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【読書会】ユダヤの告白【資料収集】

25名無しさん:2013/07/25(木) 00:48:00
ドイツ共産党
ドイツきょうさんとう Kommunistische Partei Deutschlands

ドイツの革命的マルクス主義政党。略称 KPD(カーペーデー)。第1次大戦前のドイツ社会民主党左派から発展して大戦中に独自の組織を形成したスパルタクス派 Spartakus Gruppe(インテルナツィオナーレ派 Gruppe Internationale)と,ブレーメン左翼急進派 Bremer Linke などから1918年に結成された。

 スパルタクス派は,ローザ・ルクセンブルク,K.リープクネヒトらを指導者として組織され,政府の戦争政策を支持する党主流派に反対し,反戦と革命行動を唱えて非合法誌を発行し,この誌名がグループの呼称となった。1917年独立社会民主党(USPD)が創設されると独自の組織を維持しつつこれに属した。18年の十一月革命後,スパルタクスブント(スパルタクス団)Spartakusbund と改称,獄中にあった指導者の解放とともに機関紙《ローテ・ファーネ Rote Fahne》を発行して,社会民主党を批判,社会主義革命実現を掲げて活動した。一方,左翼急進派はボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)との連絡を持ち,大戦中から独自の党建設を主張した点に特色がある。革命後ドイツ国際共産主義者を称し,ブレーメンでの革命政府樹立を指導したが,両者とも組織基盤はなお弱体で革命の推移に大きな影響力は持たなかった。18年12月,スパルタクスブントが独立社会民主党から分離すると,両者は12月31日合同してドイツ共産党を創設した。

 ルクセンブルクら指導部はドイツ革命の長期的過程を想定していたが,党員の多くは当時の革命状況を過大評価し,国民議会選挙不参加を決定,19年前半の各地の蜂起に加わった。共産党は小勢力であったが,政府・ブルジョア層は革命の進展を阻止する観点から,あらゆる蜂起やゼネストをスパルタクスの名と結びつけ厳しく弾圧,19年1月にルクセンブルク,リープクネヒトが,3月にはヨギヘス Leo Jogiches(1867‐1919)が反革命軍に殺害され,党は有能な指導者を失った。党内にはサンディカリストも含めたさまざまな潮流が存在しており,後継指導者レービ Paul Levi(1883‐1930)は19年10月の第2回党大会で組織拡大に重点を置いた指針を採用,反対派を排除した。党員は半減したが,党の統一は強化された。この間共産党は19年3月のコミンテルン設立に参加,その一員となり,ドイツ革命に期待するボリシェビキ指導者の指示をも受けることになった。

 20年12月,独立社会民主党のコミンテルン加盟に伴い,同党は共産党に合流,統一共産党が成立し,党員数36万の大衆政党となった。21年の三月行動の失敗でレービらが党を出たが,コミンテルンの大衆路線に従って統一戦線戦術を採った後,経済状況の悪化などもあって青年労働者を中心に勢力を拡大した。23年夏以降,革命情勢が到来したとの判断から共産党は蜂起を計画したが,これは11月に失敗,ブランドラー,タールハイマー指導部は失脚した。24年からの相対的安定期に入ると党内では路線対立が激化,コミンテルン,ソビエト連邦共産党内部の対立とも重なって,有力指導者の除名や路線の混乱が続いた。こうした事態はコミンテルンの介入を強める結果となり,ソ連共産党に範を取ったボリシェビキ化と呼ばれる組織改革やルクセンブルク的思想の批判がなされ,党の官僚化とソ連への従属が強まった。27年テールマンを議長とした左派と中間派の指導部が成立,翌28年,ベルリンのメーデーでの警察との衝突やコミンテルンの左転回の後,社会民主党を主要敵とみなす社会ファシズム論による左派戦術が強められた。30年以降,大恐慌下で勢力を伸ばし,32年11月の国会選挙では600万票とこれまで最大の支持を集めた。共産党はナチスの危険性を認識してはいたが,左派戦術を変えなかったため,対応は一貫性を欠いた。党は中部ドイツやルールなど有力工業地帯に拠点を持ったが,労働組合や工場での足場が弱く,その活動力も結局社会民主党の壁を突破できなかった。


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