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仏教と金剛禪

1名無しさん@いらっしゃい:2006/05/17(水) 16:22:03
前のスレタイトルがあれだったので新たにスレを立てました。
ここで質問を書いてはいけないと思いますが
仏教についての質問なので書かせて頂きます。
仏教と金剛禪の話の中で法燈明の話はいつか出てくるのでしょうか?
やはり自燈明と法燈明は二つで一つの教えだと思いましたので一様・・・

56615期生:2006/06/05(月) 09:44:04
>金剛前とはまさに行動する宗教だと思っています。
いいなぁ(´Д⊂グスン
勉強になります。ペガサスさんありがとうございます(^人^)

57アップル:2006/06/05(月) 10:01:50
仏教専門用語を金剛禅専門用語に訳したり、その逆だったりってのは難しそうですね。
どっちも一般人(仏教にかかわりの無い人とか)にはわかりにくいですしね。
うまく法話できるようになりたいですなぁ。

58615期生:2006/06/05(月) 10:32:34
100レスに満たずにこういう話になるなんてなんてすばらしいスレ。

59:2006/06/05(月) 16:50:13
門外漢ですが、宗教論のようなので少し感想を託します。
>ペガサスさん、たいへんに勉強になります。
>たまに見てますさんも、勉強家ですね。

感想ですが、仏教学者の間でもひとつの解釈に至らない「法」解釈論は、
今後が楽しみです。

仏教界は、「仏陀、在りき」で、すべてが始まり進みます。
私のハンドル「空」は、大乗の中観派の「法は空である」から採っている。
だからどうしたと突っ込まれても意味はありません。
仏陀の「法」論争が日本で燃えあがることは、インド仏教以来のことで、
前後の日本では滅多無かったことなので、興味津々です。

「自燈明、法燈明」についてですが、意味は述べられてある通りです。
面白いことに仏教界では、「灯明」は訳の間違いであることは常識になっていて、
サンスクリットで「島」を意味するdvipaを使っていたところ、一般的な俗語、
パーリー語で書くと「灯り」を意味する【dipa】と同語形であるため、
パーリー語を原典として漢訳した「長阿含経」の編纂の際に「燈明」となってしまった。

つまり、「自らの島〜」が「自らの燈明〜」となったようです。
こういった行き違いは、取り上げれば色々と限りなくあるようですが、
だからどうしたの?程度です。他にもっと大切なことがある。
日本の宗教界では派間で「これが本当じゃ!」なんて、普通やらない。
同門同士の勉強のためにはもっときつくやり合う。

「法」の解釈に至っては漢訳ではなく、サンスクリット語で遣り取りしなければ、
本来の解釈が得られなくなってしまうし、経典解説書を読んだ程度では無理です。

ペガサスさんの
>それだけの知識を人の心の苦しみや悩みを救う為に活用されましたか。
>人に知識を教える事や間違いを指摘する事は易しい事です。
>でも大事なことは自分はどうかという事です。
>その知識や信心(もしあればですが)をもってどう行動したかです。
>それらの知識は自分を救い人の助けになってこそ価値あるものです。

これに尽きるようです。

従って、落語の「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」という川柳は、
的を得ていることになります。

60アップル:2006/06/05(月) 16:54:12
空さん、勉強になります。

>つまり、「自らの島〜」が「自らの燈明〜」となったようです。

このような話があったのですねー。知りませんでした。

61615期生:2006/06/05(月) 16:57:22
>宗論は どちら負けても 釈迦の恥
これ上手すぎますね…

空さん、お久しぶりです。(^人^)

62ビスキュイ:2006/06/05(月) 18:16:37
うわっ!空さんお久しぶりです〜。こちら見ていてくださったんですね。
また機会がありましたら書き込みなどいただけると幸いでございます〜。

63Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/05(月) 18:52:30
おぉ、空様、お久しぶりです。
お元気でおいででしたか?(^人^)

641改:2006/06/06(火) 01:02:20
>ペガサスさん、みんみんさん

このスレに来た当初は簡単なコメントをするだけのつもりだったのですが、いつのまにやらこんなことになっておりました。
仕事の関係でずいぶんと長く休眠状態が続いておりますが、そのような私でも名乗る権利があるのなら、私は金剛禅の門徒であるつもりです。

私は丸廉にもupしていただいている「少林寺と北禅」スレを2ちゃんねるに立てちゃったやんちゃなやつです(笑)。
http://marukado.web.infoseek.co.jp/20050122-/2chbbs.html

私にとっての金剛禅の魅力は、北禅スレのレス番100でSyamiさんが指摘されているように、原始仏教に近い教義です。
お陰様で初期仏教に関する勉強の機会はとても増えましたが、私の知識なんぞはどっからか聞きかじってきたのをより集めただけで、学問的でもなければ博識だなんてとんでもありません。

しかし、私は学問、知識というものを実行と同格の重要なものと考えています。
行動がともなわなければ知識には何の意味もありません。当たり前です。
それと同様に、正しい知識が伴わない行動がいかなる惨事を生むか、全ての宗教者はオウム事件でそれを学んだ筈です。

北禅スレのレス番57を見てみてください。
多度津を知る臨済宗僧侶の発言です。

「さて数年前、知人が少林寺の有段者で、かなりの高段位を取る試験の話を伺いましたが、演舞など実技以外に、禅的な内容のペーパーテストがあるそうで、「これはどういう意味でしょう」と聞かれことが在ります。内容は、初歩的なものであったと記憶していますが、一応説明しましたが彼は余り理解できないでいるようでした。そういう点から鑑みても、少林寺拳法は直接禅的境涯を養うものでは無いと言えます。 」

このていたらく。
他派に鼻で笑われるような現状で、一体どうして釈尊の正当な仏教が云々などと言えましょう。
どうやら金剛禅は学問、知識を軽視しすぎるきらいがあるようです。
行動の重視、それは素晴らしいことです。
しかし、行動を起こす者の責任としてそれに見合う深い教義への理解が必要な筈です。
一般的な語義の解釈を知り尽くした上で、金剛禅の語義の理解に努めれば良いのではないでしょうか。

651改:2006/06/06(火) 01:05:16
>>60 アップルさん
>このような話があったのですねー。知りませんでした。

あなたに請われて>>24で紹介したソースにその話そのまんま出てますがな(^^;;

66ペガサス:2006/06/06(火) 03:20:24
はじめまして空さん。
以前にここでSyamiさんと高野の話をされていた方でしょうか?

私の母の実家が和歌山の橋本なもので小さい頃よく高野山に連れて行かれた事があるのですが
その頃はただこんなお山にお寺があるんだ。くらいにしか思ってなかったのですが
そんな私が未熟ながら宗教に関わりを持つ事になろうとは想像すらしていませんでした。

私は特に専門的に仏教学を勉強したわけではありません。金剛禅の教えをベースとしどちらかと言うと行動から学ぶ方でしょう。
まぁ、こう言うとまた「たまに見てます=1改」さんからもっとちゃんと勉強しろと叱責されそうですが。(^^;)
ただ仏教の知識も我々の技術も同じで知っているだけではだめなのでそれを使え、活用できてこそ生きたものとなる。
それが私の基本姿勢です。これに関しては1改さんも同じ見解をお持ちなようで安心いたしました。

確かに我々少林寺拳法の人間は技は勉強し共に仲間と切磋琢磨し合うようですが
我々の教義に関しあまり勉強会を持ち激論を飛ばすような事はないようです。
これも我々の修行のうち、いえ精神的にはその根幹をなすものですからそれなりの勉強は必要です。

ではそれを何処で実践すればいいのか。一つには我々には道場があります。
技を教えるのも一つですが、そこでちゃんと我々も教義も教える。
また後進の悩みや問題があれば聞いてやり解決の手段に活用する。
職場や身の回りでも、日常の中で自然とその知識が活用できるようになってこそ
習ったものが生きてくると言うものです。

道場でならまだしもそんな宗教じみた事を職場や近所で言っていたら
みんなから変な宗教に勧誘されるんじゃないかと白い目で見られるから出来ないと言われるかも知れませんね。
何も釈迦がどうのこうのお経がどうのこうと言う必要はないのです。
共に生きている人間同士、その悩みの根源を見出しどうすればそこから抜け出せるか
祈っても拝んでもそんなものでは解決しないのです。
その苦から抜け出す為にはどう言う考え方をもてばいいのか。どういう行動をとればいいのか。
その道を指し示してやる。自分の人生経験、人生観を通してまたは知り得る例を示し
そこに我々の思想の下地を乗せて。これは生きて行く為の哲学だと思っています。

だから私のいるここのように仏教徒でもなくまして他宗教の考えを容易に受け入れない西洋の人間にも
人生の悩みの相談や諸々の問題解決の為の相談に乗れるのだと思います。

自派の学問は自分自身に課せるもの、しかし使う時は時と所と方法を考えて応用変化を持ってする。
これが我々で言う所の「略」です。
邪道と言う人がいるかもしれませんが宗教を全面に出せない場で教える者の知恵とお考えください。

「宗論は どちら負けても 釈迦の恥」ですか。
なるほど意を得た川柳ですね。では
「宗論は 逃げて通れば われの恥」
とでも返しておきましょうか。

空さん、ご教授ありがとうございました。
今後ともご意見ご指導の程宜しくお願いいたします。

67ペガサス:2006/06/06(火) 03:32:30
川柳の出来がいまいちでした。
これの方がよさそうです。
「宗論は 逃げて通れば 後の恥」

「あほ、そんな事考えている暇があったらまじめに勉強せんかい」
と言われそうです。(^^;)

68みんみん:2006/06/06(火) 07:25:17
1改さんだったのですね。2chでお見かけしたことがあります。
休眠拳士ですか、私と同じですね。

臨済宗僧侶の話ですが、何から何まで曖昧で評価に値しませんね。
「かなりの高段位を受ける人が何か覚えてないが初歩的なことも知らず理解できなかった。」
こんな曖昧な表現で他派を馬鹿にするのは良くないですね。もし事実なら、その僧侶さんの底も知れているというものでしょう。
まして他派の話です。馬鹿にされたからなんだと言うのですか?
「八正道」を実践するならそのような見栄に囚われてはいけませんね。

それよりも、前からお伺いしているはずです。私も615期生さんもあなたの主張が理解できません。
「法」の定義など、曖昧な質問とその返答に対する批判を繰り返すことで、
「あなたは何がいいたい」のですか?

>私は学問、知識というものを実行と同格の重要なものと考えています。
と言うのは結構ですが、自分が勉強していろいろ知っているからと言って、
こういう掲示板で他人を鼻で笑うような態度をとるのはいただけませんよ。
(「バイアス」、とか「NETにソースがあるよ(調べろ)」とかいう態度のことです。
「臨済宗の僧侶」などという権威を使う表現も私は好きになれません)

69Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/06(火) 10:15:49
あぁ、やはり1改さんでしたか。
どうも文調や論調に見覚えがあるなぁと思っていました。
お久しぶりです。お元気でしたか?
最近多忙で2chはおろか、こちらの方もあまりチェックしていないので
スレッドに乗り遅れてしまいました。
こちらには色々な方がおいでなので、どうぞお楽しみを。

70トビアス:2006/06/06(火) 10:33:59
615期生様、アップル様、ビスキュイ様、Shami様、
修行は進められておりますでしょうか?
私は未だに谷で独鈷などを探しております。

ペガサスさんには、感心致します。私は、高野の者ではありません。
いわゆる、市井の古いタイプの修験者です。
修験道は、皆在家です。少林寺拳法も在家のようです。
1改さんは、出家僧侶に惑わされているので、一言書きます。

1改さんは、たまに見てますさんと同じお人ですね。
たまに見てますさんは、禅問答は大嫌いと書いておられた。
禅問答が大嫌いであれば、「不立文字」である禅の理解は難しい。
「不立文字」であるのに「禅」の書物が、もっとも書籍数が多いようです。
この言葉も「不立文字、教外別傳、直指人心、見性成仏」から成ります。

その臨済宗僧侶の方が、批判として言われたのか、
鼓吹するために言われたのか真意は無、こういった批判もまた方便と
考えるべきでしょう。
鼻であしらったかのように見えるのは出家禅僧の特殊性か、
その僧侶の修行が足りないだけのことです。出家僧と在家僧では、
自ずと生活が違うのですから、一様に考えないことです。
特に臨済宗は、面白い。

私は禅についてはあまり知識がないが、一般人よりは知っているでしょう。
臨済義玄による臨済宗は、臨済録からもわかるように鋭い機鋒です。
単に棒喝の禅機ではないことは特筆すべきところです。

「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝等諸人の両門より出入す。
未だ証拠せざる者は看よ看よ」これは録中の誰もが知る有名な言葉です。

「肉体の上に階位づけできない真の人がいる、
 常に君たちの感覚器官を通して働いている、
 それをまだ自覚体認していない者は、
 心眼を開いて見よ見よ」
という意味で、釈迦を無位の真人と見て、仏陀の悟りとした。
このことは「鈴木大拙先生」が「臨済宗の基本思想である」と明言している。

このあたりになると少林寺拳法の「拳足法器の行」は、
「真人」を自覚するための心眼を開く、ひとつの過程ではないかと思えます。
これは、原始信仰ともいえる修験道世界と通ずるところであって、
私としては何ら他宗に恥じるところはないと思っております。

一言いうならば、1改さんには迷うところがあるから、
他宗や議論に気をやっている。そのような迷いは、
「行」を「修」することによってのみ、解き放たれるのです。
本や議論ではどうにもならないところがあります。

先の「無位の真人」はそのことをいっている。
心眼を「行」によって開くところから、すべて始まるのです。
禅宗においては「座禅行」など、修験道では「回峰行」など、
少林寺拳法では、「拳足法器の行」などを主に言うのでしょう。

休眠拳士とお書きになっておられる。どの修行も継続しないと意味はない。
継続しないため、人は色々と理由をつけたがるのです。
その「行」も中断すれば気泡に期す。一から出直すのは、
最初に始めるよりも数倍の努力が必要です。
1改さんも、「不立文字、教外別傳、直指人心、見性成仏」といった、
言葉や書物に迷わず、早く戻られて、「行」を「修」されることが、
一番の早道と思います。

ここの方々は理論より実践、実践で理論を確認してゆく方達だと思いますから、
是非、心を開き修行を再開されることをお勧めいたします。
くれぐれも、書物や結論に至らない、他人との議論に頼らないことです。
最後に私はこの掲示板で「自他共栄」を教わりました。
つまり、自を確立し、伸長せしめて、その後に他人の幸せを扶く。
自己の確立と伸長なくして、他を語る価値は無い!

71ビスキュイ:2006/06/06(火) 10:36:56
はにゃ??トビアスさん???え?

72トビアス:2006/06/06(火) 10:41:19
トビアスは私?だれ?・・?偽名。

73ビスキュイ:2006/06/06(火) 10:44:37
>>72 トビアスさん

70の書き込みはおそらく「空」さんだと思うのですが,何故に「トビアス」さんのお名前が…???

74トビアス:2006/06/06(火) 10:56:58
わしは「空さん」だったのだろうか?
滅多に書き込んだこと無いのに・・・。社内に居るのかな?

75アップル:2006/06/06(火) 10:59:57
あれ?やっぱり?おかしいと思いました。

>社内に居るのかな?

いまあなたの後ろに・・・。

76:2006/06/06(火) 14:09:58
70は私です。すみません。
人に打ってもらいますので、誤ったようです。
トビアスさん申し訳ありません。
以降書き込みは止めます。陳謝。

77Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/06(火) 15:50:46
>以降書き込みは止めます。陳謝。

まま、そう仰らず。
私共にとっても他宗の御方と交流する貴重な機会です。
この後もご遠慮無く書き込んで戴きますようお願いいたします。

78みんみん:2006/06/06(火) 17:30:16
空さん
含蓄のある書き込み、勉強になります。
久しぶりの書き込みを拝見できて光栄です。

>休眠拳士とお書きになっておられる。どの修行も継続しないと意味はない。継続しないため、人は色々と理由をつけたがるのです。
まさに私にも当て嵌まります。
理由をつけず、早く再開します。

これからも書き込み下さい。
みんな待っていると思います。

791改:2006/06/07(水) 01:34:25
>Syamiさん
お久しぶりです。
ホントに最初はサクッとコメント入れてサクッと消える筈だったのですが、なにやらこんなことになってしまいました(笑)。
まあ乗りかけた舟ですので、もう少しお邪魔させていただこうかと思っております。

801改:2006/06/07(水) 01:34:56
>みんみんさん
私が本当に言いたいことは既に書きました。
バイアス、偏見の語に大変敏感になっておられるようですが、これは仏教的にみても大変正しい態度です。
初期仏教に置いて最初期に成立した苦を滅する教法が八正道ですが、その最初が正見です。
正見の解釈は実はイロイロなのですが、金剛禅では
「一切の先入観を捨てて、ありのままにものごとの本質を見つめること」
です。
私はこの先入観(バイアス)という強い言葉を使って615期生さんを煽ったのです。
私が話をしたかったのは、仏教に強い関心を持っている彼でしたから。
でも何故か釣れたのはみんみんさんでしたw

>臨済宗僧侶の話ですが、何から何まで曖昧で評価に値しませんね。
2ちゃんねるのレスなんてものは、厳密なことを言えば評価に値するものなどなにもなくなってしまいます。
私は、件の臨済宗僧侶の発言を引用して金剛禅の体質を揶揄したわけですが、それを見て自省の機会とするのも、ただ反発して腹を立てるのも、これは読者次第としか言いようがありません。

あと、気になったので一応指摘しておきますが、ソースを提示させておいて自ら調べもしないような態度では学校のお勉強(親切この上ない)もできません。
また、臨済宗僧侶に権威を感じたのはあなたであって、私としては、臨済宗という宗派の坊さんの発言だという意味以上でこの語を用いたつもりはありません。

あなたからは、私をやりこめてやろうという気概みたいなものは感じますが、仏教に対する興味関心を微塵も感じることができません。
できれば無意味に私に話しかけないでいただけないでしょうか。
(って、無理かなw)

811改:2006/06/07(水) 01:35:29
>空さん
初めまして。

私は確かに禅問答が大嫌いですと発言しました。
実はこれには注釈がつきます。
正確には、私は文字情報でコミュニケートする掲示板のような場であるにも拘わらず、禅問答の様な曖昧な言説で誤魔化されるのが大嫌いなのです。
禅問答自体は看話禅たる臨済禅の重要な修行法として強い興味を持っております。
ちなみに私の出自は禅ヲタですw

ところであなたは私の発言を少しも理解していませんね。
修験道を修行されているとのことですが、本山派ですか?醍醐派ですか?
まさか我流なんてことはないでしょうね。
いったい、行学一致を説かない仏教宗派が何を行っているのか、大変興味深いものがあります。
いずれにせよ、安っぽい修行論みたいなレスで人を迷わせるのも大概にしてください。

82みんみん:2006/06/07(水) 06:54:27
1改さん
あなたの話は何もかも「曖昧」です。
レスが汚れるのでいちいち書きませんが、2点だけ。

>私が本当に言いたいことは既に書きました。
→書いていません、書いたと言うなら再度でもいいので書いてください。

>できれば無意味に私に話しかけないでいただけないでしょうか。
本来このスレではROM専門です。あなたが普通に議論できる的確な発言をするならば、私は消えますよ。
仏教とは関係なく、2CHで駆使されている典型的な発言テクニックで人を揶揄しているので、議論を正常に戻すために書いているのです。
仏教の話以前に、あなたの発言が2ch的に見ても「卑怯」な手法だと指摘しているだけです。

83Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/07(水) 11:27:55
> 1改さん

えー、一言だけ。
ここは2chではありませんから、過剰な「煽り」をしなくても
普通に真摯に疑問を提示すれば皆さん真摯に返答してくれますよ。
折角他宗の空様や大先輩のペガサスさんもおいでなのですから
それこそ「八正道」の訓と瞋恚説法を思い出しつつ、この機会に
勉強させていただこうではないですか。

84:2006/06/07(水) 13:20:30
みなさんすみませんでした。
1改さん、初めまして。
書き込まない予定でしたが、少しだけ返答して了とします。

私は、貴殿の書き込みについて、批判などする気は毛頭ありません。
私は臨済宗について記載があったため、臨済宗の持つ根本思想について
若干でも知識の共有をみなさんとするべく、少し述べたのです。
お気に触ったようで申し訳ありません。
貴殿ほど禅の知識が無いため、失礼を致しました。

貴殿の禅についての追記注釈は理解しました。
注釈がないと分らず仕舞になるところでしたが、
禅問答が曖昧であるとのご指摘は初耳でしたので、勉強になります。

>あなたは私の発言を少しも理解していませんね。

まだまだ修行が足りないのでしょう、
一層の修行に励むことにしましょう。

一点、修験道についてのご指摘や記述については、
もう少しお調べになって書かれるほうがよろしかろうと思います。
少なし、修験道が仏教宗派であるかのようなご指摘には、驚きました。
私も今一度、勉強し直すことに致します。

私の安っぽい修行論で迷うようでは困りましたね。
私も大概にしておきます。
貴殿の記述をひたすら読んで、勉強させていただくことにします。
私にとって、ここは勉強の場所ですし、やりとりが楽しい。
ですから、時折密かに訪れて読んでおります。

貴殿には、口を挟んだようで誠に失礼を致しました。
ここにお詫び申し上げて、了と致します。

85みんみん:2006/06/07(水) 14:44:38
空さん
スレが荒れてしまい、ご迷惑をおかけしました。ただ、この議論の御蔭で久しぶりに空さんの発言があったのは、有り難いことでした。
了とおっしゃらず、また落ち着いた頃に書き込みください。
ありがとうございました。

86ペガサス:2006/06/07(水) 15:01:48
空さん、もしご気分を悪くされたとしたら私からお詫びいたします。
ここは一応少林寺拳法を行ずる者が主催する場であり、そこの掲示板ですので
道院、支部と言う入れ物はなくてもみな同じ門下という事になります。
1改さんがまだ金剛禅の門徒であるの言うのであれば私と同じ門下。そして後輩と言う事になります。
同じように精神を高めようとされている他派の人に対する非礼申し訳ありませんでした。

人には徳と言うものが必要だと開祖も説いておられました。これは人間性の問題です。
最近では死後になりつつある言葉ですが、少なくとも法を拠り所としまた我を拠り所として
悟りの道を求めようとする者ものがその精神を忘れてはどんなすばらしい言葉をつむぎだしても色を失うでしょう。
「徳」という字は、行人偏にプラス四つの心と書く。徳育、尽くす心、捧げる心、与えて喜ぷ心、だと
開祖は法話でこう話されていいました。

少なくともその道の実践者に机上の知識だけで是非を問うのはいささか非礼ではないかと私は思います。
合気道の本をよみ、貴方の合気道はなってないというようなものです。
私も少林寺拳法の技術書を読んだだけの素人にあなたの術理は間違ってると言われれば腹もたちます。

我々は少なくとも道を求めようとする者。どんなに書籍を読み知識を身につけたとしても
人としての礼節も徳も持たぬ者に仏心も法もないでしょう。
それでは何を学び何を求めようとするのか。
例えどんなに優れた知識を持とうとも人としてその品位を貶める事になるだけです。
客をもてなす精神なくしては「一期一会」も絵空事にしか過ぎません。

私は仲間内で疑問があるなら論議を交わす事は大いにいい事だと思います。
でももし1改さん。あなたがまだ少林寺拳法の拳士であり、金剛禅の門徒であるというのであれば
もう少し外部の人に対する礼節を持ってもらいたいと思います。
でないと貴方自身の品位が疑われ、どんな博識を広げても誰も信じようとはしなくなるでしょう。

87ペガサス:2006/06/07(水) 15:13:32
それとこれは余計な事かも知れませんが、bias(バイアス)は英語では先入観とは使いません。
確かに辞書を引けば先入観と言う言葉はあるかも知れませんが、
日常語としてそれは偏見とか誰かに肩入れするような時に使う言葉です。

つまり机上の言葉と生活の上で使われる言葉は違うと言う事です。
では先入観とはどんな英語なのか。それはご自分で調べてみてください。

88..空:2006/06/07(水) 18:31:11
ペガサス様、
ご心配いただき、ありがとうございます。
「宗論は 逃げて通れば われの恥」武辺の感じが漂います。
では私は「宗論は 何といっても 逃げるが勝ち」
逃げちゃいましょう。

私は、法器の項で、お仲間に入れていただきましたが、
武術には疎いためにいろいろとご教授いただきました。
私は、修験道の行者ですが、膝を悪くし近年は篭って勉強をしています。

時折、ここを覗いて、はにやにや喜んでいます。
お蔭様で、法器と武器の関係ではかなり知識がつきました。
しかし、谷に失った独鈷などは未だに惜しい気がして、
まだまだ修行が足りないと反省するしだいです。

ここの方々は実によく勉強されています。
教えられることが多い。
Syami様のお陰で、冷や汗をかきながら、
師や大先達、時には座主などにも確認しながらお答えするほどでした。
却って、「お前ももっと勉強しなさい」と、叱られたのですよ。
こういった具合にみなさんとても楽しいし、元気をもらっています。

みんみん様も、お元気で何より、あまりき熱くなることは無いですよ。
これだけ言い合いが出来る内は、お互いにまだ余裕があるということ。
極限状態ではこうはいかなくなって、扶助し合うものです。
その中から自分の愚かさや弱さが見えてくる。
一生勉強です。

89ビスキュイ:2006/06/07(水) 19:00:43
空さんのお話はネットの掲示板で読んでも不思議と「味わい」が伝わって来ますな〜。

90615期生:2006/06/07(水) 19:13:19
いい香り、てやつですか。

91ビスキュイ:2006/06/07(水) 19:25:44
>いい香り、てやつですか。

うんうん。何て言いますか,夜に囲炉裏のそばにご一緒させていただいて,そのまま
般若湯などいただきながら色々と修行のお話を伺わせていただきたくなるような…

92Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/07(水) 19:39:35
然り然り。一度直にお会いしてゆっくりとお話など伺いたいものです。

931改:2006/06/08(木) 00:10:21
>>82
>みんみんさん
私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ただ、やはりここで下らない2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
深く反省しております。

941改:2006/06/08(木) 00:10:42
>>83 Syamiさん
確かにここは2ちゃんではありませんでした。
丸廉が2ちゃん支部を謳っていたこともあって油断しておりました。
考えてみればほとんどの皆さんは顔見知りなわけですね。
誰かが2ちゃん風に煽られて黙っている訳がありません。
だいたい、このような普通の掲示板で瞋恚を引き出そうとする行為事自体が間違っておりました。
このスレにSyamiさんがいてくれて本当に助かりました。
下手したらこのまま爆走していたかもしれません(汗
お世話をおかけして申し訳ございません。

951改:2006/06/08(木) 00:11:02
>>みなさま
私の不用意な発言により多くの方々の御気分を害したことを深く陳謝いたします。
なかには2ちゃんねるに出入りされていないような方もいらっしゃるようで、私の完全な認識不足でした。

>ペガサスさん
>>66で空さんに宛てたレスを見れば、私なんぞのあのような無礼な発言まで真剣に聞こうとしてくださっているペガサスさんの人徳が伝わってきます。
2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。
逆立ちしても足元にも及ばぬ未熟者ではありますが、今後とも是非によろしくお願い致します。

>空さん
>>81の発言は煽りと呼ばれる2ちゃんテクであります。
現代語訳いたしますと、「もっと遊ぼうよ」となります。
御気分を害されたことと思います。申し訳ございません。
ご指摘の通り私は修験道のことを囓った程度にしか知りませんが非常に興味を持っています。
レスを控えるなどと仰らずに、是非是非ご教示下さいますようお願いいたします。

以上、私の反省の弁でありました。
なお、今後は誓って煽りを用いたりは致しませんが、私の思うところは今まで通り直截に発言していきたいと思っております。

96名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/08(木) 01:47:43
>2ちゃんテクは使うべきではありませんでした。
>確かにここは2ちゃんではありませんでした。
>2ちゃんねるというのは特殊な遊び場ですが、そんなものをこちらにまで持ち込んだ非礼をお許し下さい。

ちがうくない?
ちがわなくないのかな?

971改:2006/06/08(木) 02:21:03
まあたしかにちがうような気もするけど、いまんとここれでおなかいっぱい。

98みんみん:2006/06/09(金) 07:20:53
1改さん
ここの掲示板は2ch発祥ですし、2ちゃんねらーが多いのも確かです。
レイアウトも似ていますが、そうでない人もおりますので・・・
素直に認めていただいてありがとうございます。
私も少々荒い書き込みをしたかと思います。申し訳ありません。

>私の主張は>>64の通り、一言で言えば行学の一致です。
>当初は法灯明が話題でしたが、話す内容が八正道でも三法印でも同じ事です。
>折角の法灯明も、感覚的に矛盾はない、で済ませていては深まりません。
ご意見わかりました。この「感覚」にいたる部分まで論理的に証明できるのか、
浅学な私にはわかりませんが、今後の論証を待ちたいと思います。
私の場合、肝心の議論ではROM中心になりそうですが。

991改:2006/06/10(土) 01:14:58
みんみんさんにはお許しいただけたようで嬉しいのですが(ありがとうございます>みんみんさん)、2ちゃんに不慣れな方にとってみれば真剣な発言も私のいい加減な「煽り」に踊らされて引き出されたような不快感を持たれているのでは思います。
一応言い訳にならない言い訳をさせていただきますと、私の発言内容は、煽りを意識していますので表現は非道いの一言につきると思いますが、全て本音です。
ムナクソワルイとは存じますが、内容のみを読みとって頂ければ幸いです。

もう一つ、2ちゃんに不慣れな方にフォローしておかなければならないことがあります。
2ちゃんは特殊な遊び場ですが、何故か少林寺の拳士は2ちゃんでも紳士な方が多くいらっしゃいます。露骨な煽りを多用する私などはむしろ少数派かもしれません。
少なくとも丸廉の常連さんに私のようなタイプはいないでしょう。
北禅スレではSyamiさんに大変お世話になったのですが、こんなできた2ちゃんねらを私は他に知りません。(真似はしませんでしたけれど)
どうやら私は2ちゃんとは相性がよろしくない様な気がしてまいりました。
お恥ずかしい限りです。反省の証にしばらく2ちゃんからは撤退しようと思います。
もっとも、ここのところ忙しすぎて既に半ば引退しているのですが。

1001改:2006/06/10(土) 01:16:01
さて、法燈明の話が中途半端でしたので閑話休題とさせていただきます。
金剛禅における法燈明の定義はペガサスさんが説明してくださいました。
当初私はその内容を知りませんでしたので、所謂原始仏教、初期仏教のカテゴリーの経典を研究する文献学者の学説を紹介いたしました。
原始経典には金剛禅の教典中の聖句に引用されているダンマパダも含まれます。
私は、開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。
そのようなわけで、これら文献学の成果を知ることは開祖の思想をより深く理解する重要な手がかりになると考える次第です。

前置きが長くなりましたが、まずはネットで拾ってきた中村元博士による大般涅槃経の該当部分の邦訳をお示しします。次に、参考までに学者さんや坊さんの法の解釈を少しだけ引用してみます。

「ブツダ最後の旅」岩波P62
 アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けにょってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けにょってもっているのだ。
 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、かれの身体は健全(快適)なのである。
 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。
「修行僧たちよ。修行僧はみずから念じて、よく気をつけておれ
修行僧は、身体について身体を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
感受に関して感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における貪欲や憂いを除去していなさい。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、この世における食欲や憂いを除去していなさい。
今も、自分の死後も、誰でも学ぼうとするものはそのようであれ。

次に法燈明に関して仏教学者を引用します。ちょう一流のかたです。
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/fl-kyouten/05-jitoumyou.htm
「大般涅槃経」の「自燈明・法燈明」で釈尊が言われた依り所とすべき「法」とは何か。平川彰氏は、「帰依三宝」すなわち、仏教徒が帰依すべき三つの宝、仏・法・僧の場合、原始仏教教団では「法」は、五分法身と解釈されていた、という(1)。五分法身は、「戒・定・慧・解脱・解脱知見」である。

以上引用終了。
なお、日蓮宗の某お寺のホームページでは、法燈明の法をやはりお釈迦様の教えとしていました。

一方、今超うれっこの臨済宗の禅僧、玄侑宗久さんはこんなふうに言っています。
http://www.genyu-sokyu.com/essey/essey03/22.html
 お釈迦さまは、亡くなるまえにアーナンダにおっしゃった。「自己と法とを拠り所とせよ、けっしてそれ以外のものを拠り所にしてはならない」と。世に「自燈明、法燈明」と呼びならわされている逸話である。
 このことに驚くのは私だけではないだろう。つまりお釈迦さまは、けっして自分の教えを拠り所にしなさいとはおっしゃらなかったのだ。ここでの「法」とは、宇宙を通貫する真理と考えていいだろう。

これは金剛禅よりの解釈ですね。

おっと、100ゲト!

101名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/10(土) 02:21:23
1改氏ご自身はどう解釈しているの?

102ペガサス:2006/06/10(土) 07:46:20
さて、この法燈明、自燈明の問題ですがここで言われる法とは何をさすのか?
と言う意味合いの解釈も大切でしょう。元々の意味がわからなければ何もなりませんので。
でもそれだけで終始しては単なる辞書の言葉探しになってしまいます。

そこで次に考えなければならないのはこの法燈明で言う所の「法」とは金剛禅にとって何であるか。
またどう言う意味をもつのかと言う事です。
1改さんが言われていますが
>開祖が当時の原始仏教の研究成果を大胆に取り込んで現在の教義を練り上げたのではないかとも推察しております。

との事ですが、私もそう思います。そこでまずこの原始仏教とはそもそも何なのか?
多分知っておられる方は多いとは思いますが、復習の為に簡単に説明してみますと
釈迦が入滅されてから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教を原始仏教、もしくは初期仏教と言います。

これは後に出てくる上座部仏教や大乗仏教とはまた区分けして言われる仏教です。
この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが
今は小乗仏教と言う名称は使わずに上座部仏教と呼ばれています。
つまり上座部仏教とは主に四諦を修習し、自己の解脱のみを得ることに専念し、
利他の行を欠いた、阿羅漢を目指す修行者であると大乗仏教からは批判されている仏教です。
そしてこの教典はバーリ語で書かれ、バーリ経典と言われているものです。
(直に批判の対象になったのはこの上座部から分離した説一切有部の部派だと言われていますが)

それに対し大乗仏教とは自身の涅槃を追求するにとどまらず、苦の中にある全ての生き物たち(一切衆生)への救済に対する誓いを立てること(⇒誓願)を主張し、
この「利他行」の強調して、大乗仏教と上座部仏教(=部派仏教)とを区別しています。
使用されている教典はサンスクリット語が多用されています。

ではそれ以前の原始仏教とは何か?
「原始仏教」中村 元著 日本放送出版協会 刊によれば

≪憂いと悲しみと物惜しみを捨てる。その他もろもろの心を騒がすものを捨てる。
最後には、こころを騒がす源になっている「わがもの」という思いを捨てる。
「わがもの」と思っているものは、「わがもの」ではありえない。何故なら、人は必ず「死ぬもの」だからである。
「わがもの」と思い、飾り、いとおしむこの肉体も、死ねば腐敗し、消え去る。
愛する人も、愛した物も、財産も、すべてをこの世に残して、一人で死ななければならない。
わが身にとって「わがもの」というものは何ひとつ無い。
あるはずの無い「わがもの」に執着し、怒りや妬みに心を騒がせるのはなんと愚かなことか。
この理を知り、次々に湧き上がる「わがもの」という思いを捨て去ることが、すなわち修行である。
自分の心を注意深く観察し、湧き上がる「わがもの」という思いをひとつひとつ消しつづける。
「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

つまりここに見える姿は仏ではなく人間シッダルタです。ナザレのキリストが人々に布教して回った時と同じように。
生きるものへの解脱の勧め、それは真理を理解する事。それをわかり易い言葉で説いているのです。
訳のわからない漢文の教を原文で読むような事でも、頭の痛くなるような難解な教典を読む事でもなく。

そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。
我々の金剛禅はこの部分を持って教義としているように思うのです。我々自身は羅漢の修練はします。
しかしそれは上座部仏教のように自分達だけが解脱し、涅槃をもとめるのではなく,
得た真理、悟りを持って大乗仏教より批判をうける説一切有部にある二乗(声聞や独覚)になるのではなく
我々の羅漢とは大乗仏教に言う所の菩薩的なものであろうと考えます。

そして釈迦の唱える中道の精神。
「厳しい苦行や、それと反対の快楽主義に走ることなく、目的にかなった適正な修行方法」のこと。
これを我々は養行として行なっているわけです。

しかしまた大乗仏教にある顕教や密教ではなく幾多の如来を崇拝する事でも真言を唱える事でもなく
我々の漸漸修行を通して日々の悟りより大いなる悟りに至る道を求めるもの。

よって羅漢としての修行をしながら、涅槃をあえてこの世の理想郷に求めた道。
それが金剛禅の骨格ではないかと思っているのですが。
これはかなり大雑把な事を言ってますので賛成するも否定するも話を進める上での一つの叩き台になればと思います。

1031改:2006/06/11(日) 01:34:51
ペガサスさん、原始仏教の概説をありがとうございます。
僭越ではありますが、あまり主題とは関係ない一部分を訂正させていただきます。

>この上座部仏教というのは以前は小乗仏教の分類で呼ばれていましたが

大乗仏教が当時の論敵として小乗と揶揄していた仏教セクトは当時の最大勢力である説一切有部です。
龍樹が空(縁起)の概念で論難した相手もこの有部になります。
説一切有部は上座部からさらに分派したセクトですから、上座部を称して小乗(と言われていた)と言っては他の部派がかわいそう、ということになります。

主題と関係があまりありませんので、wikipediaのURLを引用するに留めます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8

実際、この手の主張はスリランカや東南アジア諸国から現代の日本に布教に訪れている南方上座部からも出ております。
一応、参考までに日本テーラワーダ仏教協会の一文も引用しておきます。

http://www.j-theravada.net/kogi/kogi10.html
『大乗仏教で小乗仏教と言われていた宗派はお釈迦さま入滅後200年ごろインドで上座仏教から分かれていった部派仏教の宗派で、その仏教を非難して大乗仏教が形成されていったという史実がありますが、大乗仏教から小乗仏教と呼ばれていた部派仏教はいまでは何も残ってはいません。従ってテーラワーダ仏教のことを小乗仏教と呼ぶ人もいますが、それは歴史的事実を知らない人の認識不足でテーラワーダ仏教は最初からお釈迦さまの教えだけを受け継ぐことを目的として連綿(れんめん)とつづいてきた仏教であり、大乗仏教や小乗仏教とはその成立過程も主張も根本的に異にするものです。』

以上引用終わり。

ただし、注意すべきは、現在のテーラワーダ(上座部)仏教は決して原始仏教ではなく、部派の生き残りとして現在にまで継承されてきた歴とした現代宗教であるという点です。
彼らは彼らの信仰として、自らを原始仏教と主張していますが、仏教学的な原始仏教観と矛盾する教義も含まれます。
ご参考まで。


>「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態、こころを騒がせるものが何もない、
>それがニルバーナ(涅槃)である。人は努めてニルバーナに至り、楽しく暮らせ。≫

ここに初期仏教における涅槃の定義があります。
最重要な一文ですね。
何故なら、原始仏教においては涅槃を得ることが最終目標だからです。
涅槃とは、『「わがもの」という思いがもはや湧き上がることのない状態』、すなわち離欲を完成させることによって欲から生じる一切の煩悩の火の吹き消された精神状態と解釈されます。
煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。
これが四諦ですね。
そして、その離欲のための具体的な方法論が八正道としてまとめられています。

>そしてその真理とは何か、それが解脱の向こうにあるもの。法に接する事。ダーマと一体になる事でありまたその一部となる事。

この解釈はどちらかというと大乗的であると考えます。
実は私はこちら方面の勉強がまだまだ不足気味であります。
縁起が発展して空となり、またダーマとなって大乗の根幹に据えられました。
一念三千など他派の類似思想を紐解いて、それらが印度教の梵我一如とどのように区別されるのかを知っていかなければと思っています。

1041改:2006/06/11(日) 01:42:03
重要なとこなのに間違えちゃいました。訂正します。

× 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教かが現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

○ 煩悩は苦の原因であり、煩悩を滅すれば苦を滅することができる、というのが初期仏教から現代の仏教に一貫して受け入れられている「真理」であります。

1051改:2006/06/11(日) 02:16:14
今、読み返しましたら、ペガサスさん、ちゃんと説一切有部について触れていらっしゃいますね。
失礼致しました。前半部分は聞き流してください。

106ペガサス:2006/06/11(日) 06:40:34
やはり、1改さんがつっこんできましたか。それも想定内と言う事です。(笑)
まずは私が仮説を立てた事でそれを元にして話し合える基盤になればと思ったものですので。
ですから、どなたでもまたこれらに関しまたはそこから派生する事につき話し合っていただければいいと思います。
しかし1改さんはなかなか手ごわいかもしれませんね。頑張ってください。

ただ二点だけ付け加えておきます。
まずは当時の年表についてはあまり気にしない事です。
だいたい釈迦の生没年は仏教研究上未決であるとされているのですから。
一説に紀元前463年 - 前383年、前560年 - 前480年等さまざまです。

ですから私が言った「入滅されてから約100年くらい」と書いたのも
人によっては100年〜200年くらいと言う幅で使われていますのでこう言う年表はあまり気にしないで下さい。

二点目、それはここに出てくる小乗仏教についてですが、1改さんが言われるように
大乗仏教が当時、批判の対象としたのは当時の最大派閥であった説一切有部です。
この説一切有部は釈迦の死後、根本分裂を経て、仏教は保守的な上座部と革新的な大衆部とにわかれ
更にこの上座部も枝末分裂を繰り返しますがその代表的なインドで最大であった部派が説一切有部です。

ただこれは私に言わせれば偉い僧侶も町のチンピラも同じだという事です。
随分むちゃくちゃな表現をしてますが、だいたい喧嘩をする時、または戦いをする時は大将の首をとるのが一番手っ取り早いのです。
はしっぱと無駄な争いをしていてはこちらの戦力も落ちると言うものです。

ですから当時も叩くべきは最大派閥に目標を絞ったと思います。
そこさえ叩けばそれに付随する派閥は一緒くたに叩けるわけですから。
ですから誰が誰を叩いた、批判しかたではなく、何に対して批判したかです。
つまり大乗仏教の主張する「利他行」を行わず、「阿羅漢」を目指す宗派統べてと言う事です。
たまたまその時の最大派閥が説一切有部だったと言う事です。
当時のことですから細かい資料などは残ってないかもしれませんが、
ともかく阿羅漢修行を含む派閥統べてと言う事になるでしょう。
その当時もし上座部を含め各部派にもその思想があればそれも明記されなくてもその対象にはなったでしょう。

その後説一切有部は衰退して行き、大乗仏教の勢力が大きく伸びてくる事になりますので
説一切有部に加担もしくは思想を同じくするものは生き延びる為には持論を少々曲げてでも世に迎合する必要が出てくるでしょう。
それが現在にまで生き延びられた小乗系宗派だと思っているのですが、少々妄想が過ぎましたかね。(笑)
これは本筋とは特に関係ない部分ですが私の推論です。

どんなにすばらしい教えであれ、所詮それを引き継ぐのは生身の人間です。
迷いも過ちも統べて継承して引き継いでいるのでしょう。
だから経典が数万とも言われる人間一人が一生かかっても読みきれないばかげた宗教になっているのではないですかね。
真理が正しく伝わっていればここまで分派、分裂はしなかっただろうに。

1071改:2006/06/12(月) 01:39:41
>ペガサスさん。
私の脱線にまでお付き合い下さってありがとうございます。

大将の首論は面白い視点ですね。
私なんぞがこんなことを言うと文献学者様にお叱りを受けそうな気もしますが、仰るとおり当時の事情を詳細に示すことのできる資料は限られているようです。
説一切有部は法有(一切の構成要素の実在)を説くことから、一切皆空を説く龍樹の良い標的になったということですが、これ以外の部派に対する対応の詳細は私も知りません。

でもまあ、HPをリンクしてしまったこともありますので、上座部の肩をちょっと持ってみたいと思います。
私はテーラワーダの回し者ではありませんが、彼らの言い分も少しだけ聞きかじっておりますので紹介させていただきます。
日本では小乗にムリヤリ分類されてしまう彼等ではありますが、その教義にも利他行は含まれています。
すなわち、まずは自分の内面の煩悩・無明を四諦・十二縁起の観察・八正道・瞑想修行により取除きます。
その後他者を涅槃へと導く手助けをしていくわけですが、これが彼等の利他行です。

まずは自己確立を促して、その実力の裏付けのある利他を推奨している金剛禅のあり方と良く類似しているように思うのですが、いかがでしょうか。

なお、上座部は大乗の空に強調されるような重重無尽縁起を説きません。
これは大きな相違です。

108:2006/06/12(月) 12:56:01
釈迦に説法で恐れ入りますが、
以下ご存知の通り、ご賢察願います。

雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

1091改:2006/06/13(火) 00:40:07
空様:
ご教示ありがとうございます。
このスレでは荒らしのような格好になってしまいましたが、以後慎ませて頂きます。

ペガサスさん、ありがとうございました。
金剛禅の見解を知ることができたことは本当に収穫でした。
おそらく最後になりますが、私も法句経の中から糧とすることばを引用してみます。



だれがこの大地を征服するであろうか?
だれが閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろうか?
わざに巧みな人が花を摘むように、善く説かれた真理のことばを摘み集めるのはだれであろうか?

学びにつとめる人こそ、この大地を征服し、閻魔の世界と神々とともなるこの世界とを征服するであろう。
わざに巧みな人が花を摘むように、学びつとめる人々こそ善く説かれた真理のことばを摘み集めるであろう。

中略

うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。

うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。

うず高い花を集めて多くのはなかざりをつくるように、人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

後略

「ブッダの真理のことば・感興のことば」中村元

1101改:2006/06/13(火) 01:21:53
補足として空様の教示された漢訳部分に対応する邦訳をお示しします。
私は漢字が苦手ですので、間違っていたらごめんなさい。
なお、邦訳は中村元の真理のことばからの抜粋ですが、こちらはパーリ語からの直訳になりますので
意味は完全には一致はしないようです。


雖誦習多義
放逸不従正
如牧数他牛
難獲沙門果

たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。
−−−牛飼いが他人の牛を数えているように、かれは修行者の部類には入らない。

不務観彼
作與不作
常自省身
知正不正

他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。
ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

所謂智者
不必弁言
無恐無懼
守善為智

多く説くからとて、それゆえにかれが賢明なのではない。
こころおだやかに、怨むことなく、恐れることのない人、−−−かれこそ賢者と呼ばれる。

111ペガサス:2006/06/13(火) 02:49:29
書き込みが遅くなってしまいました。
実は昨日アメリカで少林寺拳法を最初に開き
40年間に渡って布教されていた我々の先輩が逝去され昨日葬儀がありました。
私もその山森先生とは以前より面識があり、今は同じ地域に在住しておりますので
葬儀のお手伝いに行って参りました。また開祖直伝の門下がお一人この世を去られました。

この葬儀は本人のご意志、ご家族の希望で運ばれたものですので同門としての作務をさせていただきました。

ただ同じ地域と言いましても車で1時間以上はかかる所ですが。
朝4時半起床、5時に家を出てまだ夜は明けていませんでした。
その分車もすいており、1時間ちょっとで辿り着くことが出来ました。
これがラッシュアワーであれば1時間半から2時間はゆうにかかるところでしょう。

6時から準備にかかり9時から開場となっていました。
さて今回の儀式は神式でした。それはその先生が40年間お借りしていた道場がその神道の講堂だったものですので。
私も神道式の葬儀と言うものは初めてでした。神道では焼香ではなく玉串奉奠になります。
これは玉串を受け取り枝の方をご遺体の方に向け一拝二拍手(この時はしのび手と言われ音はだしません)そしてまた一拝。
この玉串を渡し、作法を説明するのが私の役目でした。

人が多かったので本堂の他に外に二箇所、玉串奉奠の場を設けその一つが私ともう一人の支部長との受け持ちでした。
勿論、殆どの方々は神道式葬儀はご存知なく毎回私達が説明しなければなりませんでしたが
これも一つの勉強になりました。

そして帰ってきて、こちらをみれば空さんからのメッセージ。
それを読んで、さて、これはまた厄介な事を(苦笑)と思っていたら停電です。(^^;)
あはは。1改さんに先を越されてしまいましたが、意味する所は我々の金剛禅も同じです。

俗的に言えば「行」をしてなんぼと言う事です。
修験道でも「行」があり、禅宗でも他の宗派でもそれぞれに「行」と言うものを積みます。
それは読経であったり瞑想であったり様々ですが
つまり知識を己の霊肉を持って行じてこそその真理とする所に辿り着ける。
これはどの宗派でも変わりはないでしょう。

我々金剛禅ではそれを易筋行を持って行なっています。
1改さん。貴方も金剛禅の何たるかを本当にお知りになりたいのであれば
早く休眠拳士より復帰し、「行」と共に理解に勤しんでください。
また違うものが見えてくるかもしれません。

空さん。ご指摘ありがとうございました。
しかしここまで来るとちょっと一般掲示板としてはついていきずらくなりますね。(^^;)
お手柔らかに。

112ペガサス:2006/06/13(火) 05:16:02
最後にこのレスを立てて下さったリーさん(でよかったんでしょうか?)
それに615期生さん、アップルさん。みんみんさん。Syamiさん。ありがとうござました。
1改さんや空さんの色々な意見を拝聴しまた交換させていただき私も大変勉強になりました。

あまり私は長々と投稿する事はなかったのですが今回は想定外の展開となってしまいましたが
改めて行ずると同時に学ぶ事の大切さも再確認させていただきました。
ありがとうございました。

ところで空さんの法句経の説ですが、
こう言う漢文の書き方も他にもあるんですね。中国語も幅が広いですから。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

私は経の専門家ではないのでそれらもまたいい勉強になりました。

再拝

113ペガサス:2006/06/13(火) 08:14:49
もう止めるつもりでいたのですが、
1改さんの示された邦訳はこれらが一番近いと思われますので参考までに。

雖多誦經集
放逸而不行
如牧數他牛
自無沙門分

不觀他人過
不觀作不作
但觀自身行
作也與未作

不以多言故
彼即為智者
安靜無怨怖
是名為智者

では今度こそ。

再拝

114:2006/06/13(火) 08:19:01
勉強になりました。
ありがとうございました。
失礼致しました。

115アップル:2006/06/13(火) 10:32:47
皆様ありがとうございました。途中からついていけなくなってしまって見る側になっていましたがとても勉強になりました。

116615期生:2006/06/13(火) 10:52:34
いえいえとんでもございません。
私も大変勉強になりました。
ありがとうございます。
今後もご鞭撻のほどよろしくお願いします。

117:2006/06/13(火) 13:22:40
今回、少し感じたことを書いて了といたします。

書いても意味はないのですが、
お経については、日本ではどうしても漢訳が中心になります。
確かにパーリ語は、その発見された量から見てもプラークリットでは
最重要語ですから、当然漢訳には多いですね。
インドで発展を見なかった仏教は、中国にわたり、その漢訳に際しては、
中国に帰化したインド僧が主になって、積極的に取り組みました。
中国僧も同じく漢訳をしました、ですから、漢訳文は諸々ありますし、
訳者によって品数までも違います。

重要なのは、内容であります。
しかし、同時に経を誦える韻律もまた重要になります。
釈迦がマガダ語で喋ったであろう説法を弟子たちが集まり、
そう言ったかどうかの確認をとりながら、まとめていった。
それを書いたものや書き写したものが、後年になって漢訳されたのです。

漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
漢字に当てはめる音写を試みています、
訳者によって少し違いが出てきますし、完全な音ではないこともある。
つまり、宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
重要になるわけです。
そのため、漢訳よりサンスクリットを多用する場合も多く有る、
従って、毎年の多くの者が、ネパールやチベットにも修行に出かけ、
これを学ぶ訳です。

しかし、こういった仏教史や仏教学に関することなんぞは、
いちいちここで書かなくても、そこいらの本を読めば、解説注釈入りで、
すべてちゃんと書いてあります。
ネットで調べても大抵のことは出て来ます。
引用の中には私の師も知人の名も出ておりました、引用は結構ですが、
こういったことを続けても果てがなく、
化他行とも思えないし、なんの利も無いと思えます。

「これだけ知ってるぞ。」
と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。
それはつまり、自分の「行」を通じて会得した言葉ではないからです。

真言系で読むべき文献のリストだけでも、一冊の分厚い本が出来ます。
そのひとつの文献の中から引用することは、その対となる引用もしなければ、
片手落ちになることでしょう。

ましてや、仏教語の語彙を論えるとなると、到底ここの掲示板で
語りきれるものではないでしょう。
古来から今現代に至っても、仏教論は出尽くしては居ないのです。

自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。
その上で、
「自分が行する過程で生ずる疑念について、
 文献を学し、良き師に問うて学ぶ」
修行とはそうあるべきで、師もまたその修行段階によって、変わってゆくものです。

私のような誰とも知れぬ、修験者が口を挟むべきでないことは
重々承知しておりますが、修験には宗旨は関係なく、
全ての仏教宗派、神道、祈祷師、霊能師、あらゆる階級の方々まで
「行」ざれます。
お山と信者の間に介在し、自分だけでなく、
他を思う気持ちを担って責任を持って真摯な気持ちで行じている。

師を探し、許可をもらうことに数年かかることもあります。
「行」は行じないと判らないことが多くあります。
文献ではどうにも理解できないことが、多く隠されています。
特に修験では、師事しないと得られないことが沢山あります。
九字とか真言とか護摩加持などは、本でも真似て学べますが、
師事して授かることでのみ、初めて効力を発するのです。
お山はそれを知っています。

どうか、仏教学や仏教史などに囚われずに、
それはそれとして発掘調査で折々変化する知識程度にとどめ、
そんなことは「出家僧と学者」に任せておいて、
「行」する中から湧き上がる疑問を「学」し、師に問うて己を高め、
生活に根ざし仏道を行ずる「在家信徒」としての立場を失わないで
頂きたいと節に思う次第です。
そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

勝手な感想を一方的に書いて、了と致しますが、
他意は全くございません。
皆様の今後のご活躍を祈念致しておりますし、
今後とも密かに覗かせて頂きます。(了)

118615期生:2006/06/13(火) 14:08:31
合掌(^人^)

119Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/13(火) 17:20:57
合掌

  空様、ペガサス先輩、1改さん。

 ありがとうございました。この度も大いに勉強させて戴きました。
空さま、他宗の方にしか出来ない見方、またはご教示をありがとうございました。
ペガサスさんが拳法の高手である事は直接学んで知っておりましたが、教義や仏教も
極めて深く修行なさっていた事を知り頭が下がりました。

1改さんは…相変わらずでしたね。(笑
でも、おかげで盛り上がりました。

>漢訳においては、大切な呪や文言について原語の音を
>漢字に当てはめる音写を試みています、

「呪」(しゅ、もしくはじゅ。のろいじゃないですよ)を唱える時の正しい発音と言う事ですね。
例えば下記の様な事ですか。

"Gate,gate,paragate, parasamgate Bodhi Svaha!"
(ガテ ガテ パラガテ パラサムガテ ボディサヴァハ)

を漢語音写して

「掲帝 掲帝 波羅掲帝 波羅僧掲帝、菩提僧莎訶」

これなどは中国語で発音すると非常に良い線行っています。
しかしこの漢語音写を日本語読みすると…

「ぎゃーてい ぎゃーてい はらぎゃーてい はらそうぎゃーてい ぼぢそわか」

となり、邦訳すると…

「往きけり、往きけり、かの岸へ往きけり、すばらしき悟りの彼岸へ往きけり」

と、なります。でも翻訳してしまったら…と言うことですね。

>宗派によっては、漢訳は内容の意味と同時に韻律がどうなのかが
>重要になるわけです。

特にマントラを重視する御宗や真言宗はそうであると聞きました。
高野に遊んだ時も、真言を韻律を正しく唱えるのは並大抵の事ではないと思いました。

>「これだけ知ってるぞ。」
>と知識をひけらかしても、行するものから言えば、たかが知れている。

当宗の開祖も常々「知ってる事と出来る事は大違いなのだぞ!」と弟子達を戒めていました。

>自分ひとりで学問する仏教も大切ですが、師を見つけて師事する事が最良と言えます。

ありがとうございます。肝に銘じます。
また機会あればご教授戴きますようお願いいたします。

再拝 結手

1201改:2006/06/14(水) 02:17:03
>>117
>そういう思いから、今回の論争には、少し悲しくなるものがありました。

穴があったら入りたい・・・気分です・・

121:2006/06/14(水) 10:42:43
またお邪魔致します。
少し、言い過ぎ、出すぎたようで申し訳ありません。
Shyami様やペガサス様は、やはり「行」を通じて得た「智徳」が、
刺さるように伝わって来ます。それで私も学ぶ心構えになることが出来ます。

1改様の知識欲は、只ならぬものがあります。
大変に良いことで、嬉しい事ですが、「行」を通しての気配は感じられないことと、
ご自分の「行」で生じた問いになっておられない、それが残念でした。

Shyami様やペガサス様を「魂」とすれば、
1改様は「魄」でありましょうか。共に学ぶというお気持ちよりも、
自分を理解してくれない周囲への恨みの気配を多く発しておられるように
察知致しました。

厳しい言い方ですが、仏教も中途半端に学ぶと「魔」が憑きます。
これを仏法の妨げ「邪魔」といっています。
行中に行者に憑くこともあります、餓鬼や霊も憑きます。
行中に加持祈祷して祓うこともあります。
今後は是非、正師について学ばれることをお勧めいたします。
きっと良き仏弟子になられることと思います。

気持ちを伝える「言葉」は「心の葉」と書きます、
字の通りで、言葉だけでは、決して根幹である心根を伝えられるものではなく、
末梢のさらに先で揺れ動く危うい存在に始終します。
葉は、時に移ろい、感動も与えるけれども、虫も食い、
枯れて散るものでも有ることを忘れてはなりません。
これをコントロールするのは「行」によって得た「知徳」でしょう。
合わせ具われば、「言葉」は生き生きとして、伝わるものです。

Shyami様の書かれた「般若心経」は全文たった三百字足らず。
ここには、過日論争されていた大乗仏教の教義が全て書き込まれ、
原始仏教への批判もちゃんと書いてあります。
覚えて読むだけでも良いけれど、本来は正師について、
経を「授かる」ことが大切なのです。

ここには「呪」も書き込まれています。
Shyami様のような方に師事されて、韻律も原典から学ばれる方が良いですが、
漢訳でも「呪」はほぼ似ていますからよいでしょう。
私は、色々な真言などの和訳については、安寧は得られるが、
効力はあまり無いと思っています。

韻律などですが、インド仏教も捨てた中国仏教独特な漢訳の仏典では、
細かい無声音などを当てはめる作業が出来なかったため、
これを学んだ僧が漢字の意味に囚われた結果、後年様々な異論異説を生んだのです。
その点、日本のかな文字は、原典の発音や韻律が、かなり上手く、
細かく表現できるため、サンスクリット(俗語パーリ語)に近く
学ぶことが出来た訳です。その点からも、やはり師事した方が良いのです。

何度もすみませんでした。
補足と若干のご質問への返信と致しておきます。
今後もみなさんと一生勉強です。
ごきげんよう!(了)

1221改:2006/06/16(金) 01:28:21
空様:
私に対するコメントを下さったのに昨日は所用にてレスをつけることができませんでした。
お返事が遅れてしまい申し訳ございません。
叱咤のお言葉ありがたく頂戴させていただきます。
自分では作為的に作り上げているつもりでおりましたが、火のないところに煙は立たず、私の本性をズバリ言い当てられたような気もいたします。

お恥ずかしい話ですが、私はこれでも学問を生業とする者の端くれです。
自然科学研究を専門としておりますので仏教学等は門外漢も良いところなのですが、突き詰めようとする性根はどこにいっても変えようが無いようです。
私の住む世界では、議論というものは極めてありふれております。
特に研究に関する議論は目上目下の関係ないシビアなものです。
科学研究上のおはなしなど単純に正解が求まってすぐにすっきり解決しそうなものなのですが、実際には多くの要素が複雑に絡み合うことも多く、議論の勝敗は自分の肩入れする要素がより重要であることを示すことのできた者に軍配が上がることが多々あります。

あまりにも雑駁に過ぎて恐縮ですが、これが私の背景です。
掲示板におけるコメントにも根拠をできうる限り提出しようとリンクも貼りますし、言葉尻を捉える悪癖も身につけております。
なによりも、理に適わぬ方向に話が流れていくことは好きではない性分のようです。
「2ちゃんねる」ではこれで充分に通用しておりましたので、この性向に拍車がかかったのかもしれません。煽りは論外ですが・・・その節は大変に失礼を致しました。平にお許し下さいm(_ _)m

もしよろしければ少々質問などさせて頂けませんでしょうか。
了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

既に私にとって、仏教も金剛禅も摩訶不思議な宗教ではありません。
(金剛禅には初めから不思議な要素はほとんどありませんが)
あるいは深く「邪魔」に犯されている状態なのかも知れませんが、私はこれを魔とは認識しておりません。
行中に憑くという餓鬼も魔も、過酷な環境における禅病のような特殊な心身の様態であるものと推察いたします。
果たして、このようなものに仏弟子が務まるものでしょうか?

123MASA:2006/06/16(金) 02:28:28
>了などと仰らずに是非ぜひお願いいたします。

今回はこれで了にして下さい。外野からのお願いです。

124ペガサス:2006/06/16(金) 06:02:59
私もMASAさんに同意です。
今の1改さんには空さんが説明した所で無意味な事となるでしょう。
あなたにはまだ空さんの言わんとする所がわかてないようですね。

先に空さんが教示された法句経の漢文にしてもあなたは確かにそれに近い邦訳を引っ張り出してきましたが
問題はそんな事ではなかったのです。
言葉の訳などわかっても仕方ないのです。
そこの言葉の真の意味。いえ、ここに提示された事の意味する所がわからなければ。
ではそれは何か。それはあなたが自分で考える事です。
人に答えを聞いた所で真の解決には至らないでしょう。
知識で知る事と心で知る事とは違うのです。
どう違うのか。それを知る為に人は行ずるのです。

知識でいくら解答を出した所で心の悩みや、妬み、欲や妄執と言う物は取り払う事ができません。
それは人間が生きて感情を持っているからです。行とはそう言う部分の修行なのです。
それを取り払ってようやく見えてくるものがある。
あなたならそれは何ですが。具体的に例を示して説明してくださいと言うかもしれませんね。
例も説明もありません。それは個々に自分の心の中にのみ見えるものです。
これがわからなければ千回万回質問を繰り返してもあなたは何も満足出来る答えを得る事は出来ないでしょう。

そう言えば昔、私が龍固をしていた時、どうも上手くいかなず、
そこに通りかかった御先生に何処か間違ってますかと聞いた事があるのです。
すると先生は私のやってる事をちらっと見て、何も言わずに行ってしまわれました。
「おいおい、それはないだろう」と言う所です。

さてあなたならどうしますか?
この先生の態度があなたが122番でしていた答えです。
そのあなたの問いには私も多分空さんも何も言わずにその場を去るでしょう。
もう答えは空さんが十分過ぎるほどだしてくれています。
あとはあなたが本当にそれを知識ではなく心で気がつくかどうかだけです。

不以多言故
彼為持法者
彼雖聞少分
但由身見法
於法不放逸
是名持法者

125ペガサス:2006/06/16(金) 06:46:59
付け足すならば、その時の御先生の私に対する態度の意味する所と
その結果がわかった時私は先生に感謝せずにはいられませんでした。

1261改:2006/06/16(金) 09:10:45
MASAさん、ペガサスさん:
私のレスで不快にしてしまって申し訳ありません。
先回の質問は、ただ空様に関わっていたかった私の気持ちの表れです。
議論を仕掛けているわけではありません。
真に迷い、ご教示を仰いでいる次第です。
きっと、もっとも適切な形で私に回答を下さると確信しております。
もし、レスを返していただけないとしたら、それはそれで私に対するメッセージです。
どうか私にも、龍固の質問のような機会をお許し願えませんでしょうか。

127名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/16(金) 11:20:26
「金剛禅なんて本読めば理解できる」なんて言ってた方がいたのを思い出しました。
単なる知識だけでなく心で気が付く、か。
今の少林寺でどれだけの人が心で気づいているんでしょうか・・・。

128:2006/06/16(金) 13:39:33
>1改さん、ペガサスさんやShyamiがすべて授けて下さっています。
 同門の教えに気づくことです。

「空を知らぬか、あっかんベー!お山で会おう」これで終いだ。

129615期生:2006/06/16(金) 13:56:29
空様、ありがとうございました。

以前、開祖が教範を書くに当たってあまり仏教用語を使わないようにしたと
聞いたことがありましたが、何となくわかって気がしました。
また「師匠の無い仏教は滅びる」というのもだいぶわかった、、、気がします。

1301改:2006/06/17(土) 00:08:48
空様:
ご返答感謝いたします。
この様な私ですが、私なりに精進してみます。
我が儘にお付き合い下さりありがとうございましたm(_ _)m

ペガサス先生を初め丸廉の多くの方々をやきもきさせてしまいました。
お騒がせして申し訳ありません。
スレを読み返して、教えてくださった多くのことをこれから確認していきます。

>615期生さん
私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
煽りの中でも私は醒めているつもりでしたので、少なくとも意識的にはコケにしてやろうなどと悪意を持ったことは一度もありませんでした。
どうぞ2ちゃんねらーのよしみでお許し下さい。
しかし、やはり私は2ちゃんに向いていないようです。
例の、私のスレにはもう戻らないつもりです。
あの板は一年くらいほっておいても落ちないくらいまったりしています。
もしよろしければ、(必要ないでしょうけれど)ご自由にお使い下さい。

それでは、今度こそ私は消えます。
お騒がせな1改キャラもネットから消えます。
(Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!)
みなさま、長い間ありがとうございました。

131ペガサス:2006/06/17(土) 01:42:46
おやおや、1改さんをいじめてしまいましたかね。(^^;)
では最後に一つだけ、御先生の解答を言っておきます。
結局私は解答をもらえなかったと言う事が解答だったのです。

つまりこの程度までくれば放っておいてもいずれ気がつくだろうと思われたので解答してくださらなかったのです。
ある意味で自力を試されたと言ってもいいでしょう。
全くわかってなければ間違った方法に進まない為にもそれなりの解答はされたでしょう。
つまり法は人を見て説くものと言う事です。

頑張ってください。1改さん。

132615期生:2006/06/17(土) 23:11:22
>1改さん
>私の出現で一番不快な思いをさせてしまったのはあなたかもしれません。
いえ、一時はムムム(゚∈゚*)ともしてましたが(お恥ずかしい限り…)、全く問題ないですよ。
ここはこれでいいんです。

いや私としては、このスレの真の>>1さん(リーさん)が心労してたらと心配ですw

sage

133Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/18(日) 10:07:07
> Syamiさん、お世話になりました。北禅スレは私にとっての金字塔です!

どういたしまして。
「北禅スレ」は私にとってもちょっとした実験的なスレッドでした。
言ってしまえば1改さんの知識欲に乗って私も知識の収集したのです。
ここは「自他共楽」の一環と言う事で勘弁してください。

あなたは大分恐縮なさっているようですが、こちらの方々の殆どは懐が大きく
気持ちにも余裕がある方が多いと思っています。
むしろROMなさっている方々の方がはらはらしていたかも?(笑
今回はあなたの参入のおかげでお話が盛り上がりました。
#132で615期生君が言うように「ここはこれで良かったのです。」

空様は他宗の御方ですが、金剛禅と私達の活動に興味を持ってくださり
色々と御知識や御教示を戴いています。
(観ていなかったら「 丸廉法器研究班」のスレッドをご覧になると良いです。)
またこちらのスレッドで気の効いた話題が始まれば御光臨くださるでしょう。

では、法縁満ちた時にまたお出でください。

sage …るの?

134Syami@Office ◆k1UMP198M.:2006/06/18(日) 10:07:43
ありゃ?sagaらなかった?

135rusher:2006/06/29(木) 12:56:58
この話の出典、どなたかご存知ですか?

禅僧Aと禅僧Bが旅をしている時に、とある川にさしかかった。
橋がないので、向こう岸に渡るには膝上ほどの深さがある水の中を歩いて行く必要がある。
ふと見ると、うら若き女性が川岸で立往生している(服を汚したくない。しかし、裾をからげるのはみっともない)。
そこで禅僧Aはその女性を背負ってやり、川を渡った。
禅僧達は旅を続けたが、やがて禅僧Bは「僧侶であるにも関わらず女性に触れた」ことについて、禅僧Aを責めはじめた。
しばらくそれを黙って聞いたあと、禅僧Aは言った。

「その女性なら、わたしは川辺に残してきたんだが。きみはいまだに背負ったままなのかね?」

136名無しさん◆いらっしゃい:2006/06/29(木) 13:50:14
前に、ひろさちや氏の著作の中で読んだ記憶があるけど、出典はどこなんでしょう?
なんかいろんなバージョンもあるみたいだけど・・(ウナギの匂いとか)

137アップル:2006/06/29(木) 14:04:40
http://members.jcom.home.ne.jp/rahiri/newpage33.htm

似た話が、、出展はどこだろう。

138615期生:2006/06/29(木) 16:53:14
>>135
その話、おぼれた女性の話で読んだ事があります。

キーワードは、「主人公」「本来の面目(?)」「無位の真人」このあたりで
間違いないと思います。

139615期生:2006/06/29(木) 16:59:44
Amazon.co.jp:禅的生活ちくま新書: 本
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480061452/qid=1151567849/sr=1-6/ref=sr_1_10_6/249-8277064-3728365
たぶんこの本で読んだので、立ち読みすれば見つかるかもしれません。
ただし、ここでは僧A,Bではなく、師弟の関係でかかれていました。

ちなみにこの本、ここ数日(家で)探しているのに見つからない…
広い家じゃないのにorz

140615期生:2006/06/29(木) 17:02:41
うーむ、そうだ、この本では「絶対的一者」だったかもしれない…

141これはどうですか?:2006/08/08(火) 22:36:34
290 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:19:09 ID:vjARQh320
>>282
生き甲斐なんてのは執着の最たるものだよ。
今が大切なんて教えも禅にはない。

291 名前:名無しさん@一本勝ち[sage] 投稿日:2006/08/08(火) 18:22:24 ID:g34FUiJ90
>>290
>今が大切なんて教えも禅にはない。
究極的にはそうだが、今を大切にするというのは基本事項だ

142615期生:2006/08/09(水) 14:55:51
アップルさん、どう思う?

143615期生:2006/08/09(水) 18:46:54
シーン

144mogela:2006/08/09(水) 20:57:54
教えとしては日々是好日が一番しっくり来るような気がしますね。
代表的な公案なんで深くは突っ込みませんが私だったらこれでお返します。

145これどういう意味?:2006/08/09(水) 21:13:10

324 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/09(水) 16:54:33 ID:Z8R2DfUj0
うちら禅を名乗っちゃいるが、あんたんとことは別モンだからかまわんでくれ。

武道@2ch掲示板
*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です

 ↑ ↑ ↑
「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」
ってことでFA?

146アップル:2006/08/09(水) 22:42:54
どういうこと?話の前後がわかんないお

147615期生:2006/08/09(水) 22:53:54
>武道@2ch掲示板
>*武道・武芸板は実際に武道・格闘技を学ぶ人が主体となる板です
を貼った理由は知らないけど、

>「教義を突っ込まれても答えられません、もう勘弁してください」ってことでFA?
という解釈もまったく意味が分りませんが。


>144
シクシク
アップル君は最近オリをスルーするんだぁ(´Д⊂グスン

まぁいいとして、ありがとうございます。私は、

>今が大切なんて教えも禅にはない。
の意味が分りません。むしろ逆だと思います。

148アップル:2006/08/09(水) 23:15:23
あ。まったく気づいてませんでした。
あれ?ぜんぶレスはメールでとんでくるはずなんだが。。

>アップルさん、どう思う?

>>今を大切にするというのは基本事項だ

これに同意ですね。
生きるってことは今を大切にするってことですよ。
日常の中にこそいかされるべき教えの方が私は好みですね。

149mogela:2006/08/09(水) 23:52:21
>>147
私もそう思います。
ただ、数多い公案の中にはそれに反するものも存在すると思いますのでそのような
ものを引用して否定されることはあると思います。公案集などにはそれらのやりと
りが記されていますが本来このような問いは修行者と師僧の中で行われるもので単
純に解が得られるものでは無いと思っています。
有名なところでは狗子仏性があります。これについては「無」とされているものが
多いのですが「有」と応える場合もあります。これらは相手の先入観や求めている
ものを読み相手に合わせて応える典型として、禅の思想を語る際に取り上げられる
ことが多い公案です。そういう意味では行を経た上で導き出されたものであれば日
常に喜びを感じることも執着を感じる事もどちらも正しいと思います。
ただ、行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
だからこそ師と面授面受で教えを受けることが大事なのではないでしょうか。
このあたりは開祖も何度も説いていましたし私達拳士も心しておくことだと思って
います。

150615期生:2006/08/10(木) 11:50:36
>行を経ない形で文献等の引用で導き出したとしたらそれは違うと思いますね。
そうなんです、そこなんです。

禅てのは比較的個人の信仰には寛大なほうですから、結局本人、そして師匠の
影響が大きく、どうも文献だけで語られるとどうしようもありません。

やっぱり最低限、会って話さないとつらいですね。

151615期生:2006/08/10(木) 13:55:30
世界一小さい新聞 - nikkansports.com : 義務を超えた「善の味」
http://blog.nikkansports.com/general/yoshida/2006/08/post_126.html

こういう話は私も聞いたことあるな。
ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と
「拾うべきかな?」と考えてから拾う人には差があるみたいな。

なんだたったかな、拳法でも突が来たとき受けを考えて出すのと
体が反応するのとは違う、みたいな話と絡められていた気がするw

152アップル:2006/08/10(木) 14:08:51
>無我の実践

って何?

>ごみが落ちていて、何も考えずに拾う人と

何も考えずにというのは、拾うか拾わないかの判断はせずに、
デフォルトで「ゴミは拾って捨てる」と決まってる人って意味かな?

153615期生:2006/08/10(木) 14:39:57
無我の実践というか、たぶんだけど、

「無我で」実践

てことだと思う。自分は委員長だから、シンジ君を誘うんじゃなくて
シンジ君があまりにも暗いから、自然と声をかけてしまった、みたいなかんじか?

154アップル:2006/08/10(木) 14:52:46
えっと、もしかしてエヴァ?(シンジから予想)
オリ読んでないからあんまりわかんないよぅ。

155コイツなんとかならないの?:2006/08/13(日) 14:38:19

350 :名無しさん@一本勝ち :2006/08/13(日) 11:09:29 ID:61e2w0NG0
>>343
だから禅でもなんでもない金剛禅とやらが、
いかさま仏教を語っているからこうなったんでしょう?
禅の話がスレちがいだというなら、
少林寺拳法が「自分たちのやっているのは金剛禅で宗門の行です」というのをひっこめてください。

>>345>>346
あなたは拳士でもなければ>>336でもないんだから、
人へのレスにくちばしをつっこまないでください。
一番ここにふさわしくない人間はあなたですよ。

↑ ↑ ↑
にわか禅師がスレ荒し?!
少林寺拳法の教えが間違っているから変えろと喚き、2ちゃんで大騒ぎ
これが禅の修行の賜物ってことでFA?


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