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上海雑伎団スレ【第十八幕】

216画家 ◆utHkaCg902:2010/04/02(金) 23:20:37 ID:RPnMMGvg0
>>208
私も以前は頭で解っていた状態でした。
この頭で解る、というのと、知っている、とはどう違うのか。

この目前に見える不足。
ここから疑うといいです。
この「不足」とは何だろう?
当たり前に思っていた欠落、不完全、不充足。
これを見るとき私は不愉快に感じる。※
それを何かで補おうとする。
そしてまた何かが欠ける。

私はこの※で止まってみました。
何かで補おうとすること、これを疑ってみた。
そして不愉快に感じることを直視した。
不足は何故不快なのだろう?
この不足を疑ったのです。

感覚的に掴もうとする場合、知覚的なアプローチが必要になります。
不足を疑い、充足を見てみる。
するとだんだん不足が取るに足らないものだと感じられてきた。
これ、単なる刷り込み?とも取れるアプローチですが、
そもそもこれを確固とした認識にしたのは面白いことに不足の不快感だったのです。
この不快感こそが、私を充足へ導いた。
皮肉にも。


>自分が絶対的に安全な領域にいる

私個人的な感覚を書いてみます。
私は安全でない場所に居る。
こう認識します。
安全ではないから安全策を考え、安全を期すための行動を取る。
これは危険を予期した行為である。
ぐるっと世界を見渡せば、危険を予期したシステムばかりである。
そしてそれは危険を生む。

すると私が取れる価値のあるフォームとは何だろう?と考える。
私は安全な場所に居ない、という認識を取り下げてみる。
すると安全策を講じず、安全を期すための行為を止める。
これは危険を予期しないあり方である。
こうあると、私を危険に晒すような機会が訪れない。
否、訪れなくなった。

すると最初の動機、私は安全でない場所に居る、という認識を支えるある種の動機。
それは「怖れ」に他ならない。
「怖れ」が一切の混迷を生んでいたのだ。
と解る。
この「怖れが一切の混迷を生み出していた」と言う認識が生まれると同時に怖れを手放すことになる。
手放そうとして怖れを手放すのではなく、この事実によって私は怖れを手放すわけです。
するとかすかに自分が絶対安全な領域に居るのではないか?という知覚が生まれてくる。

私も100%その安全領域を体現しているわけではありません。
ただそこへのアプローチとして、このようなプロセスを踏んだ(踏んでいる)わけです。

これは個人的な一体験ですので充足への、または絶対安全への知覚変化は多種多様に存在するはずです。
またその認識も微妙に違うはず。
同じ見事な壺を色んな表現で称えているのと似ています。
それは壺なのですが、模様や釉薬、形、土、匂い、色んな角度から感じることが出来る。
こんなのでいいでしょうか?


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