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「今の教え」と「本流復活」を考える・挨拶板

108名無しさん:2011/07/24(日) 17:19:56
生長の家白鳩会副総裁 谷口純子先生★
(生長の家白鳩会機関誌平成16年7月号52〜61頁・谷口純子先生「真の信仰者となるために」〜創立六十九年生長の家白鳩会全国大会でのご講話〜)
● 私が今日、このようなテーマでお話させていただきます理由の一つには、私はこの本(注:『信仰による平和の道』谷口雅宣著)を読みまして、「私の中にも原理主義的な考え方がある」ということを発見したことがあるからです。ですから、そういうところを皆さまとご一緒に考えていきたいという思いで今日はお話をさせていただきます。

● 「皆さま、…・・谷口雅春先生が書かれた『生命の実相』やそのほかの聖典にはそのまま真理が表現されていると思いがちなところはないでしょうか?私は若いころずっとそういうふうに思っておりました。天啓を受けられた、神様から授けられた教えがそのまま『生命の実相』に説かれているのだから、そこには真理そのものが表現されており、それを信じてそのまま実行すればいいと、私はそのように思っておりました。
 しかし、「生長の家はそういう見方はしない」ということがここには書かれております。そこのところを読ませていただきます。九頁の後ろから三行目、谷口清超先生の御文章のところです:

 さてこの実在界(神の国)のことを伝え行ずるのが宗教の使命であるから、神や神の国をコトバで説明するが、日常吾々の使う言葉の大半は現象界を表現するコトバであるから、聖書や聖典の中のコトバでも、喩え話や説明文では、しばしば現象語(生まれるとか死ぬ、苦しむとか怒るなど)が出てくる。そのようなコトバに引っかかって「神も怒るのか」と思ったり、「神も悩み苦しむのか」と錯覚すると、信仰者でありながら、いつしか現象的な争いや破壊活動に加わるということもありうるのだ。(谷口清超著『新しいチャンスのとき』九六頁)     」

● 「『生命の実相』に書かれていることは、一字一句真理が過不足なく表現されていて、それだけが正しいということになりますと、表現された文字にとらわれて、正しい神への理解ができなくなる惧れがあるということです。また、そのような考え方は、それ以外の教えは間違っているとして排除するということになり、そこに信仰による戦い、自分と他者とを区別する原因が生じる。


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