したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

メディアの真実

22名無しさん:2011/11/21(月) 11:39:42
成田豊・元電通社長が死去
 電通の元社長で、日本広告業協会会長などを務めた成田豊(なりた・ゆたか)氏が20日午前0時57分、
肺炎のため東京都文京区の病院で死去した。82歳だった。

 日本統治下にあった現在の韓国・天安市で生まれ、1953年電通入社。新聞担当の営業が長く、新聞や
テレビ各社だけでなく、各国の要人・首脳と幅広い人脈を築いた。93年に社長就任、2001年11月に東証
1部に株式上場を果たし、仏広告大手との提携を決めた。

 02年の会長就任後は海外事業を主に担当、中国や韓国などとの交流を深めた。04年最高顧問、10年
名誉相談役。日本広告業協会の会長なども歴任した。

 08年8月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。

http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E0E2E2E3848DE0E2E3E3E0E2E3E39F9FEAE2E2E2

韓日の架け橋役30年、電通の成田豊最高顧問

日本最大の広告代理店、電通の成田豊最高顧問(79)が韓国政府から修交勲章光化章を贈られた。
30年にわたる韓日文化交流事業を積極的に後援した功労だ。

権哲賢(クォン・チョルヒョン)駐日大使が24日に駐日韓国大使館に成田顧問を招いて勲章を授与した。
修交勲章光化章は国権伸長や友邦との親善など国益増進に寄与した人に授与されるもので、外国人に
贈られる最高等級の勲章だ。

勲章を授与された成田顧問は、「韓国の国歌であるムクゲの花言葉は尊敬だと聞いた。互いに尊敬する
心を忘れないことこそ未来の両国民を強く結びつける基本だと確信する」と感想を述べた。また「韓国は私が
生まれ青少年時代を送ったところで、一度も忘れたことはない」と話した。

1929年に忠清南道天安(チュンチョンナムド・チョナン)で生まれ、中学3年を終えるまで韓国で少年期を
送った成田顧問は、鉄道業に従事する父親とともにソウルをはじめ各地で生活した。「いまでも夏には北漢山
(プッカンサン)に登り、冬には漢江(ハンガン)でスケートをしたことをはっきりと覚えている」と振り返った。

成田顧問は88年のソウルオリンピックと93年の大田万博開催当時に協賛企業募集に寄与したほか、
韓国が遅れて招致に乗り出した2002年のサッカー・ワールドカップと関連しても両国の友好増進に向け
韓日共同開催を主導した。2005年からはソウルで毎年韓日サッカー大会を開催するなど多彩な韓日文化
交流事業も主導してきた。昨年9月にソウルで開かれた韓日交流おまつりでは日本側実行委員長を務め
行事を成功裏に進める実践力も誇示した。

成田顧問は本業の広告分野でも韓日協力を主導した。97年に国内の広告会社のフェニックス
コミュニケーションズと共同で韓日フォーラムを開催し、国内広告業界・メディアとの連係を図った。
2006年には韓日など8カ国・地域で構成されたアジア広告業協会を設立し初代会長に就任した。
2007年の第4回アジア広告業協会総会の済州島(チェジュド)での開催も成田顧問が主導した。
金浦(キムポ)空港と羽田空港を結ぶシャトル便の就航も成田顧問の寄与が大きく作用した。

勲章授与式後に権大使が開催したレセプションには森喜朗もと首相ら日本の著名人が多く出席した。

http://japanese.joins.com/article/072/113072.html?sectcode=A10&servcode=A00


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板