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倉工ファン Part 4

530名無しさん:2021/12/24(金) 15:43:02
☆ 同上  ③


2年時まで指導を受けた田村監督は、広島県の広陵高校から日本鋼管、日本鋼管福山でプレーした投手だった。
1974年には太平洋からドラフト1位、翌75年にもヤクルトから2位指名された(入団拒否)一流の野球人。
何よりもサイドスローだったことが、幸いした。


体の使い方を学び、身長もグングン伸びた。
もう誰も「マメ」とは呼ばなくなった4年生になると、ストレートの球速は144キロまでアップしていた。
教諭になる夢は凍結し、進んだのが四国アイランドリーグ・香川。ただし2年以内という期限を設けていた。


「それでダメなら教師への道を進もうと。父からも『若いうちにしかできないことがある』と背中を押してもらえたので」
1年間で球速は148キロを記録し、さらにレベルを上げた又吉は、もはや雑草ではなかった。

人生は出会いときっかけに満ちている。打たれるために200球投げた毎日が、打たせない仕事に生きている。
たまたま進んだ大学の指導者が、サイドスローの好投手だった。仲間よりも成長期が遅かった。


大学卒業後に人生設計の軌道修正に理解を示してくれる両親がいた…。
何かが欠けていれば、誰にも知られぬ雑草のまま終わっていた。

今頃は沖縄の球児とともに汗を流していたはずだ。又吉は独立リーグ出身者初のFA移籍を果たした。
ペナント奪回に燃えるソフトバンクの一員として、22年はブルペンを支える。




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