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知能指数はその時代の人間の認識の平均を100としただけ

1名無しさん:2012/01/23(月) 20:26:08
なんの事は無い。知能指数なんて生き方次第でいくらでも変わる。
何なら僕が皆の知能指数を上げる事もできる。

21:2012/01/23(月) 20:44:58
と、言っても不特定多数の人間が閲覧できる場所で他人の知能を上げる事は問題がある。
むしろ問題しかない。
アインシュタインは日本に原爆が投下されたと知った時に涙を流したとされている。
自分の研究が兵器に利用される事は本意では無かったのだ。
しかしそれは仕方の無い事だろう。
一人の人間が成せる事など大きく無い。
彼のように人類の進化に貢献したのならそれ相応の反動があるはずだ。
光ある所に闇ができるのは摂理だから。
と言う事でもし知能指数を上げたい人がいるなら友達になろう。
さて、アインシュタインは生涯英語が苦手だったとされているし簡単な計算もできなかったとされている。
なぜだかわかる人がいるだろうか?
やはりこれも知能なんてものは意識の問題でしかないと言う答えに帰結する。

31:2012/01/23(月) 21:17:14
うは。調子こきました。サーセン。
なんか雰囲気で言ってみましたwwww

4名無しさん:2012/03/17(土) 03:27:17
知能指数を上げるのも自分を磨く手段の一つとなるならばぜひあげていただきたいと思います。
なにより、あなたのお話は興味深いです。

5名無しさん:2012/09/02(日) 09:07:49
>>2

脳機能って片方動かしてると
片方動かないから

片方猛烈に天才的に動かしていたら
片方ほぼ全く機能していないんじゃないか、と・・

6名無しさん:2012/09/02(日) 09:17:54
>>2
人類の進化に貢献した人間に反動なんてあるのかな
むしろアインシュタインの能力を悪用した人間に天罰が下ったのではないか?
アインシュタインさえ最後「公式」につかまってしまった。とかものの本に
書いてあったけどさ
俺は違うと思うね
自分の能力を悪用されたことで快楽物質が出なくなったんだと思うね
快楽物質どころかストレス物質が多量に放出されて
ほぼ鬱病のような状態で脳機能がただ低下していたんだと予測する

こういう事書いて大丈夫かな・・

7名無しさん:2012/09/02(日) 09:24:44
ただ数学的思考に公式などの枠を先に設ける事が数学的思考の障害に
成り得るってのは無学な俺には少し面白かった

へえ〜って感じだった。

学びたいものには誰にも間口は開かれているということ

必ずしも大学校で学問しなくても
難解な公式などは
むしろ自然界からの方が学べるのではないか、と

8名無しさん:2012/09/02(日) 09:30:07
アインシュタインみたいに人々の暮らしなどに役立つ発明に心血注ぐことから
「神の贈り物」と名がついたんだじゃないかな?

悪用されたら、忽ちショートしちゃう訳だから

9名無しさん:2014/12/09(火) 09:10:13
知能で人を測るなんて馬鹿げてる。
知性は知能ではない。
知性には倫理が含まれている。
倫理観の低い知性というものは存在しない。
よって知能が高くとも倫理観の欠落した者は知的ではない。

10名無しさん:2014/12/11(木) 00:44:46
>>9
うおおおおおおお
大賛成
俺はなんか格言っぽくしたくて「知性なき者に倫理はない」なんて言ってたんだけど

11名無しさん:2014/12/11(木) 13:06:59
>10
それで、絶対的な倫理観とはなにか。となりますよね。

>7
とりあえず公式を当てはめろと言われて、
何をしよう(解こう)としているのかがくぐもるのが
嫌でたまらなかった小学校高学年→算数キライ!

1210:2014/12/13(土) 02:06:24
絶対的な倫理観はないよね
倫理は社会が上手く回るための、人による人のためのルールで、人間の視点で作られるものだから
思考の足りない人は、平気で人を不幸にするよね
理不尽に値下げしろーって要求したり、他にも色々
囚人のジレンマって大ッ嫌い

あと様々な事柄について思考を深めたほうが、勉強の効率が上がるよね
理解できないものを必死に考えて放置して、一見関係ないことばかりをやって、久々にもう一度やってみると驚くほど簡単に理解できたりする
水平思考と垂直思考の両方すると楽しいな

13名無しさん:2014/12/15(月) 17:33:56
上っ面には関係がないとおもいつつも
意識と無意識のあいだでその周辺を探索していたりして
人間の臭覚はすごいなぁとおもう。

ところで、
絶対的な倫理観などない、と言い切れるほど
人間の愛や知性や聖性への認識は単純なものだろうか。

「真理とは何か?」
ポンテオ・ピラト

14名無しさん:2014/12/21(日) 18:31:55
>>12
確かに、色々なことをやった方が結局効率がいいし、やってて面白い。
成績が伸びない人間ほど、最小限の努力で最大限の結果を求めてるけど、何度も何度も忘れてその度に繰り返し繰り返し暗記するんだからそりゃ時間かかるし、精神的にも苦痛だよね。世界史とかも最初っから深い勉強してれば1周や2周やるだけで大抵の受験問題は解けると思う。

絶対的倫理観はあったとしても、自分たちの生活にかかわる段階までおりてくると、絶対ではなくなってるっていうのが、僕の個人的思想です

15名無しさん:2014/12/24(水) 12:36:36
「理想」と「生活」が解離しすぎているということか。
しかしこの解離を産んだのは、人間の愚かな欲望だろう。

生活を中心に捉えるか、聖性の探究へ分け入るか。
双方が重なり合うなら、そこでこそ知性が繁栄するだろうね。

16名無しさん:2014/12/27(土) 19:32:32
知能で人を測るなんて馬鹿げてる。
知性は知能ではない。
知性には倫理が含まれている。
倫理観の低い知性というものは存在しない。
よって知能が高くとも倫理観の欠落した者は知的ではない。

17名無しさん:2014/12/29(月) 22:25:15
異才発掘プロジェクト
「ROCKET」(Room Of Children with Kokorozashi and Extraordinary Talents)
なるものが日本でできたらしい
すでに昨日 開校式だったらしい

「こころざし」とか「おもてなし」とかw 日本キャンペーン?w

18名無しさん:2015/01/04(日) 10:28:14
生活と倫理は本来乖離するものじゃない
社会の中でよりよく生きるにはどうすればよいか、幸福とは何かを考えるのが倫理だもの
倫理は机の上でやるような学問じゃないと思う

最後に明けましておめでとう。

19名無しさん:2015/01/05(月) 16:03:59
Bonne année !


もちろんこれは乖離するべきではない。が、乖離しているのが現実では?

日本語の「倫理」は、ことわり・人の道、というような意味だが
学問としては、倫理/政治/経済と括られ、つまり
社会「ぜんたい」の幸福の探求の一側面ということになっているが、
「ぜんたい」のために「政治」がやっていることが
必ずしも個の恒久的な幸福に繋がっていないという、現実がある。

かといって、個の幸福がすべての人の幸福と無関係であるはずはない。
世界のどこかで目を覆うばかりの現実があるのに、
自分が満たされているからといって、
自分は幸福だと叫ぶことのできる人はおそらくいないだろう。
(いないことを願う)

乖離しているのは、生活と倫理ではなく、
生活と理想であると上述した。
生活という幸福が富に依存するような仕組みを作り上げたのは
人間の愚かさそのもの。

20名無しさん:2015/01/08(木) 21:55:18
反応ありがとう。嬉しいよ。


人間は大して賢くも優しくもないが、生活の中で個々人が善くあろうとしている努力を忘れるべきではない

19の言葉を借りて言うなら、目を覆うばかりの惨状を尻目に自分は幸福だと叫ぶ人を何人目にしようと、それは失望するようなことじゃない


個の幸福と全体の幸福か。

21名無しさん:2015/01/22(木) 23:37:04
知能で人を測るなんて馬鹿げてる。
知性は知能ではない。
知性には倫理が含まれている。
倫理観の低い知性というものは存在しない。
よって知能が高くとも倫理観の欠落した者は知的ではない。

22名無しさん:2015/06/03(水) 19:04:43
倫理というのはよくわからないな。
結局好き嫌いでしかないのではないか。
僕は本当にそれが自分のために良いことだと思えるならば人くらい殺すつもりでいる。
これは倫理的ではないのだろうか。

23名無しさん:2015/06/05(金) 08:37:53
えぇ!?
でも、自分のためだけには人間は生きられそうもありませんよ。
だから大丈夫です。
知性や感性を、どう道徳や倫理に変換していかれるか、
それが人間性を左右すると思います。

24名無しさん:2015/06/05(金) 12:54:28
いや訂正、そうとも言い切れないな、恐ろしいのは、
共感性がもともと低く、その意欲も育まれ損ねた発達障害者の場合、
極端に自己中心的・自己本意な行動をとることがあるから。
それが名古屋大女子みたいなケースかと…

25名無しさん:2015/06/05(金) 13:12:41
良心ある振る舞いが良心抜きにやれるならば、良心などないほうが良いのだよね。
結局、他者に対してその意志を妨げるような行為をすることが自分にとっての不利益になるような仕組みが社会によって担保されており、その成員の能力(想像力かな)が一定以上あれば、良心とか共感などなくともある程度住みよい場が作れると思うのだ。
むしろ、罪悪感や中途半端の倫理に束縛されないぶん、良心に期待されている働きをより高いレベルで実現できるだろうと思う。
共感だとか倫理だとかはそれをやれない頭の悪い人たちのために自然が設けた(というのは目的論的過ぎるかもだが)安全機構。

26名無しさん:2015/06/05(金) 13:15:53
倫理がなければ知的ではない、なんて知能の低い人のコンプレックスの裏返しみたいじゃないか。

27名無しさん:2015/06/05(金) 14:08:52
でもそれだと、ロボットじゃないですか?
人工知能でもいいけど。

28名無しさん:2015/06/05(金) 14:14:09
倫理観の理想じたいがが中途半端、というかバラバラな世の中であることは確かですね。

29名無しさん:2015/06/05(金) 14:14:40
人間だって自然現象ですよ。
人工知能と本質的に相違ない。
少なくとも客観的には。

30名無しさん:2015/06/05(金) 14:16:07
まあそう考え始めると生きることに意味があるというフィクションが壊れてしまうので、人は「人間の生は特別なのだ」と考えがちですが。

31名無しさん:2015/06/05(金) 14:25:49
セネカとかはそんな感じのこと言ってましたよね。
セネカが教えたのは皇帝ネロですが…

32名無しさん:2015/06/05(金) 15:25:54
それをフィクションとする立場にあなたが立っている、ということは
その見方はすでに客観的でないです。
誰にもできないと思うんです。

だから、過去の出来事の顛末から学ぶこと、そして信じることしか人間にはできない。

33名無しさん:2015/06/05(金) 15:36:29
もちろん、主観的な自己を疑い得ないというのは認めます。

先に出したフィクションというのはノンフィクションに対置されるものではなく、むしろ普遍性とか純粋な客観と対になるようなものです。
ですから、すべては信仰であるというあなたの発言と矛盾はしません。

なにもかもが信じることしかできないものならば、物事はすべて我々の好悪の次元から始めねばならないということでしょう。
生物的な、身体的な欲求と言い換えても良い。
自分が信ずることが正しいとすることもまた信仰なのですし。

34名無しさん:2015/06/05(金) 16:29:15
ロボットか動物かですか、どっちも嫌だな。

35名無しさん:2015/06/05(金) 16:37:08
あ、でもこの、「嫌だな」っていうのは、大事ではないですか?

「信仰とは、望んでいる事柄に
対する、保証された期待であ」る。

36名無しさん:2015/06/05(金) 16:43:08
そこがあなたの信仰なのでしょうね。
僕は別にそれを嫌だとは思わないのですが。

37名無しさん:2015/06/05(金) 23:44:15
自分でもそう思いました、ちょっとこれ、泣けてきます…

38名無しさん:2015/06/06(土) 08:26:18
大切にしたり、選ぶべきものが何なのか、よりはっきりしました。
分解する必要のない感覚的な部分は、やはり、それが美しい限り、弁護するまでもないと思います。
またまた〜とか言われそうですが(笑)。

例えば、あなたが目の前にいたら、きっとわたしはあなたに愛着をもつでしょう。それを躊躇する必要はないのですから。

39名無しさん:2015/06/06(土) 13:50:25
そうですね。
我々は結局、今の一瞬に自分の感じていることからは逃れられない。

40名無しさん:2015/06/08(月) 11:17:50
正しさ(善悪)については、さておき
(それはより高次からのジャッジが必要だとわたしは考えるからです)
信じるということについて。
人はたいてい、自分の望むほうを信じるように思えます。当たり前ですが、
すべてのことにおいて無意識にも、信じたいことを信じているということです。
つまり「何を望むか」によって、その人の思う「倫理観」が作られる。
このスレッドのテーマに適うかどうかわかりませんが、
個々の倫理観は知能やら知識(ももちろん必要ですが)だけではなく
望むこと(動機)に「厳密に」左右される。
というのはどうでしょうか。

41名無しさん:2015/06/08(月) 13:41:53
無意識、これは身体と言い換えても良いかもしれませんが、それがその人の思考を規定するものとして(言語以前の段階として)厳密に存在する。
ゆえに個々の倫理はそこにおいて絶対性を持つ、ということでしょうか。

実際のところ現代の道徳というものはその辺に立脚していると思います。
例えば人を殺してはならないのは、殺されたくない人間が大多数だからです。
そもそも生きるということそれ自体が、論理的必然をもつものではないのですから、我々がこうして生きていること自体が身体のレベルで規定されていると言える。

42名無しさん:2015/06/08(月) 13:48:36
つまり「自分のままならなさ、不自由さ」こそが大切であると。

43名無しさん:2015/06/08(月) 16:12:26
あれ? 36さんと39さんは別の方ですか?

40ですが、41さん(36さん?)へ
そうですねぇ、おっしゃることによってあなたが示したいことと
わたしが示そうとしていることは違ようですが、でも!
おっしゃっていることはわたしにもわかります。
(やはり人は意図を持たずには考えられないと実感…)

そしてこれをお聞きして深められることといえば、
欲動のレベルにおいて、と
その欲動に理性(による様々の選択)を追加したレベルにおいて、そして
その欲動に理性と(外部から得た)理想を併せたレベルにおいて、で
人間が「望むこと」はずいぶん変わってくる。ということでした。

(こういうことの専門でないので語彙がなくてすみません)


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