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上海雑伎団スレ【第十八幕】
340
:
もぎりの名無しさん
:2010/04/03(土) 18:49:56 ID:aFwIXjVE0
チケット第七章の認識への違ったアプローチをしてみた。
エネルギーの流動がなければものごとは状態を維持することができない、
これを「散逸構造」っていうんだ。
その構造の秩序は単なる結果であって、単なる名残で、流動の状態。
根幹にあるのは流動だけ。
ただし、状態を形成しているのは紛れもなく秩序であって、
つまり「流動」と「秩序」が同時に満たされていなければ、それは構造を維持できない。
自然の現象は維持しないものが多いけど、「維持しよう」と指向する唯一の現象が
生命現象だと思うんだね。
人の意識も同じようなもので、「自我」という秩序が崩壊してしまえば、
心理エントロピーが増大し、意識はもはや意識として維持することができない。
基本的にこれがストレスの基になる。
そのために潜在意識が流動をコントロールする。人間であるために。
ここがミソで、本来は「すべて許されている」はずなんだよね。
じゃなきゃ可笑しな話になるでしょう?全ての認識の根幹である宇宙が、
何かに制限されているはずはない。
だから「許可」という概念は、人間が心理秩序のために生み出したもの。
「神」は人が「許可の代理執行人」として作り出した。
これは心理秩序と欲求の境目にある、または分離と統合の境目にある、
エネルギーの「安全で適切な導入口」とも言えるんだよね。
代理人無くして自分自身で導入口をコントロールできないのは、
証拠や因果関係なくして心理秩序を維持できないからだ。
そんで重要なのは、「秩序に与えるレベルが最小の出来事を選ぶ」ということ。
つまり最も安全で安定した秩序を維持しつづけようとするのが人の掟ってこと。
さらに言い換えるなら、「認識の内で」最も可能性の高いものを受け入れるということ。
当たり前だけど人にとっては知覚と認識が全てで、それは世界への扉に過ぎない。
だからこそ意識が生まれたわけであって、知覚と認識の限界が人の意識だ。
そのことを認めるということは、すべての可能性を認めることになる。
「理解できない」ということが本質だ。「脳ミソじゃわかんない」これが最も正しいこと。
因果律を用いずして何かを認識できないのは、「そうできているから」。
「認識が因果律そのものだから」と言い換えてもいいね。
そのことに納得できるか。因果律が幻想であることを因果律を用いて納得できるか。
そして「究極の自由」が必然であることを論理で納得できるか。
独我の認識を包み込む広大なエリアを、独我の内から眺められるか。
この過程が第三章〜第六章だったのかも。
駄文スマソー
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