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議論しませんか?(議題検討スレ)

57わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 03:51:08
 Libra師匠、こんばんは。
 またまたコメントを頂きありがとうございます。

> 仏教では、わたしがいうところの「仏教的信仰」を、単に「信」と表現するのです。

 そうですか、残念ながらまだ理解はできませんが師匠が言うのですからそのように受け止めるよう心掛けます。

 批判的合理主義と仏教の違いとして、次のステップに挑戦しているのが仏教とのこと、よく解りました。
 ですが、仏教以外の他の分野でも次のステップに挑戦はあると思います。次のステップに挑戦の意味から批判的合理主義は除外するとしても、仏教と他の分野とに大きな違いがあることにまだ気付けておりません。涙

 私情を挟むならば縁起を知ることにより、私にとって苦からの開放は本より、あらゆる面で良い意味での変化をもたらしました。
 そういった意味では私も仏教に思い入れがないわけではありませんが、自分事で煩わされることはまず無くなりましたし、煩わされるとすれば他人事ばかりとなり、慈悲第一(関係性重視)の生き方以外に残された道はないように思っております。

> 3.「慧に基づいた信」の「慧」について

 「信は慧の因」の信が「仏教的信仰」と言えるかどうかは不明ですが、この場合も単に「信」が「仏教的信仰」を指すと受け止めないといけないのかな。

58わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 04:16:41
 Leoさん、Libra師匠こんばんは。

>>55
>  ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
> りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

 私もそのように思っております。^^

 曽我さんサイトへのリンク読みました。
 思わずamazonで「ブッダとそのダンマ」を注文(ユーズドですけど)してしまいました。笑
 私も読み終えたら感想など書いてみたいと思います。

59Libra:2006/02/05(日) 07:15:19
>>57>>58

 わめさんは、今回、「理解はできませんが師匠が言うのですからそのように
受け止めるよう心掛けます」と返答されたわけですが、少なくともわたしはそ
のようなことは要求していません。わめさんもそのようなことはしたくないで
しょう。わたしが「苦痛」といった意味をどうか勘違いなさらないで下さい。

 わたしの苦痛は、わめさんが同意されないことに起因するものではけっして
ありません。というのも、わたしは、最初から、わめさんに同意などは求めて
いないからです。このことも、以前、申し上げました[*1]。

 わたしが苦痛に感じるのは、同じことを何度も書かなければいけないことで
す。

 「「信は慧の因」の信が「仏教的信仰」と言えるかどうかは不明」とのこと
ですが、不明なのでしたら、どうか頭をお使いになって、はっきりとお分かり
になるまでお考えください。「信は慧の因」の「信」は、初期仏教でいえば、
「信解脱」のことです。「信は慧の因」の「慧」は、初期仏教でいえば、「慧
解脱」のことです。

 今回、わたしの「シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどとい
うことはありませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきて
おります」との発言に対して、わめさんは「私もそのように思っております」
と返答されました。これを見たとき、正直、わたしは自分の目を疑いました。
もし本当にわめさんが最初からそのように思っておられたのだとすると、わた
しは何も言う必要はなかったようにおもいます。

 しかし、わめさんは、「ブッダは”信仰を棄てよ”とおっしゃっております
が、その仏教においてもブッダ及びその教えを”信仰していく”のは如何な訳
かもわけわかめ」[*2]といわれています。この発言が、上のことを理解された
上でのものだったとすれば、わたしからみれば、わめさんのご発言は「わけわ
かめ」です。

 以下は、わめさんの上記ご発言の前段部分に対するわたしの批判のひとつで
した。

  ─────────────────────────────────
   そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込ま
  れている文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬
  新な見解に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写し

  たものであると捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込ま
  れている文脈から、《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般
  をすべて否定している》という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもい
  ます。

   そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の
  諸宗教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとお
  もいます。中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定
  されています。

  (http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/92
  ─────────────────────────────────

60Libra:2006/02/05(日) 07:16:54
 わめさんは、「信仰を捨て去れ」という表現が埋め込まれている文脈を少し
でもお調べになりましたか。この句は、「釈尊がさとりを聞いたあとで梵天が
説法を勧めるが、そのときに釈尊が梵天に向って説いた詩のうちに」、あるい
は、「成道後の経過を述べるところに出てくる」のです[*3]。その文脈をとら
えて、中村先生ですら、「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条(ドグ
マ)に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろう」[*4]といわれているの
です。

 少なくとも、「信仰を捨て去れ」という句は、その文脈から考えて、「命題
に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述べたものなどではな
いでしょう。「命題に対してわれわれがとるべき態度」についての一般論を述
べたものとしてあげるとすれば別の箇所にされるべきでしょう(かつてバート
リーがそうしたように[*5])。

 わめさんが今回お認めになられたように、シャカは「信」という言葉を肯定
的にも使っています。たとえば、『スッタニパータ』第184詩に、「ひとは
信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり
ます。もちろん、仏教徒は、「命題に対してわれわれがとるべき態度」につい
てシャカが述べたことをもきちんと理解しています。

 以上のような理解にもとづいて、「仏教徒がシャカの教えを信仰する」こと
は「わけわかめ」なことなどではないということを、わたしはすでに述べまし
た。今回述べたことは、そのほとんどがすでに述べたことの繰り返しにすぎま
せんから、わめさんは、これまでと同じく、同意はされないでしょう。わたし
も、もうこれ以上は書けません。

 あと、ここまでの議論を追跡された読者の方々(そのような方はおられない
のかもしれませんが)に対して最後に言っておきたいのは、わめさんのご主張
のほうを正しいとおもわれるのであれば、素直に、わめさんのご主張のほうを
支持して頂きたいということです。

 先に、わたしは、「夏になったらまたここに戻ってくる予定」というような
ことを書きましたが、これはいちおう撤回しておきます(精神的負担があまり
にも大きいので)。


  [*1] 輪廻転生について
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_003.html

  [*2] 宗教はやっぱり好きになれない
     http://wame.seesaa.net/article/10650360.html

  [*3] 『スッタニパータ』第1146詩に付された註(『ブッダのことば
      スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp.430-431)
     を参照。

  [*4] 同上。

  [*5] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
     http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

61わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 08:47:17
 Libra師匠、おはようございます。

>  わたしが苦痛に感じるのは、同じことを何度も書かなければいけないことです。

 同じことを何度も書くのは苦痛ですね。(^^;; 問題は何故そのようになってしまうかだと思います。

> 「信は慧の因」の「信」は、初期仏教でいえば、「信解脱」のことです。「信は慧の因」の「慧」は、初期仏教でいえば、「慧解脱」のことです。

 「慧解脱」は「智慧をみがいて悟りに達する」ことですね?(^^;

>  今回、わたしの「シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはありませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております」との発言に対して、わめさんは「私もそのように思っております」と返答されました。これを見たとき、正直、わたしは自分の目を疑いました。もし本当にわめさんが最初からそのように思っておられたのだとすると、わたしは何も言う必要はなかったようにおもいます。

 >>45 でも書きましたが、私は仏教徒ではなく一般的見地で意見を述べておりますので、師匠の言われる「仏教的信仰」は一般的には信仰ではないものとの認識がありそれが一つの要因、後で述べますが佐倉哲氏の見解も私と同じような視点ではないかと思うところがありそれもひとつの要因なんじゃないかと思っております。私のこの件に関するコメントを抜粋してみますが、この点をご留意くださればありがたいです。

「日蓮考察」スレ98  ですので私は師匠の言われる「仏教的信仰」の意味からは、「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれないとも考えられる
「日蓮考察」スレ121  信も正信や盲信などで意味が違ってきますから、私もどのような信仰もすべて忌避すべきものとは思っておりませんし仏教的にもそうだと思います。
「日蓮考察」スレ135  「正しい理解」や「真実・真理を知ること」、知ったことや理解したことはどうあがいても捨てられないように思います。(^^;;
「日蓮考察」スレ148  私は師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”については正しい見解だと思います。
 また釈迦の「信仰を捨てよ」には、この”「仏教的信仰」の中身”は含まれていないと思いますので、捨て去るべきものではないと思います。
>>45  信仰は捨てるべきものかどうかにつきましては、師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰とするかどうかで変わってくるものと思いましたので、「仏教的信仰」を信仰とするならば捨てるべきものではなく、「仏教的信仰」を信仰とするのは不適当だとするならば捨てるべき信仰から除外され、信仰は捨てるべきものとなると思っております。ですのでこの場合の師匠と私の意見の大きな相違点は「仏教的信仰」を信仰と見るか見ないかだけではないかと思いますので、今回の根本テーマの「仏教的信仰」は捨て去るものではないという統一見解はでたものと思っております。

 以上のように「仏教的信仰」や正信については肯定的に書いておりますので、私が信(信仰)という言葉に全否定的ではないことが分かって頂けるのではないでしょうか?

62わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 08:47:50
 続きまして、私の思う佐倉哲氏の信仰に対する見解ですが『自灯明法灯明』*1で引用させてもらった箇所を改めて転記します。

ダンマパダ、97には『何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)』
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism33.html

『この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。 『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』 』
『平静なこころがまえとおもいの清らかさ、それは真理に関する思索にもとづいて起こるものであるが、これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたくしは説く。 (スッタニパータ 1107) 』
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism31.html

 一応佐倉哲氏のHPの仏教に関するページはほとんど何度か読ませて頂きましたが、師匠の言われる「仏教的信仰」を除外すれば、佐倉哲氏も信仰は否定的であるように思います。また氏は師匠の言われる「仏教的信仰」を信仰とは見ていないようにも感じますし、この点も私の見解と共通点があるようにも思います。

 私は自身の進もうとする道から、仏教的見地ではなく一般的見地で今後も意見を述べていきたいと思っております。

*1 『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

63Leo:2006/02/05(日) 08:55:06
Libraさん、おはようございます。

> (仏教徒ではない)わめさんが、(仏教ではない)わめさんオリジナルのお
>考えをどのように表現されようとも、それは全くの自由だとおもいます。

> ただ、シャカが「信」という言葉を否定的にのみ使ったなどということはあ
>りませんし、伝統的にも、仏教徒は「信」という言葉を使ってきております。

> わたしがいいたかったのはただそれだけのことなんです。

私の力が足りなくてわめさんにうまく説明できなくてすみませんでした。

> 「議論しませんか?」という本来のテーマでいうと、わたしが個人的に興味
>をもっているのは、「ガンジーと対立しながら民族運動を展開し、〔中略〕つ
>いにはカースト制度の元凶はヒンドゥー教にあるとして、数十万人を引きつれ
>て仏教へ集団改宗した」[*]というアンベードカルですね。曽我さんの解説を読
>む限りでは、アンベードカルの仏教理解は、わたしの仏教理解とも近そうです。

アンベードカルは知りませんでした。ご紹介ありがとうございます。


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