したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

お城に行ってみました

1紋章官:2014/02/15(土) 14:09:32
大雪です。出かける用がないのはありがたい。ただし、午前中は団地の雪かきで
腰が痛い・・・月曜日は会社の雪かきをしたくないなあ〜溶けて〜

さて新規ネタ、お城を見てきました!と打ち上げてみましたが、案外、行っていない。
学生時代、何やっていたんでしょうね。そんなささやかな、ありふれた観光地のお城
見物話。
まずは大阪城へ行ってみました!15年前の旅行でのお話。石垣の話はいろいろ紹介
されているので、おしゃべりするなら堀の深さを感じましょう!案外、気が付きにくい
のですが、大坂城は上町台地の突端部にあります。
そのため、通常、見学コースとなる南や西側から行くと、平城の感覚を受けますが、
淀川べりからみると、平山城的な高さを感じることができます。
水上バスで見上げるとちょうどいいのかもしれません。ただし、今はどうでしょうか?
建築物で見えにくくなっているかもしれませんが・・・
それゆえ実際、城を一周してみると城の場所が築城適地だったことがわかってきます。
それになぜこれほど堀が深い事も、台地の上という立地ゆえと理解できます。
もちろん、石山御坊、豊臣期大坂城と土台に2段階あり、その上に盛土したとはいえ、
これほどの高さにするのは容易ではありません。
どうなのでしょう?地形的に上町台地の突端であり、一番比高地が高い場所でも
あったのかもしれません。この地形的トリックはしばしば城郭を歩いていると見られ
ます。有名な上田城も河岸段丘を活用しており、南からは平城でも別方向からは山城、
また戦国最大の争奪戦の対象となった沼田城も街道から見ると段丘上の山城、しかし
一度、台地に上ると平城となります。
このあたり城郭の地取り(選地)のひとつの技法だったのかもしれません。
どうでしょう?行かれることがあれば、そんな視点で見てみませんか?それでは

2紋章官:2014/02/21(金) 22:29:22
ソチ・オリンピックもまもなく終わりですね〜そして、やっと土曜日が晴れ
るみたいで、一安心。今日は山梨県にある工場まで物を届にいってきま
したが、まだまだ雪景色。20年近く山梨へ毎月のように通ってきましたが
こんな光景初めて!河口湖の親戚も4日間、家から出れなかったそうです。いやはや

さて大河ドラマも進み、黒田官兵衛は荒木村重の所へちょくちょく
出かけております。そこで村重の奥方「だし」が登場しましたが、この名前、
記録にもある実在の人物。それも「信長公記」「織田軍記」など日本側だけ
でなく、ポルトガル宣教師の報告書にも「DAXIS」(つづりはよかったか?)
とのっている女性。ただし、これは後の織田信長による荒木村重一族処刑時
の記録で、その時、年齢が「21」とか「24」という若さ。そのため、現時点で
でてくると年齢が〜また年齢から正室かどうかは不明。
ついでにこの「だし」を母とする幼子が辛うじて乳母の手で連れ出されて、
本願寺に逃げ込み生き残り、成人しては絵師になる。
その長じて名前を岩佐又兵衛。桃山から江戸前期の絵師として知られます。
マンガ「ひょうげもの」では青年になってから出てきている、あの人です!
又兵衛はそんな事情から、母などを見捨てた父の荒木姓ではなく、母方の
姓を名乗ったと考えられており、それゆえ「だし」も岩佐という姓と考え
られていますが、それ以上は不明です。
その「だし」ですが、実名ではなく、住まいの場所からきた呼び名と考えられて
います。有名なのは豊臣秀吉の側室茶々は「淀の御方」、他に「松の丸」、
長浜時代の「南殿」等々。それゆえこの「だし」も城郭用語の「出丸」「出城」を
いみする「出し」に由来すると考えられています。思わぬところで城郭用語!

また荒木村重の有岡城は戦国有数の堅城。なにしろ2年近い攻防戦を耐えた
もので、総構えや石垣を備えていたことが絵図や発掘から判明している
大城郭。ただし、市街地化して痕跡は地上ではほとんど見えない状態。
いささか残念なところです。

それで不思議なのは茶を楽しんだ数寄者で、城郭史に足跡を残す人物
はみな織田信長に反旗を翻す。最初が多聞山城、信貴山城の松永久秀、
次が有岡城の荒木村重、とどめが福知山城、坂本城の明智光秀。
豊臣秀吉が茶を本格化させるのは大坂以後といえるので、この時点では
まだ範囲外。じつに不思議なところです。それではまた!

3紋章官:2014/03/01(土) 01:35:07
また雪が降るかも、天気予報が気になります。オリンピックも終わり、テレビも
通常番組が戻ってきました。

さて「お城をみに行ってきました!」話。城を見に行くのは何も遠くでなくても
いいのです。横浜北部に住んでいますが、地元には戦国時代の城跡、それ
も良好な状態の城跡が散在しています。
この手の城跡、残りがいいところは交通が不便なおかげで破壊から免れる
か、交通の便がいいがために住宅地や学校建設で破壊されるかという運命。
そんな中、駅から徒歩10分以内、駅から眺められる場所に城跡がある、と
いうのが横浜市市営地下鉄センター南駅から行く「茅ヶ崎城跡」。
土塁、空堀、郭が良好に残存。公園に整備され、見物が容易です。この城、
古い本では関東の丘城の典型として紹介される城跡です。
何しろ駅から見えますからね〜交通の便はいいですよ。バスを乗りつぐ
必要がないのですから。
ここは川を隔てて対岸には国指定弥生環濠集落「大塚遺跡」が目の前に
見えます。この「大塚遺跡」は環濠集落といっても、丘陵の頂上部にあり、
いわゆる高地性集落的な要素を持っています。
ちなみに中国自動車道など高速道路の工事でしばしば中世城郭と弥生の
高地性集落が重なっているのが発掘調査で知られています。
防御性や見晴らし、水の条件でいくと同じような立地になる、ということが
わかります。それだけに、川を隔てて環濠集落と中世城跡が見れることでも
便利なところです。
ここから歩いていくか、次の仲町台駅を降りて丘陵を下がっていくと谷間に
張り付くように堂々たる屋敷門が見えてきます。
これは国指定重要文化財「関家住宅」。門、主屋などが指定されています。
現在も居住されていますので見学できませんが、ここは戦国末期から
江戸初期の豪農というより小田原北条氏に属した地侍の居館住宅。
10年ほど前に解体修復工事が行われ、その結果、古い部分は戦国
末期、北条家滅亡前後までは遡れそう、との見解になっています。
関家は戦国期までは武士、江戸時代は帰農して農家として500年、この住居を
守り続けてきたものです。横浜の文化財というと、どうしても文明開化のミナト
ヨコハマのものに目が行きますが、こんなものもあるのです。
城好きの友人によると、周囲の林の中に土塁や空堀の跡が残っているそうです。
地侍の館ということで、防御性を考えたものとなっているわけで、茅ヶ崎
城跡にも戦国期にはこのような建物があったかも知れない、と想像する
助けになります。案外、地元にもこんなものがあるもので、遠出しなくても城跡
見物ができるものです。
先の城好きの友人いわく、府中の方でも方形居館跡の郭が空堀を残して現在
も住宅としてあるそうです。
案外、地元で穴場を探してみるのもいいかもしれませんよ。それでは

4紋章官:2014/03/08(土) 01:00:58
なにやらまた雪がまった都心ですが、この寒さいつまで続くのでしょうか?
さて昨日の新聞には機織りの埴輪の復元が紹介されていましたが、こう
いうのを見てしまうと、古墳の方にまたひかれ始めるものです。

さてお城に行ってみました!話。彦根城へ行った時、ここで何が面白いと
言って、転用材の宝庫、その柱や板が面白くてしょうがない!
城は新設と言いつつも、建物、石垣などを周辺の城や寺院などから運び
こみ、建設するのは常識。石垣の墓石、石棺、石仏などは良く紹介されて
おり、目にすることは比較的容易。
一方、上物である建物は火事で失われるので、築城時の初期建築が残
っていないことや、明治の廃城のさい、取り壊されたりして失われる。
そのため、そもそも城の建物自体が少ない中で、さらに築城時の初期
建築を残しているものでないと、なかなかこの転用材はないもの。
ただし二条城二ノ丸御殿などは新築のため、転用材観察はできません。
なにしろ、築城時間の短縮のため使えるもの、転用できるものはみな使う。
これでいくと墨俣一夜城伝説の築城方法もその延長上と発想すれば、
それほど突飛な方法ではないのです。
さて彦根城。ここは近江の戦国・桃山期城郭を寄せ集めた城。伝承から
して小谷、長浜、大津、佐和山などの城から移築したと伝えられる櫓、
門などがぞろぞろで、それが今も残る。
柱や梁をみれば、古いほぞ穴がいくつも見られ、柱もちょうな仕上げが
のこるものも多い。天守は元大津城天守からの転用で、解体修理の際
柱の調査から、旧大津城天守が五層だった復元案が作られています。
なかでも古風なのは太鼓門。伝承からして寺院の楼門だったというよう
に、他の建築に比べても古式で板などは城のものにしては細い感じ。
このあたり、長浜の大通寺に残る山内一豊時代の長浜城台所門が、
分厚い板材であるのに比べて、線が細い感じがします。
そんなわけで、彦根城へ行ってみたら、転用材を楽しんでみましょう。
それでは

5名無しさん:2014/03/22(土) 01:03:55
三連休です。どこかに行かれていますか?私はこの冬も冬の京都に行かずに
終わりました。寒いの承知で京都を歩いてみたい願望があり(すいてそうなんで)
もう10年来、毎冬、冬の京都パンフをもらって見ています。
まずは高台寺の霊廟が第一目的で、冷え込んで冷たい空気の中、高台寺
蒔絵をじっと見てみたい、という妙な希望があります。あとは清水三年坂美術館
、石清水八幡宮、さらに今年は伏見稲荷大社へ行って、まさに聖地巡礼!(神社
だから間違いないわな〜神社もうか様にのってるようだし)それにこの冬は通常
非公開の阿弥陀寺も公開していたのに、残念。春だと奈良山の辺の道を歩きた
いところです。

さてお城に行ってきました。今回は行ってみたい!というところをご紹介。
城郭建築物で残っているのが多いのは天守と櫓、門が多い事はご承知かと
思います。現存天守は12か所。12しかないの?と言いますが、天守のない
城も多い事を考えれば、なんだかんだ残ってる。
門や櫓は移築されてあちこち探せば残ってる。逆に多くあったはずなのに、
残りが悪いものは御殿建築。知名度が高いのは二条城二の丸御殿くらい、
贅をこらした現存最古の御殿建築。次に高知城本丸御殿、掛川城二の丸御殿、
川越城本丸御殿はいずれも幕末近い建築。
惜しいのは熊本県八代城大書院、移築復元工事直前の昭和62年火災で焼失、
復元工事続行中の名古屋城本丸御殿は昭和20年戦災、同じく復元された
京都丹波篠山城大書院は昭和19年失火による火災、と昭和まで残っていたの
はこんな程度。残りませんね〜。あとは小笠原住宅(伊豆木陣屋)などの
陣屋建築群程度になります。
このうち、顕著に古いのが二条城(慶長〜寛永期)、小笠原住宅(寛永期)で
あとはすべて1800年代。御殿建築は廃藩置県後も庁舎や学校に多くが転用
実用で用いられたので、天守ややぐらに比べて本来、維持されたのですが、
きがつけば実用ゆえに建て替えなどで次々消えてしまったのです。
その中、部分とはいえ、二条城と同時期の部分が残る例がある。
それが北海道の松前城。松前城というと幕末の和式築城最後の例で
しられ、復元された天守や門ばかりが紹介されますが、なにが悲しゅうて
コンクリートの復元建築ばかり見るのですか?
松前城の前身、福山館の御殿建築は築城時にそのまま取り込まれて、
明治期に小学校に転用、建物自体は明治半ばに建て替えられましたが、
玄関部分だけは残され、職員玄関として昭和まで使用、さらに建て替え
のさい、この玄関部分だけ、引きやで動かし残されたのです。
この福山館、豊臣秀吉に蝦夷島主を認められた初代藩主松前慶広
が建築した御殿が火災などにあうことなく、城にとりこまれたものです。
すなわち、この玄関は桃山時代に属する御殿建築の貴重極まりない存在。
ところが、旅行雑誌はしかたないかもしれませんが、いわゆる歴女ブームや
お城人気にのった雑誌ではてんで紹介されない。
百名城やら、城紀行やら、城下町番組でもスルー。いやー底の浅さがわかる。
まあ、仕方ないかもしれません。なにしろ目立つもの、お金が第一ですから、
地味な文化財は放置しているわけで、五稜郭の箱館奉行所復元や天守のほう
が大切なんでしょう。
昨年夏に城郭模型さんが見にいってこられたそうですが、なんでも、雑木に
囲まれ、風通しが悪くなっており、つっかえ棒で支えているような物置同様。
雑木のため風通しが悪いので、シロアリや湿気での腐朽が心配される
状態だった、とのことです。建築屋さんなので、この手のことは詳しいので
見てビックリの状態だったとのこと。なんてこったい、朽ちて倒れるまえに
見にいってこないと行けないかもしれません。
みなさん、見に行くならお早めに!それでは

6紋章官:2014/04/05(土) 01:05:56
桜も満開!それが雨で見物する間もなく散っているのは残念なところ。明日も花見に出かけるつもりです。皇居の桜見物は難しそうですが・・・
それにしても4月に突入、コミティアの原稿も急がないといけません。今年はささやかに展示の1コマ(机1本)で刀装具を展示します。

さてお城に行ってきました。今回は四国編前篇。よくよく考えれば四国は現存天守など城郭見物にはいいところ。なにしろ天守が4か所現存、小ぶりながら本丸御殿もあるし、縄張りや石垣等、いろいろ見れます。まずは香川県の高松城から。
ここは海城として海水を取り入れた城郭で知られます。前回行った時は天守台石垣を解体しての修復工事中、昨年再度行った時は積みなおされ、穴倉などが復元された天守台に登りました。この高松城天守、南蛮づくりとよばれる、最上階が下の階より大きいことでしられ、その異形の姿は古写真に残されています。
現在は天守台に登り、往時をしのぶだけですが、海城とは良く言ったもので、郭の向こう側は瀬戸内海。なかなかのものです。つづきましてすぐお隣はメイストームさんがお住まいの丸亀城。ここにはこじんまりしました現存最少の3層天守が日本一の石垣の上に残っています。いや、亀が群れなして甲羅干ししているのを眺めながら橋を渡り、地元物産センターを経由して登りましたが、いや急坂だったなあ〜千葉の大多喜城でも復元天守風の
南総博物館に上る坂もきつかったですが、丸亀城の本丸に上る道もきつかった。
天守は簡素で中も簡素なものです。しかし眺めの良さはぴか一ですね〜なにしろ瀬戸内海が一望。屋島の展望台と同じです。あ、ちなみにこの屋島は源平合戦で有名ですが、ここも律令制古代山城「屋島城」とみられています。遺構ははっきりしていませんが。
丸亀城の見物は高石垣ですが、本当、実際見てみますと、その石垣の高さに圧倒されます。コンパクトに集約された縄張りのおかげで、防御性と視覚効果も高めています。
それで忘れてならないのが、この丸亀城も海城的要素を持つこと。ここにも堀に船溜りを設けており、往時は川を経由しての海への連絡を考えていたようです。
このあたり四国の近世城郭の特徴のひとつで、高松、丸亀、今治、宇和島、高知と海に近い城郭が多く、それは内陸の松山城にも海を意識した事が知られています。海の要素が少ないのは大洲と徳島くらいかな?そのかわり両方とも河川水運は重視しています。
さて石垣といえば、次に今治城も見物。丸亀城が平山城として、山を利用した高石垣がそそり立つのであれば、今治はまっさらに平地に人工土台で築き上げた高石垣。昨年、旅行で今治からレンタカーで大三島に行く際、通りかかりましたが、いや、これほど高石垣とは思いもよりませんでした。なにしろ丸亀のイメージが強すぎて、どこか見落とされがちともいえます。この今治、丸亀、それに今治の双子といえる丹波篠山、それと岡山県の津山城、広島県福山城など、集約的な高石垣をもつ城郭は、縄張りとは別に集中式高石垣城郭というくくりをつくってもよいかもしれません。この集中式というのは欧州のイングランドで発達したコンセントリック式もしくは築城主体者となったエドワード1世(もしくはエドワード朝期に盛んに築城されたので)エドワード式とも別称される築城形式の日本語翻訳ですが、それと同様な設計思想があるように思えます。
さて、なにか脱線気味でしたが、今日はここまで。それでは

7紋章官:2014/04/18(金) 22:36:39
4月も半ば、コミティアに向けて原稿を進めております。何しろあと3週間あまり。そろそろ追い込みをかけないと間に合いません。

さてお城に行ってきました!四国編の続き。ホンに予讃線はお城見物に良い路線で高松、丸亀、今治と見物して、次は松山城。平山城とは言いますが、天守などの残る山上区画と、山裾の二の丸を中心とする山下区画、いわゆる根小屋地区に分かれた中世山城の系譜を引いた縄張りという方が正しい城郭。
山上の天守郭の区画が建築を含め完全に残っていることでは重要な城郭。天守もどっしりしていますし、太鼓は叩けるし。何かと目立つ、この山上区画はよく紹介されますので、評価したいのは二ノ丸庭園。昨年、見物して大変良かったのですが、二ノ丸御殿址を散策できるように整備、なまじ建物がないおかげで、御殿の下にあった大井戸や排水溝などが見ることができ、通常とは異なる視点を持てます。
それに石垣の上に多聞櫓が復元され、休憩所になっています。ここがもう一工夫あれば、
良いでしょうに。
さて松山城から電鉄に乗りまして道後温泉の湯築城跡。ここは現在、公園。復元土塁や堀、そして屋敷と資料館があります。中世城郭としてコンパクトにまとまっているので、見物が楽、その上で入場無料の資料館で、簡単な資料見学もできます。
ついでにスタンプラリーで記念品をもらったり。手作り感がいいですよ。それに中世城郭の復元されているところはこれまた交通の便に難があったりしますところ、ここは道後温泉の入り口、そのまま道後温泉本館でひと風呂浴びれます。

さて松山駅からさらに電車にのり進みましょう。まだまだあります愛媛県!それでは。

8紋章官:2014/05/24(土) 00:57:25
なにやら暑いのか涼しいのか、気温差の激しいところ。みなさん、体調と天候にはお気を付けを!

さてお城に行ってきました!。愛媛の旅は続きます。松山から電車に揺られてのんびりとうっかり内子座の事を忘れていて、通り越し伊予大洲!こちらには大洲城があります。
コンパクトな城と城下町。武家屋敷などがほとんど消滅しているのが残念なところ。
なにしろ川べりに木造復元の4層天守がそびえ、周囲に江戸期の櫓が連結して残る。
それもお城の景観を壊すような高層建築もない!大変よいロケーションです。ここは川べりの立地を生かして、武家町を総構えとして取り込み、今は学校のグランドなどになった外堀で仕切って三の丸、さらに堀で区切りつつ、川べりの独立丘陵を中核部として天守のある本丸、二ノ丸などを形成。コンパクトながら、平山城の縄張りをしっかり体験できるよい城跡です。
姫路城の小型版!こういってはなんですが、姫路、金沢、岡山など大城郭は大きすぎて、城の縄張りや構造のイメージがとらえにくい方も多いと思います。まあ、侵入者を迷わすことが城郭の縄張りの目的なので、当然なのですが、それに余りに大きいと回るだけでひと苦労なので、その点、ここは手頃でいわば自動車教習所みたいにわかりやすいところ。
それに個々に残る櫓や天守に連結する台所櫓など建築物もよい、何より丹念に復元された4層天守、新しいものですが、木造なので構造を見るには良いものです。
城下町も町割が江戸時代のままですので、歩くといいものです。これで武家屋敷が残る一角でもあれば、角館みたいに人気が出てにぎわうだろうに、もったいない!
それでも「鶴瓶の家族に乾杯」に出てきたお城と対をなす臥龍山荘周辺の古い町や地区を歩き、そばの茶房でお茶を飲み、「しぐれ」や「まんじゅう」など和菓子を目に着いた和菓子屋に片っ端から入りかいこんできました。武家屋敷はありませんが、ところどころに大きな商家の建物がありましたので埋め合わせ!
それで駅に戻り電車に揺られて1時間ほど、たどりつきますは宇和島!1年早かったかなあ〜今年なら日本一遅い新幹線(型車両)に乗るか見ることができたのに(笑)〜駅からとぼとぼ歩きまして、路地裏みたいな道から城郭への入り口を歩きますは宇和島城。まあ、駅に近い昇り口は江戸時代は海側なので、本来は博物館のある方に木戸門が残っていますので、そこからの方がよいのでしょうが、昨年、行きました折は駅から歩きましたので、そんな状態。その上、途中で一昨年の豪雨で崩れた斜面がブルーシートに覆われたままです。そして登りついたのが本丸、そこにぽつんと天守が残る。ちょうどここも山の上に平坦地を細長く切り開いていますので、本丸の形としては彦根城や松山城などの城と同じ感じです。
ここに江戸時代の天守が存在。三層天守としてはけっこう大ぶりな方なので、見学も楽しいです。それに江戸時代の建前祭具が梁の上に残っていたりします。この建前祭具、あんがい江戸時代に使用されたものは残っていないので、城の建物と祭具セットであるのは貴重なのです。ちなみに大洲城復元天守にも、復元時に使われた建前祭具が同じように梁の上に乗っていますので、両方見れますので、セットで回るといいでしょう。
それで宇和島城では本丸前で地元のボランティアさんたちがテントでお茶のお接待。いいですね〜やはりお四国様、遍路道のお接待文化なのでしょうか。さて、この宇和島城、現在は周囲が埋め立てられていますが、江戸時代は海に囲まれた海城。かつての空角の縄といわれる、五角形の外郭縄張りは歩いて体験してみてください。また、構造上、気がつくのは、この城の縄張りが実は中世の山城的なところ。すなわち、本丸など中枢はまとまっていても、他の郭が独立性高く段々に配置されていること。これは中世の山城の縄張りの系譜をひくもので、集中して相互の郭が隣接する近世城郭とは異なるものです。
このあたり、歩いてみるとわかります。それにしても、やはり天守だけぽつんあるのはさびしいところ。宇和島は戦災もあり不利ですが、大洲城が復元天守と櫓で天守複合体が再現されていて、その他、2つ櫓が残り中を見学できるという好条件があるだけに、幾分、さびしいところです。それに大洲城では天守復元パンフレットが200円で販売。
代わりに伊達家博物館と庭園に行きますか。それではまた〜

9紋章官:2014/06/14(土) 01:57:10
天気がなにやら不安定です。皆様、くれぐれもお気を付けを!さて先週の今頃は熊本の夜。ライトアップした熊本城を眺めました。その旅行中に、友人連から夏コミの当落の知らせが届き、やきもき。それで帰宅してみると、まだ当落通知が届いていない!月曜日も
届かない。あれ〜と思っていると火曜日、帰宅時に郵便ポストに入っていました。

祝、当選!初日15日の西館に出ていますので、宜しくお願いします!さあ、冊子を書かないと!

さて、お城に行ってきました!先週、八代城と熊本城を見てきましたので、そのおしゃべりを。熊本城は他の人の紹介も多いし、書籍も多いので、いまさら書くことはほとんどなく、ただ思うのは、いくら54万石とはいえ、一大名が独力でこんな城を築くのはいいですが、維持費が大変だ〜石垣や大櫓の数々。なにしろ天守級の櫓がいくつもあっては、ただ驚くばかり。武将隊も宮本武蔵まで加わり、城内案内。本丸御殿も豪勢なもので、むしろ、なんで通路の上に御殿を建設することにしたのか、いくら場所の都合とはいえ興味深いところ。ただ、案内板の「天守閣」は表示はやめましょうよ。これだけ再建工事などしているのですから、正しく「天守」にすべきです。
さて石垣の見所はみなさん御存じなので、今回、驚きました点は宇土櫓の事。内部に入れる現存建築はここくらいなので、じっくり見ましたが、ほとんど転用材がない!ほぞ穴や切り込みがほんとに見られない。通常、江戸初期までの築城建築物は大概、転用材を用いるもので、姫路城大天守ー小天守も転用材が多い事が知られるところ。解体修理の際、秀吉時代の天守(もしくは大櫓)と見られる建材がまとまって出てきたことで、その復元案が作れたほど。
彦根城など転用材の宝庫!それで古い初期建築の櫓などは、転用材を見つけるのが楽しみなのですが、宇土櫓はいくら見ても、それらしき柱材などがない・・・
まあ、現在、宇土櫓の名称の起源が移築によるものではないことが検証されてもおり、築城時の新築であることが判明していますので当然といえば当然なのですが、しかし、ここまでないのは想像だにしなかったのは正直なところ。熊本城築城でいくつ山が丸はげになったのやら。入場料500円を払って、大いに見て回りましょう!
さて初日には区別の上で松江城とも呼称される八代城を見てきました。隣接する麦島城跡を見て回れなかったのですが、こちらも発掘された石垣や天守台址、それに出土した建材などが見れます。それで現在、神社のあります八代城本丸。広い堀に囲まれた典型的な平城。何しろ、地震で麦島城が倒壊したので、対薩摩用に幕府の特例で築城された近世城郭。それも元和8年という大坂の陣のあと。築城技術の頂点の時期に築城されただけに、まさしく要塞城郭の傑作!が、明治以降の埋立や市街化でわずかに本丸が残り、部分部分がところどころに残る程度。その本丸も八代宮建立に伴い、正面参道を作るため、本来の石垣を壊してしまっている。しかし、それでも残っている本丸石垣は天守台や大手門を含め、大変なもの。これが支城とは到底思えない規模。堂々たる高石垣と縄張りの巧緻、ことに大手たる高麗門の桝形虎口の規模や完成度は江戸城の門と言われても信じれるほど。すごいわ・・・十分以上に鑑賞に堪えます!隣接する博物館には八代城の全体復元模型がありますので、こちらも合わせてみるのがお勧めです。さて、この城で謎は天守。書籍でも分かれるのですが、城跡の天守台の標識には五層六階(地階別)と記載、ところが隣接する博物館にある八代城の復元模型では四層四階になっている。熊本城の天守は西南戦争まで残りましたが、こちらは江戸時代中期に、天守の大敵、落雷により炎上後は再建されませんでしたので、以後はなく詳細は不明な状態。一体、どちらが正しいのやら。
そんなわけで八代城も十分楽しめる城跡です。しかし、まいったのは目当てだった八代の博物館の肥後金工の展示!八代は江戸時代、鍔工の拠点だったので、その展示があるとのことで楽しみにしていたのですが、行くと全くない・・・展示変えで焼き物を展示していました。なんてこったい、資料本もないし、なんのために行ったのやら。まあ、八代城主松井家の文庫の武具・工芸品の資料本をみましたが、鍔の記載が全くないので、残ってないのでしょう。まあ、その松井家から出た肥後鍔の名品を愛好家の方に見せていただくことがありましたので、わざわざ現地に行くことはなかったのかもしれません・・・でも、それでいいのかな〜資料本すらないのは、いくらなんでも地元博物館学芸員の怠慢に思えますが。今日の刀装具愛好家の集まりで愚痴ってやる!それでは〜


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板