ルクセンブルクら指導部はドイツ革命の長期的過程を想定していたが,党員の多くは当時の革命状況を過大評価し,国民議会選挙不参加を決定,19年前半の各地の蜂起に加わった。共産党は小勢力であったが,政府・ブルジョア層は革命の進展を阻止する観点から,あらゆる蜂起やゼネストをスパルタクスの名と結びつけ厳しく弾圧,19年1月にルクセンブルク,リープクネヒトが,3月にはヨギヘス Leo Jogiches(1867‐1919)が反革命軍に殺害され,党は有能な指導者を失った。党内にはサンディカリストも含めたさまざまな潮流が存在しており,後継指導者レービ Paul Levi(1883‐1930)は19年10月の第2回党大会で組織拡大に重点を置いた指針を採用,反対派を排除した。党員は半減したが,党の統一は強化された。この間共産党は19年3月のコミンテルン設立に参加,その一員となり,ドイツ革命に期待するボリシェビキ指導者の指示をも受けることになった。