したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

951さくら:2012/03/29(木) 09:34:39 ID:tPVxKQcE
ごめんなさい、ちょっと、挨拶版に、おじゃましますね・・

初心者様

上の方になっていて、なかなかよく読む時間がありませんで、
返信遅くなり、申し訳ありませんでした。

>「結果がでているからそれは真理だ」
といった考え方にも見られるように、何を行為するか、何を思索するかではなく、
行為の結果なにが起きたか、思索の結果なにが起きたかによって真理と非真理を
判別しようとする立ち位置にある人々によって生長の家という宗教組織が構成
されているのは間違いないといってよさそうですね。

結果重視というのは組織の性質として、仕方ないと思いますが、
教えを組織化するという過程において、信仰と、真理と、救済が、その本分を生かし切れなくなる・・そのような思いを持っていました。
仰るように、結果が出ているから真理だ、結果が出るように信仰を深めよう、そのような傾向はなかったか、。
総裁は、組織においては、もっと踏み込んだ分析や思索を深めていくことをご指摘されていたように思います。
また、仰るように、救済運動は、信仰による運動であっても、宗教行事や、宗教的体験を求めるものと、あるところは切り離して考えるべき事があるように、感じています。

>「望まれる結果」というのは、奇跡的な出来事が起こるという劇的な結果では
なく、たとえば活動することによって真理の自覚が深まるとか、心境が高まるとか、
組織が調和に向かっていくとか、そうしたことでもあったかとおもうのですが、
実際には、数あつめの活動をいくらつづけたところで、こうした結果がちっとも
あらわれてこないばかりか、逆に組織が徐々に疲弊していくという結果しか得られ
なかった、というのが、かつての組織活動から得たわたくしの正直な感想であります。

信仰運動ということを考えると、思い浮かぶ話があります。
マザーテレサは、周りの人が、
「もっと効率よく、人を救ったらいかがですか?
組織化されて、人を救った方が、たくさん人を救えるではないですか?」
そのように言われたとき、
「組織化?効率?わたしは、そんなものを一度も考えたことがありません。
一人の人を助けたい、それだけです。
そして、余裕があれば、もう一人、となりの人を助けたい。それだけです。」
そう仰っていました。信仰運動の原点は、そのようなことにあると、
わたし自身は感じていました。

総裁が、「大海の一石」、と言われるように、運動も思いと同じ信仰の原点だと思っております。
しかし、実際の運動の展開で、それが現場で反映してるとは、言えません。
各人が信仰の良心の発露を発揮している、というより、
本部の方針に縛られて、自らの発想の自由がない、というのが、正直なところです。
活動自体の魅力を失っています。
教えや指針さえ与えられれば、あとは自分たちで、たくさんのアイディアややりたいことがたくさんあると思うんです。
それを、もっと自由にできるような体制にならないか、そんなことを考えたりします。
ですから、信仰の原点を持ちながら、活動のあり方は、小規模のある程度独立性を持ったものにすればよいのでないでしょうか。
徹底して環境に取り組みたいのなら、それは有志が独立したかたちで行って良いと思います。
救済活動の独立というのは、今の組織の体制で考えられないのか、
考えられるとしたら、どうしたら実現できるのか。分かりません。

>たしかに問題はあったようにおもいます。問題の根はどこにあったのか、という
ことを考えなければなりませんね。組織活動と求道の関係を見直さなくては
ならない。こうした考え方が、当然のごとくでてくるとおもいます。これにかんして
どのような具体的な意見や考え方があるのか、ということだろうとおもいます。

考えに、寄り添っていただきまして、大変ありがとうございます。
初心者様の見地なら、客観的で深い洞察に基づく考えを与えてくださいます。
ありがとうございます。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板