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筆先2

465名無しさん:2017/01/24(火) 23:42:30
歓喜の内奥(ないおう)より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは
常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。

地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、霊人は神により、神は大歓喜によりて
総ての行為の本とする。故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。何(いず)れも、神の内流による歓喜の
現われであることを知らねばならぬ。

何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、
地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、
悪そのものである。

善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として
進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として
正しく生かさんと為し給うのである。

而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後の世界との関連により複数的悪善におかれる。
善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。

力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、
地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。地上人は地上物質界のみの立場では
悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。


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