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信じるということ

1わめ:2005/02/28(月) 15:05:58
とかく宗教では「信」を重要視することが多いと思われます。
信じることによって救われるということもあるでしょうが、また信じて騙されるということも多いのではないでしょうか。

私はある対象に対して信じると思うこと自体、その対象とするものの正当性が証明できないものであることの証拠であるように思います。

信じる=願望、未確定、曖昧、証明できないこと。
信じるとは言わない=当たり前のこと、常識的なこと、誰もが認めること、理論的に証明されていること。

智慧を得るための信ならば、良いことだと思いますが、信じることによって智慧が奪われていくならば本末転倒だと思います。

2わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/04(月) 18:36:35
まだ昭和の時代、私が男子部で活動を始めた頃(18歳くらいかな?)、先輩幹部から「無疑曰信(むぎわっしん)」について習ったことがある。
先輩幹部は「この仏法に疑問に思うことがあったら、先輩幹部に遠慮なく何でも聞きなさい。そして疑問が何もかも無くなった時、「無疑曰信」と言う信仰者として最高の信になる。」と、このように教わった。
この時、仏法に疑問(疑い)を持てとは、なんという自信、どこをとってもその正しさが証明できるという日蓮大聖人の大確信に触れた思いで驚いたことがあります。
ですがその後いつの頃からか、「無疑曰信」とは疑いなきを信と曰うと、まだここまでなら疑いが無くなった状態を言ってるから昔学んだことと変わりないと思ったが、後に続く解説では何が何でも信じきっていくことが大切なんだと言うことでした。
多分この解釈の違いは昭和52年の第一次宗門問題で起こったことだと思うが、学会流では「疑問が何もかも無くなった時」、第一次宗門問題後は宗門の「何が何でも信じきっていくことが大切」という解釈に学会も変更されたのだろうと推察する。
疑いについては、五鈍使・六根本煩悩・六随眠のひとつとして悪しきことのように説かれる場合が多いが、自宗に対して疑いを持たせない為に説かれたのではないかと甚だ疑問に思う。また仏教に限らず、他宗教においても疑うことは忌み嫌われるのが常である。

知り得たことに疑問(疑い)を持たないでいたら、文化・科学・その他諸々の人類の発展は無かったはずである。
人を救うための宗教が、いつの間にか自らの利得のために、その教義自体をも変質させてしまっているのではないか。これは加上ではなく加悪であるといえよう。

信じることは疑いの心を捨てることでもあり、疑い(疑問)の心が起こらない。
これはもう思考停止状態と言えまいか。

3めぐみっち1:2005/07/04(月) 20:22:07
突然お邪魔します
ペガサス掲示板から来ました。
信仰って何かをずっと考えてて、つい飛びついてしまいました。
一切の疑いを持たないのは思考停止。
わめさんの言うとおりですね。
わたしが信仰について思うとき、組織を問題にしたくありません。
「キリスト」とか「お釈迦さん」のように思わないと混乱します。
信仰の決め手は、肌に合うか合わないかだと思います。
そして躓きながら「ほんまに大丈夫かな」と思いつつ、
やって行くのが間違いない。
良いことがあれば、汚点とサンのおかげと思って、空回りしたら
「神も仏もあるもんか!」と思う。そんなもんです。

学会活動にばりばりだったころ、上から言われるまま信じて、
げ、と思ったことも打ち消して来ました。
力を抜いて身を任せきったらろくなことはないので、
そういうのは極力止めようと思っています。

大いなる力はあると思います。
けども、ひとつに決め手しまうのは違うような気がします。
やっぱり恥ずかしいなあ。
わめさんごめんなさい。

4わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/04(月) 23:06:04
めぐみっち1さん、こっちでもこんばんは〜^^

> 突然お邪魔します

いえいえ、ペガサス掲示板でのご丁寧な挨拶ありがとうございました。<(_ _)> ちょっといじめ気味レスでもしようかと思ったけど、いじめようがないw汗

> 信仰って何かをずっと考えてて、つい飛びついてしまいました。一切の疑いを持たないのは思考停止。わめさんの言うとおりですね。

わめなんて疑問を持たなくなったら頭の中が空っぽになっちゃいますw
あ それはそれで幸せなのかも・・・ ( ゜ ρ ゜ )ボーーーー

> 「キリスト」とか「お釈迦さん」のように思わないと混乱します。信仰の決め手は、肌に合うか合わないかだと思います。
> そして躓きながら「ほんまに大丈夫かな」と思いつつ、やって行くのが間違いない。

むっ難しいww汗 やはり頭の足りないわめには、宗教・信仰は無理w
人間としての釈迦を理解しようとするくらいが限界ですww

> 学会活動にばりばりだったころ、上から言われるまま信じて、げ、と思ったことも打ち消して来ました。
> 力を抜いて身を任せきったらろくなことはないので、そういうのは極力止めようと思っています。

(*゜ー゜)(*。_。)(*゜ー゜)(*。_。)ウンウン

> 大いなる力はあると思います。けども、ひとつに決め手しまうのは違うような気がします。

大いなる力はあるのかもしれませんが、わめには一生見えない気がします。
なので貴方やわめの周りの方たちだけが頼りです。どうぞわめの大いなる力になってください!m(_ _"m)ペコリ

> やっぱり恥ずかしいなあ。

きゃー わめも(/-\*) ハジュカチ…

5祥子 ◆Y4utoQzFP2:2005/07/06(水) 10:58:48
無宗教もんの屁理屈も入ってると思いますが
鰯の頭の信心も壁に向かって祈るも
その一念てすごいって思います
本尊とか拝む対象を前にするてことにこだわらずに

祈るという行為は信じてる信じたいが前提だと思います

日常の中で見上げた太陽にも月にも
通り過ぎる風にも願いをかけて 語りかけることが
けっこう人てしてるし 出来ると思います

学会の本尊に祈る一念も尊いですが
人は奇跡を起こすことはできないけど
奇跡を起こす努力を人はできるって言葉が好きです
(この言葉は古い漫画だけどその中の一説です”七つのエルドラド”(古)

フラシーボ効果とか難しい言葉は説明できないけど
学会員さんも祈って叶うて祈る努力なんだろうなぁ
って想像します

まぁ大抵は世の中 そう簡単に物事うまくいかないってことは
想定内ですが

6わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/06(水) 11:31:04
祥子さん、ちょっと早起き(9時♪)なわめです^^

祈る、願う(願望)また、叶うと信じることには、各々その祈る対象が違えど、その祈る事柄に対する意識を強く持っているが故の行為だと思います。

叶うと信じ努力するという意味での「信じる」行為は思考停止どころか、思考フル回転状態なのかもしれませんね。
この意味では信じることすべてが、思考停止を生むといえないと思います。

宗教ではないですが、マフィーの法則などの成功哲学もその一種のように思います。

祥子さんの言うように、祈ること、そこには悩み苦しみまた努力し、知りえる範囲において必要な知識を求め吸収し、願いを叶えようとするところが大切だと思います。

ただ宗教や占い師の怖いのは、信じるもののその願いを、自らの利得のために利用(金銭・自組織振興活動等)し、それに疑いを起こさせるような思考を止めようとすることです。

わめも祈る・願う行為は良いことだと思います。
なにより女性の純粋に祈る・願う姿は素敵です^^

貴重なご意見ありがとう。<(_ _)>


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