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少林寺拳法or丸廉への批難・文句受容スレ

1615期生:2003/01/31(金) 00:28
【ルール】
・実名はあげない.出た場合は即アボーンします.
・建設的なカキコであること
・カキコ前に「Q&A2nd」「少林寺はなぜ煽られるか?」には目を通してください.(「香具師の阿吽」内にあります)
・質問は残さず応える
・名無しさん歓迎

その上で現状の問題点について話し合いましょう.疑問点についてもどうぞ.ご批判歓迎.
2ちゃんとは違ってそれなりに正常なレスが付くはずです.本音歓迎.

844Syami@Office:2004/03/04(木) 19:01
Fascinating and interesting!

845アップル:2004/03/04(木) 20:41
私の意見は
使えても使わなくていい人間になりたい。
希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。
誰でもそうでしょ?
やっている内容は自分でもわかっている。偽者ではないと。
拳法修行自体が私のコミュニケーションツールになってしまてるのでw。
ただ、少林寺拳法の本来の目的が護身格闘術の伝授であることでないのは
しっていますよね?その技術は護身と言われているだけです。
拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ。

結局乱捕りへのお話になりましたね!いい題材になったんじゃないかなー。
丸廉のサイトを見てここまで考えている人もいるのはとてもうれしい。
ぜひ通りすがりの休眠拳士さんには復帰していただきたいなぁ。
いろいろ考えさせられました。みんなどっかでぶつかる疑問や問題だと思います。


>英語をコミュニケーションのためのツールとして使いこなすことを目指すのか
拳法をコミュニケーションツールとして使います!うふ!

846ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:44
>通りすがりの休眠拳士さん

素晴らしい書きこみありがとうございます!いやホントに凄いと思います。ここまで
考えてる方が休眠拳士とは実にもったいない!是非復帰をお願いしたいところです。
さて…それでですね…今回の書きこみを読ませていただいて思ったのですが…,通り
すがりの休眠拳士さんのご意見と私(や多分138Bさんやアップルさんも)の意見
は同じにことを言ってるとしか思えないんですわ。
通りすがりの休眠拳士さんの

「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」

を私風に言い替えれば

「技の応用や変化の考え方を法形から学び、乱捕で身に付けるべきではないか?」

となります。以下はちょうど今書き掛けていた文章なのですが,今回の話に合ってる
と思いますので載せたいと思います。
(続く)

847ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:46
(続き)
今回の話題はメチャクチャ盛り上がっており通りすがりの休眠拳士さんに感謝
すね〜。
さてさて,それで法形の変化・応用についてなんですが,私は

>法形を、時と場合によって多彩に応用・変化させて良いというのが、
>少林寺拳法の良さなのではないでしょうか

という通りすがりの休眠拳士さんの御意見には全面的に賛成なんです。むし
ろこの「変化の多彩さ」,そして「変化の早さ(速さ)」が少林寺拳法の技
術の肝だと思ってます。
ですがこのことは「法形の数が多い」ということは別に矛盾しませんよね?
それと

>「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」

このことも法形の数が多いということと矛盾しませんよね?
少林寺拳法を身につけるということは,個々の技の動きを習得することではなく個々の
技の練習を通して「少林寺拳法的意識(思考)」を身につけることだと思うのです。い
わゆる「原理・原則」というやつですね。個々の動きを身につけただけでは法形に存在
しない動きには対応できませんが,「少林寺的意識(思考)」を身につければ初めての動
きであっても「あ〜,少林寺拳法の視点から考えるとこの場合はこう動くのが合理的だ
な〜」と判断できるようになるかと思います。これのわかりやすい例としては「スレ建
てるまでもない…マターリ版」でのCernyさんの書き込み(>>2845>>2848)が上げ
られると思います(Cernyさんがスリに狙われた時のお話)。ちょっと長いですが引用さ
せていただきます。
(さらに続く)

848ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:48
(さらに続き)
>ここで男Aは、より確実に私を足止めしたいと思ったのか、いきなり左手で私の
>左脚(膝の裏辺り)を掴んできました。状況がよく飲み込めていなくとも、掴ま
>れれば抜いてしまうのがショウリンジャーたる・・・・あ、私は現役では無かった
>(w ・・・・もとい、元ショウリンジャーたるもの。咄嗟に“抜かねば!しかし、掴
>まれた脚を振っても離しはすまい”と判断した私は、左脚を軸にして左回りに一回
>転し、男Aの左後方に位置する形となりました。そのせいで、私の背後から迫るはず
>だった男Bとは、少し距離を置いて正対する形となり、もはや背後から何かをスリ取
>ることは不可能。私としては、もし男Aがなおも手を離さないようなら、右脚を彼の肘
>辺りに裏から押し当てて、両脚で挟み込むようにして左腕を逆に決めてやろうかなどと
>も思っていましたが、目論見が破綻したことを悟った男Aはすぐに手を離し、何やら言
>い訳のようなことを言いつつ男Bとともに立ち去りました。

ということで難を逃れていらしゃいます。
この中の

>“抜かねば!しかし、掴まれた脚を振っても離しはすまい”
>と判断した私は、左脚を軸にして左回りに一回転し、男Aの左後方に位置する形
>となりました



>私としては、もし男Aがなおも手を離さないようなら、右脚を彼の肘辺りに裏から
>押し当てて、両脚で挟み込むようにして左腕を逆に決めてやろうかなどとも思って
>いましたが、

の部分。こういった判断が咄嗟に出るような考え方(とそれに伴う体のコントロール)を
養うのが少林寺拳法の技術練習の目的だと思うのです。もちろんこれは法形の練習だけで
は身につきませんよ。どうしたって乱捕り稽古が必要です。が…法形はこの「少林寺的考
え方」の手がかりなのですよ。
(またまた続く)

849ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:50
(またまた続き)
極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せるのです。
原理・原則さえ把握していれば。技は「結果」なのです。しかしこの「原理・原則」は目
に見えません。現れてくるのは「原理・原則」に基づいて行った「動きの結果」だけです。
ここで技術の習得方法は二つに分かれます。
・ 「原理・原則」を代表するいくつかの技を徹底的に練習させて「原理・原則」を身につ
 けさせ,その後に千の技へと展開させる。(一の理から千の変化へ)

・ 「原理・原則」ごとにカテゴライズされた多くの技を体験させることによりそれぞれの技に共通する「原理・原則」を体得させる(千の変化から一の理へ)

入り口が逆なだけでやってることは同じだと思うのですよ。んで今回の英語の話で言えば,
法形は「文法の説明」であると同時に「豊富な短文用法例による会話練習」ではないかと
思うのです。
しかし私は英語は苦手なので趣味のお菓子作りで説明せていただきたいのですが,
本屋さんで売ってるレシピ集がありますよね?あれが法形です。そしてレシピの数はとて
も多いのですが,基礎となるケーキの種類はそんなに多くはないんです。スポンジ,タル
ト,パイ,シュー,まあこれぐらい憶えておけばあとは材料を変えることにより色々なケ
ーキを作れます。けど…基礎のレシピをしか本に載っていなかったらそれ以外の材料を使
ってみようとするのは結構勇気が要るんですよ。例えば普通のスポンジケーキは焼けるようになったけど「抹茶を入れたら?」「ココアを入れたら?」「ナッツを入れたら?」…。
この時に何も見ずに自分で色々試すのも一つの手ですが,レシピに幾つかの事例が載って
いればより推測がしやすいですよね?「ココアを入れるときは…」と書いてあれば「あ〜,
ココアでこれなら抹茶でもこれぐらいかな〜」という具合に。これが法形の役割の一つか
と。つまり「変化のやり方(考え方)の手がかり」を与えてくれるのが法形なのだと思う
のです。
(はたまた続き)

850ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:53
(はたまた続き)
書けば書くほど通りすがりの休眠拳士さんと私の意見は同じに思えて仕方ないのですが,
通りすがりの休眠拳士さんのご意見は

        法形の数が多い
          ↓
     個々の法形を身につけるのに時間がとられる。
          ↓
それぞれの技の練りこみが足りなくなるし応用変化の練習にも入れない。
          ↓
だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,余った時間は練りこみや
応用・変化を各自にやらせるのに充てろや!

私の意見は
       法形の数が多い
          ↓
別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から共通する原理
を見つけ出して自分の中で組織化しろ!(この技はA-1,この技はA-2,A-3…)
          ↓
共通する原理を見つけ出せばある技の練習は同時にそれと同系統の技の練習をして
るのと同じ(A-1の練習はAという共通の要素を含むA-2,A-3の練習でもある)
だから時間が節約できるし,色々なやり方も教えてもらえてウマーッ!
          ↓
余った時間で練りこみや応用変化をやれや!

やっぱり結果は同じっぽいですね。

少林寺拳法の教授法は

>だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,

この部分を自分でやれと(別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から
共通する原理を見つけ出して自分の中で組織化しろ!)。で,その作業をするなかで「少林
寺的思考」を身につけろと。こういうやり方だと思うのですよ。だから私は「法形の数が多
すぎる」とは思っていないのです。ただ繰り返しになりますが,やり方を間違えると
通りすがりの休眠拳士さんの危惧する通りの事態に陥ってしまうと思いますよ。

以上

851ビスキュイ:2004/03/04(木) 20:54
私の意見はこのようになりますがいかがでしょう?

ちなみに138Bさんはどちらかというと通りすがりの休眠拳士さんの提案するやり方に
近いやり方してると思いますよ。技の時間を削ってでも乱捕りの時間は絶対とるって言っ
てたような気がするし〜♪でも法形が多すぎるとは思っていない。面白いですね

852ビスキュイ:2004/03/04(木) 21:00
アップルさん。

>私の意見は
>使えても使わなくていい人間になりたい。
>希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。
>誰でもそうでしょ?
>やっている内容は自分でもわかっている。偽者ではないと。
>拳法修行自体が私のコミュニケーションツールになってしまてるのでw。
>ただ、少林寺拳法の本来の目的が護身格闘術の伝授であることでないのは
>しっていますよね?その技術は護身と言われているだけです。
>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ

この意見はわかるし私も同意なのですが,ここでその言い方をしてしまうと些か
マズイかと。
特にこの部分↓

>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ

そう考えたならそれを理論的に説明しなきゃ〜。
これも修行よん♪

853アップル:2004/03/04(木) 21:27
>そう考えたならそれを理論的に説明しなきゃ〜。
>これも修行よん♪
つっこまれると思いマスタ、何も考えずにだら〜と書いてしまいましたよー。
修行か、書いてみたものの通りすがりの休眠拳士さんのお話につながらないなぁ。
使えるようになりたい→その技を使いたい
のようによくとってしまうんです。かなり論点がずれてます。スマソ。

今日ある方に少林寺拳法においては主役は指導者ではなく教えられるほうだ。
といわれました。

>>だったら技を減らして基礎的な原理を身につけさせ,
>この部分を自分でやれと(別々の技と考えたら時間が足りないのは当たり前!多くの技から
>共通する原理を見つけ出して自分の中で組織化しろ!)。で,その作業をするなかで「少林
>寺的思考」を身につけろと。こういうやり方だと思うのですよ。だから私は「法形の数が多
>すぎる」とは思っていないのです。

この意見に禿同です。だからこそその人なりも面白い少林寺拳法ができるのかと。
ただ、前に書き込みにも書いたように。
昇級、昇段がものすごい早い支部(うちもです)では、拳士が受験生化(合格すればいい)、指導者が塾の先生(試験が通ることに重点をおいた指導)
支部事態の予備校化が。。言いすぎでしょうか?
試験に通るためだけのキレイ目ななんとなくできてるように見えるくらいの
レベルでその技が終わり次に進むといったことや。
試験に出ないからと技を飛ばされたり、なかなかその「試験準備」と言われる
期間は深く数を掛けて法形練習をすることができない。
乱捕りもできない。ましてや演武なんてやらせてもらえない。鬱死。

以上の現象って皆さんの支部ではまったくありませんですか?
年末ぐらいからつい先日まで試験オンパレードだったのでちょっとストレスたまってます。
私だけでなくほかの受験拳士も。

その受験対策として法形が多いんじゃないの?といわれたのかと思ってましたので
あとあとのカキコを読むまではわかりませんでした。今は納得。。
主役であるはずの拳士が高速試験インターバルに振り回されているようで、
なんとかできないものかと支部長に相談中です。

854ビスキュイ:2004/03/04(木) 21:39
アップルさん

>昇級、昇段がものすごい早い支部(うちもです)では、拳士が受験生化(合格すればいい)、指導者が塾の先生(試験が通ることに重点をおいた指導)
>支部事態の予備校化が。。言いすぎでしょうか?

>以上の現象って皆さんの支部ではまったくありませんですか?
>年末ぐらいからつい先日まで試験オンパレードだったのでちょっとストレスたまってます。
>私だけでなくほかの受験拳士も。

痛いほどよくわかりますよ〜。私も偉そうな内容を書いてますが自分で言ってることが完璧に
出来てるわけじゃないし〜,試験が近い拳士には取り敢えず形だけでも教えてしまうことはあ
るし〜。でもせめて私が指導する時には「ほら,この技は前にやったあの技と同じでしょ?だ
からこの技の練習をする時は同時にあの技の練習にもなってなくちゃいかんのだよ〜」とか
「どう?この技のこの部分は何かに似てない?そう、振子突の動きだよね。だから基本の振子
突はこの技の練習でもあるんだよ〜」というような指導をするよう心掛けてまふ〜。

855アップル:2004/03/04(木) 22:42
>というような指導をするよう心掛けてまふ〜。
いいですね!カコイイ!

すでに受験生化してしまった拳士が何人もいるのですが、それぞれがとても練習が
楽しくなさそうで、逆に私のほうが苦しい。

けど受験生拳士は、1〜10まで本気でやらなくても3〜5くらいをなんとなく
できればやり過ごせると思っている模様。

逆に必死に取り組んで試験をうけようとがんばっている拳士は、この試験期間に不満がある模様。

練習メニューが思う通りにはならない先輩拳士がこの後輩拳士たちが楽しく
練習できるには何ができるんだろうかと助士になってからずっと考えてます。

だから丸廉は私には必須なんですよね〜。少しずつ支部長と相談していろんな
ネタおろししていったり。

皆さんは楽しく練習するためにどんなことに取り組んだりしてますか?

85640過ぎ拳士:2004/03/05(金) 02:01
 通りすがりの休眠拳士さん、
 素晴らしい問題提起、どうも有難うございます。
 英語学習との比較、非常に刺激になりました。
 その上で、貴方との考え方の共通点と相違点が
 少しだけ見えてきたような気がします。

 実は、私は米国在住です。
 最初の2年は大学院の学生で、英語では散々苦労しました。
 そのときにやはり、「日本の英語教育は…」ということを考えましたが、
 日本で指摘されている、日本の英語教育の問題点は
 殆どが的外れだということです。

(続きます)

85740過ぎ拳士:2004/03/05(金) 02:47
 よく言われることが、
 「日本人は読む・書くは出来ても、聞く・話すが出来ない」ですが、
 これは完全に誤りで、本当は、日本人は読む・書くも出来ないんです。

 「読む・書くが出来る」というのは、
 散髪屋で順番を待っている間に、置いてある雑誌2〜3冊に目を通し
 「へー、きょうびの若い子はこういうことを考えているのか」と思う、
 そういうことです。
 私たちも、日本語では当たり前のようにやっていますが、
 英語で出来る人は少ないんじゃないでしょうか?

 読みがこのくらい出来れば書けるし、
 別に「英語耳」とかじゃなくても聞き取りは出来るし、
 発音は「サンキュー・ベリーマッチ」式でも通じます。

(続きます)

85840過ぎ拳士:2004/03/05(金) 03:16
 では、日本の英語教授法の何が問題かと言うと、
 「練習量」が圧倒的に足りないことだと、確信を持つに至りました。

 一つは読む文章の量です。
 お聞きになったことがあるかもしれませんが、
 アメリカの大学院の宿題というのは半端な量ではなく
 入って最初の半年で読まされた量は、
 日本で中学校以来読んだ英文の量の合計よりも
 多かったと思います。

 次に、単語の量です。これが圧倒的に足りない。
 大学入試用の単語集なんか、全部完璧に覚えてようやく初歩です。
 日本語でも「字眼」といいますが、
 キーワードを知っていれば
 一言一句全部が聞き取れなくてもポンと分かるし、
 皆まで言わずともポンと伝わるんです。

 もし私が、真剣に英語を勉強したいという人に教えるとすれば、
 出来るだけ大量の英文を読ませて、
 出来るだけ沢山の単語を暗記させます。
 ザッツ・オール、難しいメソッドは要りません。

(続きます)

85940過ぎ拳士:2004/03/05(金) 03:28
 もう一つ大事なポイントは、動機というか、
 どれだけ必要に迫られているかの切迫感です。

 大学院で勉強していると、
 とにかく読み・書き・聞き・話し、全部やらないといけない。
 出来るか出来ないかではなくて、やらなければいけない。
 やらなければ落ちこぼれて退学、ですから。

 更に、卒業して仕事を始めてからは、もっと真剣です。
 交渉して相手をうんと言わせなければなりませんから。
 出来なければ、生き残れません。
 大学院の2年間に英語力はかなり上達しましたが、
 仕事を始めてから、更にぐっと伸びた実感があります。

(続きます)

86040過ぎ拳士:2004/03/05(金) 03:45
 で、武道・武術の話に戻りますが…

 要するに、上達のカギはメソッドそのものにあるのではなく
 練習量と切迫感にある、そう私は考えています。
 勿論、メソッドは大切ですが、
 練習量と切迫感があれば
 メソッドも真剣に追求するようになるのが
 自然な成り行きだと思います。

(続きます)

86140過ぎ拳士:2004/03/05(金) 04:05
 以下は、極論ですが…

 本当の意味で護身術を身につけようとしたら
 「場数」も踏む必要があります。
 第3種お神楽(笑)というのは、実は本当は非常に有効な訓練です。
 どんなに道場で強くても、イザという時には足がすくむのが普通ですが、
 ある程度場数を踏むと、或る程度冷静になれます。

 これは「自信」というのともちょっと違うような気がします。
 ヤク中の男に、拳銃を後頭部に突きつけられて、
 カチッと撃鉄起こされたりすると
 こりゃ「自信」の余地なんて無いですから。
 要するに「ま、死ぬときゃ死ぬんだし」と思えるかどうかです。

 幸い生きてますから、良い経験になったと思いますし、
 こんな減らず口も叩ける訳ですが…
 でも、最後まで冷静であることが
 生存の確率を極大化する方法だというのは
 間違いの無いことでしょう。

(続きます)

86240過ぎ拳士:2004/03/05(金) 04:17
 私は、武道にせよ、護身術にせよ、
 もっとも大切なのは「錬胆」だと思っています。
 「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。
 それよりも、非常時の冷静さを身につけることの方が
 よっぽど重要だと思います。

 でも、そういうものって、
 和気藹々とした練習で身につくわけがありません。
 私が乱捕試合復活論者なのは、
 「身の危険を感じる機会を、出来るだけ安全に提供する」(笑)
 という趣旨です。
 命まではとられないが、気を抜くと大怪我をする、
 そういう修行は「錬胆」のために不可欠だと思うのです。

(続きます)

86340過ぎ拳士:2004/03/05(金) 04:36
 「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系はあり得ない」について、もう少し。

 「タックルされたら?」「マウントポジションをとられたら?」
 そういう問題提起もよく見かけます。
 私が拳銃を突きつけられたときに思ったことは
 「そういえば、少林寺では対拳銃というのは習わなかったな…」
 ということでした。

 相手が拳銃だったらどうしようもない、
 出来るだけ騒がず、相手を刺激させないように従う、
 これが確かに大原則です。
 でも、実際にそういう目に遭ってみて分かったことは
 その大原則もちょっと違うかなぁ、ということです。

 相手が金だけとっておとなしく退散してくれればいいですが、
 ヤク中で理性を失っている場合は危険が大きいし
 理性があっても、証人隠滅のために殺害されることも多いのです。
 だから、もし雲行きがさっと変わったときには
 ダメ元で反撃しなければ殺されます。
 で、どうやるのが一番良いか頭をめぐらしていたときに、
 私は拳銃について何も知らないということに気がつきました。
 相手の正面に回った方がいいのか、裏に回った方がいいのか、
 捕り方は逆小手がいいのかS字がいいのか…
 
 今は日本にも拳銃があふれていますから、
 決してあり得ないシチュエーションではないですよ。
 そして、マウントポジションだとタコ殴りにされるだけですみますが、
 脳みそスイカみたいに飛ばされるのはちょっといやでしょ?

(続きます)

86440過ぎ拳士:2004/03/05(金) 04:52
 もう一度、最初の論点(教授法)に戻ると、
 一般コース、競技コース、護身術コース… のように
 生徒をコース分けするのも一案かな、と私は考えています。

 競技についても、あくまで研究の一環として、という考え方は
 成り立ちうるのではないでしょうか?
 研究の一環として、他流の大会に挑戦する人を応援するだってあっていい。

 護身術コースについては、或る程度修行を積んだ人に対して
 拳銃も含めた対武器術も含めて教える。
 対武器術である以上、武器そのものの講義も含める、とか。
(私は拳銃について全然知りませんでしたが、
 レボルバーはどういうものでオートマチックはどういうものか
 どのくらいの力が入れば引き金が引けるのか、などなど
 色々勉強しました。)

 長文になり、また議論が必ずしも噛み合っていませんが、
 こんなことを考えている拳士もいるということで
 御勘弁下さい。

865138B:2004/03/05(金) 16:47
通りすがりの休眠拳士さんの言わんとすることはよ〜く分かります。
あ、いや、分かってないのかな?
1回流して読んだだけなんで、また逆説的にお話しされていたりすると
誤解しているところがあるかもしれません。

ご提案する教授方法は普通やってると思いますが、そうじゃ無いのかな?
Syamiさん所なんかもそうなんじゃないのかと、いやもっと恐ろしいかも?
ただ、限られた時間なんでってところが問題ですね。
まさに40過ぎ拳士さんの言っている通りなのです。

法形をさーとやって、それを使って乱捕りをする。
始めは1つ、そのうち手駒が増えて色々使えるようになりますよね。
そうすると、今度は「これで受けてやろうか」と考えるようになる。
でも相手は思うように攻撃してくれないわけで、色々工夫する。
だんだん使い方がこなれてくる。
そのうち一見上手く行くようになると、今度は攻者が意地悪をしだす。
という感じで進める現在の少林寺の教授方法の何処に不満があるのか?

色々ためす手駒の中の法形は決して多いとは思いません。
そうやって考えた場合に、ローキックに対する法形ってどんな風にするのか
実は私には思いつかないのです。
ローキックに対する対処方法という意味ならいいけど、
流れの中で使うのにはどうなのかな?と、

またずれてるかも知れないので、そしたら聞き流してやってください。

866通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 01:38
>>845>>853 アップルさん こんばんは

>使えても使わなくていい人間になりたい。
>希望としてはこの拳を振るうことなく一生を過ごせたらいいなと思っております。

勿論私もそのように思っています。
おそらくアップルさんは「使える」という言葉の意味を、私とは違って使用されている
と思います。私の言う「使える」とは「実践できる」「運用できる」という意味です。
技を運用できないよりも、運用できる方がいいですよね?

>拳法のみのお話だったのでなんか私的には残念だなぁ。

ここもちょっと私の言いたい事が誤解されているような気が致します。
私が何だか徒に「強い/弱い」の技術論ばかりを論じているように、アップルさん
には受け取られているのでしょうか。(´・ω・`)ショボーン

867通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:40
>>846->>851 ビスキュイさん こんばんは

こちらこそ素晴らしいご意見を伺えて、光栄に思います。復帰は…そうですね。今やっている
武道で三段くらいを頂けてから…。でもってまずは柔道に復帰して同じく三段取得を目指す。
そんでもってその後に少林寺にも復帰ッスかね?(12%くらい本気w)

>通りすがりの休眠拳士さんのご意見と私(や多分138Bさんやアップルさんも)の意見
>は同じにことを言ってるとしか思えないんですわ。

確かに、ほとんどの部分は共通の意見になるかと思います。技術を身に付けるための
手段として乱捕すべきだ(法形だけじゃダメ)という部分も、全く同意見かと思います。
私とビスキュイさんとで異なる(と思われる)部分は、ほんのわずかな箇所にまで
煮詰まってきたと思われます。以下に、私が述べたいポイントをまとめておきます。

 〜ビスキュイさんと私の意見の相違点〜〜
   1、法形の多さについての認識
   2、少林寺習得のための方法論
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以下のレスで、1と2それぞれについて意見を述べさせて頂きたいと思います。

つづく

868通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:43
つづき

まず「1、法形の多さについての認識」について。

>この「変化の多彩さ」,そして「変化の早さ(速さ)」が少林寺拳法の技
>術の肝だと思ってます。
>ですがこのことは「法形の数が多い」ということは別に矛盾しませんよね?
>>「技の応用や変化は、法形からではなく、乱捕から身に付けるべきではないか?」
>このことも法形の数が多いということと矛盾しませんよね?

ここは矛盾とは言わないまでも、一致はしないのではないかなと思います。

なぜならば、法形の多い理由の1つは何であったかを考えてみて下さい。拳士に
「技の変化・応用(のための手掛かり)を与える」ということですよね。私の意見
では、「技の変化や応用は、法形から教えてもらう必要はない」と考えています。
理由は、これまで何度も申し上げてきた、乱捕による習得の法を重視するからです。
従いまして、法形が多いというのは、術理とその変化・応用を身につけるためには
どうしても「過多な」要素なのです。そしてその過多な要素は、無限ではない
稽古時間の中では、ある意味では「障害」となっているのと考えます。

つづく

869通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:44
つづき

法形が多いことの障害は、もう1つあると考えています。より正確に言うならば、
法形が多いことよりも、むしろ法形で変化例・応用例を例示してしまっていること
による障害です。

つまり、法形で技の変化の仕方や応用の仕方を細かく例示してしまっていることに
より、「この動き以外のものは間違っている」といった認識を招く危険性が高いと
いうことです。(あくまで危険性が高いという言い方をしたことにご注意下さい)

具体的に言えば、法形は「攻者がaという攻撃を仕掛けてきた場合のAという技は、
攻者がbという逃げ方をしてきた場合はA−1という技に変化させよ。攻者がcという
逃げ方をしてきた場合はA−2という技に変化させよ。攻者と守者の間合いがdと
なった場合はA−3という応用技を行え。守者の体勢がeとなった場合はA−4
という応用技を行え。もし攻者が、最初にa'という攻撃できたならば、Bという技に
変化させよ。その際、攻者がb'という逃げ方をしてきた場合はB−1という技に変化
させよ・・・・・・エトセトラエトセトラ」という例を示してしまっています。

それ故、まず拳士はそれを覚えることに尽力しなければなりません。その変化技を
何度も練習し、技名を覚え、「こう来たらこう返す」という「意図・理由」や、
「その裏に潜む意味」を考えます。そして、守者の体勢がeとなった場合は、
A−1でもA−3でもなく、A−4を用いなければならない理由を考え、その理由
に納得し、いずれは、少林寺拳法の法形の合理性に感激すら覚えることになります。
そして、このような傾向は、高い段位を持ち、少林寺拳法を深く研究している方に
特に見られるように思えます。

しかし、その行為が、法形の変化の可能性を狭めてしまっているのではないかと
思うのです。つまり、法形を研究すればするほど、「これがコレコレなのは、
こういう理由からなのだ」→「こういう理由で、これはコレコレする必然性が
あったのだ」という考えに陥りやすくなっていると思います。
それが転じて、「こう来たらこう返すべきだ」との固まった理屈となり、最終的には
「それは少林寺ではない」などのことを仰る高段の先生方が増えてしまうことにも
繋がってしまうと思います。

ビスキュイさんには大変失礼な事を申し上げますが、ビスキュイさんですら、
上記のような傾向が全くないと断言できますでしょうか?(もし完全に断言できる
のであれば、ご遠慮なく仰って下さい。私の無礼を謝ります。)

この投稿をご覧の方の中でも、「俺はそんなことはない」「ウチの道院は大丈夫だ」
という方はいるかも知れませんが、少なくとも少林寺拳法に内在する特徴として、
上記のような「危険性」が挙げられるのではないかと思います。もともと、丸廉の
HP上で、「法形は応用・変化させてもよい!むしろさせるべきだ!!」などという
主張が声高に叫ばれていること自体が、他武道の人間から見れば、甚だオカシナこと
なのです。
 「なんでこんな当然のことが、敢えて提言されているのだろう…」
その理由は、一般的な少林寺拳法家が、よほど法形の応用・変化に不寛容だから
なのではないでしょうか?


考えを整理しますと、法形が(重複がある故に)多いことは、
 ・過多な要素であり、それゆえ有限な時間の中では、習得・実践・応用が阻害される。
  (もし時間が無限であれば、上記は問題ではありません)
 ・具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れる。
  (実際、非常に多くの拳士・先生方が陥っております)
というような弊害があるというのが、私の考えです。

ビスキュイさん&皆様、いかがでしょうか?

つづく

870通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:45
つづき

続いて、「2、少林寺習得のための方法論」について。

ビスキュイさんが、>>847>>850で仰られているご意見を私なりに整理させて
頂きますと、以下のようになりますでしょうか?

 主張:咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、「少林寺的思考」を身に付けよ。
     - 法形は、これに気づくための手掛かり
     - 乱捕は、これを身に付け、練り込み、応用させるもの

では、以下に私の方の意見をまとめさせて頂きます。

 主張:咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、少林寺的な身のこなしや思考法を身に付けよ。
     - 法形は、これに気づくための手掛かり
     - 乱捕は、これを身に付け、練り込み、応用させるもの

以上です。
早い話、この時点では私とビスキュイさんは全くの同意見だと思います。私は
「少林寺的思考」という言葉を使わなかっただけで、その意味するところは、
ハッキリ言って、これでもかっっ!っていうくらい、同意見です。

では私は、どこが違うと考えているのか。

この点についての意見を述べさせて頂く前に、少しだけ前提条件の確認をしたいと
思います。咄嗟の判断力や体のコントロール能力を養うために、「少林寺的思考」
を身に付けよとありますが、そのためには、少林寺拳法の技法自体をよく習得し、
自分のものとし、そして運用できる必要がありますよね?少林寺の技もロクにできて
いないのに、少林寺的思考が身に付くはずもありませんよね? この点、ご確認頂け
ますでしょうか?もし違ったら仰って下さい。

上記にご同意頂けるのであれば、私とビスキュイさんのご意見の相違は、次の点に
絞られるかと思います。すなわち、

  「少林寺拳法の技法を身につけるための方法論の違い」

となるかと思います。平たい言葉で言い換えますと、「法形と乱捕の比重の違い」
とも言えるかもしれません。

つづく

871通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:45
つづき

技術を身に付けるためには、ビスキュイさんは「法形たくさん、残りは乱捕」と
お考えで、私は「法形少し、残りは乱捕」と考えております。明らかに私の方が
乱捕重視です。ではなぜ、私は乱捕重視なのでしょうか?

私なりに考えを突き詰めますと、以下のようになります。

 1、技の変化や応用は、乱捕でも身に付くと思うから。(むしろ乱捕の方が多く身に付く)
 2、実践、運用できる技は、乱捕でしか身に付かないと思うから。

1だと私が思う理由は、>>841での「片手投」の例を思い出して頂ければと思います。
自分から捕った場合と相手に捕られた場合など、わざわざ別の技名で教えなくとも
乱捕で十分に気づくことができます。これは剛法の場合にも顕著です。たとえば、
内受蹴を実践する練習の中に、振天二も内押受蹴も、さらにその他の諸々の攻撃に
対する足刀反撃の要素も含まれているのです。

逆に法形の役割は、乱捕だけではできないことを教えることです。すなわち、
片手投という技自体の術理や、片手投と送片手投の違いなのです。

2については、私の体験からなのですが、法形だけでは運用できる技は決して身に
付かないと言うことを、痛切に感じております。

私は大学時代に少林寺拳法を修めており、私の大学はワリと乱捕を重視して練習して
おりました。その大学での練習のことですが、少林寺歴6年で三段を持つ一年生と、
少林寺歴8ヶ月(途中入部)で2級の二年生が乱捕をして、一年生が二年生に何も
出来ずにやられていた風景を目の当たりにしてきました。また別の時には、少林寺歴
11年で三段の三年生が、少林寺歴1年半で初段の二年生にボコボコにされているのも
見て参りました。

自分よりも経験の遥かに浅い拳士に、手も足も出なかった三段の彼らは、一たび
法形や演武をやらせると、それはもう、もの凄く上手なのです。しかしながら、
残念ながら彼らの通っていた道院・高校では、乱捕をほとんどしてこなかったのです。
これでは、いくら法形・演武が上手に出来ても、乱捕を数ヶ月でもちゃんと行なった人と
渡り合えるはずもありません。

しかし上記のような体験は、決して珍しいものではないでしょう。某巨大掲示板でも、
この類の経験談は、あとを経ちません。一般の少林寺拳士は、技を身に付けるための
練習量が圧倒的に足りな過ぎると、私はハッキリ申し上げたいと思います。

つづく

872通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 02:46
つづき

補足です。

方法論ということで言うと、演繹法と帰納法がよく論じられていますが、少林寺拳法
の技法習得という件に関しては、これはあまりよい区別の仕方ではないかと思います。

なぜなら、私の主張する乱捕論では、まずは演繹的に、ルールを法形で学びます。
続いてそれを乱捕で実践しまくります。運用しまくります。応用しまくり、変化し
まくります。そうして、演繹的なルールを乱捕の場で数多く実践することによって、
今度は帰納的に、1つの原理・原則に戻っていくと考えるからです。

以上です。

873ビスキュイ:2004/03/06(土) 09:03
わかってきた,段々わかってきましたよ〜相違点が!
これからちょっと出かけるんでレスは後ほどになりますが,多分ですね,
私と通りすがりの休眠拳士さんがそれぞれ練習メニューを組んだら,結
局のところ内容も時間配分非常に近いものになるんじゃないかな〜と思
いますよ♪
で,一つだけレスをしておきますと,

>それが転じて、「こう来たらこう返すべきだ」との固まった理屈となり、最終的には
>「それは少林寺ではない」などのことを仰る高段の先生方が増えてしまうことにも
>繋がってしまうと思います。
>ビスキュイさんには大変失礼な事を申し上げますが、ビスキュイさんですら、
>上記のような傾向が全くないと断言できますでしょうか?(もし完全に断言できる
>のであれば、ご遠慮なく仰って下さい。私の無礼を謝ります。)

あははは〜。謝っていただくことはないですよ〜。よくありますもんね〜この傾向。
まあこの傾向は自分にあるかどうかは自分ではよくわかりませんが,私の根本的な
意見はこれね↓

極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せる
のです。原理・原則さえ把握していれば。

…やっぱり通りすがりの休眠拳士さんと同じやん…

874赤影:2004/03/06(土) 23:27
私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。
ゆえに結構自由にやれます。まず、自由乱捕りをします。
その後、それを踏まえ、弱点補強のため受け返しを練習します。
で、その時、私が整理した受け返しを練習し、
それはこの法形の応用だよといい、最後にそれでしめます。
乱捕りをしない日は、まず今日の法形を復習し、そのあと、応用を
研究します。

875名無しさん@いらっしゃい:2004/03/06(土) 23:29
昔は、乱捕りと法形がつながっていませんでしたが、いろいろ
考えてつなぎました。
頭を固くしてはダメですね。体動の真理を見つけないと。

876通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 23:34
>>856>>864 40過ぎ拳士さん こんばんは。

素晴らしいご意見を有難うございました。英語の習得についての話なども
大変興味深かったです。

> 「練習量」が圧倒的に足りないことだと、確信を持つに至りました。

全く仰るとおりだと思います。

少林寺拳法の話に戻しますと、法形・演武の練習量までも少ないかどうかは
分かりませんが、少なくとも乱捕の練習量の少なさは目を覆うばかりです。
私が、これまでしきりに、「時間の少なさ」を問題視してきた理由も、そこに
あるのです。つまり、一般的な少林寺拳士が、「これくらいで十分だろう」と
思っている練習量は、私にとっては「全然足りない」量なのです。


> 要するに、上達のカギはメソッドそのものにあるのではなく
> 練習量と切迫感にある、そう私は考えています。

この点について、逆に40前拳士さんにお尋ねしたいのですが、少林寺拳法には
この練習量と切迫感がないとお考えなのでしょうか? 
つまり、少林寺拳法では「法形が乱捕で使えない」とか「少林寺の技は使えない」
とか「少林寺は弱い」とかといった批判がよくされておりますが、その原因は、
ここではないか、とお考えなのでしょうか?

877通りすがりの休眠拳士:2004/03/06(土) 23:35
つづき

> 私は、武道にせよ、護身術にせよ、
> もっとも大切なのは「錬胆」だと思っています。
> 「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。
> それよりも、非常時の冷静さを身につけることの方が
> よっぽど重要だと思います。

激しく同意です。この点については、おそらくビスキュイさんを始め、ほとんどの
方が同意されるのではないでしょうか?

> 私が乱捕試合復活論者なのは、
> 「身の危険を感じる機会を、出来るだけ安全に提供する」(笑)
> という趣旨です。

おわ、ついにこの論にまで来てしまいましたね。「乱捕試合は果たして必要か」との
論争(?)ですね。私もこの点については、正直語りたい部分が多々あるのですが、
脱線しないためにも自粛致します。(後ほどお話できたらいいですね)
ただし、2行目のご意見に関しては、ほぼ全面的に同意です。

> 私が拳銃を突きつけられたときに思ったことは

これは大変な目に遭われたのですね。((((((; ゚д゚)))))ガクガクブルブル

確かに、対武器については考えたことはあっても、対拳銃というのはほとんど
考えたこともありませんでした。対拳銃の訓練を多くの時間を掛けてまで、
つまり他の練習時間を削ってまで、行う必要があるのかというのは現在の
日本では分かりません。しかし、拳銃についての予備知識・基礎知識くらいは
教えられてもいいかも知れません。

878赤影:2004/03/06(土) 23:43
基本にしても、昇段用普通基本と、自分用基本に分けています。
さすがに、自分用基本は自主トレでしかしませんが、乱捕りでは
使います。そして昇段用基本を練習しても自分用基本に反映するように
組み立てました。
道場では基本を多くしていると「空手で無いから」と陰口を言う人がいるので、
見せません。ただ、体験上基本を多くすると、体が自由に動きます。
そして、ウエートをしすぎると、筋肉が邪魔をする部分で動きが
悪くなることもあります。ベンチで言うなら体重の150%、スクワットは
体重なみ。デッドリフトは体重の2倍ぐらいで抑えておくといいと思います。
スクワットはやりすぎると、(私個人は)蹴りや土台のバランスが崩れました。
少林寺ではトーナメントを戦い抜くことがないので、腕立てを回数するより、
週に3回ウエートするほうがいいように思います。拳たて、
馬歩も少しでいいからするといいと思います。
私の個人的考えなので無理にはお勧めしませんが。

879赤影:2004/03/06(土) 23:51
>「あらゆる攻撃に対応出来る技術体系」なんてあり得ません。

私はそれを目指しています。少ない技をあらゆる局面に対応できるように
リファイン中です。現実に可能か不可能化は別にして(最後は運)
ナイフを首につけられたとか、ロープを首に巻かれたとか、拳銃を
突きつけられたらどうするか、そういう技に会わないためにはどう拳銃を
かまえるか、常に状況を想定するからこそ、ここ一番で冷静に
慣れるのだと思います。「このパターンは練習ではこうやった」という風に。
ただ、対武器は死ぬ可能性はある思います。ほかに道が無ければ
やるしかないでしょう。後は運。
私は、シュートが出来た頃から対タックル、対寝技を考えていました。

880アップル:2004/03/07(日) 00:06
あら?2004って付いてないなぁ。
>自分用基本は自主トレでしかしませんが
赤影さんは自主トレはどこで??

>腕立てを回数するより、
>週に3回ウエートするほうがいいように思います。拳たて、
>馬歩も少しでいいからするといいと思います。
>私の個人的考えなので無理にはお勧めしませんが。
いや、なんか妙に納得してしまいましたw

88140過ぎ拳士:2004/03/07(日) 12:52
>>876 通りすがりの休眠拳士さん

 RES、どうも有難うございました。
 貴方が大変精緻な論考を展開されているところに
 私の返信はちょっとズレたものだったかもしれません。
 どうぞ御容赦くださいませ。

>少林寺拳法にはこの練習量と切迫感がないとお考えなのでしょうか? 
>つまり、少林寺拳法では「法形が乱捕で使えない」とか「少林寺の技は使えない」
>とか「少林寺は弱い」とかといった批判がよくされておりますが、その原因は、
>ここではないか、とお考えなのでしょうか?

 これは、道院ないし拳法部による
(つまり、指導者の方針による)と思います。
 私が卒業した拳法部では今でもバンバンやってるようですし、
 道院でも毎回しっかりやっているところはあるようです。
(最近の事情をこの目で見ているわけではありませんので
 「ようです」としか言えないのですが…)

(つづく)

88240過ぎ拳士:2004/03/07(日) 12:53
 練習量については、少なくとも私の知っている範囲では、
 乱捕(組手・スパーリング)って
 練習量の多いところ(道院・道場・流派)の方がかえって安全です。
 練習量の多いところは、まさに練習量を増やすために
 みんな力の抜き方を教えられているからです。
 そういうところでは、黒帯の指導員とスパーリングするよりも
 帯に色がついて組手を始めたばかりの人とする方がイヤなものだったりします。

 切迫感については、これはもう100%指導者によるんじゃないでしょうか?
 先生が口を酸っぱくして
 「そんな突で倒せるか!」「そんな受で防げるか!」と
 厳しくやっているところは、基本の練習ですら全く違うでしょう?
 そういう練習をしているところなら、
 法形の練習でも攻者に思い切り踏み込ませて打たせますから
 間合が遠くて突が届いてない、なんてことはありません。
 そういう環境で練習していれば
 「こんな練習していて強くなるんだろうか?」などと言う疑問が湧く訳がありません。
 逆に言えば、そういう疑問が出てくるようなら、切迫感が無いということですね。
 これは、技術体系の問題には全く関係ありません。

(つづく)

88340過ぎ拳士:2004/03/07(日) 12:54
>確かに、対武器については考えたことはあっても、対拳銃というのはほとんど
>考えたこともありませんでした。対拳銃の訓練を多くの時間を掛けてまで、
>つまり他の練習時間を削ってまで、行う必要があるのかというのは現在の
>日本では分かりません。

 まあ、拳銃は極端な例かもしれませんが、
 どういう技術を練習するかは
 修行の目的に大きく関わる気がするのです。

 例えば、街でチンピラに絡まれて殴られても
 あいたたた、で、翌日歯医者に行けばいいくらいの話です。
 或る意味、まだまだ牧歌的(?)なものでしょう?
 でも、対武器は命がかかっています。
 「護身術」を目的の一つとして掲げる以上、
 対武器の技術(合わせて戦略も)は欠かせない気がします。
 そして残念なことに、今では日本でも
 その気になれば、拳銃を簡単に手に入れられる時代になってしまいました。

88440過ぎ拳士:2004/03/07(日) 12:55
>>879 赤影さん

 2ちゃんねるでの御発言、毎回楽しみに読ませて戴いております。

>私はそれを目指しています。少ない技をあらゆる局面に対応できるように
>リファイン中です。現実に可能か不可能化は別にして(最後は運)
>ナイフを首につけられたとか、ロープを首に巻かれたとか、拳銃を
>突きつけられたらどうするか、そういう技に会わないためにはどう拳銃を
>かまえるか、常に状況を想定するからこそ、ここ一番で冷静に
>慣れるのだと思います。「このパターンは練習ではこうやった」という風に。
>ただ、対武器は死ぬ可能性はある思います。ほかに道が無ければ
>やるしかないでしょう。後は運。

 全く同意です。

 昔、短刀捕を習ったときに、
 短刀の長さの分だけ間合が違い
 それゆえ技の起こりを早くしなければならない…
 一通り法形練習をした後、
 新聞紙を丸めたもので「乱捕」をやったら全然出来ない…
 技の起こりが早くなくてはならない分、フェイントに弱いんです。
 その上で先生が、稼業の方々の良く使うフェイントを何手か教えて下さって
 「要するに、刃物には素手では勝てんよ」ということがありました。

 そのときは、そんなもんかなぁ、と思いましたが、
 >>863で書いたように、成算はあまりなくても
 やるしかないでしょう、後は運、
 そういう局面は厳然と存在するわけです。
 いくら不利でも、少しでも生存の可能性が高くなる技術
 そういうものを研究し練習することは、
 必要なことだと思うようになりました。

885ビスキュイ:2004/03/07(日) 16:28
>切迫感
40過ぎ拳士さんのお話で思い出したのですが…
私が時々お世話になる道院のとある拳士の方の言葉
「剛法で一番大事なことは何かわかるかい?この打撃で何がなんで
も相手を打ち倒す!っていう気迫なんだよ!!それがなきゃダメな
んだ!!!」
名言だと思いますた。実際にその方は常にKOを狙ってくださる熱い
魂を持ったナイスなお方です。
でもホントにこれが大事なんですよね〜

886まつたけ:2004/03/07(日) 23:57
>私が時々お世話になる道院のとある拳士の方の言葉
「剛法で一番大事なことは何かわかるかい?この打撃で何がなんで
 も相手を打ち倒す!っていう気迫なんだよ!!それがなきゃダメな
 んだ!!!」

そのあとに『君にはその気持ちが足りない!!』と言われた私..(;;)

887615:2004/03/08(月) 00:34
全部読んでないのでー適当にさばいといてーーー
ああ忙し
なかなかいいスカルがないなあ
明日はストで国中のバスが止るらしいし何て不便
カトマン

888ビスキュイ:2004/03/08(月) 00:46
なんだ、生きてたんだ〜。

889615:2004/03/08(月) 00:52
イキテマス

890赤影:2004/03/08(月) 01:08
>>アップルさん
>あら?2004って付いてないなぁ。

今のブラウザがいちいち憶えてくれないので、毎回書かないといけないので、
sageもやめ、名前も数を減らしました。
>赤影さんは自主トレはどこで??
ある広い場所があり、10分ぐらい走り込んで、その後サーキットを10分、
足さばき、基本等をやっています。広いところでやると自分が小さくなるので
拳足も道場よりスローに感じます。また、靴を履いているので、道場で
足が軽い軽い。実戦のとき、靴の重さで蹴りが出しにくかったので、蹴りの
基本は靴になれることだと感じました。靴を履いてが原則なら、技術体系
も変わってきます。高さは中段以下。足底を生かす蹴り方等。
ただ、道場では逆にハイとかトリッキーな蹴りが有効です。
で飯食って、道場か納屋でウエートです。これは秘伝ですが、ベンチで効かせた後
拳立て。そして、肩胛骨の運動、背中を壁に付けて腕だけで突き、体を
縦にしならせての突き、手刀うち等下への基本、アッパー等上への基本、
フック等、バックハンド等、そして最後に普通の振り子突きをすると、
いいと思います。
ウエート→自力本願稽古→体を順番に使っていく基本という風にすると
体が使えてきます。ウエートの後は神経が重量挙げ用にチューンされるので
その日にこれを一回リセットする必要があります。
>>40過ぎ拳士さん
ありがとうございます。
貴方のスレは、古き良き少林寺ですね。

891アップル:2004/03/08(月) 09:17
>赤影さん
>ウエート→自力本願稽古→体を順番に使っていく基本という風にすると
>体が使えてきます。
「練習をしていると次第に自分の身体が我がものであって、実は我がものでないのだと気がつく、
そして我がものとするまでには、かなりの時間がかかるものである。我が手足、我が四肢五体であ
りながら修練工夫を積まなければ我が思いのままに動かぬと同様に、我が心も亦容易に我が思
いのままにはならないものである。」(風格のある演武より)
練習中に思うようにいかないといつもコレを思い出します。
身体を使えるようにするって難しいですね〜。面白い自主トレをされているようで
実に興味深いなぁ。
>実戦のとき、靴の重さで蹴りが出しにくかったので、蹴りの
>基本は靴になれることだと感じました。
>靴を履いてが原則なら、技術体系も変わってきます。
ぬ、面白いお話!!ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。

892ビスキュイ:2004/03/08(月) 12:08
土日は風邪で寝こんだり治ってからは練習行っちゃったりで書き込み出来なかった
のでちょっとカキコ。

>技術を身に付けるためには、ビスキュイさんは「法形たくさん、残りは乱捕」と
>お考えで、私は「法形少し、残りは乱捕」と考えております。明らかに私の方が
>乱捕重視です。ではなぜ、私は乱捕重視なのでしょうか?

ここ少し違うのですよ。見た目はそう見えるかもしれませんがやっぱり違うのですよ。
私は「法形たくさん、残りは乱捕」ではなくて「たくさんの法形を自分の中で整理して
少数のグループに纏め上げろ,そして乱捕りをたくさんして練り上げろ」です。んでこ
の「たくさんの法形を自分の中で整理して少数のグループに纏め上げろ」は実際に法形
の数を減らすことは意味しません。数は多いですけど認識としては少数なんです。柔法
で言えば大体5個(種類)かな?このことに関しては私も学生時代からもやもやと考え
てはいたのですが,卒業後とある先生の御教示により劇的に(まさに劇的に!)思考転
換がなされてようやく明確に意識された考え方なのですが。この「数多い技を自分の意
識の中で少数の技法として認識する」この作業が現在私の考える練習体系においてまさ
に最重要とでも言うべき部分です。んで,この作業は法形練習だけでやるものではない
です。って言うか法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を
成すためにあると考えます。んで再度繰り返しますが…

「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せる
のです。原理・原則さえ把握していれば。」

これ。全ての技術練習はこの境地に至るための手段だと思うのです。無形に至るために
有形を追求するのです。形に追求した結果「あ〜,結局は形じゃないじゃん」って状態
になるんだと思うのです。んでこれも繰り返しになるのですが…

「技は「結果」なのです。しかしこの「原理・原則」は目に見えません。現れてくるのは
「原理・原則」に基づいて行った「動きの結果」だけです。」

この部分。今考えると当たり前の内容なのですが,理解する前にはなかなか分かり難い
内容でした。学生の頃に武専にて
ビス「先生,この技を教えてください!」
先生「(実際に掛けながら)こうこうこうですよ」
ビス「えっ?先生,さっきと掛け方と違いませんか?」
先生「いや,同じですよ」
ビス「いえ,手の捌き方とか足の位置が…」
先生「ああ,そういうことね。それは違うよ。でも同じ掛け方ですよ」
ビス「はあ…?(違うんじゃーん!同じって何よ!!)」
って思ってたりしたものですが。今なら当時先生の言わんとしてたことが少しは理解できる
ような気がします。「見た目の形は相手の体勢によって変わりますが,同じ原理を使って掛
けてますよ」ってことっだったのだと思うのです。だから

「極論を言ってしまえば「形はどーでもいい」のです。って言うか無数に生み出せる
のです。原理・原則さえ把握していれば。」

なんですけど,そのために

「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」作業

が必要で,

法形も基本も筋トレも乱捕りも…およそ全ての技術練習はこの作業を成すためにあ


というのが私の現在の考えです。

89340過ぎ拳士:2004/03/08(月) 16:39
>>885 ビスキュイさん

 実は、私が最初に習った武道は
 亡父から習った剣道でした。
 今生きていたら80過ぎの戦争に行った世代で
 とにかく「精神力」を強調する、
 星一徹みたいなジジイでありました。

 私はどちらかと言うと合理主義者を自認していたのですが、
 最近は私も「精神力」を意識するようになりました。
 合理的に分析して組み立てることも必要ですが、
 同時に、理屈ではなく身体の声に耳を傾けることも
 大事なのではないかと思うようになってきたのです。

 精神主義は東洋の専売特許と思われがちですが、
 実際はそんなことはありません。
 人間、どこでもそんなに変わらないものです。
 縁があって、ジャズダンスの巨匠とお近づきになる機会があったのですが
 その先生のレッスンは
 「空間を支えに使え」とか「止まっていても動いているのだ」とか
 非常に精神主義的なんですね。

 意志があって身体が動く。
 倒すためにはどう突けばいいのか?
 ベンチプレスも一つの方法かもしれませんが
 「倒す」と意識して繰り返し身体を動かすうちに
 最も合理的な動き方に少しずつ近づいていく、
 そんな気もするんです。

894ビスキュイ:2004/03/08(月) 17:03
思うに…「精神力“だけ”ではダメだけど精神力“なし”では何もできない」のではないかと…

895通りすがりの休眠拳士:2004/03/08(月) 22:57
>>874>>878>>879 赤影さん こんばんは。

>私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。
>ゆえに結構自由にやれます。

これはとても羨ましい&素晴らしいですね。

>ベンチで言うなら体重の150%、スクワットは
>体重なみ。デッドリフトは体重の2倍ぐらいで抑えておくといいと思います。

私はこんなには出来ませんが、柔道時代の仲間達はだいたいこれくらいを
目標にトレーニングしていました。

>道場では基本を多くしていると「空手で無いから」と陰口を言う人がいるので、

筋トレやサンドバッグをやっていると非難されるというのはよく聞きますが、
基本をされるだけでもそのように仰る方がいるのですか…。

お話を伺っていると、赤影さんのような問題意識を持った方が、他流に流れず、
少林寺を選ばれている理由にも興味が出てまいります。もし差し支えなければ、
少林寺拳法のどの辺りに魅力を感じられているのかをお聞かせ願えませんでしょうか?

896赤影:2004/03/08(月) 23:31
>あっぷる さん
前から思っていたのですが、マック使いですか?
私の友達にも筋金入りの人がいます。

>ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。
どう言っていいのか分かりませんが、まず足の指の怪我を気にしないで
前足底の蹴りが使えると言うことです。そして、靴の重さの分初動が
遅れ、上段が蹴りにくくなります。ここまでは常識です。
で、前足底で蹴ると言うことは、「靴が武器になる」「靴が盾になる」
と言うことです。最近の安全靴はスポーツシューズタイプがあり、また
オールスターのスニーカーより軽いです。下手にナイフを持つより
武器になります。これで蹴ればどこでも痛いし、急所なら相当のダメージ
が出ます。またガードも隙間から蹴りを入れることもできます。
肘で受けられても、靴部分なら大丈夫。ナイフマンがきても、外廻しや
内回して受けても靴部分ならOK。またすねの前部も筋が緊張するので
すねの怪我も減ると思います。靴着用でより少林寺の攻撃が楽になり、
受けも、より少林寺の受けが必要となると思います。

897赤影:2004/03/08(月) 23:41
>40過ぎ拳士 さん
>ベンチプレスも一つの方法かもしれませんが
私は、武道のためにウエートが直接役立つとは思いません。
ではなぜウエートなのか?それは「人間としての生の肉体を強化する必要が
ある」からです。現代人はほとんど運動しません。昔の人は生活=鍛錬でした。
だから、体は小さいけれど手が大きく骨太で丈夫です。しかし、今の人は、
朝起きて車で通勤→パソコンピコピコ→ジャンクや麺類を食べる→又ピコピコ
→車で帰る なひとが多いと思います。武道以前に人類失格だと思います。
親より肉体が退化してはなりません。人類の種族としての種が弱くなります。
現に歯の少ない人、転んで骨折する人等今の人は虚弱です。
鍛えなくてはなりません。しかし、今は鍛える時間が取りにくいのです。
だから効果的に筋肉を強化し、骨密度を上げる必要があり、それにはウエート
トレーニングが適しているのです。またこれは、進歩が具体的客観的数字として
現れ、練習の励みになります。・・・続く

898赤影2:2004/03/08(月) 23:53
しかし、ウエートだけだと運動として偏っているし、フォーム自体
武道そのものと大きく違います。また、神経制御も「持ち上げるソフト
ウエアー」が起動しています。また、全身の「しなやかな」連動も
壊れやすいです。故に、肉体の生の力を強化したあと、武道の練体
をする必要があります。これが自立本願とか黒崎式とか古武道式
とか言われる鍛錬です。虚弱な人がこのようなことをいきなりやっても
おもしろくないし、根気がいるし、進歩が見えにくいので続きにくいのです。
ウエートでチョットマッチョになり鏡の前でポーズ取ったりしている
うちに、運動のおもしろさをしり、生の肉体が強化され、アドレナリンも
でて、厳しい武道の練体を続けやすくなるのです。
で、重量に制限を付けたのは、やっぱし、目的は武道であり筋トレでは
無いし、何よりつけすぎるとじゃまな筋肉まで鍛えていく用になるからです。
で、生の力→武道の力に昇華するのです。
力一杯体を使い込むから、今度は、無駄な力を抜くときに必要な力を
残しておけるのです。最初から脱力だと、一見見た目カコイイですが、
必要な力も抜いてしまうのです。そういう人は体力無い人には勝てても
自分より相当マッチョな人には吹き飛ばされます。赤卍の技が切れる
先輩が、黒卍に技以前に吹き飛ばされた現場を見たこともあります。
武道はきれい事だけでは済みません。  つづく

899赤影3:2004/03/09(火) 00:01
私の最終目標は合気的な崩しであり、発勁のような打撃です。
鉄の砂が鋼の日本刀になるためには、始めどんどん熱しとかし、
玉鋼にし、これをどんどん叩き鋼を作り、最後に刀に成形し、
研いでできあがります。玉鋼や軟鉄をいくら研いでも切れる日本刀には
なりません。
最終目的がノーパワーでも、脱力で力の芯を残すためには、きっちりと
鍛え上げないといけないと、私は思っています。
合気系でも、実戦名人は必ず鍛えることを重視しているし、中国武術の
有名人も、鍛錬の逸話が多いと思います。
で、肉体系の仕事をしている人は、普段使わず、武道に必要なトレーニング
だけすればいいと思っています。鍛錬も各人の状況次第だと思います。

900赤影4:2004/03/09(火) 00:13
そして、私の理想とする武道力を、私は「格力」と名付けています。
それには
3つの要素(軸力、固定力、連動力)
3つの速さ(スピード、加速、動きとして無駄がない速さ)
あらゆるバランスの集中(物理的、肉体的、精神的、環境的)
重心のコントロール
無駄な所の脱力
によって達成されます。これを達成するため色々な鍛錬、
技の動きの研究をしています。
相手を「調力」で崩し、自分が「格力」で安定し、反撃するのが私の
少林寺です。

901赤影5:2004/03/09(火) 00:17
私のではなく、「私が目指す」です。
そのためには、空間的、時間的に詰め将棋の様に展開する
技術体系、相手に自然に反応するココロ、万象の心理を洞察し考察し
つかみ取ること、常に練体することが必要だと思います。

902赤影:2004/03/09(火) 00:23
>>私のところでは、乱捕りは時間外の自主トレです。
>>ゆえに結構自由にやれます。
>これはとても羨ましい&素晴らしいですね。

まあ、練習後も残って練習し、当てる練習→法形→法形の応用→攻防を
分けた乱捕りといふうに練習していると、そのうち動きに慣れてきます。
その時点で第3者をたて安全にかるーく自由乱捕りをするといいとおもいます。

>少林寺拳法のどの辺りに魅力を
今はだいぶ固まって伝統芸能みたくなりつつありますが、「自由度が高く」
「組織として健全で(最強武道があっても、幹部が2ちゃんの噂のひとたちの
様ではいけません)」精神と技術、古武道性と格闘技性のバランスが
取れていると思うからです。

903訂正:2004/03/09(火) 00:24
万象の心理を洞察し

万象の真理を洞察し

904通りすがりの休眠拳士:2004/03/09(火) 00:39
>>881〜 40過ぎ拳士さん こんばんは。

> 私の返信はちょっとズレたものだったかもしれません。
> どうぞ御容赦くださいませ。

いえ、とんでもないです。素晴らしいご意見と体験談を伺えて光栄です。

> 乱捕(組手・スパーリング)って
> 練習量の多いところ(道院・道場・流派)の方がかえって安全です。

これには同意です。乱捕に慣れている人ほど、キチッと寸止めできたり(素面時)、
熱くなりすぎないよう自分をコントロールできるものですからね。

> そういうところでは、黒帯の指導員とスパーリングするよりも
> 帯に色がついて組手を始めたばかりの人とする方がイヤなものだったりします。

これも分かります!激しく同意です。

> 「そんな突で倒せるか!」「そんな受で防げるか!」と
> 厳しくやっているところは、基本の練習ですら全く違うでしょう?

その通りですね。同じような事をビスキュイさんも仰っていましたが、
この辺りについては、私も全く同意見です。 

> 指導者によるんじゃないでしょうか?

この部分については、やや同意しかねます。なぜなら、(これまでの投稿の
中でも、言外に含めたつもりですが)この言い方ですと、少林寺拳法に
内在する問題点に目を背けてしまっているような気がするからです。例えば
学校教育の例でいえば、一昔前の「学級崩壊」も現在の「学力低下」も、
「教師による」「学校による」と言って片付けてしまっていい問題では
ないと思います。日本の教育全体の問題として、その原因を追究したり、
解決策を講じなければ無責任だと言えるでしょう。

> 「護身術」を目的の一つとして掲げる以上、
> 対武器の技術(合わせて戦略も)は欠かせない気がします。

対武器についてのご意見にも、基本的にほとんど同意です。
若干の相違があったとしても、それは

> どういう技術を練習するかは
> 修行の目的に大きく関わる気がするのです。

この言葉でちょうどいい落とし所になるかと思います。

905通りすがりの休眠拳士:2004/03/09(火) 00:42
>>892 ビスキュイさん こんばんは。お体の具合は大丈夫ですか?

>>892で仰られたご意見、なるほどですね。仰りたい事がよく理解できました。
ここでビスキュイさんが仰られている「原理・原則」というのが、すなわち
「少林寺的思考」にも繋がるということですね? うーん、素晴らしい!

ただ、いくつかの部分においてはまだ若干のズレを感じております。
以下の3点について、ご意見を拝聴してもよろしいでしょうか?

1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が
  薄れるのではないか?

上記は、私が>>869で述べました意見です。ビスキュイさんのご意見では、法形が多い
ことにメリットしか見出されておりませんが、上記の私の主張についてはいかがお考え
でしょうか?つまりビスキュイさんにとっては良しとされるものでも、多くの一般の
拳士・先生方にとってはマイナスになっているのではないかと思います。

2、ビスキュイさんの仰る原理・原則は、法形の重複をなくして整理をしては、
  身につかないのだろうか?

質問の仕方をガラッと変えてみました。 つまり、私の言う、

>私の主張する乱捕論では、まずは演繹的に、ルールを法形で学びます。
>続いてそれを乱捕で実践しまくります。運用しまくります。応用しまくり、変化し
>まくります。そうして、演繹的なルールを乱捕の場で数多く実践することによって、
>今度は帰納的に、1つの原理・原則に戻っていくと考える

このようなやり方では身につかないのでしょうか?
(特に最後のセンテンスにご注目下さい。)


3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
  もしできていないとしたら、それはなぜか?

ビスキュイさんの仰る教授法、修練法が正しいとしたら、少林寺の拳士達はみな
少林寺の技法を実践、運用できているはずですよね? しかしながら、残念ながら
そうでない場合が非常に多いと言わざるを得ません。これはなぜだとお考えですか?

906アップル:2004/03/09(火) 09:15
>赤影さん
>前から思っていたのですが、マック使いですか?
>私の友達にも筋金入りの人がいます。
いちおうマックも使いです。丸廉にもいますよマックを愛する偉大な拳士がw
マックでも拳法でもお世話になっています。


>>ぜひ簡単でもいいのでお聞かせください。
>どう言っていいのか分かりませんが、まず足の指の怪我を気にしないで
>前足底の蹴りが使えると言うことです。そして、靴の重さの分初動が
>遅れ、上段が蹴りにくくなります。ここまでは常識です。
ん〜、ここまではなんとなく想像とおり。

>で、前足底で蹴ると言うことは、「靴が武器になる」「靴が盾になる」
>と言うことです。最近の安全靴はスポーツシューズタイプがあり、また
>オールスターのスニーカーより軽いです。下手にナイフを持つより
>武器になります。これで蹴ればどこでも痛いし、急所なら相当のダメージ
>が出ます。またガードも隙間から蹴りを入れることもできます。
>肘で受けられても、靴部分なら大丈夫。ナイフマンがきても、外廻しや
>内回して受けても靴部分ならOK。またすねの前部も筋が緊張するので
>すねの怪我も減ると思います。靴着用でより少林寺の攻撃が楽になり、
>受けも、より少林寺の受けが必要となると思います。

ヘー!!!!安全靴ってすごく重たいイメージがあったのに・・。
足でも受けですかー。それはちょっと練習がひつようですな。

>外廻しや内回して受けても靴部分ならOK。
この動きはおそらく中国武術オフの人間は体験済みですね。
靴を履いての・・というところでやはり必要な動作だったんですねー。おもしろい。

赤影さんもしっかり楽しんで修練してますねー。

907Syami@Office:2004/03/09(火) 15:12
>丸廉にもいますよマックを愛する

Mac使いなだけで特に愛しちゃいないんだけど。テクノコンプレックスじゃないし。
MacintoshシリーズはパッケージとしてWinより遥かに使いやすいと言ってるだけです。(笑
まぁ、Classic、SE30の頃から使っているけど・・・
SE30の次はPerforma5220(新品)でしょー、その次は5420(ボード換装)、5440(伝説のBlack Performa中古)
んで iBook 2USB最初期型と・・・

>偉大な拳士がw

「偉大」だったらいいんだけどねぇ、どちらかと言うと「肥大」??

908アップル:2004/03/09(火) 16:52
>まぁ、Classic、SE30の頃から使っているけど・・・
>SE30の次はPerforma5220(新品)でしょー、その次は5420(ボード換装)、5440(伝説のBlack Performa中古)

金かかってるなぁ・・。

今は12,3万だせば新品が買える時代。すごいなぁ。

909Syami@Office:2004/03/09(火) 17:14
>今は12,3万だせば新品が買える時代。

あああああぁぁぁぁぁぁぁ・・・・・・

でも、5420の換装ボードはジャンク屋で2000円だったし、5440は兄弟子のG3リプレース品をプリンタ付きで
引き取っただけだし・・・
んで、5420は母の執筆用、5440は父のネットサーフ用に今も元気に動いています。

910ビスキュイ:2004/03/09(火) 17:55
おお,マックネタが!最近はスレの内容が交錯して混沌としていていい感じ♪

さてさて,では話の続きを…

>通りすがりの休眠拳士さん

ありがとうございます〜,体調はなんとか平常に復帰いたしました。
しかし通りすがりの休眠拳士さんの問題提起のおかげで大変有意義な議論が展開できて
おり大変感謝しております。引き続きガンガンと意見を述べていただければ幸いに存じま
す。
さて…では今回のご質問の件ですが,まず

1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が
  薄れるのではないか?

ですが…
まあこの危険性はないとは言えません。法形の見た目のみに目を奪われてしまっていれば。
ただこれは「具体的且つ詳細な例を示してしまっている」ことが原因でしょうかね?正直
私にはそうは思えないんですよ。ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うので
す。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…
例えば拳暦40年を超えるある先生「技は全部同じですから〜」と言いながらも見た目の
動きは変幻自在,でも確かに芯の部分は同じ動きで投げている。
例えば40代で7段を取得しているある先生「あっ,僕はいま動きを変化させたよね?あ
れはビスさんの動きがこっちに変わったからそれに合わせてああいう風に変化させたんだ
よ。でも掛け方同じね(ちなみにこの時の技は外巻天秤でした)」。
例えば丸廉にも参座してくれているある先輩拳士「攻者の攻めが変われば守者の動きが変
化するのは当たり前なのであって〜。その変化の早さが少林寺拳法の特色なのである!」。
現在のカリキュラムでも正しく行えば多くのこうした「寛容な」拳士が生まれているので
す。って言うか例にあげた拳暦40年以上の先生なんてバリバリの「伝統派少林寺拳法」
の使い手なわけですが,初めてお会いして逆小手を教えていただいた時などニコニコしな
がら「こんなやり方もあるし,こういうやり方もあるし…」と言いながら足は払うわ耳は
掴むわ髪の毛は掴むわ鼻を擦り上げて来るわ肘打ちをブチ込んで来るわ指は捻るわ耳孔は
抉って来るわ…およそ思いつく限りの(プラス思いもしないような)ありとあらゆる変化
技をブチかまして下さいました。で,ニコニコしたまま一言「少林寺拳法っていうのは本
来こういうものですから〜」…。これですよ。「伝統的な練習法」をずっ〜としてきている
先生がこれです。こういう実例を何件も(少なくとも両手両足の指では足りないくらいに
は)味わってきているので(聞いただけならもっと多い),「不寛容」の原因が技術体系に
あるとは思えないのですよ。
「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。同じやり方をしているのに全く相反するよ
うな考え方の拳士が生まれてしまう。ちなみに通りすがりの休眠拳士さんとは反対に「法
形多くても問題ないやん」派の138Bさんやアップルさんも「変化技?やって当たり前
じゃ〜!」派なんですよね。当然に私も。やっぱり法形の多い少ないは「変化に不寛容」
の直接的な原因ではないんじゃないですかね〜。そういえばご逝去された森道基先生も月
刊「秘伝」の記事で同じような趣旨のお話(「私は形はともかく技が効けばいいじゃないか
という考えでやっていたから…」みたいな話)をされていたような気が…
ですから私の意見としては

「法形の数が多いことは不寛容の直接的な原因ではない。ただ法形を「絶対的な型」「それ
ぞれ全然別の技」として指導してしまえばそのデメリットは極めて大きい」

となります。
(続く)

911ビスキュイ:2004/03/09(火) 17:57
(続き)
続いて

2、ビスキュイさんの仰る原理・原則は、法形の重複をなくして整理をしては、
  身につかないのだろうか?

のご質問ですが…
身に付くと思いますよ〜,問題なく。やり方さえ間違えなければ。こちらの指導法をとる
武術も沢山あるようですし。これはまさにやり方の違いであって優劣ではないです。ただ
少林寺拳法は「数多い技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」という作業を行
うことによる教育効果(プラス「技が多い」ことによる興味の持続など諸々の要素)の方
を採用しているというだけのことですから。だから通りすがりの休眠拳士さんのおっしゃ
っているやり方(少数の法形を学ばせ,乱捕りで多彩に変化させる練習を積ませる)をと
ったとしてもぜーんぜん問題はないとは思います。この辺はホント好みの問題。しかし通
りすがりの休眠拳士さんのやり方を採用したとしても(現在の少林寺拳法と同じように)
様々な問題が生じる可能性は多いにあるので,そのフォローを充分に行わなければやっぱ
り元の木阿弥という可能性はありえます。やっぱり指導の仕方の問題だと思うのですよ〜。
(さらに続く)

912ビスキュイ:2004/03/09(火) 17:59
(さらに続き)
んで最後の

3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
  もしできていないとしたら、それはなぜか?

ですが…
これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来
てないかも人それぞれ。ホント十人十色。

>ビスキュイさんの仰る教授法、修練法が正しいとしたら、少林寺の拳士達はみな
>少林寺の技法を実践、運用できているはずですよね?

とのことですが,んなこたぁございません。理論が正しくても出来ない場合はいくらでも
あります(「私の理論が正しい!」と言う意味ではないですよ)。
例えばですね…
・理論を間違って理解して運用している
・理論は理解しているが運用の仕方が間違っている,
・そもそもその理論を認めない
などなど…であれば理論が正しくてもしょうがないですよね?当然
・ 理論自体が間違っている
という選択肢もあるわけですが。
逆に「通りすがりの休眠拳士さんの教授法,修練法ならば少林寺の拳士達はみな少林寺の
技法を実践,運用できるようになりますか?」と質問されたら…どうされますか?

>しかしながら、残念ながらそうでない場合が非常に多いと言わざるを得ません。これは
>なぜだとお考えですか?

これはですね…もう「練習不足です」と。40過ぎ拳士さんのおっしゃるとおりですと。
出来てる人はみんな練習一杯してますよと。結局最後はこれですよ。開祖も言ってます「人
十度我百度」。理論が分かったらあとはもう練習あるのみ。どんな理論も練習少なきゃダメ
ダメ。そういう意味では最近の私もダメダメ(練習行けてなーい)。ただ「間違った練習」
はすればするほど下手になるわけで,正しいやり方で練習することが大事なわけですが…。
当然「法形練習だけ」でもダメダメ。「乱捕りだけ」でもダメダメ。「筋トレだけ」でもダ
メダメ。「じゃあどうすりゃいいんだ!」。全部やるのです。法形も乱捕りも筋トレも学科
も…全部!全部!全部!「だって時間は有限だろうが!」。そうです。そのために「数多い
技を自分の意識の中で少数の技法として認識する」という作業を行うのです。このことに
より実質的な練習時間が増える(と言うか「密度が上がる」)し,この作業自体が練習でも
あるんです。ただ重ねて言いますが,

「通りすがりの休眠拳士さんのやり方もあり!」

だと思うのです。

以上です。

913Syami@Office:2004/03/09(火) 18:11
あ〜、まぁ、我々の場合「修行」だからねぇ。

914ビスキュイ:2004/03/09(火) 18:15
>あ〜、まぁ、我々の場合「修行」だからねぇ。

これは絶対に切り離せない要素なんですよね。まあただ今回はあえて「技術」のみに
焦点をあてて話を進めてみようかと…

915アップル:2004/03/09(火) 18:18
ビスさんからでたキーワードから
>ただ法形を「絶対的な型」「それぞれ全然別の技」として指導してしまえばそのデメリットは極めて大きい」
副読本でも教範にも書いてあるかも知れませんがなぜ「法型」ではなく「法形」なのかって感じでしょうか?

916ビスキュイ:2004/03/09(火) 18:19
>アプールさん

そのとおりなり〜!

917アップル:2004/03/09(火) 18:38
関係あるかはわかりませんが、助士になって後輩の技をよく見るようになったのですが。

柔法技が掛からない人の特徴(アップル超私見)。

①技の途中で止まる人(鈎手、掛け手で基準線を作るとき)
②途中からやり直しちゃう人。
③手を握られたとこからはじめちゃう人
④攻者の攻撃がでたらめ(にぎるだけ、さわるだけ)
⑤習った掛け方だけにこだわる人

①〜③
途中で止めた時点で攻者は状態が少し変わってしまう(動いちゃう)ことに
気づかないで続きをやろうとすると技が掛からないのは当たり前だなぁと。

④攻者が攻撃してないんだもん。技を掛ける必要がない状態で掛けようとしてるのだから
難しいのは当たり前かと。

⑤習ったときの攻者を今相手にしている攻者が同じ攻撃とは限らない。
手がねばい人もいるし固い人もいるし。掴んできた角度がちがうときもあるし。
ケース バイ ケースであることは大事ですね。

教えながらいろんなヒントが転がっていて楽しいですね。


事実、技が掛からず悩む後輩に
「止めずに一気にやってごらん、こうやって鈎手から一気に。」

攻者は自分が引っ張った反動でうまくパタリ。このときはこれで私も十分だと思いました。
後輩もわりと簡単にできてキョトンとしてました。

918ビスキュイ:2004/03/09(火) 18:48
>アプールさん

それ全部超大事なポイントなり

919アップル:2004/03/09(火) 18:54
付け加え
⑥指導している先生の手しかみてない。
攻者と守者のポジション、運歩のタイミング、鈎手のタイミング、視線。重要なとこ見失ってる。
だから技を掛けるときに足も止まってる。ソコができれば技が完成すると勘違いしてるのかと。
サビだけでは曲は完成しないのだ。とラさんが言いそうw。

>それ全部超大事なポイントなり
以上すべてが「型」にとらわれるの典型的なケースでデメリットは皆さんもうおわかりかと。

少しは話がつながったかなー。コレくらいしか私には言えませんが。
結構こんな拳士多いはず。

920ビスキュイ:2004/03/09(火) 19:01
アプールさんは刻々と進化を遂げているなあ〜。
さーて、最近どうも口だけ先走っている私も今日は練習行ってきま
ーす(*´ω`)

921赤影:2004/03/09(火) 21:36
>赤影さんもしっかり楽しんで修練してますねー。

色々工夫するのは楽しいです。同じ事を延々と繰り返し「精錬する」
も楽しいですが。

安全靴のような一見武器に見えない護身具はいろいろ考えました。
この他にも。先を尖らせた2Hの鉛筆にキャップをかぶせて胸に挿す、
なるべくでかいオイルライター、試供品の小さいスプレー、500円玉や
スロットのコイン、パチンコだま、スチールのドキュメントケース、
家電のアース線、ヘアーリキッドの小瓶、ドライバー(これはさすがに
2ちゃんでは書けませんでした。グリップがあるので握りが・・。
相当強力な武器になります)、
工作用各種協力手袋、等です。

>ビスキュイ さん、レスお疲れさんでした。

922赤影:2004/03/09(火) 21:44
それと、マック使いの人は今のBSDカーネルについてはどう思っているのでしょうか?
私は以前、筋金入りののマックファンに、「UNIXっていいよね」と言ったら
「あんなもん・・・・」と言われました。遠方にいるので今度会うときが
楽しみです。私は、パソコンダブルブートにしていますが、WINDOWS
の便利さから離れられない、なんちゃって(使い方の講習を受けるだけ)犬房です。

923アップル:2004/03/09(火) 22:12
>筋金入りののマックファン
ぐはぁ〜、そしたらいままで使いこなしていたソフトが使えなくなったりとか、
ヘビーであればあるほどOSXには困惑したでしょうなぁ。
私はOSXだけ。クラシックはあまり使わなくなりましたねぇ。

924Syami:2004/03/09(火) 23:27
昔々その昔、弊社から始めて国産のUNIX WorkStation「U-station」が発売された時
私はそれに関係していました。
つまり漢字Talkを使う前にUNIXで仕事してたのです。
その立場から言うと、BSDカーネルは何かと便利ですねぇ。
でも、ガチガチのMac User(まぁ、色々なタイプがいるけど)はコマンドベースでも
Macを操れるBSDカーネルと言えど実際のところさほど興味は無いのではないでしょうか??

925通りすがりの休眠拳士:2004/03/09(火) 23:57
>>910>>912 ビスキュイさん  大変お詳しいレス、有難うございます。

残念ながら、どうやら私とビスキュイさんの間には、少林寺拳法の問題に対する
「温度差」があるようですね。これまでも薄々は感じていたのですが、ここに来て、
その違いがハッキリと顕在化して見えてまいりました。どういうことかと申しますと、

>ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うので
>す。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…

>「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
>…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。

>これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来
>てないかも人それぞれ。ホント十人十色。

ビスキュイさんの上記のようなご返答に、どうしても温度差、というよりも、問題意識の
違いを感じてしまうのです。私が、>>904にて、40過ぎ拳士さんの「指導者による」との
ご意見について述べさせて頂いた思いが、またも頭をよぎります。
  それは違うのではないか・・・と。

仮に、失業率が非常に高い国についての議論だと考えてみて下さい。

私が「この国の失業率が高い原因はコレコレで、その解決案としてコレコレのような
ことを考えています。いかがでしょうか?」と提言します。すると、ビスキュイさんの
お答えは、「いえ、私はそうは思いません。なぜならば、この国でも就職できている
人は何人も(少なくとも両手両足の指では足りないくらいに)いるからです。じゃあ
何で失業者が存在するのかは、何ででしょう。分かりません。人によるんじゃないで
しょうか?原因は様々、就職できるかどうかも人それぞれ。」

このように仰られては、私もどのようにお答えすればよいのか・・・。


そのような議論では、堂々巡りになってしまうかと思います。
そうではなく、例えば以下の箇所についてですが、

>これはですね…もう「練習不足です」と。40過ぎ拳士さんのおっしゃるとおりですと。

ここであれば、「では、なぜ練習不足が起こるのだろうか?」と更につっこんで
考える必要があるのではないでしょうか?そして「単に練習時間が短いだけなの
だろうか? それとも別の理由があるのだろうか?また、それを解決するためには
どうすればいいのだろうか?」と、このように考えてこそ、改善に向かっていく
のではないかと思います。


少林寺拳法をなさっている方の中には、アップルさんやSyamiさんを始めとして、
ビスキュイさんのような捉え方をされる方が非常に多いかと思います。少林寺に対する
批判に対しては、「それは人による」「指導者側に問題がある」「ウチの道院はちゃんと
やってる」「強い人も中にはいるよ」…ナドナド、このようなご意見ばかりが返って
くるような気が致します。しかし、これでは本当の問題解決にはなっていないはずです。

ただこれも、いつだったか138Bさんが仰られていたように、私と同じような問題意識を
他人に押し付けているだけなのかも知れませんね・・・。

926通りすがりの休眠拳士:2004/03/10(水) 00:00
ご質問についてお答え致します。

>逆に「通りすがりの休眠拳士さんの教授法,修練法ならば少林寺の拳士達はみな少林寺の
>技法を実践,運用できるようになりますか?」と質問されたら…どうされますか?

全員100%とは言いませんが、非常に多くの拳士が、技を身に付けることができると考えて
おります。その根拠は、私は大学支部で後輩達に私の理論を指導してまいりましたが、
そこでの指導方針はあくまで「乱捕重視」であり、「法形を乱捕に実際に役立てる法」で
ありました。そして、その指導を行った結果として、演武の大会で非常に良い成績を残せる
ようになってきたことです。もちろん演武ができたら技術を習得しているとは決して言え
ませんが、「乱捕重視の姿勢を貫く事が、演武の上達に繋がった。」ということは、技法の
習得の結果と言えますし、また法形と乱捕が繋がったと言えると思います。

927アップル:2004/03/10(水) 00:19
>通りすがりの休眠拳士さん
>これでは本当の問題解決にはなっていないはずです。
そうですね、その問題に面している人にはなんの問題の解決策のアドバイスには
ならないかもしれません。ですが、私からするとそんなもの問題でも何でもないわけでー。

んで、通りすがりの休眠拳士さんはどんな解決策でどのような行動をされましたか?
休眠拳士ということで今は練習はできないのかもしれませんが、
なにかお考えなのではないでしょうか。その辺が興味があるところですねぇ。

私が選んだ解決策はココ「丸廉」でした。うまくいきつつありますよん。

928アップル:2004/03/10(水) 00:22
おふ、失礼。
>私は大学支部で後輩達に私の理論を指導してまいりましたが、
>そこでの指導方針はあくまで「乱捕重視」であり、「法形を乱捕に実際に役立てる法」で
>ありました。そして、その指導を行った結果として、演武の大会で非常に良い成績を残せる
>ようになってきたことです。

実行されていたのですね。すんばらしい!
私は演武がうまい=乱捕りがうまい
だとずっと思ってます。ですが決して大会で表彰されるものが
私にとってのうまいではありませんがね。演武はとっても楽しいです。

92940前拳士:2004/03/10(水) 00:50
>>897 赤影さん

これまた、全く仰る通りです。
ウエートトレーニングは、筋力アップのためには最も有効だと思います。
武道・武術と同じく、沢山の人が懸命に研究してきた積み重ねですし
どんどん新しい科学的発見もありますから。

「自分より相当マッチョな人には吹き飛ばされる」というのも
私自身、骨身に染みて分かっているつもりです。
ただ、40になって、これからどういう練習をしていくべきか考えたときに
語弊がある言い方かもしれませんが、
「力も技のうち」という考え方は一旦捨ててみようと考えました。

一方で、まだ40代ですから、
今まで知らなかったものを色々吸収したいとも思っています。
それで、今は所謂伝統派空手の道場で修行させて戴いています。
全く違う基本を、少林寺の基本と比較しながら、楽しんで練習しています。

93040過ぎ拳士:2004/03/10(水) 00:51
 あらら、また「40前」って書いてしまった。
 皆さん、乱捕は結構ですが、パンドラには気をつけましょう。(笑)

>>904 通りすがりの休眠拳士さん

>この部分については、やや同意しかねます。なぜなら、(これまでの投稿の
>中でも、言外に含めたつもりですが)この言い方ですと、少林寺拳法に
>内在する問題点に目を背けてしまっているような気がするからです。

 仰ることは良く分かります。
 私個人は、もっと単純に考えています。
 「一拳必殺ではなく一拳多生」
「一人のチャンピオンを作るのではない」というような開祖の言葉は、
 終戦直後の混乱期や、
学生運動が激しかった時代や、
 「血の汗流せ涙を拭くな」という歌に皆が感動した時代や、
そうした時代が背景にあってこそのものだと思うのです。
開祖は禅坊主です。
もし「運動会ではお手手つないで仲良く一緒にゴール」という今の時代に御存命なら、
全く別の言葉を発せられると思います。

931ビスキュイ:2004/03/10(水) 01:32
>通りすがりの休眠拳士さん

温度差ですか!?いや〜確かに「全てを投げ捨てても少林寺拳法に邁進するぜ!」
というほどではないのであまり高温ではないですね〜。でもあまり低くもないつも
りですよ♪
さてさて…それでですね…うーん,なんて言ったらいいかな…
当たってるかどうかは分かりませんが,なんかこんな感じがしてきました。

通りすがりの休眠拳士さん
・出来ていない原因を分析してその対策を考える。


・出来ている人達を分析してその共通の傾向を考える。

んでこんな感じ↓

「出来てない人達がこんなにいる!きっとこの体系がまずいんだ。変えよう」
「いやこの体系でも出来てる人達がいるじゃん。で,どうもこの体系をカクカク
シカジカのやり方でやれば出来るようになれそうだぞ」
「いやそのカクカクシカジカのやり方が出来ないから現在の状況があるんだろ」
「いやそのカクカクシカジカのやり方が出来ないんじゃなくてしてないんだって」
「いや出来ないんだよ。出来てれば現在の状況になるわけないだろ」
「いや実際に出来てる人はいるんだし。出来てない人達はカクカクシカジカのやり方
をしてないんだって」
「いやしてないんじゃなくて出来ないの。実際俺が考えてるやり方で効果が上がって
いる」
「カクカクシカジカのやり方をしてる人達だって効果は上がってるだろ。そのやり方を
してる人達は出来てるんだぜ?」
「いや実際に出来てない人達がこんなにたくさん…」
以下繰り返し

932ビスキュイ:2004/03/10(水) 01:47
それとですね…先ほど>>925の中で引用された

>ここの部分こそが「指導のあり方の問題」だと思うので
>す。実際に私がお世話になったことのある先生方を例に考えると…

>「じゃあなんで不寛容な拳士や先生が存在するんだ?」
>…なんででしょうね〜?ホントに不思議です。

この部分は通りすがりの休眠拳士さんの
「1、具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が
  薄れるのではないか?」
と言うご質問に対する私の回答からのものですよね?あそこで私が言いたかったことは
ですね…

「具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れ
るのだとするならば,なんで何十年もその体系に従って練習してる先生に変化に寛容な
人達がいるのですか?それっておかしくない?」

ってことなんですよ。全て例外ですか?でもそれも何だか…

933ビスキュイ:2004/03/10(水) 02:20
あとですね…

>これはですね,「人によります」としか答えようがないです。原因は様々,出来てるか出来
>てないかも人それぞれ。ホント十人十色。

これ。これは通りすがりの休眠拳士さんの

「3、実際問題として、拳士達・先生達は少林寺の技法を実践、運用できているのか?
 もしできていないとしたら、それはなぜか?」

に対する回答ですが…
この回答は真剣も真剣,大真面目な回答ですよ。

まず最初の部分「少林寺の技法を実践、運用できているのか?」についてですが…
実際出来てる人もいるし出来てない人もいますよね?仮に「出来てない」って答えが
正解だとしたら,出来てる人達の存在はどーなってしまうのですか?逆に「出来てる」
と答えたとしたら出来てない人達の存在は??「人によります」以外に答えようがない
と思うのですが…
次に「もしできていないとしたら、それはなぜか?」この部分。これに対する「原因は
様々」この回答。これも曲がりなりにも指導の任に携わるものとしてこれ以上ないくら
いに真面目な回答です。
通りすがりの休眠拳士さんも後輩の皆さんを指導されているならお分かりでしょう?技が
掛かる時の条件は大体同じですが,掛からない原因はホントに人それぞれです。同様に少
林寺拳法の技術を使いこなせない原因も人それぞれです。基本が出来てないからかもしれ
ない,筋力が足りないからかも,バランスが悪いからかも,技を知らないからかも,乱捕
り練習が足りないからかも,故障があるからかも,少林寺拳法が合ってないのかも,飽き
てきたからかも,眠いからかも,疲れたからかも,お腹が空いたからかも,心配事がある
からかも…。「原因は様々。人それぞれ」としか言い様がありません。
言葉遊びでも誤魔化しでもなく,真剣な私の回答です。

934求道s00@遅い昼飯中:2004/03/10(水) 17:04
皆様ご無沙汰しております。と言うほど書き込んでいないので恐縮なのですが。。
通りすがりの休眠拳士さんをはじめ皆様のご意見いずれもごもっとも、且つ精巧緻密で大変勉強になります。
僭越ですが、直前までの議論は、指導の場というか、対象とする少林寺修行者の像に認識のずれがあるように思います。
おそらくビスキュイさんの仰るように現在の少林寺拳士の構成はとっても多様性に富んでいて、こちらにあわせればこちらがあわず、と言うような状況があるんではないかと思います。
そうした中で、皆が強くなって行くにはどういう形が適切であるか、と考えるのは難しいですね。。。こうなってくると技術論と言うより、少林寺はどうあるべきか論になってしまいますです。指導者の質、と言うお話ともからんできますが、乱捕、応用変化完璧のそれこそ師匠と呼ぶにふさわしい人間が指導者ならば法形なしでも指導できるでしょう。また、学ぶ方もある程度運動が人並みにできるような青年ならば乱捕の中での習得も、殺伐とした雰囲気での平常心鍛錬もできるでしょう。しかし、運動神経しょぼしょぼの人間が、そこそこ技ができるという程度の先生に教わる局面を考えると、現法形のような構成がメリットとなるのではないでしょうか?もちろん、そのようなしょぼい状況じゃそもそもだめだよ、そこがいかんのだと言われてしまえばそうなんですけどね。これは大変レベルの低ーい話です。でも、全く武道やったことがない運動神経なしのしょぼしょぼデブにぶ君が、少なくとも素人の攻撃からちょっとでも身を守れた、と言うだけのことでも、その人にとってはものすごいメリットでしょう(自分のこと言ってるみたいだが)。だめだこりゃレベルの指導者も現法形という指導書があることでそこそこレベルの指導者になると言うこともあるのではないでしょうかね(幸い私の御師様は御神楽じみたこともすすんで経験している猛者ですが)。だとすれば技の数は多い方がいいはずですね。
誤解のないよう念を押しますが法形にはそう言う場合のその程度の効用しかないと言ってるのでは決してありません。しかし、法形というものの構成が単に理想的な教授環境においての技術の効率的な習得と言う視点にのみによってできているわけではないのではと言うことなのです。
私的には、確かにある的確な条件(練習時間が沢山とれる、修行者がある程度肉体・思考力的に優秀、指導者が優秀など)のもとでは、現行法形よりも効率的なメソドロジーがあり得るだろうと考えます。。ビスキュイさん、この点に関しては如何でしょう?この点に関して私は通りすがりの休眠拳士さんに近い意見かもしれません。
しかし、様々な状況で、様々な相手に教授するものだと言うことを考えたとき、現行法形はなかなかイイ線を行ってるのではないかなぁと漠然と思います。
例えば、金的蹴膝受波返と逆蹴膝受波返の差なんかは実際乱捕りの中で覚えた方が(怖いけど)しっくりくると思える部分なんですけど、がんがん金的ありの乱捕りができないような環境にいる人にとってはあえて明示的に教わることで得るものもあるのかなと。
金的乱捕りしろよ、と言われればそれまでですが。私もそうなんですが、乱捕りなんてとても。。。みたいな入門者が「多少殺伐としても強くなりたい!」と言う風に意識が変わっていくこともあります。そんな僕のようなヘタレの入門者には今の法形は大変とっかかりやすかったと思います。このたくさんある階段を少しづつ昇っていけば強くなれるのではないか、と言う錯覚というか、信仰が私のような弱虫には有効だったのです。その信仰の対象は壮大で技数が多くて神秘的である方が心理効果が高いのは言うまでもなく。。。で、少しだけステップアップして先輩にがつーんと喰らうと、そうか、これだけではだめなんだなと目が覚めるのです。そのころにはもうちょっとだけ強くなろうとを考えられる位には成長しているというわけでした。
また、これは論点がずれますが法形をより効率的なものに換え、乱捕り修練の時間をどかん、と増やすと少林寺修行者の人種構成ががらりと変わるでしょう(ついていけない、と言う人続出??)。ここを換えずに、修行を続けるうちに修行者の意識が自発的に変わって、もっと乱捕りしたいぞ、もっと練習時間とりたい、と言う風に変わっていくならばそこが少林寺の目指すところでは、と言う気がします。弱い人間を強くする、と言う意味では、はじめはしょぼしょぼのヘタレの、「あのぅ。。僕にも。。。使えるようになりますか?」言うようなしょぼい奴が、こう来たときにはこうだ、と教えられて何となく強くなったような錯覚をして、しかるのちにいや、これだけではだめだ、と言う。。そうなったときに、ビスキュイさんをはじめ皆さんが試みられている工夫が活きてくるのではないかという気がするのですが。。。レベルの低い話で失礼致しました。

935アップル:2004/03/10(水) 17:36
コソーリ・・・

936名無しさん@いらっしゃい:2004/03/10(水) 18:17
>913 名前: Syami@Office 投稿日: 2004/03/09(火) 18:11
>
>あ〜、まぁ、我々の場合「修行」だからねぇ。

Syami@Office殿、ここについてもっと詳しくお聞かせ願えますか?
「修行だから、○○○」の、この○○○の部分を!

937アップル:2004/03/10(水) 19:19
>ビスキュイさん
>「原因は様々。人それぞれ」としか言い様がありません。
ほんとにそうだと思います。各人の修行ですからね。
指導者が同じだからって修行者が皆おなじ修行をしているとは思えない。
主役は常に私達修行する拳士ですからね、指導者ももちろん修行者。
自ら動いた人間がやっぱりなにかいいものを得るんじゃないかと思ったりします。

>求道s00@遅い昼飯中さん
>少しだけステップアップして先輩にがつーんと喰らうと、そうか、
>これだけではだめなんだなと目が覚めるのです。
>そのころにはもうちょっとだけ強くなろうとを考えられる位には成長しているというわけでした。
すごーくわかります。ちょっとした心構えや気持ちの変化。すごく大事なことですよね。
以前、すりぃぱぁさんが意を決してTs577さんに乱捕りで向かっていったエピソードを思い出しました。

法形の話から離れてるけど、こういうのいいなぁ。ニヤニヤ。

938赤影:2004/03/11(木) 00:28
>ただ、40になって、これからどういう練習をしていくべきか考えたときに
>語弊がある言い方かもしれませんが、
>「力も技のうち」という考え方は一旦捨ててみようと考えました。

私も「力で投げてやろう」なんては思っていませんよ。現代人は昔の
人に比べて動いていない。体力がない、でも鍛える時間が取りにくい、
から、効率よく「筋肉を」鍛えましょう、と言う趣旨です。
まず人間として、頭でっかちの「火星人(昔のイメージ)」になっては
いけませんという趣旨です。また、ウエートの姿勢はあくまで「筋肉を鍛える」
姿勢なので、当日に基本等で、武道の姿勢(神経制御)に戻す必要があります。
私も同じような世代ですが、今でも体力は上がっています。(元が低いからかな?)
で、年を取れば退化とのとの戦いです。時間をかければ活性酸素が増えるので、
より短時間により効果的に、あるいはより脳内ホルモンが出やすい状態に、
練習すべきでしょう。

で、練習は同じ原則から無限の変化を導き出せれば、効果的な練習となるでしょう。
そのための、原則の確認であり、動きの座標が法形だと思います。
だから、乱捕り中は攻防を研究し、その後の反省で、乱捕りの動きを法形の
原則で復習すると言う方法論を推奨します。

先に述べました、「無駄のない速さ」が年齢を超えた強さを維持できる秘密だと思います。
直突き一つでも。「本当にまっすぐ」打てる人は、私もそうですが、あんまりいないように
思います。最良の攻撃、防御、これを攻防の瞬間に体で出せるようにならないと
いけません。そのためには、同じ原則の動きを、鋳型にすることなく、徹底的に精錬するこ
とが必要だと思います。

93940過ぎ拳士:2004/03/11(木) 01:36
>>938 赤影さん

 話の方向が変わりますが、
 前にちょっとだけ書いた、ジャズダンスの巨匠との出会いが
 今までの自分の練習法を見直す一つのきっかけになりました。
 先生は今月79歳になるのですが、
 今でもまだ、1日4時間・週6回、クラスで教えています。

 良く形だけの武道を批判して「ダンス」と言われたりしますが
 それはとんでもない話で、
 ブロードウエーのプロダンサーの世界は
 肉体的に非常に過酷な世界です。
 1回2時間のステージを、週6回こなさなければなりません。
 そのために、肩・腰・膝の故障も多く、
 才能がありながら、若くしてダンサー生命を絶たれる人も少なくないのです。
 この先生の下には、その過酷さに耐えるトレーニングを求めて
 ダンサーたちが集まってきます。
(トラボルタもマドンナも、この先生に習っています。)

 この先生の経歴はまたちょっと特殊で、
 21歳のときに交通事故で半身不随になり
 医者からは「一生歩けない」と宣告されたにもかかわらず、
 自分でリハビリ法を編み出し、見事にカムバックして
 40本以上のハリウッド映画に出演した、というものです。
 彼のダンス・メソッドは、そのリハビリ法が基になっています。

 先生が教室で語る言葉の中で、いくつも引っかかったものがありました。

1)私は「ワーク・アウト」という言葉が嫌いだ。
  正しい動きをすれば、「ワーク・アウト」(=消耗)なんてしないのだ。
  踊る前よりも踊った後の方が、身体の調子が良いはずだ。
  2時間のステージが終わった後に、
  もう1ステージ踊りたくなるというのが正しい。
  だからこんなジジイでも、今でも1日4時間踊れる。
2)特定の部位を取り出して鍛えるべきではない。
  身体というのは、全体で一つの動きをするものだ。
3)ステップに気を取られてはいけない。
  それよりも肩の動きに注意する。
  肩がスムーズに動けば、ステップはついてくる。
4)練習と日常生活の間に切れ目は無い。
 「最近、運動不足だからジムに行こう」というのは変だ。
  椅子に座っているとき、首・肩・肘など
  それぞれが正しいポジションにあるか?
  バスを待っているとき、正しい立ち方をしているか?
  そういうものが全て良いトレーニングになる。
5)ダンスのクラスを「初級」「中級」「上級」と
  分けるべきではない。
  プロだって、始めたときは初心者だ。
  初心者は、プロのようなつもりで練習すべきだし、
  プロは、初心者のようなつもりで練習すべきだ。
  練習するときは、過去に自分が今までしてきたこと、
  未来に自分が目指すこと、どちらも忘れて
  今この瞬間に集中しなければならない。
6)ケガをしたときも休まない。
  自分が動ける範囲で動き続けること。
  その限界は、君の身体が一番良く知っている。

940Syami:2004/03/11(木) 02:16
おぉ!すばらしい!!
流石一流の方の仰ることは違いますねぇ。

私の太極拳の師父も同じような事を仰っていました。特に

>正しい動きをすれば、「ワーク・アウト」(=消耗)なんてしないのだ。
>踊る前よりも踊った後の方が、身体の調子が良いはずだ。

の部分と内容は同じだと思いますが

「太極拳の訓練は休憩しているのと同じだ。特に打ち合っている時は私は休息している。
だから打ち合った後は私は休んだ後と同じなので元気になっている。」

と、仰っていました。

941Syami:2004/03/11(木) 02:27
>良く形だけの武道を批判して「ダンス」と言われたりしますがそれはとんでもない話で、

これには激しく同意です。大学の授業でソシアルダンスを一年間やりましたが
足腰には大変なストレスがかかったモノです。
常に正しい姿勢を維持する、かつそれを崩さぬようにステップを使って動き回る。
おまけにパートナーもリードしなければならない。
これは大変な運動強度でした。

942赤影:2004/03/11(木) 18:21
>先生は今月79歳になるのですが、
>今でもまだ、1日4時間・週6回、クラスで教えています。

超人ですね。武道に限らず、こういう人は励みになりますね。

>流石一流の方の仰ることは違いますねぇ。
禿道。

943通りすがりの休眠拳士:2004/03/12(金) 00:34
>>931>>933 ビスキュイさん こんばんは。

レスありがとうございます。私は決して、ビスキュイさんがテキトーに考えていらっしゃるとか、
真剣でないとか、そういうことを申し上げている訳ではありません。ただ、少林寺拳法に何らかの
問題があった場合に、「確かにそういう問題もあるます。でも ※※それに当てはまらない人も
中にはいるから※※ 別にイイでしょう。」という考え方に、異義を申し立てたかったまでです。

そのようにして問題を片付けてしまうのではなく、「なぜ、そのような問題が起こったのか?
なぜ、そのような傾向が強いのか?その問題は、どうすれば解決するのだろうか?」と、一段掘り
下げて考えると、もっと別の問題が見えてくるんじゃないかなぁと、ちょっと(´・ω・`)ショボーンと
してしまったのです。。。

この点について少しだけ補足致しますと、例えばビスキュイさんが

>「具体的且つ詳細な例を示してしまっているため、例以外の変化に対する寛容性が薄れ
>るのだとするならば,なんで何十年もその体系に従って練習してる先生に変化に寛容な
>人達がいるのですか?それっておかしくない?」

この様に仰られているところも、>>925 の失業率の問題に置き換えてみますと、

 「○○の理由でこの国の失業率が高いとするならば、なんで何十年もこの国に住んでいて、
 ずっと定職に就けている人達がいるのですか?それっておかしくない?」

のように繰り返し仰られているのです。「失業していない人もいる」というのは、
「失業率が高い」という問題を反証できる理由には成り得ないと思います。
すなわち、「中には寛容な人達もいる」や「中には技を使える人達もいる」は、
「現行の技術体系には弊害が大きい」という問題を、決して反証できてはいないのです。

お分かり頂けますでしょうか・・・?

つづく


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