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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

1107金木犀:2012/05/04(金) 05:43:12 ID:wrF1mhWI
保田與重郎翁の『日本の伝統』から

小学(寺子屋で最初に習うもの)の教え「灑掃、応対、揖譲、進退」


 『小学』の教え「灑掃」と「揖譲」は、人とつきあう時の、こちらの形を教えたものです。共同生活、即ち村とか社会を成り立たせてゆく、初歩の心得を言っているのです。灑は水をそそいできれいにすること、掃ははらいきよめること。灑掃はサイソウと読みますが、私はサイソウという字音を好かないので、灑の字のサンズイを取り除いて麗掃(レイソウ)と読んでいます。これは磨いて美しくする、柱や板を空ふきするようなことであります。揖譲は礼を正しくする、謙虚ということです。
 日本人は、掃除ということを大事にしました。仕事をする時には、まず身の回りをきれいにしたものです。きれいにしますと、自然と気持ちがよくなり、自ずからよい仕事ができます。以前は、職人の家に弟子入りすると、一、二年は掃除のようなことばかりやらされたものです。心掛けのよい子供は、その間に親方の仕事ぶりや仕事に対する心構えなど根本のものを、知らず知らずのうちに身につけたものでした。
 仕事をしている人というのは、仕事を楽しんでいる人です。仕事と金もうけは別で、このけじめは大切です。家屋でも日用品でも、今のものは悪い、昔のものは強くて使いよく永持ちすると言われるのは、子や孫の代まで使えるようにと考えて作ったからです。そういうものを作り、そのものをそういうように使うことを「冥加がよい」と言い、使い捨てにするようなものを作り、そのように使うことを「勿体ない」と言ったのです。
 木製品ならば、木地の美しさをみがいて出す。もののうちらにある美しさを磨き出すというのが、日本の暮らし方でした。戦後アメリカ兵が来て、床柱にまでペンキを塗ることを教え、その頃の人たちの間で、何にでも科学塗料を塗るようになりましたが、最近ではだんだんその軽薄さがわかってきて、木地の美しさに心ひかれるようになってきました。
 「灑」は支那のことばでは、水を注いでふき掃除をすることですが、日本では木造の建物が主ですので、空ふきを繰り返し、木肌の奥底からにじみ出る光沢(つや)をよろこびます。この光沢は、ニスのような化学塗料のうわべの光沢とちがって、木のうちから出てくる、奥行きのある落着いた輝きで、人の心にしみじみとした豊かさを与えてくれます。
 
 「応対」と「進退」は、人とつきあう時の直接の心得であります。行儀作法の教えです。私の尊敬している支那の学者の胡蘭成(こらんせい)先生が言われたのですが、「『相安相忘』ということばがある。人と人とが相対している時の、最高の状態はこれだ。」と。
 人と人とが、親しく話をしている。お互いに気を許している。もう互いに相手が他人だということを忘れる。つまり相手と自分とが一体となるのです。相手のために自分は尽くそうとか、相手が自分のために働いてくれるなどということを考えるのは、まだ「応対」の入口なのです。
 「相忘」の忘がむずかしい。自分は自分を忘れているけれども、自分は全部心を許しているけれども、相手はどうかなと思ったら駄目なのです。そのように思わないようになるのが修養です。この修養は非常にむずかしい。
 いまの世間では、ふつう相手を疑うことだけが、世渡りの秘訣となっています。日本のみではなく世界中がそうです。とくに政治の世界がひどい。国際政治などは互いに不信です。しかし、国民は互いに不信ではありません。民衆が相互に背信でしたら、町も村も成りたちませんし、会社も成立しません。
 民衆は、政治家やジャーナリスト、評論家の想像するより、健全で素朴で、そして仕事に真剣に、地についた生活をしているのです。政治家やジャーナリズムの煽動に躍っているのは、甘ったれで幼稚で、浮ついた生活をしている、ごく一部の政治的大衆です。歴史上どの時代にも、こういう政治的大衆がいて、デマゴーグのお先棒をかついで、はしゃぎ廻っていました。しかし、時がたつと、沫のように、デマゴーグもお先棒も消えてしまうのがその運命ですから、この連中の存在や言説は、あまり気にする必要はありません。
 「灑掃、応対、揖譲、進退」は『小学』として、これは子供のときに教わるのです。これを了えて『大学』となります。


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