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二元論 (1.)
2
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 21:40:01
wisdom-manさん、こんにちは。
予備知識ということで、まずは基本的なところから共通認識を得ておきたいと思います。
・論理学
wisdom-manさんがおっしゃる論理とはどのようなことでしょう。
論理学はもっぱら、普遍から特殊を導き出す"演繹法"について語っていることのように思います。
これに対して、これまでのwisdom-manさんのご意見は、むしろ特殊から普遍を導き出す"帰納法"的な推論が述べられることの方が多かったように思えます。(例えば、道理のお話等)
ですから、私にはこれまでのやりとりが論理学の観点ですすめられてきたようには、あまり思えません。まず、何が普遍かということが語られたことがないように思います。
また、wisdom-manさんが<「道理」が「論理」ということばに入れ替わったと思えばいいでしょう。>と、道理と論理が同じことであるようにとおっしゃるのを見ると、一般的に言われる論理と、wisdom-manさんがおっしゃる論理は異なるようにも見受けられます。
(ただ、純粋に客観的な世界や純粋に客観的な事実があるとする世界観において、「道理」と「論理」は異なることになるだけで、もしwisdom-manさんが世界は私(あるいは我々が)捉え、思考することで生み出されるものであるというような世界観であるのであれば、「道理」と「論理」は同じことであり得るのかもしれません。
しかし、これは主観を基盤とした世界観となるということであり、これまでのご意見でwisdom-manさんは、主観をどちらかというと否定的に捉えられているような印象が私にはありますので、wisdom-manさんがこのような世界観であるとは私には思いにくいのですが、どうなのでしょう?)
・弁証法
wisdom-manさんがおっしゃる弁証法とはどのようなことでしょう。
西洋哲学における弁証法というのは、かなり多義性があるように思えます。
もっとも一般的なのは、弁証法とは対話を基本とした「定立と(テーゼ)反定(アンチテーゼ)を経て、この対立の総合(ジュンテーゼ)に達する思想または思考方法」というようなことであるようにも思えますが、このような解釈でよろしいのでしょうか。
また、論理学と弁証法の違いについて、論理学(これを演繹による思考と限定すれば)は必然による思考であるのに対して、弁証法は対話によって、ある方向性をもって答えを導き出そうとすることであるとすると、これは目的(論)的な要素が含まれているように思えます。
これまで、私は幾度となく必然性と合目的性という話を持ち出してきました。(今まで、これに対するリアクションをいただいたことはないのですが。)それは、世界観を大きく区分するひとつの点であると私には思えるからです。仏教と孔子を分ける点でもあるように私には思えます。(私には仏教と孔子の考えをいっしょにして語ってしまうのでには、かなりの違和感があります。)
もちろん、どちらでもないということもあるでしょうし、それぞれをうまく融合させているということもあるでしょうし、そのような視点を超越しているのかもしれない訳ですが、ここの内容(どのような立場で、それがどのように導き出されているか)が分からないと、それぞれの話がどのように整合性を持っているのかどうかの判断ができないということになります。
ぜひ、語っていただきたい点ではあります。
まず、これらの点を共通認識できないと、以後のご意見を解釈することはできないと思いますのでよろしくお願いいたします。
3
:
wisdom-man
:2011/02/15(火) 21:41:12
永久さん、こんにちは。 [ 二元論 ( 2.) ]
[ # 下記の例は、常識 ( 客観認識 )の範疇 ]
・目に見える現象は、"目に見える"「( a.)形の有るもの」。
それに対し"耳に聞こえる"音は「( b.)形の無いもの」。
肉眼で見る「現象」を一語で表すと「色」。
「色」は、言い換えると、「( a.)形の有るもの」。
( a.)を漢字で表すと「有形」。 ( b.)を漢字で表すと「無形」となる。
有形 無形
-------------●--------------
・人は、実際に、見たものと聞いたものを「一致させている」。
・たとえば、自分が理解できない外国語を話す人を見て「喜怒哀楽」の「感情」
であれば、「怒っている」「泣いている」「笑っている」など...というのは、
判別できる"目に見える"「( a.)形の有るもの」。
それに対する「( b.) 理性」は、目に見えるかと言えば、
「( b.) ( 目には、見えない)形の無いもの」。
・"好き、嫌い"は、「感情」であり「主観」。
感情 理性 主観 客観
-------------●-------------- -------------●--------------
・ 例、 「勝負」「男女」「(磁石の) SN」
S N たとえば、ゲームをやり意識が
-------------●-------------- 「勝ちにこだわっている」時は、
( Not ) 中心●より左端のシーソーに
意識が向いている。
・「勝負」「男女」「SN」....それぞれの一語( 二つの字)が「反語」の関係。
つまり、左側の有形を意識すれば、必ず「無 ; 無い」を意味する「否定」が
くっ付いてくる。
「勝負」「男女」「SN」は、「一語」であって、これはすべて「既成概念」。
・棒磁石のS極を「取ろう」とし、棒磁石を二つに折る。 そして、
「S極だけを取った」と「錯覚」してしまう。
しかし、S極だけに意識が向いた(例、"S極が有る")反対側は、
「無 ; 無い」のことばがくっついてくる。
このシーソーのロジックは、( S ) + ( Not ) = ( S + Not ) になる。
( 例、 S極では無い。S極の無い。)
・これ( 二元論 )は「矛盾の論理」「不合理な論理」を意味している。.....
....「自己矛盾」。 「渾然一体」。
仮に、左端( の有形)に「好き」を意識すれば、右端には「無 ; 無い」が
くっ付き、...."好きで無い"。
・これ( 二元論 )は仏教でいう「有無の二見」。 ....
....... この"有無"は、通常、よく使う有無の意味ではなく、
ロジック ( # 不合理な論理 )を意味するもの。
# 上記の図は、前に、たとえに挙げた「丸太とシーソー」の例です。
# 一つのシーソーにことばが"集まり"、それが 「渾然一体」となる。
それでは。 失礼します。
4
:
とは(管理人)
:2011/02/15(火) 21:41:50
wisdom-manさん、こんにちは。
まず、wisdom-manさんがおっしゃる「常識」「客観」「主観」がどのようなことであるのかの説明をしていただけると助かります。ごく一般的な言葉の意味としての解釈をしようとすると、どうも文章全体がうまく解釈できません。よろしくお願いします。ともかく、これらの言葉の意味が未だ私にとって不明瞭であるため、wisdom-manさんのご意見の多くの部分が意味不明となっております。
wisdom-manさんのご意見では「常識」と「客観」が並べて論じられることが非常に多いのですが、これが「主観」と「客観」であれば、とりあえずこれらが対立概念として一般的に捉えられているということを前提とした話であることが容易に理解できますが、「常識」と「客観」では少々異質な内容であるため、まずこれらが何故並べて論じられる関係にあるのかを明言していただけないと、どう解釈していいのかが分からないと思います。
シーソーの例ですが、この両側にはどのような言葉が乗るのでしょう。言葉における反語の全てが乗るのでしょうか?それとも、何らかの限定があるのでしょうか?
感情と理性が乗る例の場合は、なんとなく分かるようにも思えます。それぞれの方に意識が向いている場合の、それぞれの問題というのも分かるように思えます。
ただ、例えば勝負の場合、意識が「勝」に向いていても、「負」に傾いていても問題はそれほど違いはないようにも思えます。
となれば、シーソーという例えをする意味は別のところにあるのでしょうか。
これはあまりどうでもいいかもしれませんが、前にも書きましたが「二元論」というと一般的には<相互に対立した二つの異なる原理によって、その思考範囲の一切を説明しようとする立場>ということだと思うのですが、wisdom-manさんがおっしゃる「二元論」はこれとは全く異なる内容だと思いますので、それを「二元論」と表現されてしまうと読む人に誤解を招きやすいのではないかと思います。
それでは、失礼いたします。
5
:
wisdom-man
:2011/02/22(火) 03:17:38
永久さん、こんにちは。お久しぶりです。掲示板を見て書いてみます。
二元論、中国の「陰陽二言説」、テレビで美輪 明宏 氏が語っていたのは
「正負の法則」は、いずれも同じことを語っていること。
・「客観」というのは、もとは「西洋哲学。」明治以後、「和魂洋才」の
考えのもと。それまで、日本になかった外来語を福沢諭吉? が造語し、
「客観」としたもの。 また、「常識」のことばも同じに。
明治以前には、「常識」ということばもあるわけもなく。
・和魂漢才と言われた明治以前には、この「客観」に変わる、
「その言葉」がある。 今も「認識として」、
そのことばを使っています。 ただし、現在、人が「無意識」に
使っています。
ただし、それが日本人の国民全員が使っているとは、言えないのが
今の日本人の現状。
西洋哲学には、多大な長所もありますが、短所もあり。
西洋哲学にはない、東洋哲学もある、それが「その言葉。」
・この「二元論」は、言い換えると「矛盾の論理。」
「主観と客観」も現在でも、西欧哲学では、世界的著名な学者でも
克服できない「難問」のようです。
・私は、この難問を解決し、克服したから言えることでもあります。
・「客観認識」は、「わずかな矛盾を含んでいます。」
・「快と不快」もまた、「わずかな矛盾を含んでいます。」
・仏教で説いているのは、主観でもなく客観でもありません。
「世界のほとんどの人は、主観という世界で生きている。」
「こだわりを捨てることで主観を超えることができ、
「怒り、苦しみ、悩み」から解放され「理解を獲得できる。」
・アインシュタインが取り組んだのは、物理学の「相対」という問題でした。
この「二元論」もまた、言い換えると「人と人」との主観による
「相対」の問題。
・今という日本の現代人は、「徳」という概念を知らない人が
多くなってしまった。
現在の西欧の人は、「徳」という概念が根付かないまま、現在という
時間を迎えている。
仏教ですでに解決していることが、「客観にこだわること」で
仏教で説く、「智慧」という「広大な認識の領域」に考えが至るわけも
ないのです。
私がこだわりを捨てたからこそアインシュタインの相対性理論(特殊相対論)
を一個人でも「理解できた。」
21世紀の現在の日本で「空」を「理解」できないこともない。
その気になれば。
「その言葉」については、いずれ。
失礼しました。
6
:
wisdom-man
:2011/02/22(火) 10:15:55
永久さん、こんにちは。
すみません。 脱字がありました。
「投稿日: 2011/02/22(火)の投稿文に脱字」がありました。
追加しておきます。下記に。
# 誤り....「西洋哲学にはない、東洋哲学もある、それが「その言葉。」」
# 訂正後...「西洋哲学にはない、長所もある東洋哲学の「その言葉。」
・何年か前に投稿したのは、永久さんに何とか、この「二元論の矛盾」に
「気がついてほしい」と願いつつ、投稿した次第。
気がつけば、「二元論の誤解」から抜け出し、「理解を獲得でき」、
「理解が早まる」からです。「悟る」は、理解する 意味があります。
失礼しました。
10
:
匿名(名前未記入)
:2021/07/14(水) 07:57:43
感情を含む体験の根本原因は体験者自身の先入観・自分ルール・思い込み・色眼鏡・記憶・判断基準etc。価値観が変わらない限り似たような体験を繰り返す。執着が強いほど感情も強まる
情報をどう解釈し反応し対処するかは解釈者の自由選択。「世相・言葉・服装・風紀の乱れ」はそれを感じる本人の心の乱れの自己投影
不満イヤ不安ウザ不快コワ不信キモ不可解の原因は各人の固定観念にあるので他者のせいにするのは筋違い。他者に不自由を与えた者は自らも不自由を得る
故に、貴方が誰かを怒らせても貴方に相手の怒りの原因はない。逆に、誰かが貴方を怒らせても相手に貴方の怒りの原因はない
他罰的で他力本願で問題解決力が低く対外評価を気にする不寛容者ほど、情緒安定と自己防衛の為にマナー礼儀作法ルール法律を必要とする
感情自己責任論(解釈の自由と責任)〜学校では教えない合理主義哲学〜
://kanjo.g1.xrea.com/
11
:
とは(管理人)
:2021/07/17(土) 23:31:26
ご意見ありがとうございます。
自由・選択ということをどう考えるかというのは根本的な問題のように感じます。
例えば因果律を前提とした必然や確率があるとするからこそ、予測が可能となりその予測を基にして選択が可能となる部分もあるでしょうが、もし原因と結果の関係性が必然あるいは確率によってすべて決定されると考えるのであれば、自由や選択という能動性は否定されるのかもしれない。そして、もし能動性を否定するなら、生を語ることや責任を問うことは難しいようにも思えます。
もちろん、あくまで社会的問題としてなら、我々に自由意志(能動性)があることを前提とした上で、強制や義務からの自由があるかまた、権利を行使することへの自由があるかということのみが問題となるのかもしれませんが。
一般に自由というと「〜からの自由」と「〜への自由」、言い換えれば”可能”と”選択”を含むことのように捉えられているようにも思えますが、それをどのように解釈するのかということも難しい問題のようにも思えます。
これを、我々には能動性があるのかどうかという論点で考えようとするなら、自由とは”複数の可能性があることを前提として、選択によって対象や結果に対して有意義な影響を与えることができること”、言い換えれば「原因からの束縛を受けない」ことであるとともに「結果への束縛を与える」ことのように一般的には捉えられているのかなとも思います。ただ、このような解釈は主観と客観がごっちゃになっていてるのではないかなとも思えます。
これを、主観的に解釈しようとした場合、主観的には選択という行為は自覚し得ることかもしれませんので、自己の行為に対して責任を感じることは可能だと思います。
この場合は、主観的に複数の可能性があるとはどのようなことかということも問題となるようにも思えますが。
またこれを、いわゆる客観的に解釈しようとした場合、選択という行為をどのように客観的に明らかにできるのかということが問題となるようにも思えます。それは、可能性の中のどれかが行われたという結果のみではそれが選択か、あるいは偶然や確率かを区別できないのではないかと思えるからです。また、選択という行為が行われるには、いわゆる意志といわれるような「〜への自由」に向かう何らかの主観的志向性があることが前提とされているようにも思えます。
そして、もし選択という能動的行為を客観的に明らかにできないのであれば、他人の行為に対して責任を問う根拠は別のところに求めなければならないようにも思えます。このような意味に限っては、自分に自己責任を問うことはできても、他人に自己責任を問うことはできないのではないかとも思えます。もし、それでも他人に責任を問おうとするなら、その根拠は例えば、共感や合意あるいは強制など他のところに求めなければならないのではないかとも個人的には思えます。
ちなみに自由に関する個人的な考えは、HPの私の意見の「自由とは」である程度述べています。
ただ、苦悩について考えるという観点でいえば、感覚や感情あるいは目的意識などにおける精神的志向性(快不快・好き嫌い・固執・欲望・願望・意志など内容や表現は色々でしょうが)があり、それと結果(経験)とのギャップが苦悩を生み出すのかなとは思います。
そして、恐らく人は精神的平静を装うための自己防衛として、自分の志向性に目をそむけて自分をだましながら生きている場面も多いのではないかと思います。例えば、「あいつがこうしたから、自分もこうしてただけだ」とか「そんなつもりじゃなく、こういう正当な理由があってそうしたんだよ」とか「気が付かなかっただけで、気付いてればそうしたさ」とか、でも実際そうじゃないと自分でも薄々は気付きながらも、それが表意識に現れないように蓋をしようとして更に苦悩していることも多いのかなと。
そういった、実際の自分の志向性とは違った形で、色々なことを受け入れられずに拒絶するような価値観や態度が固定化されているということも確かにあるように思います。そういった意味では、自分の志向性に向き合ってみるというのも、それ自体は苦痛であっても、楽になれるひとつの方法なのかなとも思います。
長文失礼致しました。また、ご意見等ございましたらよろしくお願いいたします。
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