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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

1114うのはな:2012/05/08(火) 23:04:09 ID:???
1113 つづき

 やがて、それも小川さんが解決してくれました。小川さんとぼくは、よく将棋をしました。
ある日、二人で駒を動かしているとき、ふと彼が、「森田君、宗教というものは、人生の定跡みたいなもんやなぁー」
と言ったのです。ぼくはそのひと言でハッと気がつきました。碁では定石、将棋は定跡と書きます。
「定跡」とは、数百年を超えるわが国の将棋の長い歴史の中で、その時々の名人たちが脳漿を絞り上げて、思案に思案を
重ね、試行錯誤の限りを尽くして見つけ出した、ある一つの局面での「必勝の一手」です。

 どんなに町一番、村一番の将棋差しの長老でも、その人の将棋が自己流である限り、定跡をマスターしている、わずか十歳の
子供にも負かされてしまいます。これはスポーツについても同じです。
水泳がじょうずになるためには、数え切れないほどの先輩たちが、工夫に工夫を重ねて泳ぎ抜いてつくり上げた「フォーム」を
身につけなければなりません。がむしゃらに手足をバタつかせても、絶対にスピードは速くならないのです。

 人生も自己流でいくらがんばっても、うまくいかないことの方が多いのです。目をみはるような素晴らしい成功者もいれば、
がんばってもがんばっても思うようにならず、どろまみれになって、あせればあせるほど失敗の深みに落ちこみ、ついに破滅してしまう
人も数え切れないほどたくさんいるのです。そして人間は長く生きているというだけでは決して幸福になるとは限りません。
いったいどこに人生の「幸、不幸」の分かれ道があるのでしょうか?

 人生にも「定跡」や「フォーム」が必要なのではありませんか?
将棋の定跡や水泳のフォームは日進月歩し、常に新しい工夫によって改善されていますが、
人生のそれが偉大な宇宙の真理から生まれたものであれば、これほど強力で完全なものはありません。
まさに不滅不増の絶対のものです。

 実は、それこそが本当の宗教だったのです。しかも、生長の家の教えは難解なお経のようなものでもなく、
あまり親しみのわかない遠い西洋のお話でもありませんでした。そのうえ聖典には、自分を変え、国を良くし、
世界に平和を持ちきたすために、何をすればよいのかが、ぼくにも理解できるように、分かりやすくはっきりと書いてありました。

 ぼくはやがて、生長の家が宗教であることに心の底から喜びを感じるようになりました。
それは、誰も学校で習っていない、誰も知らない「秘密の国に入る秘密の鍵」を手に入れたようなうれしさでもありました。
自分のこれからの人生が、「何だか急に大きく大きく開けたような気持ちでした。


『理想世界ジュニア』 平成七年二月


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