさまと関わることで、
あなたさまの辛い心情を、直接自分が受けてしまうことが、怖くて、今まで、お返事ができなかったのです。
決して、無視をしていたのではないのですよ。
義春さまのことは、とても気になっていました。(変な意味ではないので、ご安心を...)


でも、今わたしは真剣に「生長の家の愛」とは何かを理解しようとしています。

そのうえで、義春さまにお返事させていただきます。

お父様は、決して義春さまに、酷い仕打ちもしていなければ、無視もしていないですよ。
だって、人間は一人残らず、神の子ですから、神の子が神の子に、酷い仕打ちができるわけないですよね?
神の子が神の子を無視できるわけないですよね?

現象には、酷い現実は、確かにあらわれているように感じます。
でも、それだって、きっと、義春さまに何かを気付かせて、さらに、
義春さまの魂を向上させてくれようとしている、お父様(神さま)からの愛なのではないかと思います。

わたしは、お父様は、義春さまのことを愛していらっしゃると思いますよ。
義春さまが、お父様のことを、心から愛することができるようになれば、きっと、
現象にもあらわれてくるのではないでしょうか?

だって、生長の家の愛は「自他一体の自覚」ですからね!

義春さまは、わたしよりお若いですが、生長の家の大先輩です。
後輩のわたしが、このようなことを言うのは、とても失礼なことだと思いますが、
ごめんなさい、でも、今、わたしには、何かがのりうつっているようなので(笑)
、そのつもりで聞いていただけたらありがたいです。 合掌。

224義春:2011/09/21(水) 10:15:22 ID:iu5Ar./Q
>>223
a hope様
 有り難う御座います。私も同じように思っています。
私はあんまり何も考えていないので、お気にされないで下さい。

 父のお陰で大概の事は、笑って受け流せるようになりました。
だから、それほどひっかかりは持っていないのです。
まぁ…友人が「過去とは過ちは去ったと書いて過去なんだよ」と、
言っておりますが、私も、現象として現れたのだから、それで良し、
と思っております。
それでも昔を思って涙を流すのは心の奥底で辛い気持ちが、
未だ残っているのでしょう。まだまだ、鍛錬・精進致さねばなりませんね。


 ただ・・・母が、毎日の様に父の悪口を言うのは、少し閉口しています。
気持ちは痛い程に分かるのです。だから、黙って聴く事が多いのですが、
耐えられない時は、
「それでも俺は親父の子だから・・・一寸今日は辛い、ごめんね」
って言って、自室に篭る事があります。

 なんにしても「人生は学校である」という清超先生のお言葉が
心に染みる今日この頃です。
a hope様の御言葉をシッカリ受け止めて精進いたします。
宜しくお願い申し上げます。

義春拝

225a hope:2011/09/21(水) 22:50:53 ID:MNrNIsM2

義春さま

義春さまは、お母様想いなのですね。


わたしも思い出したのですが、子どもの頃、
よく母が、祖母(父の母)の悪口をわたしに言っていました。

そして、祖母は、母の悪口をわたしに言っていました。

まあ、嫁と姑の問題なんですが、まだ、小学生のわたしに愚痴るんですよ!
ほんとに、いやでしたね。
だって、わたしにとったら、どちらも大切な人でしたから...

祖母は、近所の人の悪口なんかも平気で言ってました。
面倒見の良い、とても、親切な祖母でもあったんですが、
その分、自分のしたことに対しての、お礼やお返しがなかったりすると、
不満に思ってしまっていたようです。


でも、そんな二人から、わたしは学んだんです。

わたしは自分の子どもの前では、絶対、人の悪口は言わないようにしよう!
人に親切にするときは、見返りを求めないようにしよう!

なんてことをです(笑)。

やっぱり、その気になれば、どんなことからも学べますね!

義春さま、こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

226a hope:2011/09/21(水) 23:19:04 ID:MNrNIsM2

神の子さま

神の子さまは、わたしへのお返事の捕捉で、

>雅宣さんが雅春先生を愛しきれるか・・・ということですが
「雅春先生の御いのちが我がいのちに流れいり一体となって正しき道を進む」
というご自覚が出来るかどうかです。
「わたしと雅春先生は違うのです」など決して放言してはいけないのです

と、言っておられますが、すみません、昨日は、神の子さまのこの発言まで、
ゆっくり考える余裕がありませんでした。

本当に、そうですよね。
わたしも、雅春先生が、神さまから霊感を受けて書かれた、
「生命の實相」の教えを学びたくて入信しました。

わたしも、雅宣先生が一日も早く、雅春先生の深い愛に気づいてくださり、
雅宣先生も、わたしたち生長の家の教えを愛する者たちすべてを、
雅春先生のように深く愛して下さるといいな。と思っています。

また、書き込み、よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。




ここで、もう一度、質問させていただきます。

わたしは、本流宣言の先輩方だけではなく、
どなたでも、トキさまのように、お返事をいただけたら嬉しいです。


質問2、もし、雅春先生が、本流で雅春先生の教えを守ろうとがんばっている先輩方を愛しておられるのと同じくらい、
雅宣先生のことも愛しておられたら、それでも、先輩方は愛なき批判を続けられますか?

この質問にどうそ、お返事をよろしくお願いいたします。

227トキ:2011/09/22(木) 09:43:25 ID:DVizAEi.
a hopeさまより、ご質問がでております。 
  
えー、ごらんになられた方々のご投稿をお願いいたします。

228神の子さん:2011/09/22(木) 10:00:06 ID:???
・・・えーーっと
「愛無き批判・・」という意味が判らないのですが・・・

 たとえば、どんな批判が愛無き批判なんでしょうか。

最も冷たい愛の無い行為は「無視」だと思います。
「そこが間違っていますよ」と指摘することは愛の無いことなのでしょうか。
自他一体の思いがあるからこそ、直してもらいたいのではないですか。

229a hope:2011/09/22(木) 11:28:50 ID:MNrNIsM2

神の子さま

>最も冷たい愛の無い行為は「無視」だと思います。
「そこが間違っていますよ」と指摘することは愛の無いことなのでしょうか。
自他一体の思いがあるからこそ、直してもらいたいのではないですか。


わたしは、そう思って、そう信じているんです。

でも、以前、本流宣言の掲示板で、わたしは、そのことについて、
何度も先輩方に質問しているのですが、はっきりとしてお返事がいただけなかったものですから、
こうして、また、質問させていただいているんです。

生長の家の教えを、谷口雅春先生の教えを、竹筒から水を流すように伝えていただくのなら、
わたしは、先輩方からは、まず、第一に、生長の家の愛を伝えていただきたいのです。


だって、神=愛 ですよね?
谷口雅春先生=愛 ですよね?

先輩方、違いますか?

230さくら:2011/09/22(木) 11:39:36 ID:6tmMyXBA
a hopeさま

はじめに。ここに書いて、答えるつもりが私にはある、というわけではなく、すみません。答えることは私にはできませんので。
でも、つらつら私の言葉で考えを述べさせていただくことをお許しください。

私は、愛という問題は、大変個人的な、問題でもあると思っています。これが、公人であっても、そうだとも思います。
何に対して、愛を感じているのか、誰に対して、愛を感じているのか、そのことは各人の心の核心の部分にあると思うのですよね。経験や、受けてきた影響、置かれた環境、立場によっても違ってくると思います。
しかし、同時に、この部分は、普遍的でありますよね。それは、人間が深遠なところで繋がっていて、それも、この愛という核心の部分が、それを繋げいる、とも言えるかもしれません。a hopeさまは、そのところを聞きたい、確かめたいのだと思いますが、そうでしょうか。

真理によって人は救われると言いますが、
私は、人は、愛によってしか救われない、と、これは、固く信じているところがあるのですよね。

例えば、伝道するということにおいても、雅春先生のお言葉はすでに愛に満ちていて、そのままをお伝えすればよいのですが、やはり、伝える側に、本当に、この人が幸せであってほしい、救われてほしい、と愛の気持ちがあるならば、愛のない正論よりも、稚拙でもその思いの方が、救われることがあると、思っています。

私はそうでした、心が自分ではぼろぼろに感じていたときだったので、余計に、生長の家には、帰ってきた、と思うような懐かしい愛がありましたので、ここに私は救われた部分は、ありました。
大きな愛だったのですよね、私は存在していいんだ、と思えたのですよね。

愛を受けたので、私は、「自立」、という言葉が自分の中に出てきたのだと思います。
愛を受けたものから、「自立」することが、その愛に報いることではないかとも思っているところがあります。
親の愛を受けたら、自立し、自分の家庭をもち、子供を愛する。それは、親から言われた一言一句を、子供に伝えることではないですよね、自分が育った家庭の規則を徹底して守ることではないですよね。
これはa hopeさまが先輩ですので、私の方が教えていただくことですけど、笑。
自分なりに悩んだり、苦しんだり、そうしながら、愛して育てていく、その時に、さらに自分がこんな目線で、いろんな愛を受けていたんだ、と改めて思ったり・・。そんなことを思うのですが、どうなのでしょうか・。

雅春先生だって、愛には大変悩み多き人生を歩まれてこられていますよね、自伝を読ませていただくと。現象界に生きていれば、個人的に、いろんな感情は持つものですよね、きっと。

雅春先生は、すべてを否定されて否定されて、神まで否定されて、その時に、否定しきれないものを、悟られたのでしたね。
雅春先生の魂には、なんの比べようもないのですけど、そう思うと、否定することも恐れなくてよい、とも、思えるのですよね、恐れからでなく、否定して否定して、それでも、残るものが残る、ということも、それもあるのかな、と思うところがあります。

なんのまとまりもなくすみません。
愛について、自分と向き合った言葉は、まだまだ拙くて、これからもっと学びたいな、笑。

231初心者:2011/09/22(木) 14:37:44 ID:4IaAZAME
a hope様

お久しぶりでございます。書き込みが遅くなってしまいました。
「愛」についてのおたずねですね。わたくしがもっとも苦手とするテーマといってよいかと
存じます。

まず、関係のない話になりますが、 a hope様は、本流の方々を敬愛しているとおっしゃって
おられますが、この感覚が、わたくしには理解しかねております。本流の方々がやっておられ
ることは、人としてなしてはならないことなのですね。他者を批判しておきながら、自分たち
への批判は、いっさい封じておられますね。他者の批判はするが、自分たちの批判はさせない。
こういったことをやっておられるわけです。

これは人としてなしてはならないことであると、わたくしは考えます。他者を批判するので
あれば、いかなる理由があろうとも、批判は受けるべきであります。批判されたくないので
あれば、他者への批判はつつしむべきであります。一方的に批判するということは、これは
いってみれば、一般市民を、武器を持たない人々を、一方的に殺戮しようとする行為に等しい
ものであると、わたくしは考えます。

このような行為を平然と続けてらっしゃる方々を、 a hope様は敬愛しておられるかのように
述べておられます。こうした感覚に、わたくしは疑問を呈してみたいところなのであります。

愛については、生長の家では「自他一体」という言葉で説明されることが多いかと存じます。
自他一体感は、それはともすれば、自分と他者とを同一視するようなことにつながるような
気がいたします。何を同一視するのかといえば、それはおそらく、理想の自己像であるかと
思います。あるべき自分の姿を他者に映し出してみる。これが自他一体の感覚ではないでしょうか。

こうした自他一体感の問題点はふたつほど考えられると思います。ひとつは、自他一体である
はずの他者をコントロールできると錯覚することです。他者は、自分の思いどおりになる。
あるいは、自他一体であるはずの他者を思いどおりにしたい。こうした錯覚や欲望が避け
がたく出てきてしまうという問題点があるような気がします。

あとひとつの問題点は、他者とのこまかな違いが気になるということです。自他一体である
はずの他者が、自分と異なっているのは許せない。自分と他者とのささいな違いが気になって
仕方がない。こうした感覚もまた避けがたく生じてしまうのではないか、という気がいたします。

思いどおりになるはずの他者が思いどおりにならない。一体であるはずの他者が、自分とは
どうしようもなく異なっている。しかもその他者とは、理想の自己像を映し出すべき他者で
なければならないのですね。

こうした状況に、人は耐えられるはずがありませんね。思うようにならない相手を、ついには
許せなくなり、憎しみをさえいだくようにさえなるはずですね。これが近親憎悪と呼ばれる
現象だろうと思います。一体感を強く感じれば感じるほど、憎悪の感覚がそれに比例して
大きくなる。これが近親憎悪の感覚だろうと思います。

本流の方々は、おそらく自他一体という意味で、総裁先生を愛しておられことでありましょう。
それがゆえに、思いどおりにならないこと、自分とはあまりにも異なっていることに、抑えきれ
ない憎悪の感情をいだいてしまうのではないでしょうか。

生長の家が説くべき愛とは、近親憎悪の危険性をうちにはらんだ自他一体の愛ではなく、
さくらちゃんがいっているような「放つ愛」でなければならないと考えます。自他一体とは
錯覚ですね。こうした錯覚を捨て去るのが「放つ愛」なのではないでしょうか。愛という
テーマは苦手でありますが、このようなことを考えてしまいます。

232さくら:2011/09/22(木) 18:15:46 ID:6tmMyXBA
さくらちゃんの「放つ愛」について、触れていただいて、ありがとうございます、笑。

この機会だから、私もお願いしてしまおうかしら・・、
トキ様。

まだまだ、a hopeさまのテーマは続くと思いますが、
順番待ちで誰の後でも良いので、この「放つ愛」のテーマで、トークはできますか?

条件など言っては生意気なのですが、生長の家の聖典の言葉や祈りなどの
言葉でなく、皆さまの体験や実感のお言葉でお聞きできれば、私には大変有り難く勉強になるのですが、
「放つ愛」について、皆さまが考えていらっしゃることを、テーマにお願いできないでしょうか?

後は、もうひとつは、信仰と、「宗教組織」というものの関係について、
学びたいのですが、これは、私の疑問の段階で、複雑なことだと思うので、
いつかは、学びの機会を与えていただけたら・・などとも思います。

まだ、a hopeさまのテーマの途中で失礼しました。

233トキ:2011/09/22(木) 19:15:43 ID:DVizAEi.
>>232

さくら様

 了解しました。では、次の順番でお願いします。すばらしい内容になると
思います。期待しております。

234<削除>:<削除>
<削除>

235義春:2011/09/22(木) 19:49:50 ID:SjZg29/2
>>232
さくら様
横レス失礼します。
まぁ…今はa hope様がスティックを握ってらっしゃるので、
a hope様の話が終わるまで、一先ずお待ちになられた方が、ここのルールとして合ってると想うのですが…。

236トキ:2011/09/22(木) 19:53:51 ID:DVizAEi.
>>235

了解しました。失礼をしました。

さくら様、申し訳ありませんでした。a hope様がスティックを司会に返す
際まで、今しばらく、お待ち下さい。

237トキ:2011/09/22(木) 19:55:30 ID:DVizAEi.
>>234

 今の段階で書くのは不適切かと思いますので、よそのスレッドで改めて
投稿することにしますので、一度、削除します。


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