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上海雑伎団スレ【第三十七幕】
224
:
もぎりの名無しさん
:2011/01/18(火) 06:34:42 ID:zvGlrezY0
>>204
認識の変更の参考になります。
697 :画家 ◆utHkaCg902:2010/12/26(日) 19:48:51 ID:/uHkO2eY0
>>694
私は全ての望みが叶ってるわけではありません。
しかし叶った望みが連鎖反応的に展開してゆくのは見えます。
あなたのニーズを満たすかどうかは解りませんが、敢えて書いてみますね。
私はかつて、望み(夢や理想と言ったもの)と恐れを取り引きした人間でした。
自分に望みが在る限り、恐れは消えない、故に望みを放棄して恐れを消滅させたい。
そんな狂気があったのでした。
それが狂気だとわかったとき、私の望みは先ず
「自分が何を望んでいるのかを知りたい」
ところからの出発でした。
今でも私は常に「自分がほんとうは何を望んでいるのか」と問い続けています。
7章を見たいために108氏を引き寄せました。
これは私にとっての最終的な福音でした。
それは諸条件をクリアして何かを得ることに対する虚妄性を感じていたからです。
いくらありがたい本を読んでもこのシステムからなかなか抜けられませんでした。
何かを得たいのならば、何かをせよ、と言うわけです。
よく見受けられる「7章認識(7章体得?)すれば願いが叶う」
このロジックを見破ってください。
A:願望をかなえるために何かをしなければならない。
(何かを知らなければならない)
この何かが願望実現への抵抗になってしまう。
これを突き破ったのが7章ですが、
7章認識(7章体得?)すれば願いが叶う、
というのはAと同じスタンスです。
7章認識なるものが条件になってしまっている。
これでは条件付けされた古いパラダイムを生きているのと同じです。
7章に書かれているあり方を選択すれば根底的な抵抗が外れる。
そのときどんな気分になるか。
その気分を見てください。
その気分で生きることが7章が提唱していることだと思っています。
徹底的に遠回りをした私が敢えて言えることがあるとするならば、
望みが叶うことを「待つ」のはおやめになったほうがいい。
ましてや「何かをやったのだからその代償として望みが叶うことを待つ」のはお勧めしません。
望みを待つより今、喜びに生きてください。
願望実現を喜びの条件にするのも(願望が実現したら自分に喜びを許す、ことも)同じです。
喜びを願望実現に隷属させないで下さい。
あなたが欲しいものは願望の実現ではありません。
あなたが欲しいものは喜びに生きることです。
喜びに生きること以外、ここには何もありません。
ですから思い切って「私は喜びに生きてもいいのだ」と許可してください。
何でもいいのです。
どんな小さな喜びであってもです。
その願望が叶っても叶わなくてもです。
願望の実現はその喜びに対するおまけみたいなものです。
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