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日蓮仏法広布史の功労者を讃える

2ほろほろ馬:2012/04/02(月) 03:24:04
1、日印

日印(にちいん)

1264年 - 1329年1月20日(嘉暦3年12月20日)
幼名 摩訶一丸
生地 越後国寺泊(現、新潟県長岡市)
宗派 法華宗陣門流・日蓮宗六条門流
寺院 本成寺
師 日朗
弟子 日静、日順
廟 法久山妙蓮寺

日印(にちいん、文永元年(1264年) - 嘉暦3年12月20日(1329年1月20日))は、法華宗・日蓮宗の僧。北陸道の越後国寺泊(現在の新潟県長岡市)にて生誕。鎌倉殿中問答で全宗派を論破した。

鎌倉殿中問答
時は鎌倉時代、朝廷の帝は後醍醐天皇、幕府は征夷大将軍が宮将軍の守邦親王で執権が得宗家の北条高時である。幕府執権高時は既に亡き日蓮の弟子の日朗(六老僧)に幕府殿中にて諸宗との問答対決の命を下した。日朗は高齢のため代わりに門下の日印を討論に向かわせ、文保2年(1318年)12月30日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけて、問答対決を行った。これがいわゆる「鎌倉殿中問答」(弟子の日静が記録に残す。)である。結果、日印が諸宗派をことごとく論破し、題目宗の布教を鎌倉幕府は許した。これに負ければ日蓮門下は取り潰しだったとされ、その勲は賞賛されるべきものだった。また、この問答の代表に選ばれたということは当時の日蓮門下のエースだった証拠でもある。

法脈

日印が8歳の文永8年(1271年)、佐渡ヶ島(佐渡国、現在の新潟県佐渡市)へ流される途上で越後国寺泊に来ていた日蓮に会ったことが有るという。そこで日蓮に摩訶一丸の名を授けられた。摩訶一丸が後に僧となり、正しい仏法を求めて日本の諸国を巡った時、既に日蓮は他界したと知った。そのため、日印は日蓮の弟子で六老僧の一人である日朗に師事した。そこで法華経の教えを極め、幕府殿中にて全宗派論破する程の学識を得た。

弟子
日静 ― 日印の問答を鎌倉殿中問答の題で執筆した。父は上杉頼重(藤原北家系で室町時代に関東管領などの大名を出す上杉氏2代目)で、母は足利氏の娘である。日静の弟子が日陣(法華宗陣門流の門祖)と日伝(日蓮宗六条門流)であり、ふたつの門流で日印の法脈は現在へ流れる。
日順 ― 本法寺(富山県富山市八尾町)を開く。


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