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721名無しさん:2014/10/05(日) 11:42:52
6〜8世紀、日本は半島の百済系・新羅系渡来民の勢力争いの舞台だった。
当時の日本の政変は半島及び日本における百済・新羅勢力の抗争の影響を抜きには語れない。
蘇我王朝は百済系のため、百済語は当時の日本で公用語のごとき扱いで百済人と意思の疎通は十分だった。
新羅人との会話には通訳を必要としたらしい。
「乙巳の変」は百済系蘇我王朝に対する新羅系孝徳のクーデターという説は有力。その証拠に孝徳政権ブレインはみな新羅系。
その後孝徳と対立した天智は百済派。「乙巳の変」で蘇我を殺した立役者との整合性が今ひとつではあるが。
いずれにせよ天智は半島に軍を送って百済支援を図ったが白村江で大敗。百済は滅亡し、貴族・官僚が多数日本に亡命した。

「橘は己が枝々生れれども玉に貫くとき同じ緒に貫く」(『日本書記』天智天皇十年正月)
(亡命百済貴族多数に官位を授けたことを風刺して歌われた)

日本の大王・有力氏族は半島王室と同ルーツ:この場合百済、だということがよくわかる。

ちなみに天智〜弘文朝を壬申の乱で倒した天武は、天智の弟(大海人王子)とされるが出自に謎が多いことは有名。新羅系王族との説もある。
天武を支えたのは新羅系氏族であり、政権樹立後、天武は親新羅政策をとり百済系氏族を排斥した。
唐とも直接国交は持たず、新羅を通じての間接外交によった。天武時代の仏教は新羅僧が中心である。
日本書紀の推古朝編纂も新羅で学んだ僧の手になる。聖徳太子の十七条などにはその後代の学問影響やくせが反映されており編纂者の創作説が根強い。
太子そのものが創作である可能性は極めて高い。




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