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【新潟・長野・山梨西部】東海東山方言【静岡・岐阜・愛知】
1
:
名無しさん
:2010/08/28(土) 21:36:00
新潟県(北部の阿賀北地方と佐渡島を除く)、長野県、山梨県西部(国中地方)、
静岡県、岐阜県、愛知県の方言が所属する東海東山方言について語るスレです。
61
:
名無しさん
:2010/12/28(火) 23:58:49
本当に大量に移住(流入)すれば方言は変わるだろう。名古屋弁や江戸言葉がそうだ。
62
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:12:22
>>59
長野県南部や静岡県西部とは急峻な山地に阻まれ、実質的には連続しているとは言い難い。
奈良田や井川でさえ言語島と呼ばれるくらいだから、山脈を越えての交流はほぼ皆無といっていい。
中信あるいは駿河には、もともと「ん」が分布していたが、
江戸時代に東海道、中山道伝いに「ない」が流入したのだろうと思う。
63
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:16:36
>>60
この場合、別に「伝わる」必要はない。
「書かん」は元々「書かぬ」なわけだが、これは文語の連体形そのまま。
東日本の「書かない」がどのように発生したか不明で、上代東国語「書かなふ」との連続性も確かではないが、
形容詞「無い」との混同・連想があったことは間違いないだろう。
元々「書かぬ」だった地域に「書かない」が広がった可能性のほうが高い。
なお、「書かのう」は「書かなふ」の直接の子孫である可能性が指摘されている。
「伝わる」ほうの可能性を考えても、東西対立する語彙・語法の等語線は太平洋側ではかなりバラバラなところを通っていて、
特に太平洋側では比較的交流が容易だったことを示している。
逆に、富山県・長野県境や、岐阜県・長野県境北部まではほとんどの等語線が重なっていて、
自然障壁に阻まれてほとんど人的交流ができなかったことを物語っている。
64
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:17:25
>>61
名古屋は特に他方言からの影響は無かったと思うが…
江戸は確かに上方語から強い影響を受けたが、それも直接の影響というよりは、
上方の文化的威信によるものだろう。上方からの移住者自体はそんなに多くなかったはず。
影響を受けたのも語彙、語法などの分野で、音韻体系やアクセントには影響がなかった。
65
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:22:34
>>64
尾張徳川家が名古屋に入る前には、尾張地方でも、三河弁に近い言語が話されていた。
しかし、尾張地方の言語が江戸時代に名古屋城下で形成された狭義の名古屋弁に強く影響され広義の名古屋弁として一括されるまでに至ったのに対し、
三河地方ではそれほどの影響を受けなかったため、幕末までには三河と尾張でははっきりした差異が形成された。
ということらしい。
66
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:28:40
東西方言対立参考資料
http://www9.uploda.tv/v/uptv0002123.jpg
http://www9.uploda.tv/v/uptv0002124.jpg
67
:
名無しさん
:2010/12/29(水) 00:54:51
おそらく、東海東山は全域が「ン・ヌ」だったのが
後から「ナイ」が駿河や北信に進出したんだろう。
というのも、↓の地図を見ると、「ン」は言い方によっては
単なる言い切りの形よりも東へ広く分布しているからだ。
「書かない」の言い方
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_080_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_080_e.pdf
「行かなかった」の言い方
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_151_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_151_e.pdf
「行かなくても」の言い方
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_157_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_157_e.pdf
68
:
名無しさん
:2011/01/07(金) 21:30:26
遠州、東三河はなぜ外輪東京式なのか?(新居は型の少ない東京式)
三方は中輪東京式に挟まれている。
乙種アクセント成立の問題とも関わると思うが。
69
:
名無しさん
:2011/01/14(金) 02:01:41
推量について
「べえ」は「べし」
「ずら」は「むず+らむ」
「ら」は「らむ」
「だろう」は「であらむ」
がそれぞれ変化したのはいいと思うが、
三河の「だらぁ」はどうなの?
「であらむ」から直接なのか、「だ」と「ら」の単なる結合なのか
70
:
名無しさん
:2011/01/14(金) 18:20:45
>>69
その5つのうちで、圧倒的通説で固まっているのは「べ」と「だろう」だけだよ。
「ら」は「らむ」起源というのが次に有力だが、「だら」に引っ張られて「む」起源だという人もまだいる。
残り2つは定説のない暗中模索状態。
ナヤシに広く分布する代表的助動詞の「ずら」が難問中の難問で、どう考えても説明がつかない。
なぜなら、「ずら」は完全な終止形接続で、「むず(未然形接続)」と関連がつかないからだ。
しかも、「ずら」に対応する過去推量として「つら(連用形接続)」がある。
これは文語の「つ」+「らむ」であるとして説明ができるから、さらに「ずら」の特異性が際立つ。
「だらあ」に関しては、「らむ」でも「む」でも説明は可能で、違った意味で問題。
71
:
名無しさん
:2011/01/15(土) 14:46:46
ナヤシに分布する意志、勧誘の「ず」は「むず」かそれとも打消「ず」が起源?
「ず」と「ずら」の関連性はないの?
72
:
名無しさん
:2011/01/16(日) 13:09:20
打ち消しの「ず」に由来する可能性は低いと思う。
連体形が従来の終止形にとって代わって単に文を終えるときにも連体形を使うようになるという大きな変化が中世に起きた。
「ず」も当時存在していたから、この変化にまきこまれて「ず」が消え、「ぬ」になった。
特に辺境でもないナヤシ地帯がこれを免れたとは思えない。これが一つ。
もう一つは古語の「ず」が単なる否定であるのに対して、
それがナヤシにある「ず」は意思であることだ。この意味のへだたりは大きい。たとえば
(1)否定→(2)否定の推量・疑念→(3)肯定の推量→(4)意思
という過程をへたとして、(3)→(4)はいいが、(1)→(2)と(2)→(3)に無理がある。
加えて否定の推量なら「まい」があるから、競合が起きたはずだ。
全国的に分布していた「まい」に新参の「ず」が勝ったというのも疑わしい。
「むず」に由来するとすれば、意味の面では問題は起きないし、
muzu>mzu>nzu>zuというありがちな音韻の変化を仮定するだけですむ。
73
:
名無しさん
:2011/01/19(水) 22:22:29
>>67
その理由から、東海東山全域が「ぬ」であったとは言えないだろう。
というのは、そもそも「ねえ」が形容詞形活用を獲得したのはかなり最近のことで、
それ以前の直近の形は、(古代の活用の失われた)不変化型だったとされているからだ。
その時代、「ぬ」のほうはすでに多彩な活用を獲得していた。
少なくとも、「ん(連用形)」「ぬ」「ね(仮定形)」は存在した。
厳密な品詞分析とは異なるが、「なんだ」の「なん」を「ぬ」の連用形と解釈することもやってやれないこともないので、
伝統文法で言えば、当時の「ぬ」と「ねえ」は、
−/ん・なん/ぬ/ぬ/ね/−
−/− /ねえ/ねえ/−/−
この状態で、上方語が「ぬ」の過去形「なんだ」「ざった」を獲得したことに影響され、
「ぬ」が、『「ねえ」で無理な部分だけ』東へ進出した可能性がかなり高い。
ちょうど今の西日本で、新方言「んく」が成立しない状態で、
「行かんようになる」と言わずに、ここだけ「行かなくなる」というような状態の裏返し。
74
:
名無しさん
:2011/01/20(木) 00:30:27
>>70
三河に山陰のような「アウ→アー」の変化が過去に存在した痕跡はないの?
75
:
名無しさん
:2011/03/02(水) 18:56:27
>>73
>『「ねえ」で無理な部分だけ』
「ぬ」が進出する前は何と言っていたの?
76
:
名無しさん
:2011/03/02(水) 21:40:13
>>74
「だら」のように、「にてあらむ」のような形から
別の変化を遂げたと考えられる例以外、「アウ→アー」というのは無いだろう。
例えば「無くなる」を「ナーナル」というとか、「陶磁」を「タージ」というとか、
「坊主」を「バーズ」というとかいうことがない。
開合の区別がある方言ではそのような例がある。
77
:
名無しさん
:2011/03/03(木) 03:23:21
>>73
>>67
の「行かなくても」の言い方で長野県中部などに「いかなんでも」という
形が見られるので確かに方言によっては「なん」を「ぬ」もしくは「ねえ」の
連用形と解釈しても良いかもしれない。資料にはないが「で(て)」に加えて
過去推量の「ずら/づら(つら)」にも接続する方言がある。
ただしこの「なん」という形は「なんだ」からの類推によって生じた形だと思われる。
78
:
名無しさん
:2011/03/03(木) 09:30:15
近畿内でも類推で「-なんでも」は発生している。
>>75
そこらへんはほとんど資料がないんじゃないかな。
江戸時代初期に無活用の「ない」があったことは分かる。
それよりも前の東国の資料というと、万葉集までさかのぼるのかも。
中世の東国語の記録も皆無じゃないから、何かあるのかもしれないけど。
79
:
名無しさん
:2011/03/03(木) 15:48:46
>>77
>>78
いや、そうじゃなくて(その例が出てくると逆にまずい(笑))
1語の助動詞とされる「なんだ」を解体して、「ぬ」の連用形「なん」+完了助動詞「た(の連濁)」
と理解してしまおうという話(「た」は撥音便に後続すると連濁する。例「読んだ」)
「なんだ」の標準的活用自体は、連濁をおこした「た」の活用としてほぼ完全に説明可能。
伝統文法は形態素について必ずしも厳格ではないので、このような解釈もおそらく許されると思われる。
東海東山ではみかけない形も含めるが、西国の例も含めれば、「ぬ」の活用は次のようになる。
A型:−/ん・なん/ぬ/ぬ/ね・な・にゃ/−
B型:−/ず・ざっ/ぬ/ぬ/ね・ざれ/−
B型は中国四国方面に多い形で、近畿以東に多いA型より1世代前の活用だと思われる。
こう並べると、「なんだ」という独立した助動詞を立てる必要性が怪しくなる。
B型の「ざっ」A型の「なん」近代東国語の「なかっ」は、事実上「た」専門の連用形として並列と理解できる。
80
:
名無しさん
:2011/03/03(木) 17:33:17
八丈方言は打消助動詞は「なか」だが、これは「ない」の古い形と考えられる。
九州方言で形容詞の語尾が「か」となることから、古くは形容詞は「か」語尾だったと思われる。
すると「なかった」は「なか」+「た」と解釈できる。(他の形容詞も同様。終止形と連体形は「い」語尾に変化。おそらく連体形「-き」が「い」に変化し終止形もそれに引っ張られた。)
「ない」が助動詞化したあともこれは引き継がれ、助動詞「ない」の活用は
-/なく・なかっ/ない/ない/なけれ/-
とできる。(未然形「なかろ」は可能だが、方言としては聞いたことがない)
81
:
名無しさん
:2011/03/03(木) 18:44:24
>>80
おいおいw
まず国語史を勉強した方がいいよ。
古文の授業で習った活用のうち、用言の終止形は中世に失われ、
それまで連体形だったものが終止形の役割を担うようになっている。
「起く」の代わりに「起くる」、「なし」の代わりに「なき」を終止形として使うようになった。
「き」はさらにイ音便によって「ない」になった(時期的にはイ音便の方が早いかもしれんが)。
九州方言のカ語尾はカリ活用の残存。
それから、東日本の打ち消し"助動詞"ナイと、"形容詞"ナイを混同するな。
江戸時代初期の"助動詞"ナイは無活用。"ナカッタ"のような形容詞型活用はもっと後に発生している。
82
:
名無しさん
:2011/03/04(金) 21:43:21
>>80
形容詞のカ語尾は
>>81
がいうようにカリ活用から。
カリ活用はさらに遡ると、連用形のクに存在動詞のアリが付いたもの。
「無し」の連用形「無く」に「有り」が付いた「無く有り」が「無かり」になり、
その連体形「無かる」からルが脱落して「無か」になった。
(ルの同様な脱落は、助動詞のタル→タでも起きている)
「無かった」は「無かりたる」、さらに「無く有りたる」に由来する形。
「無ければ」も「無くあれば」、「無かろう」も「無くあらむ」に相当する。
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_142_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_142_e.pdf
これを見ても、「高かろう」が西日本のかなりの地域(特に九州)に現れている。
東海東山方言はこの地図でも特徴的で、「高いずら」「高いら」を初めとする
様々な形が現れ、一地点で複数の形を併用することが目立つのが分かる。
83
:
名無しさん
:2011/03/05(土) 00:16:01
>>82
しかし、それにしても強烈な個性を放つ分布図だね。明らかに「東海東山方言」という区画は存在意義(合理性)を持つ。
そして東海東山方言においては、ギアというより「美濃・尾張・飛騨の3カ国」が異端児(遷移的中間地帯)で、
一体としての東海東山方言の本流は「ナヤシ+三河」であることがわかる。
だが問題はその次だ。この一体となる方言区画の「中心」が、とんでもないところにある。
三遠地域が「隠れた中心」などという、そんなぬるい話ではない。浜松でも豊橋でもない。
地理的中心は「南アルプス最奥部・赤石山脈のど真ん中」に見える。
アルプス一万尺に「天上の仙人の大都会」があって「ずら」や「ら」を広めたというわけでもあるまい。
このような語彙的要素で、内的変化を考えづらい要素において、
このようなとんでもない分布を見せるということは、従来の「年速1km伝播で説明する理論(井上説)」自体、
根本的に考えなおさなければならないという証左なのかもしれないな。
そういえば、井上説は、「14世紀に東京が言語伝播の中心として誕生した」という
どうかんがえても日本史上明らかなトンデモ説を一般向けに書いていたような(笑)
84
:
名無しさん
:2011/03/05(土) 12:32:46
>>83
東海東山方言の地域は山や川など自然障壁が非常に多く、人が全く住んでいない山間地帯も多いから、
あらゆる方向に年間1kmで同心円状に伝播していくと考えるのは無理があるんじゃないかな。「中心」を考えても意味ないだろう。
集落がある程度連続している平地ならともかく、日本アルプスなどがあると当然ながら伝播が妨げられるはずだ。
この地図でも、多くの有名な東西対立する語法要素と同じく、長野・岐阜県境の北部は明確な境界線として機能している。
そして、ナヤシ方言の要素が岐阜県南東部や愛知県東部にはみ出してきているような形になっている。
それよりも東の境界線のほうが興味深い。特に山梨県の境界が、一般の郡内・国中の境界より結構東にずれているように見える。
85
:
名無しさん
:2011/03/05(土) 14:23:19
>>83
東海東山(越後は枠外)を「美濃・尾張・飛騨」vs「三河(+東濃)+ナヤシ」という括りにするのには激しく同意。
「岐阜愛知(ギア)」というのはあまりにも県境に縛られ過ぎ。
東海東山(特にナヤシ)の特徴として「むず」由来の「ず」がある。
「ず」は「ずら」に隠れてあまり話題に上らないが、東海東山をみる上で極めて重要な要素で、
ナヤシでは「-ず」が保存されている場合もあれば、「-す」や「-っ」となったりする。
三河でも「-ず」が消滅して「-あ」となった。
尾張・美濃・飛騨では「む」由来の「-う」が近畿から流入してきたが、山間部などでは
「-し」の形があったりして元々「むず」が広く分布していたことがうかがえる。
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_232_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_232_e.pdf
要は両者の違いは近畿要素の濃淡に尽きる。
>>84
「ずら」は郡内西部や足柄西部まで進出しているのは結構有名。
反対に「べー」富士川以東から見られるから、この辺りは西関東とナヤシの混合地帯で
はっきりとした境界は引きにくいだろうね。
もし近代化がなければ、いずれ「ずら」はさらに進出して西関東全体に広まっていた可能性も大いにある。
(ただ群馬では越後方面から「だろう」の流入も見られる。)
86
:
名無しさん
:2011/03/05(土) 22:43:33
>>84
俺が問題にしたいことのネタは、実はそのレスに現れているんだ。
>そして、ナヤシ方言の要素が岐阜県南東部や愛知県東部に『はみ出してきているような形』になっている。
この『』を通時的にどう解釈するべきかということ。
「はみ出して見える」のだから【静岡や南信から西に向かって『はみ出してやって来た(伝播してきた)』のだ】
と、本当に解釈して良いのだろうか???ということ。
(
>>84
自体をこう解釈していないことを一応付言しておくよ。発展論点ということ)
常識的に考えて、東海道筋で方言要素が西に向かって「逆走する」ことは、近代東京語をのぞけば大変に考えにくい。
おそらくこれは言えないだろう。これは方言地理学上、井上史雄説に対する重大な反対例になるということ。
井上史雄が「年速1km伝播理論」を敷衍した結果、
なんと15世紀室町時代の武蔵野の原野に「脳内中世都市大江戸八百八町」という滅茶苦茶な妄想都市を構築してしまったように、
伝播経路とその速度を考える際には、慎重な配慮が必要ということを、一般的な問題提起としてみたかったということ。
87
:
名無しさん
:2011/03/06(日) 15:41:51
>>86
井上論で考えると東濃・愛知東部は「まだ近畿化せずに残っているところ」ということになるな。
しかしナヤシ要素は長野県北部まで及んでいて、どういう経路でこのように広がったのか
ということが問題になるように思う。
88
:
名無しさん
:2011/03/06(日) 20:05:28
>>87
中部山岳の山脈は、基本的に南西−北東方向もしくは南北方向に伸びているので、
谷伝いに移動伝播したと考えるのは自然なことだと思う。
(自然であることと、実際に起ったことは別問題だが。)
名古屋から長野(善光寺)を経て新潟方面へ向かう交通路を建設することは、さほど難しくない。
静岡から諏訪を経て松本さらに長野へ向かうルートも容易だ。
豊橋から中央構造線沿いというルートも可能で、古代にはこれがメインルートだった可能性も指摘されている。
(いずれも南から北上すると描いてみた。これが自然だと思うが北から南下したという可能性ももちろん存在する)
これらが簡単に設定できるのは中部山岳の山脈の向きによるものであって、
これが、「東京から松本を経て金沢方面へ」となると、山脈を一体何本巨大トンネルで掘り抜くのだ?という話で
途端に凄まじく大変なことになってしまう。
(北陸新幹線が、北陸の経済力に比して遅れに遅れてちっとも出来ない最大の理由はこれだ)
交通路上、一体性の担保は十分に存在すると思う。
89
:
名無しさん
:2011/03/06(日) 21:00:27
愛知・静岡から北へ向かってそれだけ伝播するなら、
糸魚川・上越付近から南下するものは無かったんだろうか。
自分にはどうもいびつな分布に見えるんだが。
90
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:14:02
>>89
それはまさに両者の伝播力が関係してくる。
新潟は親不知をがあるから、陸伝いでの伝播というのはほとんどなく、北方からの伝播はほぼすべて海路から。
地理的背景から、糸魚川・上越は北陸的文法が薄い地域で、越後平野にはあるウ音便がない。
それでも「-う」系は流入しているが、これも越後国境までで、信濃までは達していない。
ここからは推測だが、もともと越後はナヤシ・西関東的な文法だったがのちに北陸的になったのだろう。
魚沼には「べー」が見られるし、推量の「-う」やウ音便の分布の仕方などを見てもそれがうかがえる。
91
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:25:14
>>89
たしかに信越国境(長野新潟県境)で完全に分かれているのは異様ではある。
少なくとも北信は、上越−北信−碓氷−上州という北国街道ルートで結ばれていて、
江戸時代には五街道の次の主要街道、上杉謙信が幾度と無く繰り出した「越山ルート」でもある。
あるいは鎌倉時代の鎌倉街道上道のルートでもある。
ただ、「むず」に関してはロドリゲス大文典に大変興味深い記述がある。
「尾張から東の地方では『んず』を口語の未来形(推量形)として盛んに使う」とある。
多くの助動詞表現と異なり、広義の東国語としての「むず」は17世紀初頭までは遡ることができるだろう。
日本史研究によれば、室町時代前期に、東国と畿内を結ぶ東西交通が事実上途絶した時期があったらしい。
その時期に、越後の「む」/東海東山の「むず」が確定したのではなかろうか。
鎌倉以前でも戦国以降でもなく、室町時代の話ということ。それくらいしか思いつかない。
越後の「う」は中越内陸の豪雪地帯もふくんでいて、沿岸沿いの北前船云々と言うことが難しい。
92
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:31:40
>>91
なるほど。概ね同意できるが
>越後の「う」は中越内陸の豪雪地帯もふくんでいて、沿岸沿いの北前船云々と言うことが難しい。
というのだけは違うと思う。
「-う」は明らかに海路から(しかも結構最近だと思う)に伝わったものにしか見えない。
同様の経路として「さかい」系(「すけ」など)が東北北部まで分布しているので、
これは確実だろう。
93
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:46:56
そもそも北前船は言語なんて伝えてないだろう。
北前船のルートを考えてみるべきだ。
伝わったとしたら陸路。
94
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:55:15
>>93
いや違うだろう。
↓これらの分布が陸路によるものに見えるか?海路であることは疑いようもない。
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_232_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_232_e.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_240_m.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_240_e.pdf
http://whttp://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_033_e.pdf
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_033_e.pdf
95
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 01:58:52
↑理由の分布(上から5番目)
http://www6.ninjal.ac.jp/siryokan_data/drep_siryokan/gaj_map/GAJ_033_m.pdf
96
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 02:05:05
そもそも北前船は言語なんて伝えてないだろう。
北前船のルートを考えてみるべきだ。
伝わったとしたら陸路。
97
:
96
:2011/03/07(月) 02:05:47
誤爆しました。
98
:
96
:2011/03/07(月) 02:22:58
中国地方方面にはそういう語彙を伝えていないのに,
東北方面だけ伝えたと考えるのは違和感。
海路の効果が無いとは言わないが,
海路のみかといわれると違うだろう。
99
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 02:28:55
わかっていると思うが、海路というのは越後〜北奥羽の文法についてだからな。
ギア・ナヤシなんかは陸路だ。
ただ
>>98
言うように理由の「さかい」は東北方面だけに伝わり、中四国は専ら「けん」等を
使い通しているのは不思議ではある。
100
:
名無しさん
:2011/03/07(月) 02:30:28
>>98
横レスになるけれど、「さかいに(畿内語)」と「けん(西国語)」は同源とされていて、
ほぼ同じ表現といっていいので、もともと「けん」を使う中国地方には「伝播しようがない」んだよ。
(「けん」の原型「けに」の「け」が音割れして「(さ)かいに」「さかいに」となったという説がある。
ヴァリエーションとして中間的なものがたくさんあって、何が北陸羽越を北上したのかよくわからない)
101
:
名無しさん
:2011/03/08(火) 00:42:45
>>85
佐久でも碓氷峠を越えて「べー」が流入してきている。
(逆に「べー」が元々あって諏訪か甲州あたりから「ずら」系が
流入してきたのかもしれないが)
102
:
名無しさん
:2011/03/08(火) 00:46:07
>>101
おそらく「べー」が元々あって
「ずら」系が流入してきたのではないかな。
103
:
名無しさん
:2011/03/08(火) 00:47:46
「べー」が「べき」に由来する以上、それが古く、
後から「ずら」が進出したんだろ。
104
:
名無しさん
:2011/03/08(火) 13:03:57
それにしても「ずら」の成立過程は謎だ。
「つら」が変化したという説もあるけど、
「であらむず(だらず)」に「らむ(ら)」がついて、
「だらずら」となり、「だら」が抜けて「ずら」となったというこはないだろうか?
107
:
名無しさん
:2013/01/23(水) 20:05:59
>>101
佐久のダンベは勧誘限定。
「〜やんべえ」の形で使う
推量は
「そうだらず」と「そうずら」
108
:
名無しさん
:2013/01/26(土) 19:03:50
>>62
江戸時代じゃ遅すぎる。
現状において「ない」と「ん」が併用されてないと。
109
:
名無しさん
:2013/02/18(月) 04:15:19
http://www.zoone.com/gengo/gengo10/gengo10.html
>否定の助動詞に「ン」を用いるのは西部方言の特徴の1つ。
>行かん・せん・くわん・やらん等。
>関東語は「ネェ」を使う。しねぇ・行かねぇ・やらねぇ等。
>「ン」と 「ネェ」の境は鳥居峠乃木祖村薮原と小木曽の間にある。
>(木曽の方言より)
110
:
名無しさん
:2014/04/28(月) 14:03:40
てすとずら
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