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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

1263うのはな:2012/08/18(土) 18:07:37 ID:Zt/jytnM
他人の落ち度は許すより忘れてしまえ  

 映画、『戦場にかける橋』は、アカデミー賞をとった名画だ。
大東亜戦争のとき、クアラルンプールの山奥で、日本軍の捕虜となった英国の兵士たちによる
橋架建設の実話物語である。過酷な条件の下で、ようやく橋は完成するが、日本軍の軍用列車を妨害するために、
せっかく造った橋を、英国捕虜たちが自らの手で爆破するというシーンは誠に印象深いものがある。
平和の時代になって、この時の日本軍の生き残りたちが、英国へ行って当時の捕虜たちと会って、共に平和を祈願する
という企画があった。

 その時、受け入れ側の英国から丁重な断りがあったという。
新聞報道によれば、「あのとこのことは、私たちは決して忘れません。しかし、私たちは許します」ということだった。
「決して忘れません。しかし許します」ということと、「許すも許さぬも、(あの時には互いに生きるか死ぬかの戦争を
していた時だ)すべて忘れましょう」ということの間には大きな開きがみえる。文明の違いだろうか。
 わが国には、古来より神道に「みそぎ」ということがあり、今も行われている。
禊は、罪やけがれを祓うために川や海で身を洗い清めることだ。
 もうひとつ日常的に「水に流す」という言葉が使われている。水に流すとは、過去のことをとやかく言わずに、なかったことにするという。
禊祓は、自分の罪、けがれを除いて、自分の身も心も清めることだが、水に流すというのは、自分のためというより、相手の心に思いをめぐらせて、
相手のために都合の悪いことは忘れてあげるということだ。そこには慈悲の面影がある。
決して相手の頭を殴っておいて、忘れろというものではない。
受けた嫌なことは、いつまでも根に持たずに忘れてしまった方がよい。
許すとなれば、許す者と許される者との立場は全く別のものとなったままだ。
裁く者と裁かれる者と変わらない。それは西洋流にいえば、神と人間の間にのみにあることだ。
人と人との間では、一方では禊祓があり、他方では水に流して忘れてしまう方がよほど温和で平和的である。
忘れるためには、心の切り換えが大事である。
「心ここにあらざれば、見れども見えず。聞けども聞こえず」の通り、心のスイッチを切り替える。
こだわりととらわれを捨てて、まず自分自身を新しい目で見ることだ。
そして相手をみるとき、きっと何かが発見されることになるだろう。

中村天風『心を創る言葉のチカラ』 清水榮一 著


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