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ご意見、ご連絡スレ

80メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/04(月) 19:44:25
繰り返しますが思考可能性論法とは形而上学的可能性を示すものだから検証可能性は必要条件ではありません。

>語り得るのだとしたら、それは機能をもっていると言わざるを得ないからです。

平行説や随伴現象説では、クオリアに機能がなくても身体はそのクオリアについて言語活動可能です。

勘違いしてると思いますが、チャーマーズを含め本気でゾンビの存在や随伴現象説を信じている学者などいません。
ゾンビが思考可能であるならば心と物は存在論的に異なる可能性がある。異なるのならば随伴現象説が可能であるが
それは節約の原理に反する。ならば心と物はなぜ、どのように相関するのかを議論しているのが現代二元論者です。
非機能的クオリアや随伴現象説は議論を進めるための一段階に過ぎず、それをナンセンスだと批判するのは論点錯誤です。
ちなみに物的一元論者は心的なものが存在論的に異なる可能性を認めたくないので、ゾンビは形而上学的・物理学的に
不可能であるとの論証を試みています。検証不可能というだけで却下できるなら誰も議論してません。

81横山信幸:2015/05/04(月) 22:04:08
なるほど、思考可能性論法とは形而上学的可能性を示すものだから検証可能性は必要条件ではない。
それって、「思考可能性論法」とは、僕のいう「おとぎ話」をしているだけだから、現実世界を話すための検証機能なんかは必要ないってことですよね。

だから、クオリアに機能が無くても身体はそのクオリアについて検証が不要な「おとぎ話」を語りえるってことですね。

でも、ウィトゲンシュタイン等の哲学においては「語りえる」というのは一般に、世界を有意味な(恒真でも恒偽でも無く、世界と比較することによって真偽が測れるような)命題で持って表現し得るってことですよね。
その意味の「語りえなさ」においてでは、「クオリアは語り得ない」と言えますよね。
随伴現象説のクオリアについて、クオリアを確かめることによって、クオリアの存在や非存在の真偽を測ることは、原理的にできないですもんね。

82メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/05(火) 20:09:18
クオリアが機能しない身体による言語の意味の実質がどうであろうと、それは思考可能性論証の眼目とは
関わりが無いので論点錯誤です。
意識が身体に作用しないのはナンセンスだとか、おとぎ話だなんて子供でも主張できますが、そこに
形而上学的可能性を見出して、心身の存在論的な差異の有無や相関関係の内実を議論するのが哲学者です。
なおウィトゲンシュタインにおいては語の意味とは用法であり、カブトムシの箱の比喩が示すように
私的言語に反対していることから、クオリアなど内在的性質の比較検証は前提していません。

なお肝心なことなので再び書きますがクオリアは語りうる必要などありません。語りえないことや検証
できないことは存在しえないことに直結しないので、思考可能性論法に対する反駁にはなりません。

83横山信幸:2015/05/05(火) 21:47:56
>語りえないことや検証できないことは存在しえないことに直結しない

その通りだと思います。「語りえず、検証できないこと」は存在することもしないことも言えないナンセンスです。
ですから、クオリアについて語ったり論じたりできるということは、現実世界とは何のかかわりもないような空想世界が可能だってこと以上の何物でも無い意味だと理解しました。
その理解で正しいですか。

84メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/06(水) 20:07:09
まだ思考可能性論法の眼目を理解されていないようなのでこれ以上の説明は無駄と思い断念します。
以下に読書案内だけしておきます。

信原幸弘編『シリーズ心の哲学Ⅰ 人間篇』第三章
金杉武司『心の哲学入門』pp.67-74

上の二冊を読んでから哲学的ゾンビについて再考されるのが良いと思います。
なお、思考可能性論法をめぐるより仔細な議論を知りたければ、

ジョン・サール『MiND 心の哲学』第三章
鈴木貴之『意識のハード・プロブレムに挑む』第1章と第2章

以上を読まれるといいでしょう。

85横山信幸:2015/05/06(水) 20:50:30
討論のお相手をしていただけなくなるのは大変残念です。

僕が理解できていない可能性ももちろんありますが、メビウスさんが間違っている可能性も十分にあると僕は考えています。
それを、僕が間違っている点を指摘することもしないで、議論を無駄だとしてしまって切り上げるのは、哲学的態度としては残念なものに思います。
できれば、考え直してくださいませんか。、

86横山信幸:2015/05/06(水) 20:55:17
失礼ですが、僕の指摘について、そのどこが間違っているのかをメビウスさんが見つけられないのではありませんか。そして、そのことを、僕の理解不足のように言われているだけなのじゃないですか。、

87横山信幸:2015/05/06(水) 22:35:19
サール「心の哲学」4章を読み返しましたが、やはり、サールの不理解はなはだしく、僕の問題にしたい論点は語られていないと感じました。「唯物論は存在論的に主観的な現象は存在しないと断定する。ところが、私たちはこの意見が間違っていることを知っている。というのも、私たちはつねに主観的な現象を経験しているからだ。」
結局、ここの部分にサールの本意は凝縮されているようですが、物理的に還元できない主観的現象が存在することがホントに語り得ると無邪気に考えている勘違いに問題があることに、彼は気が付いていません。有名な「中国語の部屋」にしてもその勘違いを、ややこしい言い方で主張しているだけに過ぎません。その勘違いは、僕のサイトの「サールの「中国語の部屋」と統語論と意味論<心は実在するか15>」http://sets.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/post-09dd.html
で詳しく指摘していますので、もしよろしければお読みください。
鈴木貴之『意識のハード・プロブレムに挑む』第1章と第2章は読んでいませんが、そこには、僕の言う「クオリアはナンセンスだ」に対する答えが載っているのでしょうか。
僕の考えている論点と違う論点を語られて、僕の論点がずれていると言われても困ってしまいます。

88横山信幸:2015/05/06(水) 22:52:43
思考可能性論法とは、現実世界とは何のかかわりもないような空想世界が可能だってことを主張する以上の何物でも無いような論法である。
結局、僕の主張とはこういうことになるみたいですが、間違っていますか。

無駄だと言わないで、回答していただけませんか。

89メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/07(木) 20:04:07
サール批判は的外れ。前述したように心の哲学は自然主義です。この立場ではクオリアを「語りうる」必要はなく
「示す」ことができれば良い。この方法論を理解されていない。ちなみにS.クリプキも言語哲学者ですが
サール同様の主張をしていますし、そもそもチャーマーズのゾンビ論証とはクリプキの可能世界意味論を
ベースにしています。またサールと立場を異にするH.パトナム、D.ディヴィッドソンらも思考可能性論法は
使用しており、この論法は現代分析哲学の思考ツールとして広く承認されています。

>僕が間違っている点を指摘することもしないで、議論を無駄だとしてしまって切り上げるのは、哲学的態度としては残念なものに思います。

間違いは多数指摘しています。私のレスを再読して下さい。思考可能性論法が何たるかも既にくどいほど書いてます。
なお文章を読めば勉強量はすぐわかります。心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することも
せずに議論を挑む態度こそ無神経だと思います。少しは相手の迷惑を考えて下さい。
なおサール本読解の正誤は別にして、資料のクロスチェックは研究の基本です。先に紹介した四冊は思考可能性論法に
ついての「最低限」レベルですので、もっと本を読まれるのがいいと思います。

90名無しさん:2015/05/07(木) 23:07:24
心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することもせずに議論を挑んでしまい無神経だと思います。少しは相手の迷惑を考えて下さい。

91名無しさん:2015/05/07(木) 23:22:24
心の哲学における主要なトピックの論点をあらかじめ把握することもせずに議論を挑んでしまい無神経にご迷惑をおかけしました。

上の打ち間違いも僕です。すみません。

メビウスさんのご説明をすべて読み返しました。
思考可能性論法とは結局、クオリアが語り得ないunsinnであるがゆえに、その偽までもが立証不可能になるということを利用して、クオリアの存在を許すような世界像が可能であることを示した論法である。そういう理解で正しいですか。

92横山信幸:2015/05/07(木) 23:24:15
繰り返しすみません。また署名忘れです。

93メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/08(金) 20:06:56
>>89に一部表現の間違いがあったので訂正します。
>H.パトナム、D.ディヴィッドソンらも思考可能性論法は使用しており、
これは「思考可能性論法」でなく「思考可能性論法と類似の思考実験」の間違いでした。

>>91
思考可能性論法・ゾンビ論証とは何かをより正確に言うと、「クオリアが欠如したゾンビが思考可能であるゆえに、
ゾンビは形而上学的にも可能であると主張し、そのことにより心と物が存在論的に異なる可能性を示すもの」です。

物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながら心的状態が異なること
はありえないので、ゾンビは「思考可能」ですらありません。ゾンビの思考可能性は物理主義の間違いを示唆します。
したがって物理主義者はゾンビ論証に対し、思考可能なものでも形而上学的に不可能な事例を挙げたり、心と物の
同一性がアポステオリに確かめられる可能性を論じたりして反論しています。
心の哲学者にとってゾンビ論証は検証不可能という理由で退けられないのです。

94横山信幸:2015/05/08(金) 23:20:08
>物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながら心的状態が異なることはありえないので、ゾンビは「思考可能」ですらありません。

に対する質問です。
メビウスさんのその説明が正しいならどんなナンセンスな対象を想定しても物理主義を否定できてしまうのではないかという疑問が湧きました。
例えば、あらゆる物理的存在と一切の相互作用を持たない存在者αを考えます。実在するニュートリノなる物質は物理的相互作用能力が非常に弱く、その多くは地球さえ貫通してしまうほどだそうです。しかしそれでもニュートリノは微かな相互作用能力を持っているのでそれは観測可能で、確実に物理的な実在者だといえます。それに対してここで考えるαは完全に一切の相互作用を持たないものとするわけです。だから、完全に観測不可能で、検証不可能です。さらに定義からして一切の物理的対象と一切の相互作用を持たないのですから、このαはもはや物理的存在でさえ無いはずです。さてそこで、

物的一元論の立場では物理的なものが全てを決定するのだから、物理状態が同じでありながらαが存在したりしなかったりするような異なる想定が想像可能になることはありえないので、αは「思考可能」ですらありません。αの思考可能性は物理主義の間違いを示唆します。

メビウスさんの説明が正しいならこの推論も正しくなるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。正しい推論だと言えると思われますか。

95メビウス ◆4lggoO1oV6:2015/05/09(土) 19:53:13
物理的なものが全てを決定するとは心身問題の脈絡で物的一元論という立場から言ってるのだから、
物理状態が心的状態を決定するということです。この物と心の関係を付随性と言います。
ゾンビ論証の意義とは付随性が成立しない可能性を示唆できることです。
αはクオリアの類比になっていません。そもそも物理学も物理主義も観測可能な対象しか存在しない
とは言ってませんので前提からして誤解してます。


なお正直言って迷惑ですので書き込み禁止の措置を取らせて頂きます。
心の哲学の基本的な概念やトピックをいちいち説明している時間がないのでご了承ください。
あとは先に紹介した四冊を手始めに独習して下さい。


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