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上海雑伎団スレ【第三十七幕】

486光葵:2011/01/29(土) 12:49:44 ID:M9N7WZ5w0
いまここに生きるは、これ悟りなり^^


ttp://www.geocities.jp/kytyparis/kyty9.html
「修証これ一等なり」

一般的には修行して、修行の結果として最後の到達点として
悟り・解脱というものがある、と考えるわけです。しかし、
仏の教えでは、修行と悟りというものは一つなんだとする。

我々が修行しているこの修行も、悟りの上での修行というこ
となんです。悟りの上での修行であるから、初心者の修行と
いうことです。初心者の修行が、そのまま、本来の悟りの全
体である。

そうであるから、修行の心得というものを授ける
場合でも、修行の他に、悟りを期待する。そういう期待する
思いがあってはいけません。どういうことかというと、修行
というのは本来の悟りそのものであるからです。修行が悟り
であり解脱ですから、悟り・解脱に終わりがないのです。
 
フルマラソンに譬えますと、四十二・一九五キロ走るわけで
すね。そうしますと最後まで走りきってゴールをした。その
ゴールをした時に途中の一歩一歩が大切であったと思うんで
す。

つまり一歩一歩がなかったらゴールがないわけですから
。苦しい時もあると思うんですね、それだけ長い時間走りま
すから。もしあの時挫折していたら、諦めていたらゴールは
なかったろうとか、あの時踏ん張ったからゴールがあるんだ
、というふうに思うんですね。結局最初の一歩も途中の一歩
一歩も、その一歩一歩の中に全体があったんだと。

つまり全体は一歩一歩がなかったら全体もなかった、というような意
味なんですね。

修行も同じで、その一瞬一瞬の精進努力がなかったならば、
その最後の悟りもない。だからその「一歩一歩がもう悟りそ
のもの」と言えるんだと。

何を言っているかというと、「今、ここ」ということしかな
いということです。「今の生き方が大切だ」ということです
から、今以外の別のことを考えてみても、例えば来年はどう
だとか、あるいは明日のことを考えてみても、それがあるの
かどうかということはわからないわけですよ、諸行無常です
から。

また過去を我々は振り返りますね。過去を振り返って、若い
頃は良かったとか、あの頃は健康だったけど今は大分身体も
衰えてしまったとか、そういうふうに過去を懐かしんでも決
して過去には戻れません。で、結局私たちは変わっていく。
年老いていく。そういう中でほんとに過去のことを、若さや
健康を懐かしんでも仕方がない。これからさらに老いていく
わけですから。

だから結局一瞬一瞬「今、ここ」ということ
を、これが有り難いんだと思って、真剣に大切に生きていく
。それしかないんだという、そのことを悟るんですね。


そのことを悟った時には、その悟りというのがもう結局先に求め
るものではない、ということになるわけです。だから「今、
ここ」という生き方をしている人は、それはもう悟っている
人なんだと。そのように生きるのが修行だということです。


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