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仏教と金剛禪

1名無しさん@いらっしゃい:2006/05/17(水) 16:22:03
前のスレタイトルがあれだったので新たにスレを立てました。
ここで質問を書いてはいけないと思いますが
仏教についての質問なので書かせて頂きます。
仏教と金剛禪の話の中で法燈明の話はいつか出てくるのでしょうか?
やはり自燈明と法燈明は二つで一つの教えだと思いましたので一様・・・

85みんみん:2006/06/07(水) 14:44:38
空さん
スレが荒れてしまい、ご迷惑をおかけしました。ただ、この議論の御蔭で久しぶりに空さんの発言があったのは、有り難いことでした。
了とおっしゃらず、また落ち着いた頃に書き込みください。
ありがとうございました。

86ペガサス:2006/06/07(水) 15:01:48
空さん、もしご気分を悪くされたとしたら私からお詫びいたします。
ここは一応少林寺拳法を行ずる者が主催する場であり、そこの掲示板ですので
道院、支部と言う入れ物はなくてもみな同じ門下という事になります。
1改さんがまだ金剛禅の門徒であるの言うのであれば私と同じ門下。そして後輩と言う事になります。
同じように精神を高めようとされている他派の人に対する非礼申し訳ありませんでした。

人には徳と言うものが必要だと開祖も説いておられました。これは人間性の問題です。
最近では死後になりつつある言葉ですが、少なくとも法を拠り所としまた我を拠り所として
悟りの道を求めようとする者ものがその精神を忘れてはどんなすばらしい言葉をつむぎだしても色を失うでしょう。
「徳」という字は、行人偏にプラス四つの心と書く。徳育、尽くす心、捧げる心、与えて喜ぷ心、だと
開祖は法話でこう話されていいました。

少なくともその道の実践者に机上の知識だけで是非を問うのはいささか非礼ではないかと私は思います。
合気道の本をよみ、貴方の合気道はなってないというようなものです。
私も少林寺拳法の技術書を読んだだけの素人にあなたの術理は間違ってると言われれば腹もたちます。

我々は少なくとも道を求めようとする者。どんなに書籍を読み知識を身につけたとしても
人としての礼節も徳も持たぬ者に仏心も法もないでしょう。
それでは何を学び何を求めようとするのか。
例えどんなに優れた知識を持とうとも人としてその品位を貶める事になるだけです。
客をもてなす精神なくしては「一期一会」も絵空事にしか過ぎません。

私は仲間内で疑問があるなら論議を交わす事は大いにいい事だと思います。
でももし1改さん。あなたがまだ少林寺拳法の拳士であり、金剛禅の門徒であるというのであれば
もう少し外部の人に対する礼節を持ってもらいたいと思います。
でないと貴方自身の品位が疑われ、どんな博識を広げても誰も信じようとはしなくなるでしょう。

87ペガサス:2006/06/07(水) 15:13:32
それとこれは余計な事かも知れませんが、bias(バイアス)は英語では先入観とは使いません。
確かに辞書を引けば先入観と言う言葉はあるかも知れませんが、
日常語としてそれは偏見とか誰かに肩入れするような時に使う言葉です。

つまり机上の言葉と生活の上で使われる言葉は違うと言う事です。
では先入観とはどんな英語なのか。それはご自分で調べてみてください。

88..空:2006/06/07(水) 18:31:11
ペガサス様、
ご心配いただき、ありがとうございます。
「宗論は 逃げて通れば われの恥」武辺の感じが漂います。
では私は「宗論は 何といっても 逃げるが勝ち」
逃げちゃいましょう。

私は、法器の項で、お仲間に入れていただきましたが、
武術には疎いためにいろいろとご教授いただきました。
私は、修験道の行者ですが、膝を悪くし近年は篭って勉強をしています。

時折、ここを覗いて、はにやにや喜んでいます。
お蔭様で、法器と武器の関係ではかなり知識がつきました。
しかし、谷に失った独鈷などは未だに惜しい気がして、
まだまだ修行が足りないと反省するしだいです。

ここの方々は実によく勉強されています。
教えられることが多い。
Syami様のお陰で、冷や汗をかきながら、
師や大先達、時には座主などにも確認しながらお答えするほどでした。
却って、「お前ももっと勉強しなさい」と、叱られたのですよ。
こういった具合にみなさんとても楽しいし、元気をもらっています。

みんみん様も、お元気で何より、あまりき熱くなることは無いですよ。
これだけ言い合いが出来る内は、お互いにまだ余裕があるということ。
極限状態ではこうはいかなくなって、扶助し合うものです。
その中から自分の愚かさや弱さが見えてくる。
一生勉強です。

89ビスキュイ:2006/06/07(水) 19:00:43
空さんのお話はネットの掲示板で読んでも不思議と「味わい」が伝わって来ますな〜。

90615期生:2006/06/07(水) 19:13:19
いい香り、てやつですか。

91ビスキュイ:2006/06/07(水) 19:25:44
>いい香り、てやつですか。

うんうん。何て言いますか,夜に囲炉裏のそばにご一緒させていただいて,そのまま
般若湯などいただきながら色々と修行のお話を伺わせていただきたくなるような…

92Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/07(水) 19:39:35
然り然り。一度直にお会いしてゆっくりとお話など伺いたいものです。

931改:2006/06/08(木) 00:10:21
>>82
>みんみんさん
私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ただ、やはりここで下らない2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
深く反省しております。

941改:2006/06/08(木) 00:10:42
>>83 Syamiさん
確かにここは2ちゃんではありませんでした。
丸廉が2ちゃん支部を謳っていたこともあって油断しておりました。
考えてみればほとんどの皆さんは顔見知りなわけですね。
誰かが2ちゃん風に煽られて黙っている訳がありません。
だいたい、このような普通の掲示板で瞋恚を引き出そうとする行為事自体が間違っておりました。
このスレにSyamiさんがいてくれて本当に助かりました。
下手したらこのまま爆走していたかもしれません(汗
お世話をおかけして申し訳ございません。

951改:2006/06/08(木) 00:11:02
>>みなさま
私の不用意な発言により多くの方々の御気分を害したことを深く陳謝いたします。
なかには2ちゃんねるに出入りされていないような方もいらっしゃるようで、私の完全な認識不足でした。

>ペガサスさん
>>66で空さんに宛てたレスを見れば、私なんぞのあのような無礼な発言まで真剣に聞こうとしてくださっているペガサスさんの人徳が伝わってきます。
2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。
逆立ちしても足元にも及ばぬ未熟者ではありますが、今後とも是非によろしくお願い致します。

>空さん
>>81の発言は煽りと呼ばれる2ちゃんテクであります。
現代語訳いたしますと、「もっと遊ぼうよ」となります。
御気分を害されたことと思います。申し訳ございません。
ご指摘の通り私は修験道のことを囓った程度にしか知りませんが非常に興味を持っています。
レスを控えるなどと仰らずに、是非是非ご教示下さいますようお願いいたします。

以上、私の反省の弁でありました。
なお、今後は誓って煽りを用いたりは致しませんが、私の思うところは今まで通り直截に発言していきたいと思っております。

96名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/08(木) 01:47:43
>2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
>確かにここは2ちゃんではありませんでした。
>2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。

ちがうくない?
ちがわなくないのかな?

971改:2006/06/08(木) 02:21:03
まあたしかにちがうような気もするけど、いまんとここれでおなかいっぱい。

98みんみん:2006/06/09(金) 07:20:53
1改さん
ここの掲示板は2ch発祥ですし、2ちゃんねらーが多いのも確かです。
レイアウトも似ていますが、そうでない人もおりますので・・・
素直に認めていただいてありがとうございます。
私も少々荒い書き込みをしたかと思います。申し訳ありません。

>私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
>当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
>折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ご意見わかりました。この「感覚」にいたる部分まで論理的に証明できるのか、
浅学な私にはわかりませんが、今後の論証を待ちたいと思います。
私の場合、肝心の議論ではROM中心になりそうですが。

991改:2006/06/10(土) 01:14:58
みんみんさんにはお許しいただけたようで嬉しいのですが(ありがとうございます>みんみんさん)、2ちゃんに不慣れな方にとってみれば真剣な発言も私のいい加減な「煽り」に踊らされて引き出されたような不快感を持たれているのでは思います。
一応言い訳にならない言い訳をさせていただきますと、私の発言内容は、煽りを意識していますので表現は非道いの一言につきると思いますが、全て本音です。
ムナクソワルイとは存じますが、内容のみを読みとって頂ければ幸いです。

もう一つ、2ちゃんに不慣れな方にフォローしておかなければならないことがあります。
2ちゃんは特殊な遊び場ですが、何故か少林寺の拳士は2ちゃんでも紳士な方が多くいらっしゃいます。露骨な煽りを多用する私などはむしろ少数派かもしれません。
少なくとも丸廉の常連さんに私のようなタイプはいないでしょう。
北禅スレではSyamiさんに大変お世話になったのですが、こんなできた2ちゃんねらを私は他に知りません。(真似はしませんでしたけれど)
どうやら私は2ちゃんとは相性がよろしくない様な気がしてまいりました。
お恥ずかしい限りです。反省の証にしばらく2ちゃんからは撤退しようと思います。
もっとも、ここのところ忙しすぎて既に半ば引退しているのですが。

1001改:2006/06/10(土) 01:16:01
さて、法燈明の話が中途半端でしたので閑話休題とさせていただきます。
金剛禅における法燈明の定義はペガサスさんが説明してくださいました。
当初私はその内容を知りませんでしたので、所謂原始仏教、初期仏教のカテゴリーの経典を研究する文献学者の学説を紹介いたしました。
原始経典には金剛禅の教典中の聖句に引用されているダンマパダも含まれます。
私は、開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。
そのようなわけで、これら文献学の成果を知ることは開祖の思想をより深く理解する重要な手がかりになると考える次第です。

前置きが長くなりましたが、まずはネットで拾ってきた中村元博士による大般涅槃経の該当部分の邦訳をお示しします。次に、参考までに学者さんや坊さんの法の解釈を少しだけ引用してみます。

「ブツダ最後の旅」岩波P62
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けにょってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けにょってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
「修行僧たちよ。修行僧はみずから念じて、よく気をつけておれ
修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における食欲や憂いを除去していなさい。
今も、自分の死後も、誰でも学ぼうとするものはそのようであれ。

次に法燈明に関して仏教学者を引用します。ちょう一流のかたです。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/fl-kyouten/05-jitoumyou.htm
「大般涅槃経」の「自燈明・法燈明」で釈尊が言われた依り所とすべき「法」とは何か。平川彰氏は、「帰依三宝」すなわち、仏教徒が帰依すべき三つの宝、仏・法・僧の場合、原始仏教教団では「法」は、五分法身と解釈されていた、という(1)。五分法身は、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」である。

以上引用終了。
なお、日蓮宗の某お寺のホームページでは、法燈明の法をやはりお釈迦様の教えとしていました。

一方、今超うれっこの臨済宗の禅僧、玄侑宗久さんはこんなふうに言っています。
http://www.genyu-sokyu.com/essey/essey03/22.html
 お釈迦さまは、亡くなるまえにアーナンダにおっしゃった。「自己と法とを拠り所とせよ、けっしてそれ以外のものを拠り所にしてはならない」と。世に「自燈明、法燈明」と呼びならわされている逸話である。
 このことに驚くのは私だけではないだろう。つまりお釈迦さまは、けっして自分の教えを拠り所にしなさいとはおっしゃらなかったのだ。ここでの「法」とは、宇宙を通貫する真理と考えていいだろう。

これは金剛禅よりの解釈ですね。

おっと、100ゲト!

101名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/10(土) 02:21:23
1改氏ご自身はどう解釈しているの?

102ペガサス:2006/06/10(土) 07:46:20
さて、この法燈明、自燈明の問題ですがここで言われる法とは何をさすのか?
と言う意味合いの解釈も大切でしょう。元々の意味がわからなければ何もなりませんので。
でもそれだけで終始しては単なる辞書の言葉探しになってしまいます。

そこで次に考えなければならないのはこの法燈明で言う所の「法」とは金剛禅にとって何であるか。
またどう言う意味をもつのかと言う事です。
1改さんが言われていますが
>開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。

との事ですが、私もそう思います。そこでまずこの原始仏教とはそもそも何なのか?
多分知っておられる方は多いとは思いますが、復習の為に簡単に説明してみますと
釈迦が入滅されてから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教を原始仏教、もしくは初期仏教と言います。

これは後に出てくる上座部仏教や大乗仏教とはまた区分けして言われる仏教です。
この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが
今は小乗仏教と言う名称は使わずに上座部仏教と呼ばれています。
つまり上座部仏教とは主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、
利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であると大乗仏教からは批判されている仏教です。
そしてこの教典はバーリ語で書かれ、バーリ経典と言われているものです。
(直に批判の対象になったのはこの上座部から分離した説一切有部の部派だと言われていますが)

それに対し大乗仏教とは自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(⇒誓願)を主張し、
この「利他行」の強調して、大乗仏教と上座部仏教(=部派仏教)とを区別しています。
使用されている教典はサンスクリット語が多用されています。

ではそれ以前の原始仏教とは何か?
「原始仏教」中村 元著 日本放送出版協会 刊によれば

≪憂いと悲しみと物惜しみを捨てる。その他もろもろの心を騒がすものを捨てる。
最後には、こころを騒がす源になっている「わがもの」という思いを捨てる。
「わがもの」と思っているものは、「わがもの」ではありえない。何故なら、人は必ず「死ぬもの」だからである。
「わがもの」と思い、飾り、いとおしむこの肉体も、死ねば腐敗し、消え去る。
愛する人も、愛した物も、財産も、すべてをこの世に残して、一人で死ななければならない。
わが身にとって「わがもの」というものは何ひとつ無い。
あるはずの無い「わがもの」に執着し、怒りや妬みに心を騒がせるのはなんと愚かなことか。
この理を知り、次々に湧き上がる「わがもの」という思いを捨て去ることが、すなわち修行である。
自分の心を注意深く観察し、湧き上がる「わがもの」という思いをひとつひとつ消しつづける。
「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

つまりここに見える姿は仏ではなく人間シッダルタです。ナザレのキリストが人々に布教して回った時と同じように。
生きるものへの解脱の勧め、それは真理を理解する事。それをわかり易い言葉で説いているのです。
訳のわからない漢文の教を原文で読むような事でも、頭の痛くなるような難解な教典を読む事でもなく。

そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。
我々の金剛禅はこの部分を持って教義としているように思うのです。我々自身は羅漢の修練はします。
しかしそれは上座部仏教のように自分達だけが解脱し、涅槃をもとめるのではなく,
得た真理、悟りを持って大乗仏教より批判をうける説一切有部にある二乗(声聞や独覚)になるのではなく
我々の羅漢とは大乗仏教に言う所の菩薩的なものであろうと考えます。

そして釈迦の唱える中道の精神。
「厳しい苦行や、それと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法」のこと。
これを我々は養行として行なっているわけです。

しかしまた大乗仏教にある顕教や密教ではなく幾多の如来を崇拝する事でも真言を唱える事でもなく
我々の漸漸修行を通して日々の悟りより大いなる悟りに至る道を求めるもの。

よって羅漢としての修行をしながら、涅槃をあえてこの世の理想郷に求めた道。
それが金剛禅の骨格ではないかと思っているのですが。
これはかなり大雑把な事を言ってますので賛成するも否定するも話を進める上での一つの叩き台になればと思います。

1031改:2006/06/11(日) 01:34:51
ペガサスさん、原始仏教の概説をありがとうございます。
僭越ではありますが、あまり主題とは関係ない一部分を訂正させていただきます。

>この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが

大乗仏教が当時の論敵として小乗と揶揄していた仏教セクトは当時の最大勢力である説一切有部です。
龍樹が空(縁起)の概念で論難した相手もこの有部になります。
説一切有部は上座部からさらに分派したセクトですから、上座部を称して小乗(と言われていた)と言っては他の部派がかわいそう、ということになります。

主題と関係があまりありませんので、wikipediaのURLを引用するに留めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8

実際、この手の主張はスリランカや東南アジア諸国から現代の日本に布教に訪れている南方上座部からも出ております。
一応、参考までに日本テーラワーダ仏教協会の一文も引用しておきます。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi10.html
『大乗仏教で小乗仏教と言われていた宗派はお釈迦さま入滅後200年ごろインドで上座仏教から分かれていった部派仏教の宗派で、その仏教を非難して大乗仏教が形成されていったという史実がありますが、大乗仏教から小乗仏教と呼ばれていた部派仏教はいまでは何も残ってはいません。従ってテーラワーダ仏教のことを小乗仏教と呼ぶ人もいますが、それは歴史的事実を知らない人の認識不足でテーラワーダ仏教は最初からお釈迦さまの教えだけを受け継ぐことを目的として連綿(れんめん)とつづいてきた仏教であり、大乗仏教や小乗仏教とはその成立過程も主張も根本的に異にするものです。』

以上引用終わり。

ただし、注意すべきは、現在のテーラワーダ(上座部)仏教は決して原始仏教ではなく、部派の生き残りとして現在にまで継承されてきた歴とした現代宗教であるという点です。
彼らは彼らの信仰として、自らを原始仏教と主張していますが、仏教学的な原始仏教観と矛盾する教義も含まれます。
ご参考まで。


>「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
>それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

ここに初期仏教における涅槃の定義があります。
最重要な一文ですね。
何故なら、原始仏教においては涅槃を得ることが最終目標だからです。
涅槃とは、『「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態』、すなわち離欲を完成させることによって欲から生じる一切の煩悩の火の吹き消された精神状態と解釈されます。
煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。
これが四諦ですね。
そして、その離欲のための具体的な方法論が八正道としてまとめられています。

>そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。

この解釈はどちらかというと大乗的であると考えます。
実は私はこちら方面の勉強がまだまだ不足気味であります。
縁起が発展して空となり、またダーマとなって大乗の根幹に据えられました。
一念三千など他派の類似思想を紐解いて、それらが印度教の梵我一如とどのように区別されるのかを知っていかなければと思っています。

1041改:2006/06/11(日) 01:42:03
重要なとこなのに間違えちゃいました。訂正します。

× 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

○ 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教から現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

1051改:2006/06/11(日) 02:16:14
今、読み返しましたら、ペガサスさん、ちゃんと説一切有部について触れていらっしゃいますね。
失礼致しました。前半部分は聞き流してください。

106ペガサス:2006/06/11(日) 06:40:34
やはり、1改さんがつっこんできましたか。それも想定内と言う事です。(笑)
まずは私が仮説を立てた事でそれを元にして話し合える基盤になればと思ったものですので。
ですから、どなたでもまたこれらに関しまたはそこから派生する事につき話し合っていただければいいと思います。
しかし1改さんはなかなか手ごわいかもしれませんね。頑張ってください。

ただ二点だけ付け加えておきます。
まずは当時の年表についてはあまり気にしない事です。
だいたい釈迦の生没年は仏教研究上未決であるとされているのですから。
一説に紀元前463年 - 前383年、前560年 - 前480年等さまざまです。

ですから私が言った「入滅されてから約100年くらい」と書いたのも
人によっては100年〜200年くらいと言う幅で使われていますのでこう言う年表はあまり気にしないで下さい。

二点目、それはここに出てくる小乗仏教についてですが、1改さんが言われるように
大乗仏教が当時、批判の対象としたのは当時の最大派閥であった説一切有部です。
この説一切有部は釈迦の死後、根本分裂を経て、仏教は保守的な上座部と革新的な大衆部とにわかれ
更にこの上座部も枝末分裂を繰り返しますがその代表的なインドで最大であった部派が説一切有部です。

ただこれは私に言わせれば偉い僧侶も町のチンピラも同じだという事です。
随分むちゃくちゃな表現をしてますが、だいたい喧嘩をする時、または戦いをする時は大将の首をとるのが一番手っ取り早いのです。
はしっぱと無駄な争いをしていてはこちらの戦力も落ちると言うものです。

ですから当時も叩くべきは最大派閥に目標を絞ったと思います。
そこさえ叩けばそれに付随する派閥は一緒くたに叩けるわけですから。
ですから誰が誰を叩いた、批判しかたではなく、何に対して批判したかです。
つまり大乗仏教の主張する「利他行」を行わず、「阿羅漢」を目指す宗派統べてと言う事です。
たまたまその時の最大派閥が説一切有部だったと言う事です。
当時のことですから細かい資料などは残ってないかもしれませんが、
ともかく阿羅漢修行を含む派閥統べてと言う事になるでしょう。
その当時もし上座部を含め各部派にもその思想があればそれも明記されなくてもその対象にはなったでしょう。

その後説一切有部は衰退して行き、大乗仏教の勢力が大きく伸びてくる事になりますので
説一切有部に加担もしくは思想を同じくするものは生き延びる為には持論を少々曲げてでも世に迎合する必要が出てくるでしょう。
それが現在にまで生き延びられた小乗系宗派だと思っているのですが、少々妄想が過ぎましたかね。(笑)
これは本筋とは特に関係ない部分ですが私の推論です。

どんなにすばらしい教えであれ、所詮それを引き継ぐのは生身の人間です。
迷いも過ちも統べて継承して引き継いでいるのでしょう。
だから経典が数万とも言われる人間一人が一生かかっても読みきれないばかげた宗教になっているのではないですかね。
真理が正しく伝わっていればここまで分派、分裂はしなかっただろうに。

1071改:2006/06/12(月) 01:39:41
>ペガサスさん。
私の脱線にまでお付き合い下さってありがとうございます。

大将の首論は面白い視点ですね。
私なんぞがこんなことを言うと文献学者様にお叱りを受けそうな気もしますが、仰るとおり当時の事情を詳細に示すことのできる資料は限られているようです。
説一切有部は法有(一切の構成要素の実在)を説くことから、一切皆空を説く龍樹の良い標的になったということですが、これ以外の部派に対する対応の詳細は私も知りません。

でもまあ、HPをリンクしてしまったこともありますので、上座部の肩をちょっと持ってみたいと思います。
私はテーラワーダの回し者ではありませんが、彼らの言い分も少しだけ聞きかじっておりますので紹介させていただきます。
日本では小乗にムリヤリ分類されてしまう彼等ではありますが、その教義にも利他行は含まれています。
すなわち、まずは自分の内面の煩悩・無明を四諦・十二縁起の観察・八正道・瞑想修行により取除きます。
その後他者を涅槃へと導く手助けをしていくわけですが、これが彼等の利他行です。

まずは自己確立を促して、その実力の裏付けのある利他を推奨している金剛禅のあり方と良く類似しているように思うのですが、いかがでしょうか。

なお、上座部は大乗の空に強調されるような重重無尽縁起を説きません。
これは大きな相違です。

108:2006/06/12(月) 12:56:01
釈迦に説法で恐れ入りますが、
以下ご存知の通り、ご賢察願います。

雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

1091改:2006/06/13(火) 00:40:07
空様:
ご教示ありがとうございます。
このスレでは荒らしのような格好になってしまいましたが、以後慎ませて頂きます。

ペガサスさん、ありがとうございました。
金剛禅の見解を知ることができたことは本当に収穫でした。
おそらく最後になりますが、私も法句経の中から糧とすることばを引用してみます。



だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

中略

うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

うず高い花を集めて多くのはなかざりをつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

後略

「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元

1101改:2006/06/13(火) 01:21:53
補足として空様の教示された漢訳部分に対応する邦訳をお示しします。
私は漢字が苦手ですので、間違っていたらごめんなさい。
なお、邦訳は中村元の真理のことばからの抜粋ですが、こちらはパーリ語からの直訳になりますので
意味は完全には一致はしないようです。


雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
−−−牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、−−−かれこそ賢者と呼ばれる。

111ペガサス:2006/06/13(火) 02:49:29
書き込みが遅くなってしまいました。
実は昨日アメリカで少林寺拳法を最初に開き
40年間に渡って布教されていた我々の先輩が逝去され昨日葬儀がありました。
私もその山森先生とは以前より面識があり、今は同じ地域に在住しておりますので
葬儀のお手伝いに行って参りました。また開祖直伝の門下がお一人この世を去られました。

この葬儀は本人のご意志、ご家族の希望で運ばれたものですので同門としての作務をさせていただきました。

ただ同じ地域と言いましても車で1時間以上はかかる所ですが。
朝4時半起床、5時に家を出てまだ夜は明けていませんでした。
その分車もすいており、1時間ちょっとで辿り着くことが出来ました。
これがラッシュアワーであれば1時間半から2時間はゆうにかかるところでしょう。

6時から準備にかかり9時から開場となっていました。
さて今回の儀式は神式でした。それはその先生が40年間お借りしていた道場がその神道の講堂だったものですので。
私も神道式の葬儀と言うものは初めてでした。神道では焼香ではなく玉串奉奠になります。
これは玉串を受け取り枝の方をご遺体の方に向け一拝二拍手(この時はしのび手と言われ音はだしません)そしてまた一拝。
この玉串を渡し、作法を説明するのが私の役目でした。

人が多かったので本堂の他に外に二箇所、玉串奉奠の場を設けその一つが私ともう一人の支部長との受け持ちでした。
勿論、殆どの方々は神道式葬儀はご存知なく毎回私達が説明しなければなりませんでしたが
これも一つの勉強になりました。

そして帰ってきて、こちらをみれば空さんからのメッセージ。
それを読んで、さて、これはまた厄介な事を(苦笑)と思っていたら停電です。(^^;)
あはは。1改さんに先を越されてしまいましたが、意味する所は我々の金剛禅も同じです。

俗的に言えば「行」をしてなんぼと言う事です。
修験道でも「行」があり、禅宗でも他の宗派でもそれぞれに「行」と言うものを積みます。
それは読経であったり瞑想であったり様々ですが
つまり知識を己の霊肉を持って行じてこそその真理とする所に辿り着ける。
これはどの宗派でも変わりはないでしょう。

我々金剛禅ではそれを易筋行を持って行なっています。
1改さん。貴方も金剛禅の何たるかを本当にお知りになりたいのであれば
早く休眠拳士より復帰し、「行」と共に理解に勤しんでください。
また違うものが見えてくるかもしれません。

空さん。ご指摘ありがとうございました。
しかしここまで来るとちょっと一般掲示板としてはついていきずらくなりますね。(^^;)
お手柔らかに。

112ペガサス:2006/06/13(火) 05:16:02
最後にこのレスを立てて下さったリーさん(でよかったんでしょうか?)
それに615期生さん、アップルさん。みんみんさん。Syamiさん。ありがとうござました。
1改さんや空さんの色々な意見を拝聴しまた交換させていただき私も大変勉強になりました。

あまり私は長々と投稿する事はなかったのですが今回は想定外の展開となってしまいましたが
改めて行ずると同時に学ぶ事の大切さも再確認させていただきました。
ありがとうございました。

ところで空さんの法句経の説ですが、
こう言う漢文の書き方も他にもあるんですね。中国語も幅が広いですから。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

私は経の専門家ではないのでそれらもまたいい勉強になりました。

再拝

113ペガサス:2006/06/13(火) 08:14:49
もう止めるつもりでいたのですが、
1改さんの示された邦訳はこれらが一番近いと思われますので参考までに。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

不觀他人過
不觀作不作
但觀自身行
作也與未作

不以多言故
彼即為智者
安靜無怨怖
是名為智者

では今度こそ。

再拝

114:2006/06/13(火) 08:19:01
勉強になりました。
ありがとうございました。
失礼致しました。

115アップル:2006/06/13(火) 10:32:47
皆様ありがとうございました。途中からついていけなくなってしまって見る側になっていましたがとても勉強になりました。

116615期生:2006/06/13(火) 10:52:34
いえいえとんでもございません。
私も大変勉強になりました。
ありがとうございます。
今後もご鞭撻のほどよろしくお願いします。

117:2006/06/13(火) 13:22:40
今回、少し感じたことを書いて了といたします。

書いても意味はないのですが、
お経については、日本ではどうしても漢訳が中心になります。
確かにパーリ語は、その発見された量から見てもプラークリットでは
最重要語ですから、当然漢訳には多いですね。
インドで発展を見なかった仏教は、中国にわたり、その漢訳に際しては、
中国に帰化したインド僧が主になって、積極的に取り組みました。
中国僧も同じく漢訳をしました、ですから、漢訳文は諸々ありますし、
訳者によって品数までも違います。

重要なのは、内容であります。
しかし、同時に経を誦える韻律もまた重要になります。
釈迦がマガダ語で喋ったであろう説法を弟子たちが集まり、
そう言ったかどうかの確認をとりながら、まとめていった。
それを書いたものや書き写したものが、後年になって漢訳されたのです。

漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
漢字に当てはめる音写を試みています、
訳者によって少し違いが出てきますし、完全な音ではないこともある。
つまり、宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
重要になるわけです。
そのため、漢訳よりサンスクリットを多用する場合も多く有る、
従って、毎年の多くの者が、ネパールやチベットにも修行に出かけ、
これを学ぶ訳です。

しかし、こういった仏教史や仏教学に関することなんぞは、
いちいちここで書かなくても、そこいらの本を読めば、解説注釈入りで、
すべてちゃんと書いてあります。
ネットで調べても大抵のことは出て来ます。
引用の中には私の師も知人の名も出ておりました、引用は結構ですが、
こういったことを続けても果てがなく、
化他行とも思えないし、なんの利も無いと思えます。

「これだけ知ってるぞ。」
と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。
それはつまり、自分の「行」を通じて会得した言葉ではないからです。

真言系で読むべき文献のリストだけでも、一冊の分厚い本が出来ます。
そのひとつの文献の中から引用することは、その対となる引用もしなければ、
片手落ちになることでしょう。

ましてや、仏教語の語彙を論えるとなると、到底ここの掲示板で
語りきれるものではないでしょう。
古来から今現代に至っても、仏教論は出尽くしては居ないのです。

自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。
その上で、
「自分が行する過程で生ずる疑念について、
 文献を学し、良き師に問うて学ぶ」
修行とはそうあるべきで、師もまたその修行段階によって、変わってゆくものです。

私のような誰とも知れぬ、修験者が口を挟むべきでないことは
重々承知しておりますが、修験には宗旨は関係なく、
全ての仏教宗派、神道、祈祷師、霊能師、あらゆる階級の方々まで
「行」ざれます。
お山と信者の間に介在し、自分だけでなく、
他を思う気持ちを担って責任を持って真摯な気持ちで行じている。

師を探し、許可をもらうことに数年かかることもあります。
「行」は行じないと判らないことが多くあります。
文献ではどうにも理解できないことが、多く隠されています。
特に修験では、師事しないと得られないことが沢山あります。
九字とか真言とか護摩加持などは、本でも真似て学べますが、
師事して授かることでのみ、初めて効力を発するのです。
お山はそれを知っています。

どうか、仏教学や仏教史などに囚われずに、
それはそれとして発掘調査で折々変化する知識程度にとどめ、
そんなことは「出家僧と学者」に任せておいて、
「行」する中から湧き上がる疑問を「学」し、師に問うて己を高め、
生活に根ざし仏道を行ずる「在家信徒」としての立場を失わないで
頂きたいと節に思う次第です。
そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

勝手な感想を一方的に書いて、了と致しますが、
他意は全くございません。
皆様の今後のご活躍を祈念致しておりますし、
今後とも密かに覗かせて頂きます。(了)

118615期生:2006/06/13(火) 14:08:31
合掌(^人^)

119Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/13(火) 17:20:57
合掌

  空様、ペガサス先輩、1改さん。

 ありがとうございました。この度も大いに勉強させて戴きました。
空さま、他宗の方にしか出来ない見方、またはご教示をありがとうございました。
ペガサスさんが拳法の高手である事は直接学んで知っておりましたが、教義や仏教も
極めて深く修行なさっていた事を知り頭が下がりました。

1改さんは…相変わらずでしたね。(笑
でも、おかげで盛り上がりました。

>漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
>漢字に当てはめる音写を試みています、

「呪」(しゅ、もしくはじゅ。のろいじゃないですよ)を唱える時の正しい発音と言う事ですね。
例えば下記の様な事ですか。

"Gate,gate,paragate, parasamgate Bodhi Svaha!"
(ガテ ガテ パラガテ パラサムガテ ボディサヴァハ)

を漢語音写して

「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝、菩提僧莎訶」

これなどは中国語で発音すると非常に良い線行っています。
しかしこの漢語音写を日本語読みすると…

「ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼぢそわか」

となり、邦訳すると…

「往きけり、往きけり、かの岸へ往きけり、すばらしき悟りの彼岸へ往きけり」

と、なります。でも翻訳してしまったら…と言うことですね。

>宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
>重要になるわけです。

特にマントラを重視する御宗や真言宗はそうであると聞きました。
高野に遊んだ時も、真言を韻律を正しく唱えるのは並大抵の事ではないと思いました。

>「これだけ知ってるぞ。」
>と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。

当宗の開祖も常々「知ってる事と出来る事は大違いなのだぞ!」と弟子達を戒めていました。

>自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。

ありがとうございます。肝に銘じます。
また機会あればご教授戴きますようお願いいたします。

再拝 結手

1201改:2006/06/14(水) 02:17:03
>>117
>そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

穴があったら入りたい・・・気分です・・

121:2006/06/14(水) 10:42:43
またお邪魔致します。
少し、言い過ぎ、出すぎたようで申し訳ありません。
Shyami様やペガサス様は、やはり「行」を通じて得た「智徳」が、
刺さるように伝わって来ます。それで私も学ぶ心構えになることが出来ます。

1改様の知識欲は、只ならぬものがあります。
大変に良いことで、嬉しい事ですが、「行」を通しての気配は感じられないことと、
ご自分の「行」で生じた問いになっておられない、それが残念でした。

Shyami様やペガサス様を「魂」とすれば、
1改様は「魄」でありましょうか。共に学ぶというお気持ちよりも、
自分を理解してくれない周囲への恨みの気配を多く発しておられるように
察知致しました。

厳しい言い方ですが、仏教も中途半端に学ぶと「魔」が憑きます。
これを仏法の妨げ「邪魔」といっています。
行中に行者に憑くこともあります、餓鬼や霊も憑きます。
行中に加持祈祷して祓うこともあります。
今後は是非、正師について学ばれることをお勧めいたします。
きっと良き仏弟子になられることと思います。

気持ちを伝える「言葉」は「心の葉」と書きます、
字の通りで、言葉だけでは、決して根幹である心根を伝えられるものではなく、
末梢のさらに先で揺れ動く危うい存在に始終します。
葉は、時に移ろい、感動も与えるけれども、虫も食い、
枯れて散るものでも有ることを忘れてはなりません。
これをコントロールするのは「行」によって得た「知徳」でしょう。
合わせ具われば、「言葉」は生き生きとして、伝わるものです。

Shyami様の書かれた「般若心経」は全文たった三百字足らず。
ここには、過日論争されていた大乗仏教の教義が全て書き込まれ、
原始仏教への批判もちゃんと書いてあります。
覚えて読むだけでも良いけれど、本来は正師について、
経を「授かる」ことが大切なのです。

ここには「呪」も書き込まれています。
Shyami様のような方に師事されて、韻律も原典から学ばれる方が良いですが、
漢訳でも「呪」はほぼ似ていますからよいでしょう。
私は、色々な真言などの和訳については、安寧は得られるが、
効力はあまり無いと思っています。

韻律などですが、インド仏教も捨てた中国仏教独特な漢訳の仏典では、
細かい無声音などを当てはめる作業が出来なかったため、
これを学んだ僧が漢字の意味に囚われた結果、後年様々な異論異説を生んだのです。
その点、日本のかな文字は、原典の発音や韻律が、かなり上手く、
細かく表現できるため、サンスクリット(俗語パーリ語)に近く
学ぶことが出来た訳です。その点からも、やはり師事した方が良いのです。

何度もすみませんでした。
補足と若干のご質問への返信と致しておきます。
今後もみなさんと一生勉強です。
ごきげんよう!(了)

1221改:2006/06/16(金) 01:28:21
空様:
私に対するコメントを下さったのに昨日は所用にてレスをつけることができませんでした。
お返事が遅れてしまい申し訳ございません。
叱咤のお言葉ありがたく頂戴させていただきます。
自分では作為的に作り上げているつもりでおりましたが、火のないところに煙は立たず、私の本性をズバリ言い当てられたような気もいたします。

お恥ずかしい話ですが、私はこれでも学問を生業とする者の端くれです。
自然科学研究を専門としておりますので仏教学等は門外漢も良いところなのですが、突き詰めようとする性根はどこにいっても変えようが無いようです。
私の住む世界では、議論というものは極めてありふれております。
特に研究に関する議論は目上目下の関係ないシビアなものです。
科学研究上のおはなしなど単純に正解が求まってすぐにすっきり解決しそうなものなのですが、実際には多くの要素が複雑に絡み合うことも多く、議論の勝敗は自分の肩入れする要素がより重要であることを示すことのできた者に軍配が上がることが多々あります。

あまりにも雑駁に過ぎて恐縮ですが、これが私の背景です。
掲示板におけるコメントにも根拠をできうる限り提出しようとリンクも貼りますし、言葉尻を捉える悪癖も身につけております。
なによりも、理に適わぬ方向に話が流れていくことは好きではない性分のようです。
「2ちゃんねる」ではこれで充分に通用しておりましたので、この性向に拍車がかかったのかもしれません。煽りは論外ですが・・・その節は大変に失礼を致しました。平にお許し下さいm(_ _)m

もしよろしければ少々質問などさせて頂けませんでしょうか。
了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

既に私にとって、仏教も金剛禅も摩訶不思議な宗教ではありません。
(金剛禅には初めから不思議な要素はほとんどありませんが)
あるいは深く「邪魔」に犯されている状態なのかも知れませんが、私はこれを魔とは認識しておりません。
行中に憑くという餓鬼も魔も、過酷な環境における禅病のような特殊な心身の様態であるものと推察いたします。
果たして、このようなものに仏弟子が務まるものでしょうか?

123MASA:2006/06/16(金) 02:28:28
>了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

今回はこれで了にして下さい。外野からのお願いです。

124ペガサス:2006/06/16(金) 06:02:59
私もMASAさんに同意です。
今の1改さんには空さんが説明した所で無意味な事となるでしょう。
あなたにはまだ空さんの言わんとする所がわかてないようですね。

先に空さんが教示された法句経の漢文にしてもあなたは確かにそれに近い邦訳を引っ張り出してきましたが
問題はそんな事ではなかったのです。
言葉の訳などわかっても仕方ないのです。
そこの言葉の真の意味。いえ、ここに提示された事の意味する所がわからなければ。
ではそれは何か。それはあなたが自分で考える事です。
人に答えを聞いた所で真の解決には至らないでしょう。
知識で知る事と心で知る事とは違うのです。
どう違うのか。それを知る為に人は行ずるのです。

知識でいくら解答を出した所で心の悩みや、妬み、欲や妄執と言う物は取り払う事ができません。
それは人間が生きて感情を持っているからです。行とはそう言う部分の修行なのです。
それを取り払ってようやく見えてくるものがある。
あなたならそれは何ですが。具体的に例を示して説明してくださいと言うかもしれませんね。
例も説明もありません。それは個々に自分の心の中にのみ見えるものです。
これがわからなければ千回万回質問を繰り返してもあなたは何も満足出来る答えを得る事は出来ないでしょう。

そう言えば昔、私が龍固をしていた時、どうも上手くいかなず、
そこに通りかかった御先生に何処か間違ってますかと聞いた事があるのです。
すると先生は私のやってる事をちらっと見て、何も言わずに行ってしまわれました。
「おいおい、それはないだろう」と言う所です。

さてあなたならどうしますか?
この先生の態度があなたが122番でしていた答えです。
そのあなたの問いには私も多分空さんも何も言わずにその場を去るでしょう。
もう答えは空さんが十分過ぎるほどだしてくれています。
あとはあなたが本当にそれを知識ではなく心で気がつくかどうかだけです。

不以多言故
彼為持法者
彼雖聞少分
但由身見法
於法不放逸
是名持法者

125ペガサス:2006/06/16(金) 06:46:59
付け足すならば、その時の御先生の私に対する態度の意味する所と
その結果がわかった時私は先生に感謝せずにはいられませんでした。

1261改:2006/06/16(金) 09:10:45
MASAさん、ペガサスさん:
私のレスで不快にしてしまって申し訳ありません。
先回の質問は、ただ空様に関わっていたかった私の気持ちの表れです。
議論を仕掛けているわけではありません。
真に迷い、ご教示を仰いでいる次第です。
きっと、もっとも適切な形で私に回答を下さると確信しております。
もし、レスを返していただけないとしたら、それはそれで私に対するメッセージです。
どうか私にも、龍固の質問のような機会をお許し願えませんでしょうか。

127名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/16(金) 11:20:26
「金剛禅なんて本読めば理解できる」なんて言ってた方がいたのを思い出しました。
単なる知識だけでなく心で気が付く、か。
今の少林寺でどれだけの人が心で気づいているんでしょうか・・・。

128:2006/06/16(金) 13:39:33
>1改さん、ペガサスさんやShyamiがすべて授けて下さっています。
 同門の教えに気づくことです。

「空を知らぬか、あっかんベー!お山で会おう」これで終いだ。

129615期生:2006/06/16(金) 13:56:29
空様、ありがとうございました。

以前、開祖が教範を書くに当たってあまり仏教用語を使わないようにしたと
聞いたことがありましたが、何となくわかって気がしました。
また「師匠の無い仏教は滅びる」というのもだいぶわかった、、、気がします。

1301改:2006/06/17(土) 00:08:48
空様:
ご返答感謝いたします。
この様な私ですが、私なりに精進してみます。
我が儘にお付き合い下さりありがとうございましたm(_ _)m

ペガサス先生を初め丸廉の多くの方々をやきもきさせてしまいました。
お騒がせして申し訳ありません。
スレを読み返して、教えてくださった多くのことをこれから確認していきます。

>615期生さん
私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
煽りの中でも私は醒めているつもりでしたので、少なくとも意識的にはコケにしてやろうなどと悪意を持ったことは一度もありませんでした。
どうぞ2ちゃんねらーのよしみでお許し下さい。
しかし、やはり私は2ちゃんに向いていないようです。
例の、私のスレにはもう戻らないつもりです。
あの板は一年くらいほっておいても落ちないくらいまったりしています。
もしよろしければ、(必要ないでしょうけれど)ご自由にお使い下さい。

それでは、今度こそ私は消えます。
お騒がせな1改キャラもネットから消えます。
(Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!)
みなさま、長い間ありがとうございました。

131ペガサス:2006/06/17(土) 01:42:46
おやおや、1改さんをいじめてしまいましたかね。(^^;)
では最後に一つだけ、御先生の解答を言っておきます。
結局私は解答をもらえなかったと言う事が解答だったのです。

つまりこの程度までくれば放っておいてもいずれ気がつくだろうと思われたので解答してくださらなかったのです。
ある意味で自力を試されたと言ってもいいでしょう。
全くわかってなければ間違った方法に進まない為にもそれなりの解答はされたでしょう。
つまり法は人を見て説くものと言う事です。

頑張ってください。1改さん。

132615期生:2006/06/17(土) 23:11:22
>1改さん
>私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
いえ、一時はムムム(゚∈゚*)ともしてましたが(お恥ずかしい限り…)、全く問題ないですよ。
ここはこれでいいんです。

いや私としては、このスレの真の>>1さん(リーさん)が心労してたらと心配ですw

sage

133Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/18(日) 10:07:07
> Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!

どういたしまして。
「北禅スレ」は私にとってもちょっとした実験的なスレッドでした。
言ってしまえば1改さんの知識欲に乗って私も知識の収集したのです。
ここは「自他共楽」の一環と言う事で勘弁してください。

あなたは大分恐縮なさっているようですが、こちらの方々の殆どは懐が大きく
気持ちにも余裕がある方が多いと思っています。
むしろROMなさっている方々の方がはらはらしていたかも?(笑
今回はあなたの参入のおかげでお話が盛り上がりました。
#132で615期生君が言うように「ここはこれで良かったのです。」

空様は他宗の御方ですが、金剛禅と私達の活動に興味を持ってくださり
色々と御知識や御教示を戴いています。
(観ていなかったら「 丸廉法器研究班」のスレッドをご覧になると良いです。)
またこちらのスレッドで気の効いた話題が始まれば御光臨くださるでしょう。

では、法縁満ちた時にまたお出でください。

sage …るの?

134Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/18(日) 10:07:43
ありゃ?sagaらなかった?

135rusher:2006/06/29(木) 12:56:58
この話の出典、どなたかご存知ですか?

禅僧Aと禅僧Bが旅をしている時に、とある川にさしかかった。
橋がないので、向こう岸に渡るには膝上ほどの深さがある水の中を歩いて行く必要がある。
ふと見ると、うら若き女性が川岸で立往生している(服を汚したくない。しかし、裾をからげるのはみっともない)。
そこで禅僧Aはその女性を背負ってやり、川を渡った。
禅僧達は旅を続けたが、やがて禅僧Bは「僧侶であるにも関わらず女性に触れた」ことについて、禅僧Aを責めはじめた。
しばらくそれを黙って聞いたあと、禅僧Aは言った。

「その女性なら、わたしは川辺に残してきたんだが。きみはいまだに背負ったままなのかね?」

136名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/29(木) 13:50:14
前に、ひろさちや氏の著作の中で読んだ記憶があるけど、出典はどこなんでしょう?
なんかいろんなバージョンもあるみたいだけど・・(ウナギの匂いとか)

137アップル:2006/06/29(木) 14:04:40
http://members.jcom.home.ne.jp/rahiri/newpage33.htm

似た話が、、出展はどこだろう。

138615期生:2006/06/29(木) 16:53:14
>>135
その話、おぼれた女性の話で読んだ事があります。

キーワードは、「主人公」「本来の面目(?)」「無位の真人」このあたりで
間違いないと思います。

139615期生:2006/06/29(木) 16:59:44
Amazon.co.jp:禅的生活ちくま新書: 本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061452/qid=1151567849/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/249-8277064-3728365
たぶんこの本で読んだので、立ち読みすれば見つかるかもしれません。
ただし、ここでは僧A,Bではなく、師弟の関係でかかれていました。

ちなみにこの本、ここ数日(家で)探しているのに見つからない…
広い家じゃないのにorz

140615期生:2006/06/29(木) 17:02:41
うーむ、そうだ、この本では「絶対的一者」だったかもしれない…

141これはどうですか?:2006/08/08(火) 22:36:34
290 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:19:09 ID:vjARQh320
>>282
生き甲斐なんてのは執着の最たるものだよ。
今が大切なんて教えも禅にはない。

291 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:22:24 ID:g34FUiJ90
>>290
>今が大切なんて教えも禅にはない。
究極的にはそうだが、今を大切にするというのは基本事項だ

142615期生:2006/08/09(水) 14:55:51
アップルさん、どう思う?

143615期生:2006/08/09(水) 18:46:54
シーン

144mogela:2006/08/09(水) 20:57:54
教えとしては日々是好日が一番しっくり来るような気がしますね。
代表的な公案なんで深くは突っ込みませんが私だったらこれでお返します。

145これどういう意味?:2006/08/09(水) 21:13:10

324 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/09(水) 16:54:33 ID:Z8R2DfUj0
うちら禅を名乗っちゃいるが、あんたんとことは別モンだからかまわんでくれ。

武道@2ch掲示板
*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です

 ↑ ↑ ↑
「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」
ってことでFA?

146アップル:2006/08/09(水) 22:42:54
どういうこと?話の前後がわかんないお

147615期生:2006/08/09(水) 22:53:54
>武道@2ch掲示板
>*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です
を貼った理由は知らないけど、

>「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」ってことでFA?
という解釈もまったく意味が分りませんが。


>144
シクシク
アップル君は最近オリをスルーするんだぁ(´Д⊂グスン

まぁいいとして、ありがとうございます。私は、

>今が大切なんて教えも禅にはない。
の意味が分りません。むしろ逆だと思います。

148アップル:2006/08/09(水) 23:15:23
あ。まったく気づいてませんでした。
あれ?ぜんぶレスはメールでとんでくるはずなんだが。。

>アップルさん、どう思う?

>>今を大切にするというのは基本事項だ

これに同意ですね。
生きるってことは今を大切にするってことですよ。
日常の中にこそいかされるべき教えの方が私は好みですね。

149mogela:2006/08/09(水) 23:52:21
>>147
私もそう思います。
ただ、数多い公案の中にはそれに反するものも存在すると思いますのでそのような
ものを引用して否定されることはあると思います。公案集などにはそれらのやりと
りが記されていますが本来このような問いは修行者と師僧の中で行われるもので単
純に解が得られるものでは無いと思っています。
有名なところでは狗子仏性があります。これについては「無」とされているものが
多いのですが「有」と応える場合もあります。これらは相手の先入観や求めている
ものを読み相手に合わせて応える典型として、禅の思想を語る際に取り上げられる
ことが多い公案です。そういう意味では行を経た上で導き出されたものであれば日
常に喜びを感じることも執着を感じる事もどちらも正しいと思います。
ただ、行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
だからこそ師と面授面受で教えを受けることが大事なのではないでしょうか。
このあたりは開祖も何度も説いていましたし私達拳士も心しておくことだと思って
います。

150615期生:2006/08/10(木) 11:50:36
>行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
そうなんです、そこなんです。

禅てのは比較的個人の信仰には寛大なほうですから、結局本人、そして師匠の
影響が大きく、どうも文献だけで語られるとどうしようもありません。

やっぱり最低限、会って話さないとつらいですね。

151615期生:2006/08/10(木) 13:55:30
世界一小さい新聞 - nikkansports.com : 義務を超えた「善の味」
http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2006/08/post_126.html

こういう話は私も聞いたことあるな。
ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と
「拾うべきかな?」と考えてから拾う人には差があるみたいな。

なんだたったかな、拳法でも突が来たとき受けを考えて出すのと
体が反応するのとは違う、みたいな話と絡められていた気がするw

152アップル:2006/08/10(木) 14:08:51
>無我の実践

って何?

>ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と

何も考えずにというのは、拾うか拾わないかの判断はせずに、
デフォルトで「ゴミは拾って捨てる」と決まってる人って意味かな?

153615期生:2006/08/10(木) 14:39:57
無我の実践というか、たぶんだけど、

「無我で」実践

てことだと思う。自分は委員長だから、シンジ君を誘うんじゃなくて
シンジ君があまりにも暗いから、自然と声をかけてしまった、みたいなかんじか?

154アップル:2006/08/10(木) 14:52:46
えっと、もしかしてエヴァ?(シンジから予想)
オリ読んでないからあんまりわかんないよぅ。

155コイツなんとかならないの?:2006/08/13(日) 14:38:19

350 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/13(日) 11:09:29 ID:61e2w0NG0
>>343
だから禅でもなんでもない金剛禅とやらが、
いかさま仏教を語っているからこうなったんでしょう?
禅の話がスレちがいだというなら、
少林寺拳法が「自分たちのやっているのは金剛禅で宗門の行です」というのをひっこめてください。

>>345>>346
あなたは拳士でもなければ>>336でもないんだから、
人へのレスにくちばしをつっこまないでください。
一番ここにふさわしくない人間はあなたですよ。

↑ ↑ ↑
にわか禅師がスレ荒し?!
少林寺拳法の教えが間違っているから変えろと喚き、2ちゃんで大騒ぎ
これが禅の修行の賜物ってことでFA?

156名無しさん◆いらっしゃい:2006/08/13(日) 17:14:01
そういえば、前に少林寺拳法は「愛」を肯定的に使っているから仏教ではない。
って主張している奴がいたな〜。開祖は仏教を知らないってHPまで作って繰り返し
書き込んでたけど。

157615期生:2006/08/15(火) 19:31:11
>これが禅の修行の賜物ってことでFA?
勘弁してください。

>開祖は仏教を知らないってHPまで作って繰り返し書き込んでたけど。
そんなサイトがあったのか…
仏教を勉強すればするほど、私は開祖がなんて坊主くさい法話していたんだと
実感しまくりなのに。ただし、仏教の言葉はあまり使ってないからそこんとこ
わかんないのかも。

158277期生:2006/08/20(日) 02:04:14
初めまして、皆さんの金剛禅に対する真剣な仏教論議に感服して拝見しました。
私は、35年間少林寺拳法を修行し、23年間の道院長を退いた者です。
登録商標としての卍マークについて、本部のポリシーのない行動に同感できなく、
組織を去りました。
しかし、今でも開祖宗 道臣師家の教えを守りながら生きているつもりです。
真剣な仏教論議に感心しながら、このような真剣な方々が本部の指導員として
導いてくれていたならば、組織が維持出来るものと感じました。
他の2チャンネルの投稿も見てまいりましたが、批判のための批判が繰り広げられていて
とても寂しく思います。
私は、孫3人の爺ですが気力だけは負けないつもりで今も武術としての少林寺拳法を修行中です。
私は、組織としての本部から離れても、なお理屈でない世界、少林寺(開祖の継承者としての)の拳士
自覚をもって、社会に貢献しているつもりでいます。
少林寺拳法(開祖宗道臣の興した)を信じて修行中の皆さんの益々のご発展を
祈念・応援するものです。頑張ってください!!

159ペガサス:2006/08/20(日) 05:11:14
はじめまして、277期生さん
野に下って金剛禅の真義を実践なさっておられる由、心強い限りです。
私も20年の支部長の座を退き、今は一介の拳士として修行をさせていただいております。
私の場合は移転に伴う個人的な諸事情により後進に道場を譲りました。

ただ私も少林寺拳法が大好きな馬鹿ですので、修行の道はいつまでもと思っております。
組織に属するだけが師の教えを引き継ぐ事ではないと思います。
大事な事は入れ物や形式ではなくその心をいかに継承するかだと思います。
組織内にいても腐った者は出てきます。またはその組織と言う防波堤に守られて
自らを真に物心両面に渡って鍛えようとしない者もいます。

我々は最終的には一人一人が開祖の代理として第一線でこの金剛禅を幸福運動を広め推進する事。
組織はそれをバックアップしてくれるもの。
それが組織が大きくなる事によって自らの意思と努力が後退し組織の力で何かをやろうとする傾向が強いようです。

確かに一人では何も出来ない。だけど5人が10人に、10人が100人に、1000人にと集まれば
大きな事も出来るとは開祖のお言葉ですが、それは一人一人の自らの意思が結集する事が前提であって
組織にお膳立てしてもらって上からの指示だからと言って歯車のように動く事ではないはずです。
ただし一旦自分達の意思決定が出来れば統率は必要なものとなってくるでしょう。
しかしそこに至る各自の心の団結、一致がこれまで組織を引っ張り大きくしてきたように思います。
それが今は逆転してしまったように思うのは私だけでしょうか。

ともかく大事な事は真に心で教えを継承し、生涯学習としての道を実践する事だと思います。
それぞれお互いの立場は変わっても同じ教えの道を歩む者同士、これからもご指導のほどよろしくお願いいたします。

160277期生:2006/08/20(日) 05:29:58
ペガサスさん、全く仰るとおりです。
開祖の生き様にあこがれて入門し、今までの自分の人生の指針を頂き現在の自分が
ありますので、おかしな方向へ進もうとしている組織を離れる事に悔いはありません。
道院長としての23年間も決して無駄では無かったと思います。

全国にペガサスさんのような同士がいて、開祖の教えが脈々と受け継がれている事に
喜びと安心を感じました。

今後とも一修行者として、また社会的にも役立てる人間として頑張りたいと思います。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
本当にありがとうございました。                     
                                    合掌

161アップル:2006/08/20(日) 14:04:13
277期生さん、
大先輩ですね。組織を去られたというのは悲しいですが、それでも修行を続けられているのは嬉しい話しです。
この掲示板ではいろんな拳士が集まり、楽しんでいます。
昔話でもかまいませんから気になったことやまた、現状として知りたいことなどどんなことでもいいので今後も書き込みお願いします。

162277期生:2006/08/20(日) 19:19:37
アップルさん、ありがとうございます。
拳士、全国どこでも合掌ひとつで熱く語れるって良いですよね。
単なる仲良しクラブでなく、強さを求めながら理想郷建設という
開祖の思想を理解しようと集まる仲間を頼もしく感じます。

以前、ビスキューさんですか、一度お話したことがあります。
とても前向きなショウリンジャーで頼もしく思います。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

163615期生:2006/08/21(月) 01:33:38
277期生さん、書き込みありがとうございます。
私はいまとってもうれしい!!! w
というのも、277期生さんの最初の書き込みの最後に、

>理屈でない世界

という言葉を用いられています。どうも今私にとって旬でして、
「ぉぉぉぉこの人きっとすげーーーーー」と一人外出先で興奮してしまいました。(こんな文章ですいません)

アップルさんも書かれていますが、ぜひ今後もぜひ書き込みをお願いします。
ありがとうございました。 合掌(^人^)

164名無しさん◆いらっしゃい:2006/08/21(月) 02:18:42
山に籠もり、禅を組み、書を読む修行によってさとりを開いても、
現実の矛盾に苦しむ経験がないと単なる生悟りである。

そんなオナニーのような修行よりも、現実世界で矛盾と戦いながら
修行する。これが金剛禅だと思います。

165ビスキュイ:2006/08/21(月) 07:54:09
>277期生さん
おはようございます。ようこそいらっしゃいませ〜♪ちょっと失念してしまっていて
申し訳ございませんが、以前お話させていただいておりましたか。こちらの掲示板で
しょうか、それとも直接ですか?いずれにしまして少林寺拳法の大先輩においでいた
だいたのはありがたい限りでございます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

166まんじ丸:2006/08/21(月) 12:04:03
>277期性さん
私の師匠も一度辞めたことがありました。
元山門衆だったのですが、開祖が亡くなった後の本部の在り方に激怒し
道衣を燃やしてしまったとのこと・・・。
その頃のお山の同輩も、ヨガの世界に移った方がいたとか・・・。
その時に皆が、口にした言葉が
「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。チャンチャンバラバラやるのが
拳士ではない。教えを守り、実践するものこそ拳士だ。教えを胸に生きていく!」
だったとか・・・。
277期生さんは、本当の拳士なのだと思います。
これからも、時々覗いて指導して下さい。

167615期生:2006/08/21(月) 13:58:59
>「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。
なるほろ・・・拳法とは妙な言葉ですね

168さつまんじ:2006/08/21(月) 23:01:40
>「拳法は『拳』を取っても、『法』は残る。
いいことばですね。勉強になった!

169ビスキュイ:2006/08/21(月) 23:23:03
>元山門衆だったのですが、開祖が亡くなった後の本部の在り方に激怒し
>道衣を燃やしてしまったとのこと・・・。

お師匠様相手にやたらと「ハゲとる」とか「茹でタコ」とかを連発してる
まんじ丸さんもいつか燃やされるのだろうか…

170まんじ丸:2006/08/22(火) 08:23:28
>>169
きゃ〜!!!
思いっきり、バラすなぁ。。。

仕方ないから、ハクジョーしますよ。
ワシは「先生の手はタコのようですね!頭もですが・・・。」とは言うた。
キレイに吸い付いて、逃げ切れないんだもん!
それでいて、柔らかいの!!!
他には、飲み会でステキな法話を聞かせてくれたら、
「先生、後光が指して見えます・・・。」とかかな。

あぁ、燃やされるんかなぁ。。。
でも、燃やしてもらったら脂が減るかな?

171615期生:2006/08/23(水) 02:07:44
まん丸さんもいずれは、言われるでしょう。



ワシは「まん丸の腹はビスさんのようですね!お尻もですが・・・。」とは言うた。
キレイに吸い付いて、逃げ切れないんだもん!それでいて、柔らかいの!!! ←アブナイ

他には、飲み会でステキな法話を聞かせてくれたら、
「まん丸さん、暗器を刺してみます・・・。」とかかな。

172615期生:2006/10/16(月) 17:11:37
特別展『仏像 一木にこめられた祈り』/レッツエンジョイ東京
http://www.enjoytokyo.jp/OD004Detail.html?EVENT_ID=48886

に行こうとおもっていたら、こんなニュースまで。
 今、仏像が熱い!! とかく高齢者の趣味と思われがちだった仏像だが、ここ数年では
30−40歳代を中心に愛好者が急増。さらに、その下の若い世代にも“仏像フリーク”
が…。この秋、東京国立博物館で特別展が開かれているほか、滋賀県の寺では55年ぶり
となる秘仏のご開帳など参拝ツアーが人気を読んでいる。まさにブレーク間近なのだ。

 今月3日から東京・上野の東京国立博物館で開催中の特別展「仏像〜一木(いちぼく)
にこめられた祈り」をのぞいた。
 「前売り券の段階で相当売れ、週末には1日約6000人以上も訪れています。うれしい
ですね」と同館スタッフは、喜びを隠せない。
 ジミなタイトルの特別展だが、国宝や重要文化財などレアものの仏像146体が一堂
に会す。特に会期後半(11月7日−)にお目見えする滋賀・向源寺の国宝「十一面観音
菩薩像」は“寺外初公開”の秘仏だ。
 館内では、音声ガイドとして「まんが日本昔ばなし」で知られる女優、市原悦子さん
のナレーションを起用したことも話題を呼んでいる。

 仏像フリーク必携の書といわれる『見仏記』シリーズ(角川書店)の著者、みうら
じゅん氏といとうせいこう氏のトークショー(7日)では、「380枚用意したチケット
は、発売後13分で完売してしまった」(同館)というから上野のお隣、アキバの
アイドル並みの人気だ。
 会場には中年層のマニアはもちろん、20−30代も多く、女性の姿も目立つ。
「約1200年以上も経っているのに、こんなにキレイなんて」「衣のヒダヒダ
とかもまるで本物のよう」など、ため息が漏れていた。

 仏像を求めて小旅行に出る人も急増中だ。
 特に今秋に人気を集めているのが、滋賀県・琵琶湖の東側にある「湖東三山」
といわれる、西明寺、金剛輪寺、百済寺の3つのお寺。
 これらの寺では、ご本尊の仏像公開(ご開帳)が住職一代に一度だけと決められ
ているが、天台宗が始まり1200年を記念して9月18日から一斉公開されている。
 公開は百済寺が55年ぶり、西明寺は50年ぶりなど、「これを逃すと二度と見れないかもしれない、
まさに一生に一度」と西明寺の中野英勝住職。
 この「秘仏の中の秘仏」を参拝するツアーも盛況。東京から湖東三山を日帰りで回るツアーを企画した
JR東海ツアーズは、「毎回定員に達するほど大変好評。公開は今月27日までなので、“駆け込み”
参加がさらに増えそうだ」と話している。

 こうしたブームの背景には、何があるのか。東京国立博物館名誉館員で『仏像のひみつ』(朝日出版社)
の著書がある山本勉・清泉女子大教授が語る。
 「仏像というと、これまで抽象的な話や文字で読んでからといった難しいものと思われていた。それが
理屈抜きで、実際に自分の目で見て、好き嫌いを感じてもいいんだ、という認識が広がったことで、一般
の人も受け入れやすくなったのではないか」

 格差社会や親族間での殺人事件、激務からくるうつ病…。仏像と静かに対面する機会が今こそ求められ
ているのかもしれない。(以上)
■ソース(夕刊フジ)
http://www.zakzak.co.jp/top/2006_10/t2006101609.html

173おなかすいた:2006/10/18(水) 19:09:18
名古屋では、東海地方の天台宗寺院の秘仏大公開もあるよ。
名古屋市博物館
比叡山と東海の至宝 10/21〜12/3
http://www.museum.city.nagoya.jp/

174615期生:2006/10/18(水) 19:46:37
ありがとうございます!!

しかし遠いorz

175615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/01/10(水) 13:28:47
先日、とあるニュース番組でバドミントンをあつかって増したが
そこのクラブ(小学校・中学校くらい)では、先生がトスを上げて
子供が返す、あいている子供は隣で筋トレ、て感じでしとるらしい。

報道によると、筋トレは先生が指示していることではなく、
子供が自発的にやっとるとのこと。「勝つためにはどうすればよいか」
と自分で考えてやてるとのこと。

勝つという明確な目標が発心を生み、努力を生み、
結果を生んで自信を養うみたいな流れの報道でした。


なんて健全なんだろう。。。

176615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/01/10(水) 13:29:22
かくとこまちがえたorz

177615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/01/26(金) 00:09:17
メモ

20世紀少年の神様のボーリングの話おもしろい。
プルートーの「完璧な人工知能とは間違いを犯すもののこと」てのおもしろい


sage

178615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/08/19(日) 20:31:16
Yahoo!オークション
http://page15.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/t43936379

独鈷をヒンポツとしてつかっとる・・・
こういう使い方が正しい? あるんだろうか。
おもろい

179615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/08/19(日) 21:31:32
あ、払子か。

180Stuart Henson:2007/09/04(火) 11:27:52
quipster microtheos cosmological baggager mediatory daggerbush formylate uvulae
<a href= http://www.freewebs.com/oixoch/1.html >This</a>
http://www.freewebs.com/oixoch/2.html

仏教と金剛禪

181615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/09/11(火) 23:04:05
1 名前:セクシービーフφ ★[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:31:28 ID:???0
★ヒトゲノム計画をリードした著名生物学者は有神論者

 ヒトゲノム計画を率いてきた、米国立ヒトゲノム研究所所長Francis Collins博士は神の存在を信じており、
進化は確かに起こったがその引き金を引いたのは神だとする立場に立っている。
根本主義者と無神論者が対立する米国社会において、同博士の立場は物議を呼んでいる。

 Francis Collins博士の、科学者としての信用は揺るぎのないものだ。
 政府の公的プロジェクトであるヒトゲノム計画を率いて民間企業と競争。
米国立ヒトゲノム研究所(NHGRI)の所長として、数々の病気の原因となる遺伝子の特定に寄与している人物で、
偉大な遺伝学者として歴史に名を残すのは間違いない。

 そのCollins博士が神を信じてもいるというのは、宗教的信仰と科学とが相反するものではないことの
証明になるだろう。
 Collins博士はこの広範な主張を、そしてより具体的には、進化は確かに起こったがその引き金を引いたのは
神だとする主張を、2006年夏に出版した著書『The Language of God』(神の言葉)の中で展開している。
 『Nature』誌は論説(有料)の中で、Collins博士の神学的主張は、信者でない人々を説得できるものでは
ないだろうとしながらも、ここで重要なのは、相手を転向させられるかどうかではないと指摘している。
 肝心なのは同博士が、信者と無神論者を分かつ溝を、科学的に信用できる、称賛に値する姿勢で
越えていることだ、と同誌は論じる。
 その一方で、『The End of Faith』(信仰の終焉)という著書のあるジャーナリストSam Harris氏のように、
Collins博士の著書と『Nature』誌の反応に脅威を感じている人々もいる。
 Harris氏がウェブマガジン『Truthdig』に掲載した書評は、Collins博士の主張がなぜ懐疑論者を
説得できないのかを完璧に示す例となっている。
 だがもう1つこの書評が明確に示しているのは、一部の無神論者が、根本主義[聖書の記述を
文字通りの真実と考えようとする立場]の人々とそっくりな傾向を備えているということだ。
どちらも、自分のやり方を誰もが信じるべきだと主張する。(以下略)

WIRED NEWS(抜粋) http://wiredvision.jp/news/200709/2007091121.html

▽関連リンク
●米国立ヒトゲノム研究所 http://www.genome.gov/



5 名前:セクシービーフφ ★[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:33:25 ID:???0

 記録のために、ここにCollins博士の発言を引用しておこう。

===============================================
私はたまたま神が実在すると信じるに至りました。
そうでなければ、あなたとこんな議論はしていないでしょう。
それでも基本的に私は、議論に勝ちたいがために、議論をねじ曲げるような人々には反対しています。
思うに、議論をねじ曲げるような姿勢は、宗教的なものの見方から来ています。
実際に進化を示す証拠が揺るぎなく存在するというのに、宗教的な根本主義者たちは
机を叩いて進化を邪悪だと叫び立ててるのです。
===============================================

神か科学かに議論が二極化されていることを嘆じつつ、Collins博士はさらにこう続ける。

===============================================
ほとんどの人は、どちらかに分けるような極端な生き方はしません。
ほとんどの人は中間のどこかにいて、これらの世界観の調和の可能性を模索しています。
私はそれをすでに見つけており、それが知性と精神をよく満たしてくれると感じています。
だから、この可能性について耳にすることがほとんどないことを残念に思います。
特に若い人たちが、科学か信仰か一方を選ばねばならないと教えられているのを目にしたりすると悲しく思います。
私の考えでは、どちらの1つを選んでも、片方だけでは人生の豊かさを失うことになるのです。
===============================================

さて、読者の皆さんがCollins博士の宗教観に賛同できないのであれば、それはそれで構わない。
筆者も個人的には賛同していない。

だが、博士は明らかに、神を信じていると同時に優れた科学者だ。
そのことは認めざるを得ないのではないだろうか。

182615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/09/11(火) 23:04:41
おもしろいのでホッシュを兼ねてこぴぺ

sage

183615期生 ◆1WOpAbkgRc:2007/09/11(火) 23:11:26
10 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/09/11(火) 22:36:23 ID:TxiyeX9+0
 科学者って神を信じている人多いよ。
 キリストとかそういう宗教的な神様を信じているわけではないけどね。

184名無しさん◆いらっしゃい:2007/09/12(水) 00:14:34
神様はいない。でも神は在る。
少林寺的に言うと、ダーマさんはいない。でもダーマは存在します。


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