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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

719うのはな:2011/11/09(水) 22:22:38 ID:iM0b0bt6
昭和十九年四月ニ日  鹿児島から東京へ

 輝子さん            雅春
秋田が帰京しますのでこの手紙を託します。下関までは寝台車で楽にまゐりましたが、
下関から鹿児島行きの急行にのりますと、これには東京からズッと立ちとほして来た
乗客も多分にあり、その上に、下関から吾々のやうにその列車に乗り込む人が沢山あるので
いつか飛行機献納で所沢飛行場へ行つたときの電車と同じやうで、片足だけで立つて、
片足の踏み込むところのないやうな込み方で、それは大変なものでした。
熊本まで立ちつくしであります。
 博多ホテルで弁当をしつらへて呉れたのをたべようと思つて開けば、それは燐寸箱のヘギ版の
やうな薄い折り箱につまつてゐたので、手にもつて開けばヘナヘナに挫つて半分ばかり
こぼれ落ちてしまひました。膝の上か台の上か安定したところへ置かないと薄い折箱はバラバラになつて
しまふのでした。与へられても。自分に備つてゐないものは食べることは出来ないのです。
群集地獄と云ふ感じが致しました。もう滅多に旅行も出来ない時代になりました。
 四月からは私の待つて出る標準トランクの大きさのものは規定では汽車持込みが出来ないことに
なる由で、あの半分位のトランクでないと旅行出来ない。
結局、和洋両装では旅行が出来ないし、和装でも着替への着物などは持ち込めない。
持つても肌襦袢切り位のものになる訳です。
東海道は寒さで慄へながら眠りましたが、九州は土用のやうな暑さで、同じ服装なものですから大変です。
鹿児島駅についたのは午後八時半、予定より延着すること二時間半です。

 それでも父は、巡錫の歩みを止めようとはなさいませんでした。
この年の前年の暮の「生長の家」誌に、父は「出版決戦体制に応ずるために誌友諸君に告ぐ」
という文章を寄せられました。用紙の入手が困難になり、薄い月刊誌の発行も思うに任せなくなっていたのでした。

 私は誌友諸君全部に、この決戦下に肉弾をもつて光明普及に起ち上つて頂きたいのであります。
 昔は出版物で教へをしましたが、出版物不足の今日に於いては、肉弾を以つて、
 言葉を以て教へをするほかないのであります。一人々々の誌友が皆光明思想の講師となつて頂きたいのです。

 父は、その先頭に立つ思いで終戦直前まで巡錫を続けていられたのです。

『こころの旅路』P142−144 谷口恵美子 先生編著


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