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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

1225金木犀:2012/06/28(木) 00:10:55 ID:qMq2iFMk

歴史に対する健全な興味が喚起できなければ、歴史に関する情操の陶冶ということも空言でしょう。歴史に関する情操が陶冶されぬところに、国体観念などというものを吹き込み用がありますまい。国体観念というものは、かくかくのものと聞いて、なるほどそういうものと合点するような観念ではない。ぼくらの自国の歴史への愛情の裡にだけ生きている観念です。他では死ぬばかりです。

かつて唯物史観というものが、思想界を非常な勢いで動かしたことがあった。歴史という言葉が、世間で急にありがたがられだしたのはその時以来のことです。物を歴史的に見ない者は馬鹿だということになったわけで、世人の歴史的関心が高まったなどとしきりに言われたものですが、歴史に対する健全な興味が、けっして人々の間に換起されたわけではなかった。いや、かえって、歴史歴史という呼び声の陰に、本当の歴史は紛失してしまった、と言った方がよいかもしれぬ。人々の歴史的関心が高まったという妙な言葉の実際の意味は、人々はもう歴史という色眼鏡を通さなくては、何一つ見ることができなくなってしまったということであった、そう言った方がいいかもしれませぬ。

こういう逆説めいた光景は、何時の時代にもあったようで、気が付く者には気が付いていた。「その物につきて、その物を費やしそこなふもの、数を知らずあり、身に虱あり、家に鼠あり、国に賊あり、小人に財あり、君子に仁義あり、僧に法あり」そういう言葉が徒然草にもある。兼好が、今日生きていたなら、「歴史家に史観あり」と書いたかもしれぬ。兼好は、きいたふうな皮肉を言っているわけではない。ああいう隠者の人生を眺める眼は、よほど確かで冴えていたのであって、彼は、見たままを率直に語ったにすぎないのであります。いったい、思想とか、主義とかを説く人間の顔つきや身振りがはっきりと見えている人にとっては、主義や思想のからくりそのものは、いっこうおもしろくないものだが、そういうからくりをおもしろがるひと、つまり主義や思想の理論上の構造を盲信する人は、主義や思想が、どういうふうに説かれ、どういうふうに受け取られるか、その場合場合の人々の表情なり姿態なりにはいっこう気のつかぬものです。むろん、当人も自分の顔つきなどには気がつかぬ。したがって自分が十五銭とふんだ思想は、他人にもまさしく十五銭で通用するという妄想から逃れにくい。またしたがって、そういう人には、さまざまなイデオロギーというものが鯛や比目魚のようにそれぞれ、はっきりした恰好で、歴史の大海を泳ぎまわっているように見える。歴史の実景に接しているつもりであろうが、実は、歴史の地図を読んでいるにすぎないのであります。

「歴史と文学」


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