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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

705初心者:2011/10/29(土) 22:15:26 ID:hogyfr1M
>>702
SAKURA様

702の投稿文はトキ様宛となっておりますが、わたくし宛てのご質問のようでも
ありますので、答えさていただくことにいたします。

欲望の充足をもって実相とみなす。これが生長の家の伝統的な考え方であると
わたくしは考えております。ではこの欲望とは我欲であるのか、とのご質問であり
ますが、そのとおりであります、と答えさせていただくことにいたします。

他者を救いたいと願う欲望。これは、とりあえずのところは我欲ではないと考える
ことにいたします。それで他者が救われたといたします。我欲でない欲望が満た
されたのでありますね。するとですね、この場合、欲望とは我欲であるのか、との
質問の答えは、「否」となるのであります。

ところで、救われた側の他者の立場からすれば、これはどうなるのでありましょう。
救われたいと願う欲望は我欲と考えることができますね。したがって、救われた
他者の立場にたてば、我欲の充足をもって実相の顕現とみなすとする伝統的な
考え方は成り立つということになるのでありますね。

実相の顕現とは我欲の充足である。こうした考え方に、それほど無理はないとも
おもえるのでありますが、いかがでありましょうか。

ところでSAKURA様は、わたくしが、精神分析医のジャック・ラカンに言及している
ことをご存じのうえで、欲望をテーマとしたご質問を寄せられたのでありますよね。
そのことを前提につまらぬことを書かせていただくことにいたします。

これもご存じかとおもいますが、ラカン的にいえば、欲望とは、そのすべてが他者の
欲望ということになりますね。他者の欲望、それはすなわち、他者から欲望されたい
と願う欲望、他者の欲望するものにたいする欲望ということになりますね。

では、人はなぜ、他者を救いたいと願う欲望を持つのでありましょう。それは、
誰かを救うことで、その救った誰かから欲望してもらえるという期待があるからでは
ないでしょうか。他者から欲望してもらいたい。こうした願いが、他者を救いたいと
する高尚な欲望へとつながっているとするなら、その高尚な欲望でさえも、我欲と
みなしてさしつかえないような気がいたしますね。

事態はそう単純でもなさそうですね。事態解明のために、SAKURA様のご協力を
あおげればとおもいます。実相顕現はつねに我欲へとむすびついているとする命題。
ぜひともその正誤を知りたいものでありますね。こうした欲望もまた他者の欲望であるとするなら、これはこれで哀しいものがありますけど。


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