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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

360「訊け」管理人:2011/09/08(木) 07:28:44 ID:???
>「靖国見真会」参加者さま

 自己紹介を兼ねましてツラツラと、私見を放談致します。なお、同世代
(だと思う)の気楽さで、文体は「である」調になりましたことお赦しの
ほどを。

 一般宗教書称するところの「神」と云うもの、他類書云うところの“Something Great”
なるもの――ここで解説されたその概念を、自分よりも尊き存在として確認
し、自分自身を劣るもの醜きものとみなし、生活に現れる悪を実在するもの
と分析し、人間知を基に努力を重ね、やがて、肉体我を藭の如く完きもの、
少なくとも藭に近きもの、偉大でない者を偉大にしようとする指南の書は、
我が住まう田舎書店でも容易に入手可能である。そしてそれら書の主張する
ところは、所謂努力家と呼ばれる人々の心を強く打つものである。また、テ
レビや映画ではそれら種類の努力を賞賛もし、何か人間にとっての最高価値
がこめられてあるように最近まで、思いこまされてきてもいた。〝根性〟〝負
けじ魂〟〝情熱〟と云った言葉や、「血汗流せし先人の如く」との叱咤が、
どんなにか我が青春時代に於いて高貴な価値とし志向されてきたか。然し雅
春先生曰く・・・「それは決して最高のものではあり得ない。」「そのこと
を悟れなければならない」そんな真理を納得と共に与え給うのが、愚生把握
したところの光明思想と云えよう。

 人生のある時節に於ては、洗礼のヨハネ的なもの、いわゆる自力での現象
対処法も或る種の価値を生み出しはするであろう。しかし、ここ数年の経験
談を基に偏見を語れば、それら志向は虛勢に過ぎず「やがて一度は捨てて葬
られなければならないもの」であり、「私達自身捨てて葬れる人間に迄高昇
しなければならない」(吉田國太郎)種類のものなのではなかろうか。此の
生き方が我をして現象生活を良化し得ないこと、“Something Great”を生
活圏へ顕現せしめ得ないことは、不足を認め焦りながら充足行動を採ること、
立ち止まって感謝するよりは、他者以上に優れんと頑張ること、肉体知恵に
拠って完からんとすること、これら生き方に一時期の人生を捧げた経験のあ
る人々には、誰にも頷けることになろうか。
 光明思想に触れて納得の快を味わった一点を挙げれば、自力の知恵、肉体
我の躍動には遂に、「永遠に神の國に住し藭の國の喜びを身に受けることは
出来ず」という教えなのであった。藭への不信を機軸とする一連の運動とは、
肉体我の励みを最高理想として求め、いつの間にやら〝励み〟そのものが目
的と化し、そんな励みの中に安酒の如き慰安を味わったに過ぎなかったもの
であった。補足すればあたかも、安楽を拒否し努力している自分を愛でるこ
と、それが目的の人生と転じてしまっていたのであった。そして肝心の果実
を得る機会を、自ら逃すの愚を犯していたのであった。
「かうした信仰の世界に澁滞してゐる人が餘りにも多く充満してゐるのでは
なからうか。彼等は皆異口同音に云ふ、紙一重なのだけれども、手がとどき
さうなのだけれども、ほんのもう一寸なのだけれども、と云ふ様な言葉を。」
(吉田國太郎談)   

 悲しいかな・・・世に光明思想を基とする書、少なし。故に、気分転換の
大義名分は快楽追及を肯定し、さらにこれを材料に奮起し、そして再度(本
来存在しないところの)己の醜さを滅しに跳躍していたのである。あの、御
教えに触れる前の自力の我は、壮絶なまでの物語を生みはする。しかしこれ
らは、吉田國太郎先生申されるが如く、「煩悩を断じて菩提を得」と答へて、
達磨大師から「汝は我が肉を得たり」と賞められる底の人」なのであろう。
そして云うまでもなくそれらは・・・藤原敏之や榎本惠吾、また吉田國太郎
といった高弟が魅了された「生長の家」とは、まったく違う世界になろう。


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