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上海雑伎団スレ【第二十六幕】
507
:
NASA局長
:2010/06/11(金) 04:45:58 ID:6qaLjB1YO
>>新垣オウガ富江(
http://pds.exblog.jp/pds/1/200708/10/71/e0043771_10392257.jpg
)
いやはや、新宿高島屋に続き、渋谷のあのセンター街の巨大なHMVも近々店閉まいのようですな。
小山田とかオザケンとか奇形礼とか90年代に“渋谷系(死語)”と呼ばれた音楽は
あの渋谷HMVが情報発信基地的な役割をになっていたような気もするだけに
やはり2012年のアセンションに向けて音楽も新しい方向にシフトチェンジする前兆現象かもしれませんな。
(
>>386
へのお答え)
ヨーコ(
http://youtube.com/watch?gl=JP&warned=True&client=mv-google&hl=ja&v=0ZO4M9hMn14&fulldescription=1
)の罪悪感ですか。
愛のむきだしにはおそらく、ホログラム的にいろんなテーマがごっちゃにたたみ込まれているような気がするんですが
ヨーコの男性に対するトラウマ(
http://youtube.com/watch?gl=JP&warned=True&client=mv-google&hl=ja&v=DkHdvpZFmzY
)もある意味、その後の人生において罪悪感と言いましょうか、原罪という設定でしょうな。
ヨーコが「世の中のすべての男はf〇〇k!!」と叫び中指を立てますが、
「ただ一人、カートを除いては」と言うわけです。
そう言えばカートは生前、ユニセックスといいましょうか、
よくジーンズの上に女性用のワンピというファッションでステージに立ち演奏していましたが、
愛のむきだしの中でカート・コバーンの扱いは男女性を超越した存在の比喩だと思いますわ。
その象徴は例えばマーク・ボランとかでもよかったんでしょうが、90年代〜現代風に表現するなら
園子温は男女性を超越した存在としてカートを選んだんでしょうな。
姐御サソリは中の人は男であるユウが女装してるわけですから、ヨーコにとっては男女の性を超越した魅力をもつカート・コバーンのように
姐御サソリが不思議な魅力を持った女性に感じたんでしょう。
あと、バンド名がニルバーナということはもちろん、カートは歌詞的にも(Egoや既存の価値観の)破壊という表現や生き方をしていたのでヨーコはカートに共鳴してたんでしょうな。
あの物語の中でヨーコが唯一心を開ける存在は義母のサオリさんと姐御サソリだったわけですが、
サオリさんは感情のまま突き進むまさに「今ここ」の人で、姐御サソリには男勝りに強い中性的魅力にひかれたのだと思いますわ。
今思うと、主人公のユウやヨーコはもちろん、義母のサオリや0教団のコイケもいい悪いは別として、みな「真実の愛」を求めて驀進してたことは共通していたわけです。
コイケに関してはNASA的には胸のインコが真我の象徴であり、最後にEgoである外側のコイケをみずから破壊して、本当のコイケ(良心)は永遠であり、その象徴がインコ(最後、胸から出てきたのがミソ)だと考えています。
そのきっかけを作ってくれたのが、原罪をあえて作りまくるユウだったのがポイントですわ。
原罪をあえて作るというのはギターのクリーンな音にあえてディストーションペダルをかますのに似てますな。
まあ歪んだギターの音も、アコギのような澄んだクリーンが標準だとするならかなりヘンタイ的音なわけです。
ヘンタイとは何なんでしょうな?
人間が持ち合わせる変態性が、ときに純粋な愛に映ることもあるわけです。
人と違うから変態になるのではなく、人はそれぞれ皆違うし、それが魅力になるとNASAは考えます。
私がこの映画で面白いと思ったのは、最後には“勃起”という肉体的感覚に助けられるわけじゃないですか?
それってよくこの板なんかで論議される「思い出す」みたいなことだと思うんですわ。
愛をむきだしたことによって、ユウもヨーコも思い出したわけです。
愛のむきだし‥これは人間にとっていちばん大切なことかもしれませんな、いやはや‥
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