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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板
1182
:
トキ
:2012/06/16(土) 09:50:42 ID:da4qspKs
晴れときどき・・・様、志恩 様、ご投稿ありがとうございました。
わたしも、「生長の家40年史」を読んで、昭和40年代の中林政吉先生が理事長であるのを知り、同じ結論に達しました。
それは、50年史のような歴史関係の本を作る場合、何年もリサーチをするのが普通ですから、尾本先生、着月先生に
リサーチをした当時の理事長が、中林政吉先生であるのは不思議ではないからです。
常識的に考えて、当時の尾本先生も着月先生も、まだ若かったし、いわゆる「使い」で行かれた職員に過ぎない
方です。その人に、陸軍主計総監であり理事長をされた人が直接、接待をするとは思えないです。やはり、ここは
中林先生に「聖経」を渡した、と考えるのが妥当でしょう。
次に、明窓浄机を拝読すると、
>>昭和15年 小木博士の功績偉業を称えて『小木虎次郎賞』が設定されています。
という晴れときどき…さまの主張を裏付ける内容の文章がありました。生長の家50年史にも、甘露の法雨の聖経
についての説明、また「永遠不滅の生命」にも、「聖経」の発案者 小木虎次郎博士、という説明がありました。
しかし、昭和6年に「聖経」という言葉が存在した、というのも事実です。
その時に感じたのは、当時、「聖経」「聖詩」という名称が混在していたのではないか、という感想です。
ひょっとしたら、他にも信徒の間で別の呼び方があったのかもしれません。それを「聖経」と決められたのが
小木博士ではないか、という仮説です。(これが正しいとは言いません。小木博士は、初版の「生命の実相」
を読まれていますから。しかし、当時の関係者の説明とは矛盾しない説明をしようとすると、これぐらいし
か考えがつかないのです。)
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