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上海雑技団スレ【第三十五幕】

1山田君 ★:2010/11/21(日) 10:39:31 ID:???0
立てておきますー

2chi_san:2010/11/21(日) 11:53:40 ID:RkYcYn9w0
こんにちは。ここ数週間クレさんの「なる」というのを実践してます。
今特定の人からベタ惚れされているに「なって」いますが
わたしの最終的な目標は理想の人と結婚するです。
いまベタ惚れされている人はまだ性格も知らない人です。
この場合、最終的な目標である理想の人と結婚するわたしに「なった」
ほうが、賢明なんでしょうか…
私は特定の人も、理想の人も手に入れたいのです。
どなたか、助言頂けたら本当に嬉しいです。
よろしくお願いします

3もぎりの名無しさん:2010/11/21(日) 15:02:08 ID:ENiNPSjkO
痩せたい。
『願望=実現』
なはずだけど痩せない。

エゴが出てきたら
『別に痩せなくてもかまわない』
と言ってみるが、
痩せない。

別の領域に任せているのに、
痩せない。

任せていると思ってるだけ?
でも私は別の領域に任せてると
断言してるんだけどなー…

現象化しない

4もぎりの名無しさん:2010/11/21(日) 23:46:12 ID:7fksEjCQ0
上げついでに。
投影は自分が否定しようが何だろうが、作動中なんじゃなかったっけ。

5もぎりの名無しさん:2010/11/21(日) 23:57:37 ID:66lV647I0
>>998
こちらこそ変な質問に付き合わせてしまい申し訳ないです。
私は自分の肉親を病気が原因で亡くしています。
現実が内面の投影なら、それも自分の創造だと受け入れるべきかと迷いました。
「投影論が真実なら死はない。死は単なる投影である。」理解できます。
でも悲しいです。それを自分の創造と受け入れるのは投影であってもきついです。
そんな悲しいことも全部ひっくるめて現実=内面の投影なんじゃないかと思います。
現実=内面の投影を完全に受け入れるとはそういうことじゃないのかなと。
それで違うのかどうかここで聞いてみようと思いました。

6もぎりの名無しさん:2010/11/22(月) 00:13:06 ID:6LFxnKt20
横です。そして流れとはまた別の質問。

現実が内面の投影ってことが今話題になっているけど

自分を知りたければ、
世界(友人・知人、今現在の自分が置かれている状況、職場、住んでいる家・・?)
を見ればいいってことかな。
そこに全て投影されているんだから。

それが自分だ。
自分は世界とするなら世界は自分だ。

世界を見れば自分が分かる、ってことなのですか?

7もぎりの名無しさん:2010/11/22(月) 00:17:04 ID:UvYg.TjM0
>>6
そんなあなたにこれをト゛ソ゛ー(★´・∀・)つhttp://108.houhu.net/archives/161

855 ◆52uE3j0pa6:2010/11/22(月) 00:18:12 ID:o9z6Jxt.0
>>1
山田君さん、いつもありがとう。

前スレ>>986さん
極私的には、時間はない。
時間もなければ死もないと言えると思うのです。
事実として、今、私は過去と未来を体験することが出来ないし、
今、私は死んでいない。

けれど、縁としてはあるよなあ、とね。
いつか誰かの死を経験し(肉体のお別れが存在のお別れではないとしても)、
いつかある日のタイムスケジュールに沿って動く私がいる(明日何時に待ち合わせとか)。

前スレ>>999クレさん
縁とは、連続性であると言えるし、世界そのものであると言えるでしょう。

時間と死を完全に採用しないというのは、縁を切るということ、
すなわち世界を捨てるということに等しいと思った次第です。

しかしながら、縁の中にいることと、縁に依存することは違いますけどね。
依存しないことで、縁の中にいながらなお、縁から自由であることが出来ると考えます。

例えば、

> 時間という概念を採用しているということに気付いた時点で、
> もうほとんど時間概念を採用していないのかもしれない。

も然り。

9NASA局長:2010/11/22(月) 00:53:26 ID:6qaLjB1YO
>>1
>山田くん(http://www.amazon.co.jp/dp/4883202933/ref=mem_taf_books_d)乙ですわ!






『なにぶんにも実行的な愛というものは空想的な愛に比べると、はなはだ残酷で恐ろしいものでな。
空想的な愛はすみやかに満足のゆく急性な成功を渇望し、すべての人に注目されることを望むものです。
こうなるとまったく、時間があまり長くかからず、まるで舞台の上のことのようにそれができるだけ早く成熟し、
みんなの注目を浴び、みんなに褒められさえすれば、一命を投げ出してもよいというほどになってしまう。
ところが実行的な愛は‥これはまったく労働と忍耐でしてな。それどころかある者にとっては、あるいは立派な学問かもしれぬ。
しかしここで前もって言っておくが、あなたがいくら努力をしても少しも目的に近づかぬばかりか、かえって目的から遠ざかるような気がして、
歴然としてその事実を見直すその瞬間、
まさにその瞬間にこそ、あなたは忽然としてその目的に到達することができるのです』

ドストエフスキー/カラマーゾフの兄弟より

10もぎりの名無しさん:2010/11/22(月) 01:02:48 ID:OIKGF.yw0
>>7さん

ありがとう。
張ってくれたところから抜粋する。

>>あなたの目に映るものや体験している状況は、あなたの内面の完璧に正確な投影なのです。
>>ところがあなたは、これに対して即座に採点を始めます。

>>「ダメだ。こんなのは私の望んでいた結果ではない」
>>「どうしてこういうときに限って、晴れじゃなくて雨なんだよ」
>>「なんでこう、うまくいかないのかな」
>>「思うてたんと違ーう!!(笑い飯:M-1グランプリ2008)」

>>既に投影として結果が出ているものに対して、更に採点を始めてしまいます。
>>しかも面白いことに、その採点方式はことごとく「減点法」です。

>>減点法の特徴は「どれだけ不足しているかを測る」ということです。
>>内部の完璧な投影である現実に対して「不足」という属性を与えてしまう。
>>何故我々が、自分や現実を「減点法」で採点してしまうのか。
>>それは「こうあるべき」という理想を持っているからです。
>>望む「理想」と、現象として現れた「現実」に差異が生じてしまうため、その差異を「不足」として捉えて採点してしまうのです。


以上に部分的に抜粋しました。

ここまで読んでハッとしたのは
>>何故我々が、自分や現実を「減点法」で採点してしまうのか。
>>それは「こうあるべき」という理想を持っているからです

この記述。確かにそうだ。
「こうあるべき」という理想を持っている、ということは
すなわち現状を完璧だと認めていない、ってことだ。

今まで自分は「完璧」について誤解していたかもしれないと思った。

今まで自分が解釈していた完璧は
「よし、完璧だ。今はこういった現状だけど
 『完璧だ』と認定したらきっとうまくいくから『完璧』だと認定しよう。
 きっと今はだめだけど、『完璧』に事態は流れるにちがいない」

と解釈していた。

でも108さんが言いたい完璧って
自分の解釈の完璧じゃなくて、
「本当に今のありのままの現実を完璧だと認定しようぜ」ってことなのかな、と。

今の現実がまさに自分の望んだとおり完璧なのだ、と認定すること。
これからあるべき理想の状態などない。
今目の前にある現実がまさに「完璧」なんだ。

そう思いました。
違うのかもしれないですが。
「そうじゃないぜ!」ってことでしたら訂正お願いします。


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