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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

237復興G:2011/08/12(金) 19:06:01 ID:Ir7svY6w

 ●「調和ある愛国運動とは?」(2)──

――藤原敏之曰く、現象がすべて影だと判れば現象は問題でなくなりますが、影だと判らず本ものだと思い違いするから現象に振り廻されて動きがとれなくなります。それを迷いといいます。

――吉田國太郎曰く、霊のために生きる生命の願が何時しか失われて、物についた喜びにひきずられて行く、うらぶれた惨めな心に堕ちてはいないか。神であろうとする願が地を払って、唯単に形の平安を願い、得られないと云っては嘆き、得られたと云っては其の中で陶然として醉わされ、平然として安まっている心はないか。いづれにしても、空しきものの世界を彷徨い歩いている流浪の人にすぎないのではないか。(『常楽への道』92頁)

――尊師曰く、彼は「事実に面しては」という。しかしその「事実」とは何ぞや。現象のみ、本来無きもののみ。しかもこの「本来無き現象」をありと観るかぎり、彼のごとく実相一如の世界に没入する体験を得るとも、何人も「われらは弱し、われらは完からず」と嘆ぜざるをえないのである。しかし、これを「事実」というのはまちがいであるのである。知れ、事実というは実相のみであるのである。(『生命の實相』第27巻127頁)

――榎本恵吾曰く、現象の日本なし、實相の日本のみ独在す。真の愛国心とはこの實相日本を礼拝する心にほかならないのである。實相のみを愛し、實相のみを観て行けばよいのである。

――吉田國太郎曰く、吾等の前に今此の世は光明一元であり、完全円満至美至妙なる生命と、其の御子と、只それだけの世界である。生長の家が出現して、無明と無明がつくったと云う物質的存在は既に無に帰したのである。
 無いものをあるあると思うのが迷である。無いものをあるかの如く扱ってはならない。生きていないものを生きている様に取扱ってはならない。無いと殺しおえている心が牢乎としているかどうか。死んでいるものを、存在するかの如く扱って殺しにかゝれば、其の姿が、既に、打ち負かされている姿である。此処に錯覚はなかろうか。心すべきことである。(『常楽への道』102頁)

――榎本恵吾曰く、吾等の前に今此の世は、日本は光明一元であり、完全円満至美至妙なる生命(天皇)と生命(国民)と只それだけの世界である。生長の家が出現して、現象と現象がつくったと云う現象的日本の存在は既に無に帰したのである。無い現象の日本をあるあると思うのが、實相を忘失するのが忘国思想である。無い現象日本をあるかの如く取り扱って實相を顕現してその現象の危機を無くそうとしてはならない。存在しない現象日本を「現象としては存在するのである。實相を現象に顕現するのが人間の目的である」などと云うように、とにかく、何らかの意味で現象を存在するとみとめた上で、現象日本が存在すると思ってはならないのである。現象の日本が無いと殺し終えている心が牢乎としているかどうか。そして實相の日本のみが存在すると云う心が牢乎としているかどうか。現象の日本の悪をなくして實相の日本を顕現しようなどという自覚から出発して光明化運動だ、愛国運動だなどと云ってかゝれば、その姿が既に暗黒運動であり、忘国運動であり、唯物運動である。

――尊師曰く、「敗戦前、真の日本なし。敗戦後、真の日本なし。現象裡、真の日本なし」前後裁断の『久遠の今』にのみ真の日本あり。真の日本を知らざる者は日本人に非ず。(『叡智の断片』180頁)

――榎本恵吾曰く、實相のみがあることを肯定せざれば、如何に愛国を叫ぼうとも、先ずもって、自分は日本人ではないのである。

――尊師曰く、久遠即今の真理を知らざる者は、滅びずと雖も亡者なり。(『叡智の断片』180頁)

――榎本恵吾曰く、久遠即今、實相の日本のみが在るとの真理を知らざるものは如何に愛国運動と云い、その効あって国が亡びずと云えども彼は亡者に過ぎず、亡国者であり、悪魔に祖国を売ったものである。
 一番恐ろしいのは、地球の破滅でもなければ、宇宙の破滅でもなく、況んや、街頭伝道や日の丸行進や、総じて人類光明化運動の出来ないことでもない。現象に転ぜられると云うことである。悟らないと云うことである。自分が消えないということである。――

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