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二元論 (1.)
5
:
wisdom-man
:2011/02/22(火) 03:17:38
永久さん、こんにちは。お久しぶりです。掲示板を見て書いてみます。
二元論、中国の「陰陽二言説」、テレビで美輪 明宏 氏が語っていたのは
「正負の法則」は、いずれも同じことを語っていること。
・「客観」というのは、もとは「西洋哲学。」明治以後、「和魂洋才」の
考えのもと。それまで、日本になかった外来語を福沢諭吉? が造語し、
「客観」としたもの。 また、「常識」のことばも同じに。
明治以前には、「常識」ということばもあるわけもなく。
・和魂漢才と言われた明治以前には、この「客観」に変わる、
「その言葉」がある。 今も「認識として」、
そのことばを使っています。 ただし、現在、人が「無意識」に
使っています。
ただし、それが日本人の国民全員が使っているとは、言えないのが
今の日本人の現状。
西洋哲学には、多大な長所もありますが、短所もあり。
西洋哲学にはない、東洋哲学もある、それが「その言葉。」
・この「二元論」は、言い換えると「矛盾の論理。」
「主観と客観」も現在でも、西欧哲学では、世界的著名な学者でも
克服できない「難問」のようです。
・私は、この難問を解決し、克服したから言えることでもあります。
・「客観認識」は、「わずかな矛盾を含んでいます。」
・「快と不快」もまた、「わずかな矛盾を含んでいます。」
・仏教で説いているのは、主観でもなく客観でもありません。
「世界のほとんどの人は、主観という世界で生きている。」
「こだわりを捨てることで主観を超えることができ、
「怒り、苦しみ、悩み」から解放され「理解を獲得できる。」
・アインシュタインが取り組んだのは、物理学の「相対」という問題でした。
この「二元論」もまた、言い換えると「人と人」との主観による
「相対」の問題。
・今という日本の現代人は、「徳」という概念を知らない人が
多くなってしまった。
現在の西欧の人は、「徳」という概念が根付かないまま、現在という
時間を迎えている。
仏教ですでに解決していることが、「客観にこだわること」で
仏教で説く、「智慧」という「広大な認識の領域」に考えが至るわけも
ないのです。
私がこだわりを捨てたからこそアインシュタインの相対性理論(特殊相対論)
を一個人でも「理解できた。」
21世紀の現在の日本で「空」を「理解」できないこともない。
その気になれば。
「その言葉」については、いずれ。
失礼しました。
6
:
wisdom-man
:2011/02/22(火) 10:15:55
永久さん、こんにちは。
すみません。 脱字がありました。
「投稿日: 2011/02/22(火)の投稿文に脱字」がありました。
追加しておきます。下記に。
# 誤り....「西洋哲学にはない、東洋哲学もある、それが「その言葉。」」
# 訂正後...「西洋哲学にはない、長所もある東洋哲学の「その言葉。」
・何年か前に投稿したのは、永久さんに何とか、この「二元論の矛盾」に
「気がついてほしい」と願いつつ、投稿した次第。
気がつけば、「二元論の誤解」から抜け出し、「理解を獲得でき」、
「理解が早まる」からです。「悟る」は、理解する 意味があります。
失礼しました。
10
:
匿名(名前未記入)
:2021/07/14(水) 07:57:43
感情を含む体験の根本原因は体験者自身の先入観・自分ルール・思い込み・色眼鏡・記憶・判断基準etc。価値観が変わらない限り似たような体験を繰り返す。執着が強いほど感情も強まる
情報をどう解釈し反応し対処するかは解釈者の自由選択。「世相・言葉・服装・風紀の乱れ」はそれを感じる本人の心の乱れの自己投影
不満イヤ不安ウザ不快コワ不信キモ不可解の原因は各人の固定観念にあるので他者のせいにするのは筋違い。他者に不自由を与えた者は自らも不自由を得る
故に、貴方が誰かを怒らせても貴方に相手の怒りの原因はない。逆に、誰かが貴方を怒らせても相手に貴方の怒りの原因はない
他罰的で他力本願で問題解決力が低く対外評価を気にする不寛容者ほど、情緒安定と自己防衛の為にマナー礼儀作法ルール法律を必要とする
感情自己責任論(解釈の自由と責任)〜学校では教えない合理主義哲学〜
://kanjo.g1.xrea.com/
11
:
とは(管理人)
:2021/07/17(土) 23:31:26
ご意見ありがとうございます。
自由・選択ということをどう考えるかというのは根本的な問題のように感じます。
例えば因果律を前提とした必然や確率があるとするからこそ、予測が可能となりその予測を基にして選択が可能となる部分もあるでしょうが、もし原因と結果の関係性が必然あるいは確率によってすべて決定されると考えるのであれば、自由や選択という能動性は否定されるのかもしれない。そして、もし能動性を否定するなら、生を語ることや責任を問うことは難しいようにも思えます。
もちろん、あくまで社会的問題としてなら、我々に自由意志(能動性)があることを前提とした上で、強制や義務からの自由があるかまた、権利を行使することへの自由があるかということのみが問題となるのかもしれませんが。
一般に自由というと「〜からの自由」と「〜への自由」、言い換えれば”可能”と”選択”を含むことのように捉えられているようにも思えますが、それをどのように解釈するのかということも難しい問題のようにも思えます。
これを、我々には能動性があるのかどうかという論点で考えようとするなら、自由とは”複数の可能性があることを前提として、選択によって対象や結果に対して有意義な影響を与えることができること”、言い換えれば「原因からの束縛を受けない」ことであるとともに「結果への束縛を与える」ことのように一般的には捉えられているのかなとも思います。ただ、このような解釈は主観と客観がごっちゃになっていてるのではないかなとも思えます。
これを、主観的に解釈しようとした場合、主観的には選択という行為は自覚し得ることかもしれませんので、自己の行為に対して責任を感じることは可能だと思います。
この場合は、主観的に複数の可能性があるとはどのようなことかということも問題となるようにも思えますが。
またこれを、いわゆる客観的に解釈しようとした場合、選択という行為をどのように客観的に明らかにできるのかということが問題となるようにも思えます。それは、可能性の中のどれかが行われたという結果のみではそれが選択か、あるいは偶然や確率かを区別できないのではないかと思えるからです。また、選択という行為が行われるには、いわゆる意志といわれるような「〜への自由」に向かう何らかの主観的志向性があることが前提とされているようにも思えます。
そして、もし選択という能動的行為を客観的に明らかにできないのであれば、他人の行為に対して責任を問う根拠は別のところに求めなければならないようにも思えます。このような意味に限っては、自分に自己責任を問うことはできても、他人に自己責任を問うことはできないのではないかとも思えます。もし、それでも他人に責任を問おうとするなら、その根拠は例えば、共感や合意あるいは強制など他のところに求めなければならないのではないかとも個人的には思えます。
ちなみに自由に関する個人的な考えは、HPの私の意見の「自由とは」である程度述べています。
ただ、苦悩について考えるという観点でいえば、感覚や感情あるいは目的意識などにおける精神的志向性(快不快・好き嫌い・固執・欲望・願望・意志など内容や表現は色々でしょうが)があり、それと結果(経験)とのギャップが苦悩を生み出すのかなとは思います。
そして、恐らく人は精神的平静を装うための自己防衛として、自分の志向性に目をそむけて自分をだましながら生きている場面も多いのではないかと思います。例えば、「あいつがこうしたから、自分もこうしてただけだ」とか「そんなつもりじゃなく、こういう正当な理由があってそうしたんだよ」とか「気が付かなかっただけで、気付いてればそうしたさ」とか、でも実際そうじゃないと自分でも薄々は気付きながらも、それが表意識に現れないように蓋をしようとして更に苦悩していることも多いのかなと。
そういった、実際の自分の志向性とは違った形で、色々なことを受け入れられずに拒絶するような価値観や態度が固定化されているということも確かにあるように思います。そういった意味では、自分の志向性に向き合ってみるというのも、それ自体は苦痛であっても、楽になれるひとつの方法なのかなとも思います。
長文失礼致しました。また、ご意見等ございましたらよろしくお願いいたします。
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