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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

658トキ:2011/10/18(火) 16:07:19 ID:JcVuc8xU
>>656

初心者様

>>意見の異なる相手を一方的に拒絶する。こうした傾向を強めれば強めるほど、問題はさらに泥沼化していくだけでありますね。
>>相手は間違っていて、自分はぜったいに正しい。こうした信念が、問題の解決をさまたげているようにも感じます。

 この考え方に賛同します。生長の家に限らず、宗教団体や宗教家と言われる人が争いを始めると、長引きます。
これは、日本だけではなく、海外でも同様の傾向があると思います。信仰の純粋性という発想があると、話し合いでの妥協が、
信仰への裏切りだという理由で否定されてしまうのです。

 これが、普通の個人であるとか、企業の場合は、利益という発想で動く場合が多いです。例えば、訴訟をする事でかかる費用
や損失と、勝訴した場合に期待できる利益、さらには勝訴の見込みも計算に入れます。そして、多少不満があっても、費用対効果
を考えて、ある時点で妥協する場合が多いです。しかし、宗教の場合、利益という発想がなく、勝利か敗北か、という概念しか
ないので、双方とも徹底抗戦になってしまうのです。

 また、ビジネスの場合、紛争の歴史が長いですから、紛争にならないためにはどうすれば良いか、そして紛争になった場合、
どう解決するか、という問題は普通に考えます。契約書には、必ず管轄裁判所を決めておいたり、準拠法を書くのはその例です。
 最近では、紛争前解決手続なども、充実してきております。これは、争う事が労多くして、良い事がないのをみなさん、知って
いるからです。宗教の場合、宗教家は争わないという前提があるためか、どうもそういう手だてが少ないみたいです。

 しかし、そもそも、宗教とか信仰とか言う存在は、人間に平和と喜びを与えるべき存在です。それが、争いの原因となるのは、
何か間違っていると思うのです。これは、教団側、本流復活派ともに考えるべき事だと思います。生長の家は、そもそも、
万教帰一をうたい、宗教観の融和を唱えた教えです。この考え方は広く浸透し、現在では、かの創価学会ですら、他宗教を尊重する
と言い出しています。だとしたら、同じ信仰を持つ者同志が、話し合わない手はないと思います。

 昔の新左翼が好きだった言葉に、毛沢東の「造反有理」があります。「むほんには、理由がある」という意味です。
今回の場合、教団には教団の「理」があり、本流復活派には本流復活派の「理」があるはずです。いくら「神様」をネタに争いを
していると言っても、争っている当人同士は、現象の人間なんですから、その点を自覚して、話し合いを始める事から開始して
欲しい、と思います。そして、お互いの「理」を説明し、どこで折り合いをつけるか、を真面目に考えて欲しいと思います。

合掌 ありがとうございます


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