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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

956さくら:2012/03/29(木) 18:11:18 ID:tPVxKQcE
初心者様

ありがとうございます。

とりあえず、ここでは言葉の厳密な定義をさだめたい、と言うよりも、
実際の活動においての実際の感覚において、の話になると、ご理解いただいたようで、
ありがとうございます。
真理、救済、信仰、・・これは宗教を分類的に考えるということに目的があるのではなく、何が起きてるのか、そのことを知るための取っかかりとなることに重点を置きました。

例えば、救済とのことばを使っておりますが、
これは、宗教的な、「魂の救済」、と言われるものと区別いたしました。
これは、生長の家では、神の子としての自覚に目覚めること、
それを人々にお伝えすることとなると思います。
しかし、この場合の魂の救済は、「目的」や「手段」や「結果を求める」
という種類のものではないことです。
それは結果的に起こりうることは、たくさんございますが、
それを始めから目的にしたり、求める種のものではないとの認識です。
人を神の子として拝む、その一点において、その方の神性が顕れる、
そこには、祈りがあり、神性を信じる力があり、また奇跡のようなことがあるかも知れません。
これは、「信仰」の力であり、ここに自分の都合のよい結果を求めたり、
人の実相が顕れることに期待を求めたり、なにかの手段にしたり、
そのようなことを本来超えた世界であると思っています。

しかし、実際運動の展開には、目的があります。
心は信仰心に基づいていながら、手段を考え、結果も分析しなければなりません。
この点は宗教団体の活動において、いろいろ認識の違いで問題が起こっていると思っています。
こうした運動を、救済、としておいて問題にしたい、そのように理解していただけたと思っております。


>真理の追究とは、「真理を欲望することを欲望すること」といえるのではないで
しょうか。おなじ観点から、救済とは、「真理を欲望しないことを欲望すること」で
あり、信仰とは、「真理によって欲望されたいと欲望すること」であるといえる気が
いたします。単純な図式ではありますが、このような理解から、スタートすることに
いたします。

欲望は、人間が生きている限りにおいては、切り離せない、
もっと言えば、これが生の本質そのものと言える、そういうこととしてとらえました。
欲望というのは、決して人間の心に満足を与えるものではない、
決して手に入れることができないもの、そのような性質のものということですね、
つまり、欲望は、欲望することを欲望するしかないもの、
たしかに、真理の性質はこのようなものであるかも知れません。
救済は、「欲望しないことを欲望すること」、
これは、信仰における運動はこのようなものであるべきだと思っていました。
世界を変えようとはしない、結果を求めようとはしない、そういうことが本来信仰による運動であると思っておりました。
しかし、実際に宗教団体で考えられているのは、結果が出れば、真理が顕れる。すると、真理を欲望しないですむ、そのことを求める、ということでしょうか。
だから、何を欲望しているのかを、明確にしなければならない。
これは分析や思索を必要とするものとするものである、そういうことになろうと思います。

信仰の「真理によって欲望されたいと欲望する」
まだ、このことの意味がつかめてはいませんが、

真理に近づいてきてほしいと願う、素朴で静かな欲望。
そのような表現として、受け取りました。

この観点から、また、考えます。

今は余り時間がありませんで、あまりかけずにすみません。


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